蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第六話:街の顔役

 桜が魔力枯渇で倒れてから、数日が過ぎた。

 

 臓硯の言いつけ通り、桜は安静に過ごし、その間に体内のオドはすっかり回復していた。むしろ、一度空になった器が再び満たされるように、以前よりも魔力の流れが力強く、澄み渡っているのを感じる。あの失敗は、確かに彼女を大きく成長させていた。

 

 その日の昼下がり、書斎で魔術史の書物を読んでいた桜に、臓硯が不意に声をかけた。

 

「桜。少し、散歩にでも行かぬか」

 

「散歩……ですか?」

 

 桜は、きょとんとして顔を上げた。この屋敷に来てから、外に出たのは父親に連れられてきた最初の一日だけだ。門の外に出るという発想そのものが、桜にはなかった。臓硯は、窓の外に広がる秋晴れの空を見やりながら、穏やかに言った。

 

「うむ。引きこもってばかりでは、心が澱む。それに、魔術師とて霞を食って生きているわけではないからの。たまには、人の世の空気を吸うのも、修行のうちじゃよ」

 

 修行、という言葉に、桜はこくりと頷いた。お爺様が言うのなら、きっとこれも大切なことなのだろう、桜は疑う事もなく言葉を紡ぐ。

 

「はい、お爺様」

 

「そうか。では、支度をしなさい」

 

 そうして桜は、生まれて初めて、自分の意思で間桐家の重い門をくぐった。

 

 

 坂道を下っていくと、眼下に冬木の街並みが広がっている。屋敷の敷地から見るのとは全く違う、活気に満ちた景色。行き交う自動車の音、遠くで響く学校のチャイム、人々の話し声。その全てが、桜にとっては新鮮で、少しだけ怖かった。

 だが、隣を歩く臓硯の存在が、桜の不安を和らげてくれる。彼は、桜の歩幅に合わせるように、ゆっくりと、確かな足取りで坂を下っていった。

 

 やがて、二人は新都へと続く商店街へと足を踏み入れた。そこは、桜が知らなかった「お爺様」の、もう一つの顔を知る場所だった。

 

「おお、間桐の翁様。こんにちは。今日は良いお天気ですな」

 

 威勢のいい声で声をかけてきたのは、店先に瑞々しい野菜を並べる八百屋の店主だった。

 

「うむ。お主のところも、商売繁盛のようじゃな。良い大根が入っておるじゃないか」

 

「へへ、翁様には敵いませんや。おひとつ、いかがですかい?」

 

 すれ違う人々が、次から次へと臓硯に挨拶をしていく。魚屋の威勢の良い女将さん、和菓子屋の物静かなご主人、豆腐屋の若い夫婦。臓硯は、その一人一人ににこやかに応じ、二言三言、気の利いた世間話を交わす。

 

 まるで、この商店街そのものが、彼の庭であるかのようだった。

 

「お爺様は、街の皆さんと、とても仲が良いのですね」

 

 驚きを隠せない桜がそう言うと、臓硯は嬉しそうに目を細めた。

 

「この街に、もう随分と長く根を張っておるからの。わしが若い頃には、まだこの商店街もなかったくらいじゃ」

 

 ふと、店の前で母親に叱られ、べそをかいている幼い子供が目に入った。臓硯は、すっとその子に近づくと、先ほど和菓子屋で買ったのであろう、可愛らしい兎の形をした飴を差し出した。

 

「さあ、坊主。これで涙をお拭き。男の子が、そんなことで泣くでないぞ」

 

 子供は、きょとんとした顔で飴を受け取ると、すぐに泣き止み、はにかんだように笑った。その母親は、恐縮したように何度も臓硯に頭を下げている。

 

 桜は、その光景を呆然と見つめていた。屋敷で見せる、厳しくも優しい師としての顔。そして今、目の前にいる、誰からも慕われる好々爺としての顔。どちらも、桜の知る「お爺様」だった。

 

「不思議かい、桜」

 

 桜の心を見透かしたように、臓硯が言った。

 

