蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第四話:慎二という“壁”

 桜が間桐の魔術の基礎を、驚異的な速度で吸収し始めてから、ひと月が経とうとしていた。

 

 臓硯との授業は、桜にとって日々の楽しみとなっていた。書斎での講義は、世界の秘密を解き明かす冒険のようであり、道場での実践は、自分の中に眠る未知の力が目覚めていく驚きと喜びに満ちていた。

 臓硯は、決して桜を急かさなかった。一つの工程で桜が躓けば、なぜそうなるのかを共に考え、分かるまで根気強く付き合ってくれた。成功すれば、自分のことのように喜び、その才能を惜しみなく賞賛した。その関係は、桜にとって、生まれて初めて経験する「師弟」と呼ぶにふさわしい、温かな絆だった。

 

 しかし、この古い屋敷に住む者は、二人だけではない。

 

 もう一人、桜の存在を、冷ややかな目で見つめる者がいた。兄となる少年、間桐慎二である。

 

 

 その日、桜は臓硯から与えられた課題に取り組むため、一人で道場にいた。水盤の水を、できるだけ細く、糸のように引き延ばし、それを空中で編み上げるという高度な訓練だ。集中力を研ぎ澄まし、オドの流れを精密に制御しなければならない。

 

 桜が、全神経を指先に集め、水糸を操っていた、その時だった。

 

「――ふん。そんな地味なことばっかりやってて、何が楽しいんだか」

 

 入口の戸に寄りかかるようにして、腕を組み、慎二が立っていた。その声には、いつものように刺々しい響きが含まれている。びくり、と桜の肩が揺れ、集中が途切れた。空中で複雑な模様を描き始めていた水糸は、たちまちその形を失い、無惨な水しぶきとなって板の間を濡らした。

 

「あ……」

 

「なんだよ、その顔。俺のせいで失敗したとでも言いたいのか?」

 

 慎二は、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと桜に近づいてきた。桜は、どう答えていいか分からず、ただ俯くだけだった。

 そして慎二は、桜の前に立つと、その頭のてっぺんから見下ろすように言った。

 

「お前、自分が何でこの家にいるか分かってるのか? 遠坂の出来損ないだから、()()に押し付けられたんだぞ。本当なら、姉貴の方がここに来るはずだったんだ」

 

 その言葉は、鋭い刃物のように桜の胸に突き刺さった。

 

 ―――()()()()()

 

 その言葉は、桜が心の奥底に押し込めていた、最も聞きたくない言葉だった。

 

「……ちが……います」

「違わないね。爺さんがお前に甘いからって、いい気になるなよ。間桐の次期当主は、この俺、間桐慎二なんだ。魔術回路の一つも持ってないお前は、ただの居候なんだからな」

 

 魔術回路がない、というのは慎二の嘘だった。桜に魔術の才能があることは、彼も薄々感づいている。だからこそ、彼は苛立っていた。自分こそが、この家の正統な後継者であるはずなのに、得体の知れない妹に、祖父の関心を全て奪われている。その事実が、彼のプライドを酷く傷つけていたのだ。

 

 桜は、唇を固く結び、反論の言葉を探した。だが、何も出てこない。慎二の言う通り、自分は遠坂の家では不要な子供だった。それは、紛れもない事実だったからだ。

 

 桜の瞳に、涙の膜がじわりと浮かぶ。それを見た慎二は、どこか満足げに鼻を鳴らした。

 

 

「――慎二。そのくらいにしておけ」

 

 いつの間にか、臓硯が道場の入口に立っていた。その表情は穏やかだったが、声には有無を言わさぬ圧力がこもっている。

 

「爺さん……。俺は、こいつに事実を教えてやっただけだ」

 

「事実は、時として人を傷つける刃にもなる。ましてや、お前の言葉には、事実ではないものが多分に含まれておるようじゃな」

 

 臓硯にじろり、と睨まれ、慎二はたじろいだ。

 

「わしは、お前を間桐の次期当主と定めた。その決定に、今も変わりはない。じゃが、当主とは、力で人を屈服させる者ではない。器の大きさで、人を束ねる者のことじゃ。今のままのお前では、到底その任は務まらぬぞ」

