蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第十八話:今はまだ、空っぽの鞘

 令呪の「兆し」がその身に宿って以来、桜の見る世界は、より一層、その解像度を増していた。五感が、魔術師として研ぎ澄まされ、これまで見過ごしていた世界の微細な魔力の流れや、人々の魂が放つ微弱な光と澱みを、肌で感じ取れるようになっていた。

 

 その桜の鋭敏になった感覚は、特に、高校の弓道場という静謐な空間で、一人の少年を見つめる時に、奇妙な反応を示していた。

 

 同じ高校に進学し、同じ弓道部に所属している衛宮士郎その人だ。彼の弓の腕は桜以上の物となり、今では「当てる」事が当たり前というほどになっていた。

 

 『お爺様』の講義を経て、桜にとって彼は「哀れな症例」であり、「間違った理想の末路」を体現する生きた教材のはずだった。

 

 ――だが、彼女の魔術的な視線は、その単純な結論に「否」を突きつけてくる。

 

 

 その日も、桜は自身の完璧な射形を維持しながら、その意識の片隅で、道場の隅で悪戦苦闘している士郎の姿を観察していた。彼は一般人にバレないように、密かに、部の備品である少しひびの入った古い弓を、自分の魔術で直そうとしているらしかった。

 

「構造を把握し、破損箇所を補強し、本来あるべき姿に……」

 

 ぶつぶつと、教科書で読んだような強化の魔術の基礎を呟きながら、彼はその手に、拙いながらも魔力を込める。

 

 その瞬間だった。

 

 士郎が、自らの限界を超えて無理にオドを引き出そうとしたまさにその時。彼の身体の内側からほんの一瞬、しかし、桜の目からみれば太陽の如く鮮烈で、そしてまぶしいほどの黄金色の光の粒子が、奔流となって溢れ出していた。

 

(これは……オド、じゃない?)

 

 桜は冷静にそれを分析していた。

 

 オドではない。かといって、この世界に満ちるマナでもない。もっと根源的で、もっと神聖で、そして、触れるもの全てを癒し、あらゆる穢れを寄せ付けない、絶対的な「守り」そのものと言えるような、不思議な光。

 

(なに、あれ)

 

 桜は、思わず息を呑んだ。射るはずだった矢が、手元でかたりと落ちる。

 

 彼女の魂が、本能的に理解したのだ。

 

 あの光は、自分たちが歩む「深淵の道」とは、あまりにも対極的な、相容れないものであると。

 

 彼女の間桐の魔術は、影と水、吸収と支配を本質とする。

 

 だが、桜が見たあの黄金の光は、いかなる影も霧散させ、いかなる支配も拒絶する、絶対的な「理想郷」そのものだった。彼女の心が、そして魔術回路が、その存在を前にしてまるで蛇に睨まれた蛙のように、竦み上がるのを感じていた。

 

(―――何……? 今の、光は……?)

 

 桜の全身に、鳥肌が立つ。

 

(あの人の中に……あんな、太陽のようなものが……。私の魔術が、触れることさえ、怖がっている……?)

 

 それは、彼女の世界観を根底から覆す衝撃的な光景だった。

 

 ―――お爺様は、あの人を「空っぽの器」だと言った。でも、違う。あの人は、空っぽなどではない。それどころか、その身の内側に、神の奇跡としか思えないような、とてつもないものを隠し持っている。

 

 桜の驚きなどは露知らず、士郎本人は、そのことに全く気づいていないようだった。彼は、魔力の逆流に「うわっ」と声を上げると、その場に尻餅をつき、

 

「また失敗か……。俺は本当にこっちの才能はないな」

 

 と、いつものように屈託なく笑っている。

 

 その、自らの内に眠る宝の価値に、全く無自覚な姿。そのギャップが、桜の心を、途方もない混乱へと突き落とす。

 

 そして桜は、魔術師の本能に突き動かされるように、士郎へと歩み寄っていた。この不可解な現象を、理解しなければならない。

 

「先輩……。だ、大丈夫ですか? 今、その……」

 

 桜は、言葉に詰まった。何と言えばいい?『あなたの中から光が溢れました』などと、言えるはずもない。

 

「あ、ああ。桜か。いや、大丈夫大丈夫。ちょっと集中しすぎただけみたいだ。ははは」

 

 士郎は、照れくさそうに頭を掻きながら立ち上がる。その態度は、いつもと何も変わらない、人の良い、少し鈍感な先輩のものだった。

 

 この人が、本当に、何も知らないというのなら。

 

 だとしたら、あの光は、一体―――?

