蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第二十一話:鏡の囁き

 臓硯に、自らの意思を表明してから数日間、桜と彼の間の空気は、どこか奇妙な緊張感を帯びていた。

 それは、敵意や不和といったものではない。むしろ、高名な師が、自らの最高傑作が独り立ちできるかどうかを、固唾をのんで見守っているかのような、厳粛な観察の視線だった。

 

 桜は、その視線を肌で感じていた。自分は、試されている。大見得を切った以上、その言葉が、ただの子供じみた感傷ではないことを、証明しなければならない。

 

 その日から、桜は、これまで以上に真剣に、自らの感覚を研ぎ澄ませていた。学校からの帰り道、人の往来がまばらな古い路地。何百年も、この街の変遷を見つめてきた古木。彼女は、あらゆるものに意識を向け、自らの魂と共鳴する「縁」の欠片を、必死で探していた。だが、未だ世界は沈黙を保ったまま、彼女の問いに応えてはくれなかった。

 

 焦りが、桜の心に、小さな染みのように広がり始めていた。

 

 

 だが、桜が待ち望むその「出会い」は、全く予期せぬ、あまりに日常的な風景の中で、訪れた。

 

 その日、桜は、高校の行事で、クラスメイトたちと共に、冬木市の郷土博物館を訪れていた。古い民具や、この土地の歴史を紹介する、少し埃っぽい、ありふれた市立博物館。友人たちが、退屈そうに展示品を眺めては、ひそひそと私語を交わしている。

 

 桜もまた、その喧騒の中に身を置きながら、心のどこかでは、まだ、あの「縁」を探し続けていた。だが、まさか、こんな場所に、それがあるはずもない。そう思い、諦めかけていた時だった。

 

 ふと、彼女は、グループから離れ、まるで何かに導かれるように、館内の、人の少ない一角へと、足を向けていた。そこは、「海外友好都市寄贈品」と銘打たれた、地味な展示コーナーだった。

 

 そして、彼女は、それを見つけた。

 

 薄暗い照明の下、ガラスケースの中に、それは、ぽつんと置かれていた。

 

 手のひらほどの大きさの、青銅の鏡の破片。その表面は、永い年月の間に緑青に覆われ、もはや、ほとんど光を反射することもなかった。隣には、黄ばんだカードが添えられている。

 

『青銅鏡の破片。古代ギリシャの神殿跡より出土。「ゴルゴン三姉妹の神殿」にあったものと推定される』

 

 それだけだった。何の変哲もない、ただの、古い金属片。

 

 だが、桜が、その鏡の破片を、じっと見つめた、その瞬間。

 

 ―――世界から、音が消えた。

 

 友人たちの話し声も、先生の注意を引く声も、全ての音が、遠い世界の出来事のように、掻き消えていく。彼女の意識は、ガラスケースの中の、その一点だけに、完全に引き寄せられていた。

 

 そして、桜には確かに感じるものがあった。それは、言葉という簡単で具体的な物ではなかった。かといって乱雑な音でもない。

 

 それは感情の、巨大な奔流とも言える不思議な感覚。強いて言えば、途方もないほどの『孤独』だった。怪物として生まれ、怪物として恐れられ、誰からも理解されることなく、ただ、世界の果てで、石のように時を過ごすしかなかった、永い、永い『悲しみ』。

 

 その奥底にある、怪物であるが故の、気高いまでの『誇り』。

 

 そして―――。

 

『―――私を、見ないで』

『―――私を見れば、あなたは、石になってしまうから』

『―――でも、もし許されるのなら……。私を、怪物としてではなく……。ただの、私として、見てくれる人が、いたのなら……』

 

 魂の奥底から響いてくる、か細く、そして、切実な囁き。

 

 それは、桜の、心の最も柔らかな部分を、優しく、しかし、抗いがたい力で鷲掴みにしていた。

 

「……ああ」

 

 この感覚を、桜は知っていた。

 

 それは、自分自身の心の奥底に、ずっと蓋をし、閉じ込めてきた感情と、あまりによく似ていたからだ。

 

 遠坂の家で、不要な子として扱われた、あの日の孤独。間桐の家で、自分は他の人間とは違うのだと感じてきた、あの日の疎外感。

 

 涙が、理由もなく、桜の頬を伝った。

 

(……見つけた)

 

 桜の魂が、歓喜に震えていた。

 

(私の、縁。私の、半身。―――ここに、いたんだ)

 

 

 その日の夕方、屋敷に戻った桜は一直線に、臓硯の書斎へと向かった。その足取りに、もはや、一片の迷いもない。

 

「お爺様」

 

