夜の闇は、古い屋敷の記憶を吸い込んでいるかのようだった。
桜は、柔らかながらも慣れないベッドの上で、幾度となく浅い眠りと覚醒を繰り返した。夢と現の境界を曖昧にしながら、遠い家の記憶が浮かんでは消える。母の温もり、姉の快活な笑い声。それらは全て、分厚い扉の向こう側に置き去りにしてきたのだと、目覚めるたびに思い知らされた。
夜が明け、障子窓から差し込む白々とした光が、桜の瞼を優しく叩いた。雨は、いつの間にか上がっていた。
見知らぬ天井が、昨夜の出来事はやはり夢ではなかったと桜の心を強く打っていた。身体を起こすと、少しだけ大きいサイズの寝間着の袖が滑り落ちる。見知らぬ部屋、見知らぬ匂い。そして、これから始まるであろう、見知らぬ一日。心臓が、きゅっと不安に縮こまるのを感じた。
部屋の戸をそっと開けると、長い廊下の向こうから、味噌の良い匂いが漂ってきた。それに誘われるように歩いていくと、広い居間にたどり着く。そこには既に、昨日会った臓硯と、もう一人、桜より少し年上に見える少年が座っていた。
黒い詰襟の学生服に身を包んだ少年は、癖のある海色の髪を揺らし、不機嫌そうに箸を進めている。
「おお、桜。おはよう。よく眠れたかの」
臓硯が、穏やかな声で桜を招き入れた。桜が彼の隣にちょこんと座ると、湯気の立つご飯と味噌汁が、すっと目の前に置かれる。少年が、ちらりと桜に視線を向けた。その目には、好奇心よりも明確な侮蔑の色が浮かんでいる。
「……ちっ。なんで俺が、こんなのと一緒に飯を食わなきゃなんないんだよ」
「慎二」
臓硯が、静かだが有無を言わさぬ声で名を呼ぶ。少年――慎二は、びくりと肩を揺らし、慌てて視線を逸らした。
「お前も、いずれは間桐の当主となる身。家に新しい者が来たのなら、それ相応の態度というものがあろう」
「……わかってるよ、爺さん」
慎二は、それ以上何も言わず、食事をかき込むように口へと運んだ。桜は、その険悪な雰囲気に身を縮こまらせ、俯いたまま箸を手に取る。居心地が悪い。怖い。だが、隣に座る臓硯の存在が、かろうじてその場の空気が凍りつくのを防いでいた。
「桜。お前は今日から、わしと共に魔術の道を歩む。そして慎二、お前は当主として、人の世で間桐家を支えるための学問を修める。それぞれに、果たすべき務めがある。よいな」
「はい、お爺様」
「……ああ」
慎二の返事は、不貞腐れたようにくぐもっていた。彼は食事を終えるや否や、乱暴に席を立つと、「学校に行ってくる」とだけ言い残し、足早に部屋を出ていった。
■
残されたのは、桜と臓硯の二人だけだった。
「……気にするでない。あやつも、まだ子供じゃからの。いずれ、お前の良き兄となるじゃろう」
臓硯はそう言うと、桜の空になった茶碗に、そっとお茶を注いでくれた。その何気ない仕草に、桜の心は少しだけ温かくなる。桜の食事が終わるのを見届けると、臓硯は立ち上がった。
「さて。では、始めようかの。桜、書斎へ」
再び、あの書斎へ。朝の光が大きな窓から差し込む部屋は、昨夜の重々しい雰囲気とは違い、どこか神聖な学問の場のように見えた。埃一つない机の上には、真新しいノートと、羽ペン、インク壺が用意されている。
「さあ、そこに座りなさい」
促されるまま、桜は小さな椅子に腰かける。目の前には、臓硯がどこからか持ってきた、大きな黒板が立てかけられていた。臓硯は、その前に立つと、ゆっくりと桜に向き直った。
「桜。今日、お前に教えるのは、魔術の呪文や儀式の作法ではない」
彼は、一本のチョークを手に取る。
「今日教えるのは、魔術とは何か。そして、魔術を扱う者が、いかなる心を持つべきかという、全ての始まりの話じゃ」
その声は、厳かで、どこまでも真剣だった。桜は、ごくりと唾を飲み込み、その言葉に耳を傾ける。
「昔々、あるところに、一つの魔術師の一族がいた」
臓硯は、まるで古いおとぎ話を語り始めるように、そう切り出した。
「その一族の名は、マキリ。彼らは、人の世のあらゆる『苦しみ』を憎んでいた。病で死ぬ子供、飢えに喘ぐ人々、争いで流される血、愛する者を失う悲しみ。それら全てを、彼らは『悪』と断じた」
臓硯は、黒板にゆっくりと「悪」という文字を書いた。
