昼間の学校というのは、間桐慎二にとって、自分のために用意された、快適な玉座のような場所だった。
彼は、常にクラスの中心にいた。取り巻きの男子生徒たちを数人引き連れて、流行りのゲームの話で大きな声で笑い、廊下をすれ違う女子生徒たちに、気障な仕草で手を振ってみせる。成績はそこそこだが、要領が良く、教師からの受けも悪くない。
高価な私服や、最新のゲーム機を惜しげもなく見せびらかすことで、彼の周りには、常に人の輪ができていた。
ここには、彼を縛るものは何もない。彼の言葉は、小さな教室という名の王国では、絶対的な「法」だった。彼は、この場所の、疑いようのない「王様」だった。
■
だが、その魔法が解ける時間は、毎日、正確に訪れる。
夕暮れのチャイムが鳴り、友人たちと別れ、一人、自宅へと続く長い坂道を上り始める時。慎二の背中からは、あの王様然とした自信が、陽炎のように消えていく。家の門が近づくにつれて、彼の足取りは重くなり、表情からは傲岸な笑みが消え、代わりに、苛立ちと、その奥に潜む怯えのようなものが滲み出てくるのだ。
間桐家の屋敷は、彼にとって、城ではなかった。そこは、自分が王ではないという、冷徹な事実を、毎日、毎時間、突きつけられる、息の詰まるような牢獄だった。
「ただいま」
誰に言うでもなく呟き、玄関の引き戸を開ける。しんと静まり返った屋敷。ひやりとした、澱んだ空気が、慎二の肌を撫でる。この家では、全ての時間がある二人を中心に回っている。祖父である間桐臓硯と、妹であるはずの、あの気味の悪い女、桜。
慎二は、物音を立てないように、まるで召使いのように、自分の部屋へと向かう。
その途中、必ず通らねばならない場所があった。書斎の、固く閉ざされた扉の前だ。
その日も、扉の向こうからは、二人の話し声が、くぐもって聞こえてきた。何を話しているのか、正確には聞き取れない。だが、その声のトーンは、慎二には嫌というほど分かった。それは、重要な、秘密の、そして、自分だけが仲間外れにされている、世界の「真実」についての会話だった。
慎二は、足を止め、壁に背を預けるようにして、扉に耳を押し付けた。みっともない行為だと、自分でも分かっている。だが、そうせずにはいられなかった。
『――セイバーは、最優のクラスじゃが、それ故に読みやすい……』
『……では、バーサーカーというのは……?』
『そうじゃ。理性と引き換えに、絶大な力を得る、狂戦士のクラス……』
サーヴァント? バーサーカー?
断片的に聞こえてくる、意味不明の単語。だが、それが、自分には決して教えられることのない、間桐家の「本当の」魔術の話であることだけは、痛いほどに理解できた。
あの書斎は、聖域だ。自分には、入ることさえ許されない。祖父と、あの女だけの、聖域。
慎二の胸の奥で、黒い、どろりとした感情が渦巻いた。嫉妬、焦燥、そして、どうしようもない無力感。
(あの、陰気な女……。爺さん……)
爺さんは、かつて自分に言った。
『慎二、お前には魔術師の才能はない。だが、お前には、人の世を治める才覚がある。表向きの当主として、間桐家を率いるのは、お前の役目じゃ』
その言葉を、慎二は信じようと、必死で努力してきた。学校で王様のように振る舞うことで、その言葉が真実なのだと、自分自身に言い聞かせてきた。
だが、本当は分かっていた。それが、出来損ないの自分に与えられた、ただの慰めだということを。本当の「王」は、あの書斎の中にいる。そして、その後継者は、自分ではない。あの、後からやってきた、得体の知れない妹なのだ。
■
慎二は、音を立てずにその場を離れると、自分の部屋に逃げ込んだ。
彼の部屋は、高価なオーディオセットや、最新のゲーム機、海外のブランド品で満ち溢れていた。彼が、学校という王国で、その権威を示すための武器の数々。
だが、この家の中では、それらは全て、何の力も持たない、空っぽのガラクタに過ぎなかった。
彼は、姿見の前に立った。そこに映るのは、高級なシャツを着た、自信ありげな表情を作ろうとしている、哀れな少年。
「……当主、か」
慎二は、鏡の中の自分に向かって、嘲るように呟いた。
「笑わせるなよ……」
次の瞬間、彼は、抑えきれない怒りに任せて、拳で、壁を力任せに殴りつけた。鈍い痛みが走る。だが、心の痛みは、少しも和らぎはしなかった。
そして、彼の思考は、自然と、桜へと向かう。
あの女。いつも物静かで、従順で、まるでお人形のようだ。だが、慎二は知っていた。あいつは、ただの人形ではない。一度だけ、偶然見てしまったことがある。道場で、彼女が、意思だけで、水を、まるで生きている蛇のように操っているのを。
その光景は、慎二の脳裏に、恐怖として焼き付いている。
あれは、化け物だ。人の皮を被った、自分には理解できない、何か。
あの化け物が、この家の全てを、祖父の関心も、魔術の秘儀も、そして、本来なら自分のものだったはずの「当主」という名の力さえも、根こそぎ奪い去っていく。自分は、このまま、何も知らされず、何も与えられず、ただの飾り物の王子として、一生を終えるのか?
―――冗談じゃない。
慎二は、暗い部屋の中で、一人、固く拳を握りしめた。その瞳には、子供じみた、しかし、それ故に危険な、どす黒い決意の光が宿っていた。
何が「聖杯戦争」だ。
何が「バーサーカー」だ。
意味は分からない。だが、それでいい。
(見てろよ、桜……。爺さん……)
彼は、誰に言うでもなく、心の内で誓いを立てた。
(お前たちが、俺を仲間外れにするっていうなら、こっちにも考えがある。いつか、必ず、お前たちの計画を、めちゃくちゃにしてやる。そして、証明してやるんだ。この家の、本当の主人が、誰なのかをな……)
その誓いは、まだ、何の力も持たない、無力な少年の、空虚な強がりに過ぎなかった。
だが、屋敷の暗がりの中で、誰にも知られず、誰にも顧みられることなく、放置されたその悪意は、やがて、予測不能な時限爆弾のように、静かに、しかし確実に、その時を待ち始める。
聖杯戦争という名の大きな歯車が回り始める、その裏側で。もう一つの、小さな亀裂が間桐家の土台に、深く、深く、刻み込まれる。
―――はずだった。