 

「……っ」

 慎二は、悔しそうに顔を歪めると、「覚えてろよ」と桜にだけ聞こえるような声で呟き、足早に道場を去っていった。

 

 一人残された桜は、俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。臓硯は、静かに桜の隣に歩み寄ると、その小さな背中を優しく撫でた。

 

「……すまなんだな、桜。あやつも、まだ己の立場を理解しきれておらぬのじゃ」

 

「お爺様……。私、やっぱり、いらない子なんでしょうか……?」

 

 絞り出すような声で、桜は尋ねた。臓硯は、それにすぐには答えず、懐から取り出した懐紙で、そっと桜の涙を拭ってやった。

 

「桜。お前は、この家にとって、必要かどうかという物差しで測るような存在ではない」

 

 臓硯は、ゆっくりと語り始めた。その声は、深く、そして温かかった。

 

「お前は、この間桐家が、マキリの一族が、五百年という永い時をかけて追い求めてきた、夢そのものなのじゃ。お前のその力は、ただの魔術ではない。世界の理を書き換える可能性を秘めた、奇跡の欠片なのじゃよ」

 

 彼は、濡れた板の間を指差した。

 

「慎二には、この奇跡は起こせぬ。あやつは、人の世を生きることに長けた子じゃ。金勘定も、人の心を操る駆け引きも、いずれはわしを超えるほどになるやもしれん。じゃが、魔術という深淵を覗き込むことは、あやつにはできん」

 

 臓硯は、桜の目をまっすぐに見つめた。

 

「役割が、違うだけなのじゃ。桜、お前は魔術の探求者。真理へと至る道を歩む者。慎二は、そのお前が道を踏み外さぬよう、人の世という名の『壁』となり、お前を守る盾となる者。二人揃って、初めて新生間桐家は盤石となる」

 

 それは、臓硯が慎二のプライドを保つために考え出した、巧みで、そして残酷な役割分担だった。慎二を「表向きの当主」とし、桜を「影の実力者」とする。互いに干渉させず、それぞれの領域で頂点を目指させる。

 そして、この歪な兄妹関係そのものが、桜の精神を鍛えるための、最高の「枷」になると臓硯は読んでいた。

 

 優しさだけでは、人は強くならない。

 

 時として、劣等感や、理不尽な壁こそが、内に眠る力を爆発させる起爆剤となることを、この老魔術師は知り尽くしていた。

 

「だから、桜。あやつの言葉に、心を揺らすでない。お前は、お前の道を行けばよい。ただひたすらに、高みを目指してな。お前が強くなればなるほど、慎二の存在価値もまた、高まるのじゃから」

 

 それは、自らの悲願を達成させるための、手段を択ばぬ臓硯らしい詭弁だった。だが、今の桜には、その言葉の裏に潜む真意を見抜くことはできない。ただ、自分は「いらない子」ではないのだと、お爺様がそう言ってくれた。自分には、自分だけの役割があるのだと。その事実だけで、桜の心は救われた。

 

「……はい、お爺様」

 

 涙は、まだ瞳に残っていたが、桜の声には、先ほどまでなかった芯の強さが戻っていた。彼女は、もう一度水盤に向き直ると、深呼吸をして、意識を集中させた。

 今度は、もう迷わない。慎二の言葉も、心の片隅にある劣等感も、全てを振り払い、ただ、目の前の水と、己の内の力と向き合う。

 

 やがて、桜の指先から、一本の細く、美しい水糸が、すうっと引き延ばされていった。それは、先ほどよりも遥かに安定し、力強い輝きを放っていた。

 

 その光景を、臓硯は満足げな表情で見つめていた。

 

(それでよい、桜。怒りも、悲しみも、全てを力に変えるのじゃ)

 

 彼の歪んだ教育は、この瞬間もまた、少女の才能を正しく、そして力強く開花させていた。慎二という名の「壁」は、桜がより高く飛ぶための、最初の、そして最も身近な試練として、その役割を果たし始めたのだった。

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