「魔術とは、星や魂といった、常人には見えぬものを扱う学問じゃ。じゃからこそ、我ら魔術師は、誰よりも『人』を知らねばならん。人の喜び、悲しみ、欲望、その日々の営み。その全てが、我らが探求する真理と、決して無関係ではないのじゃよ」

 

 桜には難しいことは、まだよく分からない。けれど、桜にとっては、『お爺様がとても大きくて、すごい人なのだ』ということだけは、ひしひしと伝わっているようだった。

 

 

 そうして二人の外出は続き、商店街のアーケードを抜け、少し寂れた通りへと差し掛かった時だった。一台の黒塗りの高級車が、格式のありそうな料亭の前に停まった。中から現れたのは、一目でカタギではないと分かる、厳つい雰囲気の男たち。そして、その男たちに囲まれるようにして、着流し姿の、鋭い眼光を持つ壮年の男が降り立った。

 

 その威圧的なオーラに、桜は思わず臓硯の後ろに隠れた。

 

 男は、臓硯の姿を認めると、わずかに目を見開き、部下たちを手で制した。そして、一人でゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 

「――これはこれは、間桐の翁。ご壮健そうで何よりですな」

 

 その声は、低く、よく響いた。

 

「おお、藤村の若頭か。いや、もう先代の跡を継いで、組長と言うべきかの。お主こそ、ますます貫禄が出てきたのう」

 

 臓硯は、臆した様子もなく、旧知の友人に会ったかのように応じる。藤村の組長――藤村雷画は、臓硯の隣で怯えるように立つ桜に、興味深げな視線を向けた。

 

「ほう。そちらのお嬢さんは? 翁がお子さんを連れて歩いているとは、珍しいこともあるもんだ」

「新しく預かることになった、孫じゃ。桜という。……桜、ご挨拶なさい」

 

 促され、桜は恐る恐る小さな声で

 

 「……さくら、です」

 

 とだけ言った。雷画は、桜の顔をじっと覗き込むと、その鋭い目がふっと細められた。そして、まるで面白いものを見つけたかのように、にやりと笑った。

 

「……なるほどな。こいつは、とんでもない『姫』だ。翁、良い跡継ぎを見つけなすったな。この街も、安泰ですかい」

 

「ふふ、どうじゃろうな」

 

 臓硯は、ただ意味ありげに微笑むだけだった。二人の間には、桜には理解できない、大人たちの会話が交わされている。だが、あの見るからに怖そうな人でさえ、お爺様には敬意を払っている。その事実が、桜の胸に強く刻み込まれた。

 

 

 藤村雷画と別れ、二人は夕暮れの道を屋敷へと戻る。

 

 今日の出来事が、桜の頭の中をぐるぐると巡っていた。商店街の人々の笑顔。泣いていた子供。そして、あの藤村という男の鋭い眼差し。その全てを、お爺様は軽々と受け流し、その中心に立っていた。

 

 お爺様は、自分が思っていた以上に、ずっとずっと、すごい人なんだ。

 

 そして、自分は、その人の「孫」で、「弟子」なのだ。

 

 その事実に、桜は誇らしいような、そして同時に、身が引き締まるような不思議な責任感を感じていた。

 

 桜のそんな心中を知ってか知らずか、前を歩く臓硯の口元には、かすかな満足の笑みが浮かんでいた。

 

(どうじゃ、桜。わしという存在の大きさが、少しは理解できたか)

 

 彼の思考は、どこまでも魔術師的であり、そして冷徹だった。

 

(恐怖だけで人を縛るは、三流のやり方よ。こうして、絶対的な尊敬と、逆らえないという畏怖で心を縛りつけてこそ、それは決して解けぬ、強固な鎖となる……)

 

 彼の行動の全てが、桜という最高の器を、心身ともに完全に掌握するための、計算され尽くした布石だった。そしてその歪んだ教育は、この日もまた、少女の心を、臓硯の望む「正しさ」へと、着実に導いていたのだった。

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