蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第二十話:英雄たちの遺物

 聖杯戦争という名の「大手術」の決行が、師弟の間の厳粛な誓いとなって以来、桜の日常は、その全てが来るべき日に向けて最適化されていった。

 

 その夜も、二人は臓硯の書斎にいた。暖炉の火が、壁一面の書物の背表紙を、まるで生きているかのように揺らめかせている。部屋には、古い羊皮紙の匂いと、臓硯が好んで焚く白檀の香が、厳かに満ちていた。

 

「では、桜。ついてきなさい」

「はい、お爺様」

 

 その日、臓硯は桜を、屋敷の地下深く、幾重にも張り巡らされた防湿と防腐の結界に守られた、石造りの宝物庫へと案内した。ひんやりとした、時が止まったかのような空気が、二人を迎える。

 部屋の中央には、黒曜石を切り出したかのような、大きな石のテーブルが置かれていた。臓硯は、そのテーブルの上に、桐の箱を三つ、静かに置いた。

 

「桜。ここに、わしがお前のために用意した、最高の『縁(よすが)』がある。来るべき戦いに臨むにあたり、お前には、この世で最も強力な魂を、過去の時代から呼び覚ましてもらわねばならん。そのための、道標となるものじゃ」

 

 臓硯は、一つ目の箱を開けた。中から現れたのは、黒く、そして禍々しい輝きを放つ、巨大な剣の破片だった。

 

「北欧の大英雄、ジークフリートが振るったとされる、呪いの聖剣『バルムンク』の欠片。これを触媒とすれば、ほぼ間違いなく、最優のクラスであるセイバーを召喚できるじゃろう」

 

 次に、二つ目の箱。中には、まるで人の形のようにねじくれた、石化した植物の根が納められていた。

 

「コルキスの魔女、メディアの庭に生えていたという、マンドラゴラの根。神代の魔術師、キャスターを呼び寄せるに、これ以上のものはない」

 

 そして、三つ目。一枚の、古い血痕がこびりついた包帯。その布切れからは、他の二つとは比較にならない、圧倒的なまでの「力」のオーラが放たれている。

 

「そして、これこそが、わしが最もお前に推奨する、ギリシャの大英雄、ヘラクレスの血が染みた包帯。我らが望む、最強の『刃』――バーサーカーを召喚するための、至高の触媒じゃ」

 

 臓硯は、まるで美術館のキュレーターが、自身のコレクションの逸品を誇らしげに紹介するように、それぞれの遺物の価値と、それによって得られる戦略的優位を、丁寧に説明した。

 

 そのどれもが、S級のサーヴァントを呼び寄せるに足る、疑いようのない一級品。これらは全て、桜の、そして自分たちの悲願を最も確実なものにするための、計算され尽くした選択肢だった。

 

 

 桜は、その三つの遺物を、息をすることも忘れながら見つめていた。

 

 彼女の魔術回路が、それぞれの放つ強大な魔力に、びりびりと共鳴しているのが分かる。

 

 剣の破片は、触れれば斬られそうなほどに熱く、怒りに満ちている。

 

 魔女の根は、全てを見透かすように冷たく、計算高い。

 

 そして、英雄の包帯は、ただ、ひたすらに、圧倒的だった。

 

 お爺様が、自分のために、これほどのものを用意してくれた。その事実に、桜の胸は熱くなる。桜は、それぞれの遺物に、そっと手をかざしてみた。自らの魂を、その縁に繋げようと試みる。

 

だが――。

 

(……違う)

 

 桜の魂が、静かに、しかしはっきりと、首を横に振っていた。どの遺物も、あまりに強大で、あまりに完成されすぎている。彼女の魂は、これらの、あまりに輝かしすぎる「伝説」とは、どうしても馴染むことができなかった。

 

 それは、美しいけれど、自分とは違う言語で書かれた詩を読むような、どこか遠い感覚だった。おそらくは彼女の持つ、無に通じる虚数の魂が、これらの、あまりに「現実的」で、あまりに「定義的」な力の塊を、無意識に拒絶しているのかもしれなかった。

 

 つまるところ、桜がこれらの英雄と無理に繋がろうとすれば、深い絆ではなく、ただの魔術的な力による「支配」という関係になってしまうことを、桜は直感的に理解していた。それでは、刃の真の力を引き出すことなどできはしないだろう。

 

 桜は、ゆっくりと顔を上げた。そして、臓硯の目を、まっすぐに見つめた。

 