「マキリの一族は、その『この世全ての悪』を根絶することを、一族の悲願とした。そのために、彼らは人の身では到底不可能な『奇跡』を求めた。それこそが、彼らが魔術を探求した、ただ一つの理由じゃった」
桜は、瞬きも忘れ、その物語に引き込まれていた。悲しみをなくしたい。その願いは、幼い桜の心にも、痛いほど素直に響いた。
「一族の中でも、とりわけ強くその理想を信じた若者がおった。名を、マキリ・ゾォルケン。彼は類まれなる才能を持ち、その生涯を悲願成就のために捧げることを誓った」
語る臓硯の声に、ほんの僅か、桜には分からないほどの熱がこもる。それは、五百年という時の地層の下で化石となったはずの、かつての情熱の残滓だった。
「ゾォルケンは、やがて同じ志を持つ仲間と出会う。一つは、錬金術に秀でたアインツベルンの一族。もう一つは、この冬木の地を治める、遠坂の一族じゃ」
遠坂、という言葉に、桜の肩が微かに揺れた。臓硯は、それに気づかぬふりをして、話を続ける。
「彼ら三つの家は、それぞれの秘儀を持ち寄り、たった一つの目的のために協力した。万能の願望機、『聖杯』を創り上げ、この世から一切の苦しみをなくす。その崇高な理想のためにの」
臓硯は、黒板に、三つの紋様が絡み合う図を描いた。
「じゃが、その願いはあまりに大きく、尊すぎた。聖杯は完成に至らず、三つの家は志半ばで道を違えた。マキリの理想は、遠い夢物語となって、忘れ去られてしもうた……」
彼は、そこで一度言葉を切ると、手にしていたチョークを置いた。そして、桜の目をまっすぐに見つめた。
「桜。魔術とは、このような途方もない願いを人に抱かせるほどの、大いなる力なのじゃ。それは、使い方を誤れば、世界を焼き尽くす猛毒にもなる。じゃが、正しき心で使えば、あらゆる苦しみを癒す良薬にもなりうる」
臓硯は、ゆっくりと桜の前まで歩み寄ると、その小さな肩に手を置いた。
「お前は、その大いなる力をその身に宿しておる。わしがこれからお前に教えるのは、その力の使い方じゃ。そして、その力を振るうにふさわしい、強く、気高い心を育てることじゃ」
臓硯は、桜に問いかけた。その声は、試すようでもあり、導くようでもあった。
「お前は、この力を、どう使いたいと思うかね?」
■
突然の問いに、桜は答えることができなかった。頭の中が、真っ白になる。どう、使いたい?考えたこともなかった。魔術は、ただただ怖いものだとばかり思っていたから。
でも、と桜は思う。もし、本当に、悲しみをなくすことができるのなら。病気で苦しむ人を、助けることができるのなら。もう誰も、自分のように、泣かなくてすむのなら。それは、なんて――。
「……すぐに答えは出せんでよい」
桜の葛藤を見透かしたように、臓硯は言った。
「これから、ゆっくりと考えていくがよい。お前が魔術師として、何を成したいのか。お前の、魂の願いが何なのかをな」
それが、最初の授業の終わりだった。
桜は一人、自分の部屋に戻った。窓の外では、雨上がりの陽光を浴びて、庭の苔がキラキラと輝いている。昨夜見た、あの不気味なだけの景色が、少しだけ違って見えた。
頭の中では、臓硯が語った物語が、何度も何度も繰り返される。
マキリという一族の、壮大な願い。
それは、怖いけれど、どこか星空のように美しい物語に思えた。
まだ、怖い。不安だ。家に帰りたいという気持ちも消えない。けれど、桜の心の中には、昨日までなかった、小さな小さな光が灯っていた。それは、知的好奇心という名の光。そして、「魔術」という未知の世界に対する、微かな憧れの光だった。
桜は、机の上に置かれていた真新しいノートを、そっと指でなぞった。明日からの授業が、ほんの少しだけ、楽しみになっている自分に気づき、桜は小さく首を傾げた。
その様子を、臓硯は桜の部屋に忍ばせている蟲を通して、静かに観察していた。
(……よし。種は、蒔かれた)
彼の口元に、満足げな笑みが浮かぶ。少女の心に植え付けた、気高い「理想」という名の種。これから、それを丹念に育て上げ、自分の望む形の花を咲かせるのだ。
それは、五百年という永い時をかけて歪みきった老魔術師にとって、唯一残された、そして最も歪んだ形での「理想」の追求の始まりであった。