蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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幕間:そして、王子は桜の花ひらの上で踊る

 臓硯に自らの意思を伝え、その選択を認めさせた夜。

 

 桜は、一人の人間として、そして一人の魔術師として確かに生まれ変わった。彼女の魂は、その根底に長年まとわりついていた寄る辺ない少女の薄皮を破ってみせた。そして、内に秘めた静かで、しかし鋼のような「芯」をその身に宿していた。

 

 その変化は、彼女の立ち居振る舞いの、ほんの些細な部分にも現れ始めていた。背筋は、以前よりもすっと伸び、俯きがちだった視線は、まっすぐに前を見据えている。

 

 屋敷の中を歩く、その足取りにさえ、もはや迷いはなかった。

 

 

 その、微かだが決定的な変化を最も敏感に、そして、最も不快に感じ取ったのは、兄である間桐慎二だった。

 

 ある日の夕食後、慎二は、自室に戻ろうと廊下を歩いていた桜を、呼び止めた。というより、行く手を塞ぐように、仁王立ちになった。

 

「おい、桜」

 

 その声には、いつものように、苛立ちと侮蔑の色が滲んでいる。

 

「お前さぁ、なんだか気味が悪いぞ。あの爺さんと、あの薄暗い書斎で、一体どんな気色の悪いお勉強をしたらそんな人間味のない顔つきになるんだ?」

 

 彼は、いつものように、威圧的な言葉で桜を怖がらせようとしていた。いつものように、優位に立ち、この少女を見下してやりたかったのだ。かつての桜なら、きっと、この時点で怯え、俯き、謝っていたことだろう。

 

 だが、今の桜は、違った。

 

 彼女は足を止めると静かに顔を上げ、慎二の目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳は、夜の湖面のように、どこまでも穏やかで、感情の揺らぎ一つ見せなかった。

 

「……お兄様。おっしゃる通りです」

 

「なっ……」

 

 予想外の、あまりに素直な肯定に、慎二は、思わず言葉に詰まった。慎二の様子を無視して、桜は言葉を続ける。

 

「私が行っていることは、確かに、普通ではありません。古くて、埃っぽくて、人の世の華やかさとは、かけ離れたものですから」

 

 彼女は、そこで、ふっと、儚げな笑みを浮かべた。それは、慎二が今まで一度も見たことのない、どこか大人びた表情だった。

 

「……だから、時々、羨ましく思うのです。お兄様のことが」

 

 その声は、静かだったが、不思議な説得力を持っていた。

 

「……は? な、なんだと?」

 

「お兄様は、光の中にいらっしゃる方です。学校という場で、いつも華やかな場所の中心にいて、たくさんの友人たちに囲まれて……。人の心を掴み、人の世を渡っていく。それは、私には、決して真似のできない、慎二兄さんの素晴らしい才能だと思います」

 

 慎二は、完全に混乱していた。

 

(こいつは一体、何を言っているんだ? 馬鹿にしているのか?)

 

 桜を疑念の目で見詰めるが、しかし、桜のまっすぐなその目には、嘘を言っているような色は微塵も感じられない。むしろ、そこにあるのは、純粋な尊敬の念のようだった。

 

 彼の膨れ上がった、しかし、常に飢えていた自尊心が桜の言葉によって、くすぐられるようにむず痒くなっていく。

 

「お爺様も、常々、仰っていました」

 

 と、桜は、慎二の瞳を見つめたままに、言葉を続ける。

 

「『慎二には、人の世を治める才覚がある』と。『魔術という、影の道を歩む桜とは、役割が違うのだ』と」

 

 そして、慎二にとって一番必要であった、決定的な一言を口にした。

 

「じ、爺さんが……? 俺のことを……?」

 

「はい。ですから、お兄様こそが、この間桐家の、表に立つべき、次期当主様なのだと」

 

 桜は、そこで、少しだけ、不安そうな表情を作ってみせた。それは、計算され尽くした、完璧な演技だった。兄の慎二が魅入ってしまうほどに。

 

「……それで、お兄様。一つ、お願いがあるのです」

 

「お願いだと? お前がこの俺に?なんだよ、言ってみろよ」

 

 慎二の口調は、いつもの調子を取り戻している。その内面では桜に対する優越感が、急速に膨れ上がっていた。こいつが、ついに俺の重要性を理解し、助けを求めてきたのだ、と。

 

