蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第七話:遠坂の影

 季節は巡り、桜が間桐の屋敷に根を下ろしてから、初めての春が訪れた。

 

 その日、桜は真新しいランドセルを背負い、臓硯と共に小学校の入学式へと向かっていた。臓硯の「人も知らねばならぬ」という方針により、桜もまた、他の子供たちと同じように学校へ通うことになったのだ。

 

「よいか、桜。学校は、魔術とは全く違う理(ことわり)で動く世界じゃ」

 

 満開の桜並木の下を歩きながら、臓硯は言った。

 

「そこでは、お前の力は何の意味も持たぬ。多くの『普通』を学び、多くの『常識』を知るがよい。なぜ、それが必要なのか。いずれ分かる時が来る。それもまた、お前の力となるじゃろう」

 

「はい、お爺様」

 

 桜は、少し緊張しながらも、こくりと頷いた。魔術を学ぶ間桐の桜と、小学校に通う間桐桜。二つの世界を持つという事実は、桜の心に不思議な高揚感と、わずかな孤独感をもたらしていた。

 

 

 学校での生活は、新鮮な驚きに満ちていた。

 

 算数の授業、国語の音読、休み時間に友達と交わす他愛ないおしゃべり。桜は物静かではあったが、授業態度は真面目で、誰にでも丁寧に接したため、すぐにクラスに溶け込むことができた。数人の優しい女の子とは、特に親しくなった。

 

 屋敷での厳しい修行とは違う、穏やかで平凡な日常。それは、桜にとって心地よいものであった。だが同時に、ふとした瞬間に、自分だけが知っている「もう一つの世界」を思い出し、自分と他の子たちとの間には、決して埋めることのできない深い溝があるような感覚に陥ることもあった。

 

 その「影」が、はっきりとした輪郭を持って桜の前に現れたのは、初夏に差し掛かったある日の休み時間だった。桜が、仲良くなった友達と中庭で縄跳びをしていると、隣で遊んでいたグループから、弾むような会話が聞こえてきたのだ。

 

「ねえ、知ってる? 一つ学年が上の遠坂さんって、本当にすごいんだよ!」

「うんうん! この前のテストも、ぜーんぶ百点満点だったんだって!」

「マラソン大会でも、男の子より速かったんだよ! 信じられる?」

 

 ―――遠坂さん。

 

 その姓を聞いた瞬間、桜の心臓が、どきり、と大きく鳴った。縄を跳んでいた足が、もつれて止まる。

 

「それに、誰にでも優しくて、いつもニコニコしてて、髪も綺麗で……。お人形さんみたいだよね」

 

「わかるー! 同じ人間とは思えないよー」

 

 遠坂、凛。自分の、たった一人の姉。

 

 友達の称賛の声が、耳元でこだまする。嬉しい。自分の姉が褒められているのだ。それは、誇らしいことのはずだった。なのに、どうしてだろう。胸の奥が、ちくり、と針で刺されたように痛む。

 

 姉は、あちらの世界で、太陽のように輝いている。誰からも愛され、完璧な優等生として。それに比べて、自分は……。

 

『お前は、遠坂の出来損ないだから、()()に押し付けられたんだぞ』

 

 兄である慎二に投げつけられた言葉が、まるで亡霊のように、耳の奥で蘇る。

 

 違う、と首を振る。お爺様は私を「特別だ」と言ってくれた。でも、もし、慎二兄さんの言う通りだったら? 私が、姉さんのように「完璧」ではなかったから、遠坂の家にはいられなくなったのだとしたら……?

 

 嬉しさと、誇らしさ。

 

 自分とは違う世界にいる姉への、どうしようもない寂しさ。

 

 そして、輝かしい姉の存在と自分を比べてしまう、醜い嫉妬心。

 

 いくつもの感情が渦巻き、桜は混乱していた。

 

 ――そして、その日の放課後、桜はまるで何かに引き寄せられるように、一人で遠坂の屋敷の前まで来てしまっていた。坂の上に立つ、立派な赤い屋根の洋館。幼い頃の記憶に残る、自分の家だった場所。だが、今はもう、あの門をくぐる資格は自分にはない。

 

 自分を捨てた家。けれど、今も母と、そして輝かしい姉が住んでいる家。桜は、ただ門をじっと見つめることしかできなかった。冷たい鉄の柵が、あちら側とこちら側とを、無慈悲に隔てていた。

 

 そして、遠坂の家の前では何もできず、重い足取りで間桐の屋敷に帰ると、いつものように臓硯が玄関で出迎えてくれた。

 

「おかえり、桜。今日は、少し顔色が優れぬようじゃな」

 

「……いいえ、なんでもありません」

 

 桜は、普段通りを装って、そう答えた。

 

 ―――だが、この老獪な魔術師の目は誤魔化せない。

 

 臓硯は、桜の表情に浮かんだ僅かな曇り、その瞳の奥に揺れる感情の澱み、そして、彼女の体内のオドに生じた、心の揺らぎに起因する微細な乱れを、一目で見抜いていた。

 

「そうか。取り敢えず、今日は休みなさい」

 

 彼は、それ以上何も聞かなかった。だが、その頭脳は、桜が今日、学校という「人の世」で、何に触れ、何を感じてきたのかを、ほぼ正確に推察していた。

 

 

(ふむ……。おおよそ……『遠坂の娘』とでも出会った、か?)

 

 書斎に戻った臓硯は、一人、静かに思考を巡らせていた。

 

(血は、良くも悪くも繋がりよる。断ち切ったはずの縁が、こうして影となって心を苛むか。面白い)

 

 彼は、ゆっくりとチェス盤に向かうと、黒のクイーンの駒を手に取った。

 

(さて、この影、どう利用したものかの。放置すれば、劣等感という名の毒となり、桜の心を蝕むやもしれん。じゃが……)

 

 彼の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。

 

(上手く使えば、これほどの薬はない。嫉妬も、憧れも、全ては力を求めるための渇望となる。桜をさらに強く、さらに気高く成長させるための、またとない砥石となるわ)

 

 その夜、桜は自室のベッドで、一人、膝を抱えていた。姉の、輝くような笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 

 遠く離れた書斎では、老魔術師が、チェス盤の上で駒を一つ、進めていた。

 

 少女の心に落ちた、姉という名の、あまりに眩しい光と影。それは、憧れと嫉妬、そして、自分という存在への疑念を芽生えさせる、新たな試練の始まりだった。

 

 ―――そして、その試練すらも、弟子を鍛え上げるための最高の道具と捉える師の、次なる一手が、静かに放たれようとしていた。

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