秋風が、間桐の屋敷の古い庭木を揺らす季節になっていた。
桜の魔術の技量は、日を追うごとに洗練されていった。一本の水糸を操ることは、もはや朝飯前のこととなり、今では複数の水糸を同時に、それぞれ違う形へと編み上げる訓練へと移行していた。
それは、複数の思考を同時に走らせる、魔術師にとって極めて高度な並列思考の訓練だった。
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「どうじゃ、桜。少しは慣れてきたかの」
道場の隅で書見台に肘をつきながら、臓硯が問う。
「はい。少しだけなら……」
桜は、答えながらも意識のほとんどを目の前の水盤に集中させていた。彼女の目の前では、五本の水糸がまるで意思を持った生き物のようにくねり、空中で踊っている。一本は鳥の形に、一本は魚の形に。残りの三本で、複雑な幾何学模様を編み上げていく。
これまでの成功体験は、桜の中に確かな自信を根付かせていた。そして、それは同時に、彼女の心の隅に、本人も気づかぬほどの小さな慢心を芽生えさせていた。
(もっとできる。もっと、お爺様を驚かせたい)
その純粋な想いが、彼女を駆り立てる。桜は、さらに二本の水糸を水盤から引き出し、合計七本の同時操作に挑戦した。
体内のオドが、急速に消費されていくのを感じる。内なる川の流れが、次第に激流へと変わっていく。だが、高揚感に包まれた桜は、その危険な兆候に気づかなかった。七本の水糸が、宙で見事な舞踏を繰り広げる。鳥は羽ばたき、魚は跳ね、幾何学模様は万華鏡のようにその姿を変えていく。
(すごい……!私、こんなことまで……!)
桜が、自らの才能に酔いしれた、その瞬間だった。
ぷつん、と。
まるで張り詰めていた琴の弦が切れるように、桜の意識の中で何かが途切れた。視界から、急速に色が失われていく。耳の奥で、キーンという鋭い音が鳴り響く。
体内の温かい川だったはずのオドが、一滴残らず干上がっていく、絶対的な枯渇感。それは、生命力そのものを根こそぎ奪われるような、途方もない虚無感だった。
「あ……ぅ……」
声にならない声が漏れる。制御を失った七本の水糸は、暴れる蛇のようにのたうち回り、壁や床に叩きつけられる。そして、桜の身体は、糸が切れた操り人形のように、力なくその場に崩れ落ちた。板の間に倒れ込む、その小さな衝撃を最後に、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。
その一部始終を、臓硯は冷静に、そして鋭い観察眼で見つめていた。桜が倒れた瞬間、彼は読んでいた書物をぱたりと閉じ、ゆっくりと立ち上がる。その足取りに、慌てた様子はない。
彼は倒れた桜の傍らに膝をつくと、その小さな手首を取り、脈を確認する。そして、その瞼をそっと指で持ち上げ、瞳孔の反応を見た。
「……ふん。単なる魔力枯渇か。愚か者め」
その声は冷ややかだったが、彼の内心は違った。
(じゃが、誰もが通る道か。己の器の大きさを知らぬまま、力を振るい続ければどうなるか。言葉で教えるより、こうして身体で学ぶ方が、千倍も身につくわ)
彼は、桜の小さな身体を、まるで綿のように軽々と抱え上げた。そして、道場を後にし、彼女の自室へと向かう。この失敗すらも、彼の計算された教育の範疇にあったのだ。
■
次に桜が目を覚ました時、視界に映ったのは見慣れた自室の天井だった。身体が、鉛のように重い。微かな頭痛と共に、意識が覚醒していくにつれ、自分が訓練中に倒れたことを思い出した。
(失敗、しちゃったんだ……)
自己嫌悪と悔しさが、どっと押し寄せる。お爺様の期待に応えられなかった。呆れられてしまったかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。
「……気がついたか」
静かな声に、はっとして横を向く。そこには、ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけ、静かに本を読んでいた臓硯の姿があった。窓の外は、既に茜色に染まっている。どうやら、随分と長い時間、眠っていたらしかった。
「お爺様……!ごめんなさい、私……!」
慌てて身体を起こそうとする桜を、臓硯は手のひらで優しく制した。
「まだ寝ておれ。お前の体内のオドは、ほとんど空っぽじゃ。無理に動けば、魂が肉体から剥がれかねんぞ」