 

 

 その夜、書斎の重々しい扉を前に、桜は、衛宮士郎の光を、報告すべきかどうかを迷っていた。だが、そもそも、臓硯相手に隠そうと思っても、隠し通せるはずもなかった。

 

 それが証拠に、桜が書斎の扉を開けると、そこに座る臓硯は、桜の顔を見ただけで、全てを察したかのように静かに言った。

 

「……何か学校であったようじゃな、桜。お前のオドが、珍しく乱れておる。まるで、信じられぬものを見たかのように」

 

「お爺様……」

 

 桜は、意を決して、今日道場で見た出来事を、拙い言葉で説明し始めた。

 

「衛宮先輩の、中から……。光が……。とても温かくて、強くて、私の魔術が、震えるような……。お爺様、あの人は、お爺様が言っていたような、ただの空っぽの人形ではありません」

 

 桜は臓硯の目を見て、ハッキリと告げる。

 

「あの人の中には、何かがあります。私には、それが何か、分かりません。でも、とても、とてもすごいものです」

 

 桜の報告を、臓硯は、指を組んだまま、黙って聞いていた。彼の表情に変化はない。だが、その瞳の奥深くで、一つの、信じがたい可能性が、確信へと変わっていくのが分かった。

 

(……光、のう?桜の魔術をさえ拒絶するとなれば、それはかなり強力な、もっと言えば絶対的な守りを持つナニカ、と言えよう。そして、衛宮切嗣の遺児……。まさか……まさか、あの男、アレを、この冬木に持ち込んでいたというのか……!?)

 

 彼の思考が、高速で回転する。先の第四次聖杯戦争。アインツベルン。彼らが召喚した、最強のサーヴァント、セイバー。そして、そのセイバーが失ったとされていた、彼女の宝具。

 

 全ての存在を隔絶する、究極の守り。妖精郷の名を冠した、最強の概念武装。

 

(―――アヴァロン……! かの騎士王の聖遺物、聖剣の鞘か!)

 

 臓硯の心に、冷たい怒りが込み上げてきた。

 

(あの男の、真の置き土産は、あの空虚な理想などではなかった。この、究極の「切り札」だったというわけか!)

 

 臓硯にとってもはや、衛宮士郎は、ただの「興味深い症例」でも、「苛立たしい雑念」でも無くなっていた。それは、自分たちの「外科手術」を、根本から覆しかねない、極めて危険な「障害物」だった。

 

 アレが顕現してしまえば、いかなる攻撃も通じない。絶対的な防御宝具を、その身に宿した魔術師。

 

 つまりは冬木の聖杯戦争のマスター候補。

 

 しかも、この聖遺物が衛宮士郎にあるということは、その縁で呼ばれる英霊は、かの騎士王であることは間違いない。

 

(衛宮切嗣め。とんでもない、とんでもない置土産を残しよって)

 

 こちらの計画では、切り札たるバーサーカーの圧倒的な攻撃力と桜の魔術で、全ての敵を粉砕するはずだった。だが、その攻撃が、もし、この少年にだけは全く通じないとしたら?

 

 ―――盤面が一瞬にして、ひっくり返る。それは非常に不味い。

 

 臓硯は、混乱した表情で自分を見つめる桜に、その内心の動揺を微塵も感じさせず、静かに、そして諭すように言った。

 

「……なるほどのう。どうやら、あの愚かな父親は、息子に、厄介な『お守り』を残していったようじゃな」

 

「お守り……?」

 

「うむ。それ自体は強大な、じゃが、持ち主の意思とは関係なく、ただそこにあるだけの愚かな守りじゃ。それは、わしの見立てを、より証明しておるわ、桜。あの少年は、それほどまでに未熟で、無力で、己の身一つ守れぬ故に、そのような借り物の力に頼らねば、生きていけぬということよ」

 

 彼は、言葉巧みに、桜に伝える事実を捻じ曲げてみせた。

 

「真の王は、誰かが作った城には住まぬ。自らの力で、自らの城を築くものじゃ。あの少年は、その城の中に閉じ込められた、哀れな囚人に過ぎぬ。何も、恐れることはない」

 

 その言葉は、桜の混乱を、ひとまずは鎮めた。そうか、あれは、あの人自身の力ではないのだ、と。

 

 だが、臓硯の心の中では、衛宮士郎という駒の価値が、決定的に上方修正されていた。

 

「苛立たしい雑念」から、「監視対象」へ。そして今、「最優先で警戒すべき、脅威」へと。

 

 臓硯は、机の上に広げられた冬木市の地図へと、再び視線を落とした。彼の、氷のように冷たい視線は、今や、一点に集中していた。

 

 新都の外れにある、一軒の日本家屋。

 

 衛宮邸。

 

 この、五百年に及ぶ、完璧なはずだった計画。その盤上に、今、最大の、そして、最悪の変数が、その姿を現したのだった。

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