「お爺様」

 

 その声は、静かだったが、揺るぎない響きを持っていた。

 

「これらの素晴らしい宝物を、私のためにご用意くださり、心より感謝いたします。ですが……私の魂が求める『縁』は、ここには、ないようです」

「……何じゃと?」

 

 臓硯の眉が、ぴくりと動いた。彼の貌から、穏やかな師の表情が消える。

 

「ここには、ない、じゃと? 桜、お前は、この意味が分かっておるのか。これは、わしが五百年の時をかけて収集した、至宝中の至宝。これ以上の触媒など、この世界のどこを探しても、存在はせぬ。お前の、子供じみた感傷で、我らの大儀を危うくするつもりか」

 

 その声は、静かだったが、明確な怒気が含まれていた。彼の計算では、この三つの選択肢の中から、最も合理的なものを選ばせるはずだった。だが、桜は、その前提そのものを、否定したのだ。

 

「感傷では、ありません」

 

 桜は、臆することなく、そう答えた。

 

「私の魂が、そう告げているのです。この方々とでは、私は、真のマスターにはなれない、と。ただ、力を借りるだけの、人形遣いになってしまう、と」

 

「……生意気な」

 

 臓硯の瞳が、冷たく光る。彼が、厳しくその選択を却下し、命令を下そうと一歩桜に向かって歩んだ、その時だった。今までの桜ならば、間違いなくその臓硯の行動を見れば、頭を下げて従っていたことだろう。

 

 だが、桜は、一歩も引かなかった。彼女は、臓硯の冷徹な視線を、まっすぐに受け止めていた。その瞳には、いつもの従順な弟子の色はない。自らの魂の導きを、絶対的に信じている、一人の魔術師としての、強い光が宿っていた。

 

(……これは)

 

 臓硯は、はっとした。

 

(ほう……魔術師としても、人間としても、わしに従順に育て上げてきたつもりが、なかなかどうして)

 

 この、揺るぎない意志。この、師である自分にさえ、決して魂を売り渡さないという、気高いまでの頑固さ。ただの従順な人形ならば、とうの昔に壊れている。彼女は、彼の教えを吸収し、己の血肉とし、そして今、師の計算をさえ超える、一人の「個」として、自立しようとしている。

 

 それは、弟子が師を超える、最初の瞬間。

 

 臓硯の心に、苛立ちとは違う、新たな感情が芽生える。それは、臓硯が忘れかけていた、未知の魔術の真理を目の当たりにした時のような、純粋な知的好奇心そのものだった。そして、自らの最高傑作が、ついに自我に目覚めたことへの、歪んだ、しかし確かな喜びだった。

 

「……面白い」

 

 やがて、臓硯の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

 

「面白いことを言うようになったではないか、桜。よかろう。そこまで言うのであれば、わしも無理強いはすまい」

 

 彼は、桐の箱の蓋を、一つ一つ、ゆっくりと閉じていった。

 

「では、どうするつもりじゃ? 縁もなしに、サーヴァントを召喚するつもりか。それでは、お前の魂と最も性質の近い、ろくでもない亡霊でも呼び寄せるのが関の山じゃぞ」

「……分かりません」

 

 と、桜は正直に答えた。

 

「ですが、きっと、見つかるはずです。私が、この身を預けるに足る、ただ一つの縁が。私の魂が、それを見つけ出すと、信じています」

 

 変わらず、桜は臓硯の目をまっすぐに見つめている。その瞳には、一切の迷いもなく、魔力に揺らぎすらもない。

 

「……ふん。好きにするがよい」

 

 臓硯は、そう吐き捨てると、桜に背を向けた。

 

「じゃが、時間は無限ではない。聖杯戦争の開幕は、間近に迫っておる。いつまでも、お前の感傷に付き合ってやるつもりはないぞ。心せよ」

 

 そう言い残し、彼は一人、宝物庫を後にしていく。一人残された桜は、静まり返った石の部屋で、自分の胸にそっと手を当てた。

 

(初めて、お爺様に、はっきりと自分の意思を伝えられた。怖かった。けれど、後悔はない)

 

 彼女はまだ見ぬ運命の出会いを、強く、強く、信じていた。

 

(大丈夫。きっと、私だけの英霊は見つかるはずだから……)

 

 それは、彼女が、師の庇護下にあるただの弟子から、自らの運命を自らの手で切り拓こうとする一人の魔術師へと、真に生まれ変わった記念すべき夜となったのだった。

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