衛宮士郎の内に眠る「聖剣の鞘」の存在が明らかになってから数日。間桐の屋敷には以前にも増して、張り詰めた静寂が満ちていた。
それは、恐怖や混乱によるものではない。明確な「脅威」の出現により、臓硯の思考が、より冷徹に、より戦略的に研ぎ澄まされた結果だった。そして、その師の放つ怜悧な空気は、桜の肌をひりつかせ、彼女の精神を否応なく臨戦態勢へと引き上げていった。
桜は、臓硯が与えた「借り物の力に過ぎぬ」という説明を、信じようと努めていた。だが、あの時感じた、魂が本能的に竦み上がるほどの、絶対的な守りの光。その記憶は、彼女の心の奥底に、小さな棘のように引っかかったままだった。
(あの光は、本当に、借り物……? あの人が、ただの空っぽの器だというのなら、なぜ、神の奇跡のようなものが、あの人に宿るの……?)
その疑問を、桜は必死で打ち消した。お爺様の言葉を疑うなど、あってはならない。あの光は、きっと、我らが成す「大手術」にとって、有害な異物に違いないのだ。そう、自分に言い聞かせた。
そして、その迷いは蟲の老人にも伝わっていた。
■
その夜、書斎の机に広げられた冬木市の地図を前に、臓硯は、まるで将棋の棋士のように、長い沈黙の後に、口を開いた。
「桜。我らの前に、予期せぬ障害が現れた。お前も感づいておるのだろう?」
「はい。お爺様。衛宮士郎の中にあるものの事でしょうか?」
「うむ。その通り」
彼の声は、静かだったが、その裏には、地殻変動にも似た、計画の根本的な見直しを迫られていることへの、確かな苛立ちが滲んでいた。
「衛宮士郎……あの少年が宿す『鞘』の力は、おそらく、あらゆる攻撃を無効化する。我らが切り札とする、バーサーカーの狂える刃さえも、あの守りを前には、意味をなさぬやもしれん」
「……そんな……」
「故に、桜。これからの戦いは、わしが想定していたよりも、遥かに困難なものとなるじゃろう。ただ力で押し潰すだけでは、勝てぬ。我らには、力以上のものが必要となる」
臓硯は、椅子の上で向き直ると、桜の瞳を、射抜くように見つめた。
「マスターがその極限状況で、己の力を、そしてサーヴァントの力を最大限に引き出す糧となるもの。それが、何だか分かるか?」
桜は、息を詰めて、その問いを聞いていた。
「それは、意志の力じゃ。己の魂の奥底から燃え上がる、純粋で、揺るぎない、たった一つの『願い』。サーヴァントは、マスターのその願いの輝きに引かれその身を繋ぐ。願いが強ければ強いほど、その絆は強固となり、サーヴァントは、伝説をさえ超える力を引き出すことができる」
そして臓硯は、桜の瞳をまっすぐと見つめていた。
「故に桜よ、今こそ、お前の真の願いを、わしに聞かせよ」
私の、真の願い。
その問いに、桜の思考は、深く、深く、沈んでいった。そして、彼女の脳裏に、最初に浮かんだ答えは、あまりに単純なものだった。
(私の願いは、お爺様の悲願を、成就させること……)
だが、彼女は、それを口にすることができなかった。臓硯の目が、「それは違う」と語っているように思えたからだ。
「……それはわしへの忠誠じゃ、桜」
心を見透かしたように、臓硯が言った。
「そして、それは、魔術師として、弟子として、何より尊い美徳じゃ。じゃがそれは、お前の真の願いでは決してない。借り物の願いは、衛宮の少年が持つ借り物の力と同じ。いざという時にお前を支えはせぬ。もっと、深くへ。お前の魂の、その中心核へと、意識を沈めるのじゃ」
■
桜は、言われた通りに、そっと目を閉じた。
彼女の記憶の旅が、始まる。
遠坂の家で、誰にも必要とされていないと感じていた、孤独な日々。
間桐の屋敷に連れてこられた、あの雨の日の、絶望的な恐怖。
そして、お爺様との出会い。彼が教えてくれた、世界の真実と、自分だけに与えられた「特別な役割」。
魔術を学ぶ喜び。自分の力が開花していく、誇らしい感覚。
お爺様が語る、この世の「病」についての、数々の講義。新聞に載っていた、悲しい事件の数々。
そして―――彼女の思考は、自然と、あの弓道場の隅で、一人、汗を流していた少年の姿へと、行き着いた。
衛宮士郎。彼は、お爺様の言う通り、愚直で、非効率で、空っぽの理想を振りかざす、哀れな人なのかもしれない。だが、なぜ、彼のことが、これほどまでに、心に引っかかるのだろう。
それは、憐憫?
