蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

26 / 27
第二十三話:赤き太陽と紫の聖女

 召喚の儀を、その日の未明に控えた昼下がりのこと。

 

 屋敷での英霊召喚の儀。その全ての準備は、臓硯の手によって整えられていた。儀式場である地下の広間は浄められ、触媒である鏡の破片も、祭壇の中央で静かにその時を待っていた。

 

 そして術者である桜は、自室で静かに瞑想を行っている。その時のために、精神を極限まで研ぎ澄ませていたのだ。が。

 

「桜。少し、外の空気を吸いに行くぞ」

 

 その静寂を破ったのは、臓硯だった。

 

「お爺様? 今から、ですか?」

 

「うむ」

 

 と、臓硯は有無を言わさぬ口調で言った。

 

 「これから我らマキリは、この冬木市そのものを手術台に乗せる。執刀医たるもの、自らがメスを入れる患者の顔を、その全身を、最後の最後までその目に焼き付けておくべきじゃ。我らが救うべき、世界の今の姿をな。それもまた、儀式のうちよ」

 

 その言葉に、桜は静かに頷いた。確かにその通りだ、と。自分は、これから、この街に住む人々の、この世界に住む人々の、その魂の在り方そのものを、変えようとしているのだから。

 

 

 そうして二人は連れ立って、間桐の屋敷を出た。

 

 冬の陽光は、柔らかく、街を黄金色に染めている。

 

 街には多くの行き交う人々がいて、その人々が商店街の賑わいを作る。

 

 小道や公園では子供たちの無邪気な、はしゃぐ声が聞こえてくる。

 

 その「普通」は、桜がかつて、ほんの少しの憧れを抱いた光景そのものだった。

 

 だが、今の彼女の目には、その全てが全く違って見えていた。彼女の、魔術師として研ぎ澄まされた感覚は、その日常風景の裏側に、臓硯が語っていた世界の「病」の兆候を嫌というほど感じ取っていた。

 

 店先で、値引きを巡って言い争う主婦たちの、些細な『強欲』。

 

 道端で、恋人同士が、互いの嫉妬をぶつけ合う、醜い『束縛』。

 

 電車を待つ人々の、その疲れ切った顔に浮かぶ、未来への『絶望』。

 

 これら全てが、この世界を蝕む、無数の小さな病巣のように桜には見える。一つ一つは、取るに足らないかもしれない。だが、その集合体がこの世界を、緩やかにしかし確実に、死へと向かわせている。

 

(……私が、この負の感情の螺旋を必ず終わらせる)

 

 桜は、心に誓う。

 

(この、どうしようもない、悲しみの連鎖を。この手で、完全に)

 

 彼女の心は、もはや、慈母のような、絶対的な静けさと、そして、歪みながら迷いのない決意に満たされていた。

 

 

 その運命の出会いは、新都の最も人通りの多い、大きな交差点で起きた。

 

 赤信号で人々が足を止める。その雑踏の向こう側。

 

 桜は感じていた。自らの左手の甲、令呪の「兆し」が宿る場所が、じくり、と熱を持ったのだ。それが意味するものは、警告だった。近くに、自分と同じ「資格」を持つ者がいる。

 

 彼女は、導かれるように、視線を上げる。多くの縁がひしめき合うその交差点に、意識を向ける。

 

 

 そして―――目が、合った。

 

 

 雑踏の中に、一人だけ、明らかに異質な空気を纏う少女が立っていた。

 

 陽光を照り返す、艶やかな黒髪。それを、気高さを象徴するかのようにツーサイドアップに結い上げている。勝気な光を宿すアクアマリンの瞳。そして、その身に纏う、鮮やかな、血の色にも似た、赤いコート。

 

 その顔立ちは、鏡に映したかのように、桜自身とよく似ていた。

 

「……遠坂、凛」

 

 たった一人の、姉。その人と今、桜は目を合わせている。

 

 

 時間が、止まった。

 

