蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第二十二話:マキリの夢

 桜が自らの魂が求める「縁」を見つけ出してから、数日の時が流れた。

 

 あの夜、師に対して初めて明確な「反抗」を見せた桜を、臓硯はそれ以上責めはしなかった。彼はただ静かに、そしてどこか面白がるような、あるいは試すような目で、桜の日常を観察していた。

 

 桜は、その視線を感じながらも、自らの心を乱すことはなかった。彼女の魂は既に、進むべき道をしっかりと見定めている。今はただ、運命の触媒が、この手に届けられるのを待つだけだった。

 

 屋敷の空気は、嵐の前の静けさのように張り詰め、そして澄み渡っていた。

 

 

 その知らせは、ある日の夕暮れに、唐突にもたらされた。

 

「桜。支度は、整った」

 

 書斎で、古文書を読んでいた桜に、臓硯が静かに告げた。

 

「お前が望んだ、あの鏡の破片。今宵、この屋敷に届けられる」

 

「!……はい」

 

 桜は、こくりと頷いた。

 

(いよいよだ。いよいよ、全てが始まる)

 

 心臓が、大きく、しかし、心地よいリズムで高鳴るのを、彼女は感じとっていた。

 

 そしてその夜、二人は、書斎で向かい合っていた。

 

 テーブルの上には簡素な桐の小箱が一つ、静かに置かれている。その中に、あの、博物館にあった鏡の破片が納められているのだ。まだ、蓋は開けられていない。

 

 英霊召喚の儀は、星辰が最も力を増すその一瞬を狙って行われる。

 

 今宵は、そのための、最後の準備の夜だった。精神を研ぎ澄ませ、魔術回路を最適な状態に整える、静かで、重要な時間。

 

 

 暖炉の火が、ゆらゆらと、二人の顔を照らしている。

 

 どちらからも、言葉はなかった。だが、その沈黙は、決して気まずいものではなかった。それは、同じ目的に向かう、二人の「同志」の間にだけ流れる、信頼と、覚悟に満ちた濃密とも言える、しかし、静かな沈黙だった。

 

 やがて、時計の針が天を差しそうな頃になり、普段ならば睡眠の時間に差し掛かった時、臓硯から、この静かな沈黙を破る言葉が紡がれる。

 

 彼は、ゆっくりと、湯気の立つ湯呑を口に運ぶと、どこか遠い目をして、ぽつり、と呟いた。

 

「……お前を見ていると、時折、思い出すことがある」

 

「……何を、ですか?」

 

「遠い、遠い、昔の話じゃ。わしが、まだ、マキリ・ゾォルケンと名乗っていた頃……。このわしにも、お前と同じように、世界を救いたいと、本気で願い、語り合ったかけがえのない『同志』がおった、という話じゃよ」

 

 桜は息を呑んだ。

 

 お爺様が、自らの過去を、それも、これほど個人的な響きを持つ言葉で語るのは、初めてのことだった。臓硯は、桜の反応を確かめるように、一度、その目を見た。そして、まるで、五百年の時を遡るかのように、その物語を、静かに紡ぎ始めた。

 

「始まりは、一つの、純粋な願いじゃった。この世の、あらゆる苦しみを、憎悪を、悲しみを、根絶したい。そのためならば、我が身の全てを捧げてもよい、と。じゃが、それは、人の身一つで成し遂げられるような、矮小な願いではなかった。故に、わしは、仲間を求めた。同じ夢を見る、同志をな」

 

 彼の脳裏に、あの石造りの工房の光景が蘇っていた。

 

「一人は、この冬木の地の霊脈を、我らのために提供してくれた、実直な男。そして、もう一人が……アインツベルンが、我らの大儀のためだけに、その技術の粋を集めて作り上げた、一人の聖女じゃった」

 

 ユスティーツァ。その名を、彼は口にはしなかった。だが、その響きは、彼の魂の奥底で、確かに鳴っていた。

 

「彼女は、()が描いた『大聖杯』という、壮大な奇跡の設計図を、誰よりも深く理解してくれた。そして、自らが、その奇跡を起動させるための、生きた心臓部、『聖杯の礎』となることを、一片の迷いもなく、受け入れた。彼女にとって、それは犠牲ではなかった。我らと同じ、悲願を成就させるための、至上の喜だったのだ」