 書斎で、静かに書物を読んでいた臓硯は、部屋に入ってきた桜の顔を見て、わずかに目を見開いた。彼女の纏う空気が、朝とは全く違っていたからだ。そこには、一人の魔術師としての、揺るぎない確信と、覚悟があった。

 

「見つけました」

 

 桜は、臓硯の前に立つと、はっきりと告げた。

 

「私の、縁となる、ただ一つの触媒を」

 

 桜は、博物館での出来事を、その時感じた感情の奔流を、ありのままに、しかし、熱を込めて語った。

 

「あの鏡は、私を呼んでいます。いえ、私と、同じ寂しさを、抱いているのです。あの方となら、私は、真の絆を結ぶことができます。私には、それが、分かります」

 

 臓硯は、その話を、黙って聞いていた。そして、全てを聞き終えると、深い、深い、ため息をついた。

 

「……博物館の、ただのガラクタ、か。伝説でも、逸話でもなく、ただ、お前の感傷が、そう告げておるだけ、ということか」

 

 彼の声には、明確な失望の色が浮かんでいた。

 

「桜。それは、子供の夢想じゃ。マスターとしての、冷静な計算ではない。その鏡に、どれほどの魔力が宿っておるというのだ。その鏡に縁のある魂が、どれほどの力を持つというのだ。伝説に名高い、大英雄たちを退けてまで、そのような、不確定なものに、我らの大儀の全てを賭けると、お前は言うのか」

「賭けます」

 

 桜は、即答した。臓硯の目が、鋭く光る。威圧的な魔力が、部屋の空気を震わせた。だが、桜は、一歩も引かなかった。彼女は、臓硯の視線を、まっすぐに受け止めていた。

 

「お爺様の仰る通りかもしれません。合理的な判断ではないのかもしれません。ですが、私の魂が、私の魔術師としての直感が、そして、お爺様が育ててくださった、この間桐桜という存在の全てが、あの鏡でなければならないと、叫んでいるのです」

 

 彼女は、一呼吸置くと、これまで見せたことのない、強い光をその瞳に宿して、言った。

 

「もし、あの鏡に縁のある魂を、私が召喚できないというのなら……。私は、この聖杯戦争を、戦うことはできません。それは、お爺様の望む『執刀医』ではなく、ただ、借り物の刃を振り回すだけの、人殺しになってしまうから……!」

 

 それは、桜が、生まれて初めて、師である臓硯に対して行った、明確な「反抗」だった。書斎に、重い沈黙が落ちる。臓硯は、ただ、じっと、桜の顔を見つめていた。その瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いている。

 

 やがて臓硯は、その張り詰めた空気を破るように、ふう、と、長く、そしてどこか諦めたような、それでいてどこか面白がるような、複雑な息を吐き出した。

 

「……ふん。全く、一端の口を利くようになったものじゃな。わしの前で、そこまで言い切るとは」

 

 彼の貌から、怒りの色が、すうっと引いていく。

 

「……まるで、昔の、誰かさんのようじゃわい……」

 

 彼は遠い昔の、理想に燃えていた自分自身の、あるいは共に夢を見た頑固な「同志」たちの面影を、目の前の少女に見ていたのかもしれない。

 

「よかろう」

 

 臓硯は、大きく、深く、椅子に背中を預けた。

 

「そこまで言うのであれば、もはや、わしが何を言っても、無駄じゃろう。お前は、もう、わしの言うことだけを聞く、従順な人形ではない。一人の魔術師として、己の道を選び取ろうとしておるのじゃからな」

 

 彼は、桜を、まるで初めて見る生き物のように、興味深げに見つめた。

 

「その鏡、面白そうではないか。わしの計算を超えた、運命の縁、とでも言うものか。……よい。わしの負けじゃ、桜。そのガラクタ、わしの伝手で、博物館から、丁重に『寄贈』させるとしよう」

 

「! お爺様……!」

「ただし」

 

 と、臓硯は人差し指を立てる。

 

「言い出したのは、お前じゃ。この選択が、我らを破滅に導くか、あるいは、わしの想像をも超える、栄光へと導くか。その全ては、お前の双肩にかかっておる。その覚悟が、お前にあるか?」

 

 桜は、こみ上げてくる喜びを、ぐっとこらえた。そして、これ以上ないほど、真剣な表情で、深く、深く、頭を下げた。

 

「―――はい。この身に代えても、必ず」

 

 少女は自らの意思で、運命の扉を叩いた。

 

 老人はその選択を、自らの計画の、新たな変数として受け入れた。

 

 二人の歪んだ師弟関係は、この日、また一つ、新たな形へとその姿を変えたのだった。

 

 聖杯戦争の盤上は、今や誰にも予測のつかない、混沌の様相を呈し始めていた。

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