 車の走行音も、人々の喧騒も、全てが遠い世界の出来事のように、掻き消えていく。

 

 二人の間には、ただ、静かで、そして、凄絶なまでの緊張だけが、存在していた。

 

 凛もまた、桜の存在に気づいていた。彼女の、驚きに見開かれた瞳が、次の瞬間には、鋭く魔術師のそれへとその色を変えた。彼女の兆しもまた、桜と同じように「疼き」を感じ取っているに違いなかった。

 

 

 驚愕。

 

 認識。

 

 そして、敵意。

 

 

 凛の瞳が、そう語っていた。彼女は、目の前にいるのが、幼い頃に別れた妹であることなど、とうに忘れているかのように。あるいは、それすらも乗り越えるべき障害として認識しているかのように。

 ただただ、間桐家の、忌々しい魔術師の一人として、桜を「敵」と断定していた。

 

 その瞳はまさに、太陽の如き絶対的な自信と、誇りに満ちていた。

 

 私こそが、遠坂家の正当な後継者なのだ。

 

 私こそが、この聖杯戦争における「赤い太陽」なのだ、と。

 

 だが、その視線を受けても、桜の心は、もはや揺らがなかった。

 

(……姉さん)

 

 心の内で懐かしい呼び名が一度だけ浮ぶ。だが、それもすぐに静かな心のさざ波の中に消えていく。

 

 お爺様の言葉が、脳裏に蘇る。

 

『遠坂の末裔は、宝石にうつつを抜かし、我らの大願を忘れ去った』

 

(―――そうだ。この人は、知らないんだ。この世界の、本当の病についても。聖杯の、真の意味についても)

 

 ただ、己の家系の名誉と、個人的な勝利のために、遠坂凛という魔術師はこの神聖な儀式に参加している。それはとてもとても哀れで、虚しい患者の一人なのだと桜は断定する。桜の心にあった、姉への複雑な感情は、今や一つの絶対的な感情へと、収斂していった。

 

(なんて、可哀想な人。姉さん。あなたは、自分が、病に罹っていることさえ、気づいていないのですね)

 

 その感情の名は「慈悲」だった。桜の瞳に、深い、深い、聖母のような、静かな憐れみの色が浮かぶ。

 

(でも、大丈夫。私が、()()()()()()()()()()。このどうしようもない世界も、そしてこの世界に囚われている、あなた自身も。私が、この手で終わらせて、新しい始まりを、()()()()()()から)

 

 その決意が固まった時、桜の全身から、ふっと、力が抜けた。今の彼女の精神はもはや、兵士や戦士のそれを超えていた。

 

 彼女は、これから始まる大手術を前に、全ての患者の魂に、等しく、安らかな眠りと、新たな誕生が訪れることを祈る、ただ一人のマキリの「聖女」となっていた。

 

 

 やがて、信号が青に変わる。

 

 凛は桜に向けていた、鋭い視線を外す。そして決別するように踵を返し、人混みの中へと消えていった。その背中は、決して振り返らないという、強い意志に満ちていた。

 

 桜もまた、その背中を、静かに見送っていた。いつの間にか、隣に来ていた臓硯が、静かに、そして囁くように言った。

 

「―――見たか、桜。あれが、お前が最初に、そのメスを入れるべき『患者』じゃ」

 

「はい、お爺様」

 

 桜は、穏やかな、凍てついた湖面のような声で、答えた。

 

「よく、存じております」

 

 そうして二人は何も言わず、屋敷への道をゆっくりと戻り始めた。

 

 夕陽が、街を、赤く、赤く、染め上げていく。

 

 それは、まるで、これから始まる、血塗られた儀式の、前触れのようだった。

 

 運命の姉妹は、出会い、そして、完全な敵として、互いを認め合う。

 

 聖杯戦争はこの瞬間に、事実上のその火蓋が切られたのだ。

 

 ―――全ては、今宵、行われる、召喚の儀のために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。