 

 臓硯の声には、熱があった。それは恋慕のような生温かいものではない。共に、神の領域へと挑んだ、研究者仲間か。あるいは革命の同志に向ける、絶対的な尊敬と、信頼の熱だった。

 

「我らは、三人で、一つの夢を見ておった。聖杯とは、個人の矮小な願いを叶えるための、万能の願望機などではない。それは、世界という名の、重篤な患者を治療するための、巨大な『医療装置』。そして、聖杯戦争とは、その装置を起動させるための、神聖な『儀式』となるはずだった」

 

 彼は、そこで一度、言葉を切ると、湯呑の中で冷めてしまった茶を、憎々しげに見つめた。

 

「……だが、人の欲望というものは我らの想像以上に、深く、そして、醜かったのだ。我らの次の代、そのまた次の代と、時が流れるうちに、あの気高い理想は、彼方へと忘れ去られていった。遠坂は、ただの根源への到達という、個人的な探求に堕ちた。アインツベルンは、失われた第三魔法を取り戻すという、一族の栄誉に固執した。彼らは、聖杯を、ただの『願望機』へと貶めてしまったのだ。そして、あの衛宮切嗣のような、理想の何たるかも分からないような、感情だけの愚か者に、我らの神聖な儀式をめちゃくちゃに掻き回される始末」

 

 彼の声には、五百年分の、深い、深い、失望と、裏切られた者だけが持つ、冷たい怒りが滲んでいた。

 

「この世でマキリの、我らの、あの原初の願いを、その本当の意味を、正しく記憶しているのは、もはやこの()、ただ一人となってしまった……」

 

 臓硯は、そう言うと、顔を上げ、桜の目を、まっすぐに見つめた。

 

「―――いや、一人では、なかったな」

 

 彼の瞳の奥が、再び、あの狂信的な光で、静かに燃え上がった。

 

「今、私の目の前には、在る。あの聖女と同じ。……いや、それ以上に澄み切った魂を持ちながらも、私の理想を寸分の狂いもなく理解する最高の同志が。……私が、この手で、五百年の時をかけて、育て上げた、ただ一人の、後継者が」

 

 それは、臓硯という男の最初で、そして、おそらくは最後の、魂からの告白と言えるものだった。

 

「ただ一人の、後継者……」

 

 桜は、その言葉の、その重さの全てを、全身で受け止めていた。涙は、出なかった。ただ、心の奥底から、熱い、熱い何かが、込み上げてくるのを感じていた。

 

 自分は、ただの弟子ではなかった。ただの道具でもない。自分は、この、孤独な魂が、五百年もの間、たった一人で背負い続けてきた、あまりに気高く、そして、あまりに悲しい夢を、共に担うために選ばれた、唯一の存在なのだ。

 

 その自覚が、桜の魂を、魔術師として完成させる最後のピースとなる。彼女は、もはや、何にも迷わない。何にも、揺るがない。そして、理想を成就するまで、決して諦めることはないだろう。

 

「……お爺様」

 

 桜は、静かに立ち上がると、臓硯の前に進み出た。そして、深く、深く、頭を下げた。一見すればそれは、弟子が師に示す敬意のようにも見える。だが、そうではない。

 

 それは、一人の戦士が、自らの主人に示す、絶対的な忠誠の誓いだった。

 

「マキリの夢は、お爺様の夢は必ず、この私、間桐桜が成就させてみせます。お爺様と、そして、遠い昔にいらっしゃったという、その気高い聖女様の、想いと共に」

 

 臓硯は、その姿を満足げに、そして、どこか慈しむように見つめていた。

 

 彼は、何も言わず、ただ、静かに頷いた。

 

 これ以上、言葉は必要なかった。

 

 二つの魂は、五百年という時を超え、今、完全に、一つのものとなったのだから。

 

 

 書斎のテーブルの上で、桐の小箱が、まるで、その時を待ちわびていたかのように、静かに、夜の光を吸い込んでいた。

 

 運命の夜明けは、もう、すぐそこまで迫っていた。

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