召喚の儀を、その日の未明に控えた昼下がりのこと。
屋敷での英霊召喚の儀。その全ての準備は、臓硯の手によって整えられていた。儀式場である地下の広間は浄められ、触媒である鏡の破片も、祭壇の中央で静かにその時を待っていた。
そして術者である桜は、自室で静かに瞑想を行っている。その時のために、精神を極限まで研ぎ澄ませていたのだ。が。
「桜。少し、外の空気を吸いに行くぞ」
その静寂を破ったのは、臓硯だった。
「お爺様? 今から、ですか?」
「うむ」
と、臓硯は有無を言わさぬ口調で言った。
「これから我らマキリは、この冬木市そのものを手術台に乗せる。執刀医たるもの、自らがメスを入れる患者の顔を、その全身を、最後の最後までその目に焼き付けておくべきじゃ。我らが救うべき、世界の今の姿をな。それもまた、儀式のうちよ」
その言葉に、桜は静かに頷いた。確かにその通りだ、と。自分は、これから、この街に住む人々の、この世界に住む人々の、その魂の在り方そのものを、変えようとしているのだから。
■
そうして二人は連れ立って、間桐の屋敷を出た。
冬の陽光は、柔らかく、街を黄金色に染めている。
街には多くの行き交う人々がいて、その人々が商店街の賑わいを作る。
小道や公園では子供たちの無邪気な、はしゃぐ声が聞こえてくる。
その「普通」は、桜がかつて、ほんの少しの憧れを抱いた光景そのものだった。
だが、今の彼女の目には、その全てが全く違って見えていた。彼女の、魔術師として研ぎ澄まされた感覚は、その日常風景の裏側に、臓硯が語っていた世界の「病」の兆候を嫌というほど感じ取っていた。
店先で、値引きを巡って言い争う主婦たちの、些細な『強欲』。
道端で、恋人同士が、互いの嫉妬をぶつけ合う、醜い『束縛』。
電車を待つ人々の、その疲れ切った顔に浮かぶ、未来への『絶望』。
これら全てが、この世界を蝕む、無数の小さな病巣のように桜には見える。一つ一つは、取るに足らないかもしれない。だが、その集合体がこの世界を、緩やかにしかし確実に、死へと向かわせている。
(……私が、この負の感情の螺旋を必ず終わらせる)
桜は、心に誓う。
(この、どうしようもない、悲しみの連鎖を。この手で、完全に)
彼女の心は、もはや、慈母のような、絶対的な静けさと、そして、歪みながら迷いのない決意に満たされていた。
■
その運命の出会いは、新都の最も人通りの多い、大きな交差点で起きた。
赤信号で人々が足を止める。その雑踏の向こう側。
桜は感じていた。自らの左手の甲、令呪の「兆し」が宿る場所が、じくり、と熱を持ったのだ。それが意味するものは、警告だった。近くに、自分と同じ「資格」を持つ者がいる。
彼女は、導かれるように、視線を上げる。多くの縁がひしめき合うその交差点に、意識を向ける。
そして―――目が、合った。
雑踏の中に、一人だけ、明らかに異質な空気を纏う少女が立っていた。
陽光を照り返す、艶やかな黒髪。それを、気高さを象徴するかのようにツーサイドアップに結い上げている。勝気な光を宿すアクアマリンの瞳。そして、その身に纏う、鮮やかな、血の色にも似た、赤いコート。
その顔立ちは、鏡に映したかのように、桜自身とよく似ていた。
「……遠坂、凛」
たった一人の、姉。その人と今、桜は目を合わせている。
■
時間が、止まった。
車の走行音も、人々の喧騒も、全てが遠い世界の出来事のように、掻き消えていく。
二人の間には、ただ、静かで、そして、凄絶なまでの緊張だけが、存在していた。
凛もまた、桜の存在に気づいていた。彼女の、驚きに見開かれた瞳が、次の瞬間には、鋭く魔術師のそれへとその色を変えた。彼女の兆しもまた、桜と同じように「疼き」を感じ取っているに違いなかった。
驚愕。
認識。
そして、敵意。
凛の瞳が、そう語っていた。彼女は、目の前にいるのが、幼い頃に別れた妹であることなど、とうに忘れているかのように。あるいは、それすらも乗り越えるべき障害として認識しているかのように。
ただただ、間桐家の、忌々しい魔術師の一人として、桜を「敵」と断定していた。
その瞳はまさに、太陽の如き絶対的な自信と、誇りに満ちていた。
私こそが、遠坂家の正当な後継者なのだ。
私こそが、この聖杯戦争における「赤い太陽」なのだ、と。
だが、その視線を受けても、桜の心は、もはや揺らがなかった。
(……姉さん)
心の内で懐かしい呼び名が一度だけ浮ぶ。だが、それもすぐに静かな心のさざ波の中に消えていく。
お爺様の言葉が、脳裏に蘇る。
『遠坂の末裔は、宝石にうつつを抜かし、我らの大願を忘れ去った』
(―――そうだ。この人は、知らないんだ。この世界の、本当の病についても。聖杯の、真の意味についても)
ただ、己の家系の名誉と、個人的な勝利のために、遠坂凛という魔術師はこの神聖な儀式に参加している。それはとてもとても哀れで、虚しい患者の一人なのだと桜は断定する。桜の心にあった、姉への複雑な感情は、今や一つの絶対的な感情へと、収斂していった。
(なんて、可哀想な人。姉さん。あなたは、自分が、病に罹っていることさえ、気づいていないのですね)
その感情の名は「慈悲」だった。桜の瞳に、深い、深い、聖母のような、静かな憐れみの色が浮かぶ。
(でも、大丈夫。私が、
その決意が固まった時、桜の全身から、ふっと、力が抜けた。今の彼女の精神はもはや、兵士や戦士のそれを超えていた。
彼女は、これから始まる大手術を前に、全ての患者の魂に、等しく、安らかな眠りと、新たな誕生が訪れることを祈る、ただ一人のマキリの「聖女」となっていた。
■
やがて、信号が青に変わる。
凛は桜に向けていた、鋭い視線を外す。そして決別するように踵を返し、人混みの中へと消えていった。その背中は、決して振り返らないという、強い意志に満ちていた。
桜もまた、その背中を、静かに見送っていた。いつの間にか、隣に来ていた臓硯が、静かに、そして囁くように言った。
「―――見たか、桜。あれが、お前が最初に、そのメスを入れるべき『患者』じゃ」
「はい、お爺様」
桜は、穏やかな、凍てついた湖面のような声で、答えた。
「よく、存じております」
そうして二人は何も言わず、屋敷への道をゆっくりと戻り始めた。
夕陽が、街を、赤く、赤く、染め上げていく。
それは、まるで、これから始まる、血塗られた儀式の、前触れのようだった。
運命の姉妹は、出会い、そして、完全な敵として、互いを認め合う。
聖杯戦争はこの瞬間に、事実上のその火蓋が切られたのだ。
―――全ては、今宵、行われる、召喚の儀のために。