「でも、私、失敗して……。お爺様の期待に……」
俯く桜に、臓硯は読んでいた本を閉じると、穏やかな声で語りかけた。
「桜。お前は、失敗したのではない。己の限界を知ったのじゃ。それは、これから永く魔術と付き合っていく上で、最も重要な学びの一つじゃよ」
「限界……?」
「うむ。人の身に宿るオドは、無限ではない。お前の身体を一つの器とするならば、その器の大きさを知らずして、水を注ぎ続ければどうなる? いつか必ず、水は溢れる。それは、当然の理じゃろう」
臓硯は、分かりやすいように、ゆっくりと、丁寧に説明してくれた。
「お前は今日、己の器の大きさを、その身で以て知った。それは、どんな書物を千冊読むよりも、価値のある経験じゃ。次に力を振るう時、お前は今日のこの感覚を思い出すじゃろう。そして、器から水が溢れる前に、自ら蛇口を閉めることができるようになる。己を知り、己を律する。それこそが、大いなる力を扱う者の、最初の資格なのじゃ」
その言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、桜の心へと浸透していった。失敗を責められると思っていた。
遠坂の家にいた頃なら、きっとそうだった。
「なぜ加減ができない」
「この程度のことも制御できないのか」
と、冷たい言葉を投げつけられたに違いない。
けれど、この老人は違った。失敗を学びの機会として捉え、その意味を優しく教えてくれる。自分を、一人の弟子として、人間として、本当に大切に育てようとしてくれている。そのことが、痛いほどに伝わってきた。
じわり、と桜の瞳に涙が浮かぶ。それは、悔しさの涙ではなかった。安堵と、感謝と、そして、心の底から湧き上がる温かい何かの涙だった。
桜は、おずおずと布団の中から手を伸ばし、臓硯の硬い着物の袖を、きゅっと掴んだ。
「……ありがとうございます」
桜は、しゃくりあげそうになるのを必死でこらえ、はっきりとした声で言った。
「お爺様……」
それは、いつもの「お爺様」という呼び方とは、響きが違っていた。これまでは、どこか他人行儀で、師に対する敬称としての響きが強かった。だが、今、桜の口から紡がれたその言葉は、もっと純粋で、もっと無防備な、本当の家族を呼ぶ時の、温かく、そして切ない響きを帯びていた。
その言葉が、雷のように臓硯の魂を打ち抜いた。
五百年。人を人と思わぬほどに魂をすり減らし、永い時を生きてきた。どれだけの人間が、彼を「翁」「臓硯殿」と畏怖と侮蔑を込めて呼んだだろう。
―――だが、「お爺様」と。
これほど純粋な思慕を込めて、その名を呼ばれたのは、一体、いつ以来のことだったか。
脳裏に、幻がよぎる。遠い、遠い昔の記憶。自分の息子が、そのまた子供が、おぼつかない足取りで自分に駆け寄り、そう呼んだ日の、陽だまりのような光景。とうの昔に、魂の深淵に沈み、化石となったはずの記憶の欠片だった。
臓硯の貌が、その一瞬、ただの寂しい老人のように、微かに揺らいだ。だが、彼はすぐにその感傷を、自嘲と共に押し殺した。
「……礼には、及ばん。師として、当然のことをしたまでじゃ」
臓硯は、そう言ってゆっくりと立ち上がると、桜に背を向けた。これ以上、この子供の純粋な目の前にいることは、危険だと感じたからだ。
「ゆっくり休め。オドが回復するまで、二、三日は安静にしておれ」
そう言い残し、彼は部屋を出ていった。扉が閉まる時に桜に見せたその背中は、いつもより少しだけ、小さく見えた。
■
一人残された部屋で、桜は、臓硯が座っていた椅子をじっと見つめていた。胸の中に、暖炉の火のような、温かい光が灯っているのを感じる。この人は、怖い魔術師なんかじゃない。自分を導き、守ってくれる、たった一人の――。
「あの人は、私の、本当の「お爺様」なんだ」
桜は、その温かい確信を胸に、安らかな眠りへと再び落ちていった。
一方、薄暗い廊下を歩きながら、臓硯は己の心の、ほんの一瞬の揺らぎを噛み締めていた。
(……感傷、か。このわしが、今更)
彼は、自嘲の笑みを口元に浮かべる。
(だが……)
脳裏に、あの響きが蘇る。
「お爺様」
(案外と……悪い響きでは……なかったな)
計算ずくで育ててきたはずの少女からの、計算外の、あまりに純粋な一言。
それが、五百年の間、凍てついていた彼の魂に、予期せぬ、そして極めて微かな亀裂を入れたことを、この老魔術師は、まだ認めようとはしなかった。