蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第三話:水の器、虚の心

 間桐の屋敷での日々は、静かに、だが着実に過ぎていった。

 

 桜の生活は、朝、臓硯と、そして時折顔を合わせる慎二と共に食事をとり、午前中は書斎で授業を受け、午後は与えられた自室で復習や読書をして過ごす、という規則正しいリズムを刻み始めていた。

 

 あの壮大な「マキリの理想」の物語を聞かされて以来、桜の心から恐怖が完全に消えたわけではなかったが、その大部分は知的好奇心と、師である臓硯への信頼に置き換わっていた。彼が語る魔術の世界は、あまりに奥深く、魅力的だったからだ。

 

 数日が経ったある朝、いつものように書斎へ向かうと、臓硯は穏やかな笑みで桜を迎えた。

 

「桜。今日まで、魔術の歴史と、魔術師としての心構えを学んできた。いわば、地図の読み方を学んだようなものじゃ。今日からは、いよいよその地図を手に、一歩を踏み出す時じゃ」

 

「一歩、ですか?」

 

「うむ。実践じゃ。お前自身の力で、最初の奇跡を起こしてみるのじゃよ」

 

 実践。その言葉に、桜の心臓は期待と不安で大きく跳ねた。自分の力。お爺様が「特別だ」と言ってくれた、自分だけの力。それを、いよいよ使う時が来たのだ。

 

 臓硯に導かれ、桜が連れてこられたのは書斎ではなかった。屋敷の奥深く、陽の光がほとんど届かない、静まり返った一室。そこは、魔術のための道場と呼ぶのがふさわしい場所だった。埃一つなく磨き上げられた広い板の間。その中央に、静謐な水をたたえた、黒い石造りの大きな水盤が一つ、ぽつんと置かれている。部屋の空気は冷たく、張り詰めていた。

 

「さあ、まずはそこに座りなさい」

 

 臓硯に促され、桜は水盤の前に正座する。目の前の水面は、まるで磨かれた黒曜石のように静まり返り、桜の緊張した顔を映し出していた。

 

「桜。魔術の源は、魔力じゃ。魔力には二つある。世界に満ちる大源(マナ)と、術者自身の内に宿る小源(オド)じゃ。まずお前が知るべきは、自らの内に流れる小源、オドの存在じゃ」

 

 臓硯は、桜の隣に座ると、静かな声で語りかけた。

 

「目を閉じてみよ。そして、己の内側に意識を向けるのじゃ。それは、血の流れのように身体を巡り、魂の息吹のようにお前を生かしておる、温かな川のようなものじゃ」

 

 桜は、言われた通りにそっと瞼を下ろした。真っ暗な闇の中で、自分の心臓の音だけが聞こえる。怖い。本当に、そんなものが自分の中に在るのだろうか。

 

『焦るでない。ただ、感じるのじゃ。お前は、生まれながらにしてそれと共に在るのだから』

 

 臓硯の声が、思考に直接響くように聞こえた。桜は、必死に意識を集中させる。自分の腕、足、胸、頭。その全てに神経を研ぎ澄ませていく。通常、魔術の素養がある者でも、この「内なる川」の存在を明確に感知するには、数日から数週間はかかる。臓硯は、気長に待つつもりだった。だが――。

 

「……あ」

 

 桜の唇から、小さな声が漏れた。目を閉じてから、まだ数分と経っていない。

 

「……温かい、です。川みたいに、身体の中を、ゆっくり……流れてる」

 

「なんと……!」

 

 臓硯は、思わず息を呑んだ。早すぎる。いや、早すぎるという言葉でさえ生温い。まるで、ずっと前からその流れを知っていたかのように、桜は淀みなく自分のオドを感知しているのだ。

 

(やはりな……!この感応の速さ、回路の質、その全てが尋常ではない!)

 

 臓硯は、口元が歓喜に緩むのを必死でこらえ、穏やかな師の貌を保った。

 

「うむ。それが、お前の力の源泉じゃ。よく感じ、その流れを覚えておくのじゃぞ」

 

「はい、お爺様」

 

 素直に頷く桜の横顔を見ながら、臓硯の内心は興奮に打ち震えていた。これは、磨けば光るどころではない。既に、その内側から眩いばかりの光を放っている至宝だ。

 

 

「では、次の段階じゃ。その力を、外の世界に繋げてみよう」

 

 臓硯は、中央の水盤を指し示した。

 

「我ら間桐の魔術の基本は、水を操ることじゃ。水は、あらゆる形に変わり、あらゆる器に収まる。魔術の基礎を学ぶには、最も適した素材じゃ。よいか、こうやるのじゃ」

 

 臓硯は、手本を見せる。

 