「はい。……お爺様と、私が進めている『お仕事』は、もうすぐ、とても大切な段階に入ります。もしかしたら、その影響で、この冬木の街に、少しばかりの混乱が起きるかもしれません」

 

「混乱?」

 

「ええ。常識では、少し、説明のつかないような……。魔術的な物です。兄さんなら、説明しなくてもお分かりかと思います」

 

「そりゃあ、お前たちの妙な行動をみていればな」

 

「流石です。慎二兄さん。そして、実際にそうなった時、人の世の『表』で、事態を収拾し、間桐家を守ることができるのは、一体誰でしょう。お爺様はご高齢です。そして、私は……ご覧の通り、人の世のことに、あまりに疎い。とてもそんな大役、務まりません」

 

 桜は、そこで、すがるような目を慎二に向けた。そして少しトーンを下げ、囁くように慎二の耳元で、魔法のように言葉を紡ぐ。

 

「―――()()()()()()()()()()()。この間桐家を、そして、この街の秩序を守れるのは。次期当主である、お兄様の、そのお力だけが、頼りなのです」

 

 慎二は、呆然としていた。

 

 なんだ、それは。

 

 つまり、爺さんと桜が、何か、よく分からない、魔術的な面倒事を起こす。そして、その尻拭いと、対外的な交渉、情報操作を、()()()()()()()()()、一手に引き受け解決する、ということか?

 

 それは、なんと、重要で、なんと、自分にしかできない、素晴らしい役割だろうか。

 

 影でこそこそと、気味の悪い魔術の研究をしている桜とは違う。自分は、表舞台で、政治や、人を動かす力で、家を、街を、支配するのだ。

 

(……そうか。そういうことだったのか)

 

 慎二の心の中で全てのピースが、都合よく、そして完璧に組み上がった。

 

 爺さんは、俺の才能を、正しく見抜いていたのだ。俺を、魔術から遠ざけたのは、仲間外れにした()()()()()、俺に()()()()()()、より()()()()()を与えるためだったのだ。

 

「……ふん」

 

 慎二はこれ見よがしに、大きく胸を張り、そして、大袈裟に腕を組んだ。

 

「……当たり前だ。そんなこと、お前に言われるまでもない。誰が、この家の次期当主だと思ってるんだ?」

「慎二お兄様です」

「そうだ、当然そうだろう!」

 

 彼の声は、自信に満ち溢れていた。

 

「いいか桜。お前は爺さんと一緒に、好き勝手にその気色の悪い魔術でもやっていろよ!だがな、俺の邪魔だけはするな。表の世界のことはこの俺が完璧に仕切ってやる。お前は、余計なことを考えず、ただ、俺の言うことだけを聞いていればいいんだ」

 

 彼は、そう言い放つと、満足げに、鼻を鳴らした。それを見た桜は不安そうな顔を慎二に向けながら、小さく頷いた。

 

「はい、頼りにしています。兄さん」

「分かればいいんだよ。分かればな!」

 

 そして、まるで、勝利宣言でもするかのように、悠々と、桜の横を通り過ぎていった。

 

 彼は完全に、桜という妹に勝利した気でいた。陰気な妹を言い負かし、自らの重要性を、再確認させたのだ、と。

 

 

 一人、廊下に取り残された桜は、その慎二の後ろ姿を、静かに見送っていた。

 

 そして、彼の姿が完全に見えなくなった時、彼女の貌から、あの、儚げで、不安そうな表情が、すうっと消え失せた。

 

 代わりに浮かんだのは、完璧な能面のような、底の知れない、無表情。その口元には、小さな三日月が形作られていた。

 

(……これもまた、一つの魔術なんですね。お爺様)

 

 桜は、内心で、静かに呟いた。

 

(言葉という名の、魔術。人の心をこちらの望む形へと作り変える、支配の術。お爺様ならきっと、『見事じゃ』と、褒めてくださるかしら)

 

 かつて、彼女を苛んでいた、兄の慎二という最も身近な脅威。桜は、その脅威を、力でねじ伏せるのではなく、言葉一つで、完全に無力化し、そして、自らの計画にとって、最も都合の良い、忠実な「駒」へと、作り変えてみせたのだ。

 

(……それとも、お爺様ならもっと上手に、人の心を操れるのかしら?)

 

 彼女はもはや、守られるだけのか弱い少女ではなかった。自らの意思で運命を選び取り、そして時には、他者の心さえも操る魔術師として成長を遂げていた。

 

 彼女は、間桐臓硯の、まさしく最高傑作となりつつあった。

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