違う。
優越感?
違う。
「……では、なぜ?」
桜は無意識にそう呟いていた。
なぜ……彼が、誰かのために、自分の身を顧みずに傷つく姿を見るたびに、胸がちくりと痛むのは、なぜだろう。
その考えに至った時、桜は、ようやく、その感情の正体に気づいた。それは、ある種の「共感」だったのだ。
衛宮士郎は、この「病んだ世界」の、最大の被害者なのだ。優しすぎるが故に、損をする。まっすぐすぎるが故に、傷つく。彼の存在そのものが、この世界の「歪み」を、何よりも雄弁に物語っている。
ならば。ならば、自分の成すべきことは―――。
■
桜は、ゆっくりと、目を開けた。
その瞳には、もう、迷いの色はなかった。そこにあるのは、涙の淵から生まれ落ちたような、どこまでも澄み切った、一つの覚悟だった。
「――見つけました。私の、願い」
桜は、顔を上げ、臓硯に向かって、はっきりと宣言した。
「私の願いは、お爺様の仰る『大手術』を、この手で完遂することです」
まず、彼女は、師への絶対的な忠誠を誓った。臓硯は、静かに頷く。
「私の全ての力で以て、この世の全ての悪を根絶し、お爺様の、マキリの理想を叶えます」
そして、桜は続けた。その声には、新たに生まれた、彼女自身の、魂の色が乗っていた。
「―――その先に、新しい世界を創ります。衛宮先輩のような……ただ優しすぎるというだけで、愚直であるというだけで、傷つき、利用され、悲しまなければならない人々が、もう二度と、現れない世界を。……愚かなほどの優しさが、破滅ではなく、祝福となるような、そんな、穏やかな世界を、私は、この目で見たいのです」
それは、臓硯の掲げる「悪の根絶」という、冷徹で、壮大な理想と。桜が、士郎という存在を通して見出した、極めて個人的で、小さな「救済」の願い。その二つが、矛盾を孕みながらも、奇跡的な融合を果たした瞬間だった。
それは、言ってしまえば完全なる管理社会、悪意の存在を許さない、ある種の、慈悲深き独裁を主とした歪んだ理想。
臓硯の理想を、少女の純粋さが、より完璧で、そして、より恐ろしいものへと、昇華させたのだ。
■
臓硯は、その答えを聞き、一瞬、目を見開いた。そして、次の瞬間、その貌に、心の底からの、歓喜の笑みが広がった。
(……素晴らしい……! なんと、素晴らしい答えじゃ、桜!)
彼は、ただの追従者を育てたつもりはなかった。彼の理想を、己の血肉とし、さらにその先へと進む、真の後継者を求めていた。そして今、桜は、彼の期待を遥かに超える答えを、自らの力で導き出したのだ。
「見事じゃ、桜。実に見事な願いじゃ。それは、神の視座を持つ王の願い。あるいは、全ての人間を愛する、神そのものの願いじゃ」
臓硯は、立ち上がると、桜の前に立った。
「その願いがお前の魂で燃え続ける限り、いかなる英雄の魂も、お前の呼びかけに応えぬはずがない。いかなる障害も、お前の道の前に、立ちはだかることはできぬじゃろう」
彼の、最大級の賛辞。
桜は、その言葉に、全身が震えるほどの喜びと、使命感を感じていた。
心の中にあった最後の棘が、最初からなかったかのように完全に消え去る。衛宮士郎の存在は、もはや彼女を惑わすものではない。彼は、彼女が救うべき、新しい世界の最初の住人なのだから。
桜は、自らの左手の甲に、視線を落とした。
令呪の「兆し」が宿るその場所が、主の定まった魂に応えるかのように、以前よりも、ほんの少しだけ、強く、そして温かく、疼いているような気がした。
彼女は、今、心身ともに、聖杯戦争を戦うための完全な準備が整ったと言える。
一人のマスターとして。
そして世界を救う、ただ一人の、歪みに歪んだ聖女として。