 彼は水盤に指一本触れていない。だが、彼が意識を集中させると、静まり返っていた水面に、ふっと波紋が広がった。波紋は次第に大きくなり、やがて水面の一部が意思を持ったかのように盛り上がり、するすると形を変えていく。それは、鎌首をもたげた、小さな水の蛇だった。鱗の一枚一枚までが精巧に再現され、まるで生きているかのように、桜の前でゆらゆらと揺れている。

 

「すごい……」

 

 桜は、目を輝かせた。臓硯は、ふっと息を吐くと、水の蛇は形を失い、ちゃぷん、という小さな音を立てて水盤の中へと戻っていった。

 

「さあ、やってみるがよい。力ずくで動かそうとしてはならん。お前の内なる川と、この水盤の水が一つになるように、意思を繋げるのじゃ」

 

 桜は、こくりと頷くと、再び目を閉じた。先ほど感じた、体内の温かい流れ。それを、目の前の水へと伸ばしていく。

 

(繋がれ、繋がれ、一つになれ)

 

 だが、水面は微動だにしない。イメージすればするほど、力が入ってしまう。

 

「焦るでない、桜。もっと、力を抜け。命令するのではない。友になるのじゃ。水と、お前が」

 

 臓硯の助言に、桜ははっとした。友だちに……。桜は、ゆっくりと目を開けた。そして、ただ静かに水面を見つめた。体内のオドの流れに身を任せ、その流れが自分の身体の境界を越えて、目の前の水盤にまで広がっていく。そんな、途方もないイメージを、ただ純粋に、信じてみた。

 

 その瞬間だった。

 

 ぴちゃん、と水面が微かに跳ねた。桜の意思に、水が応えたのだ。一度繋がりさえすれば、あとは早かった。水は、まるで桜の手足のように、自由自在に動き始める。桜が右と思えば右へ流れ、左と思えば左へ渦を巻く。

 

「すごい、すごいわ……!」

 

 楽しくなってきた桜は、もっと複雑な形をイメージした。お母さんが好きだった、庭の花。白くて、綺麗な――。

 

 

 次の瞬間、臓硯は己の目を疑った。

 

 水盤から立ち上った水が、空中で複雑に形を変え、一輪の美しい睡蓮の花を形作ったのだ。

 

 だが、驚嘆すべきはその形ではない。その「質」だ。それは、単なる水の塊ではなかった。花びらの一枚一枚が、まるで本物の植物のように薄く、その表面には水滴がきらめき、光を儚げに透過させている。質量も密度も、もはやそれは「水」と呼べる代物ではなかった。

 

 彼女は、水を操っているのではない。

 

 水を素材に、「睡蓮という概念」を、この世に再定義しているのだ。これこそが「無」に通じる、虚数魔術の片鱗。

 

「――これじゃ!」

 

 臓硯の喉から、抑えきれない声が漏れた。

 

「これこそが、マキリが五百年求め続けた、根源へと至る道標……!」

 

 彼の目には、もはや穏やかな師の光はなかった。そこにあるのは、未知の真理を前にした研究者の狂気にも似た輝きと、最高の才能を育てるという至上の喜びに打ち震える、純粋な歓喜だった。

 

 桜という存在は、この瞬間、臓硯の中で単なる「聖杯の器」から、彼自身の歪んだ理想と夢を乗せる「希望の星」へと、決定的にその意味を変えた。

 

「お、お爺様……?」

 

 臓硯のただならぬ様子に、桜は少し怯えたように後ずさった。はっと我に返った臓硯は、一つ咳払いをすると、いつもの好々爺の貌に戻った。

 

「……いや、すまんすまん。あまりに見事なものじゃったから、つい興奮してしもうた」

 

 彼は桜の隣に膝をつくと、その小さな頭を、心の底からの賞賛を込めて優しく撫でた。

 

「見事じゃ、桜。実に見事じゃった。お前は、わしの想像を遥かに、遥かに超える才能を持っておる」

 

 その手は温かく、桜の不安はすぐに霧散した。自分の力で成し遂げた初めての奇跡。それは、戸惑いと共に、確かな手応えと、胸を張りたいような誇らしい喜びを桜に与えてくれた。

 

「ふむ……」

 

 と臓硯は腕を組む。

 

 「お前には、間桐に伝わる古い水の魔術だけでは足りぬ。それは、お前の才能にとっては、あまりに狭すぎる器じゃ。お前だけのための、特別な道を切り拓かねばならぬな」

 

 その言葉は、桜の未来を案じる師のものに聞こえた。だがその実、臓硯の頭の中では、この類まれなる才能をどう育成し、どう研究し、どうすれば自らの悲願へと結びつけられるかという、新たな、そして歓喜に満ちた計画が、猛烈な速度で構築され始めていた。

 

 永い時の中で、魂の摩耗と共に忘却していた「生の実感」。臓硯は今、それを確かに取り戻し始めていた。桜という、美しくも恐ろしい可能性を前にして。

 

 二人の師弟関係は、この日を境に、新たな段階へと足を踏み入れたのだった。

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