蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第八話:深淵の道

 姉である遠坂凛という名の太陽は、桜の心に確かに影を落としていた。

 

 その日以来、桜の魔術には、僅かだが明確な「乱れ」が生じ始めていた。道場で水糸を操れば、その先端が不意に揺らぐ。書斎で古文書を読めば、その文字が頭に入ってこない。集中しようとすればするほど、意識のどこかで、自分と輝かしい姉とを比べてしまうのだ。

 その心の迷いは、正直にオドの流れに現れる。桜の操る水は、どこか自信なさげに揺らめき、以前のような精緻さと力強さを失っていた。

 

 臓硯は、その変化にとうの昔に気づいていた。だが、彼は何も言わなかった。嵐が過ぎるのを待つ老練な船乗りのように、桜の心が、その葛藤の全てを吐き出す機が熟すのを、ただ静かに待っていたのだ。

 

 

 そして、ついにその日は訪れた。道場での訓練中、桜が操っていた水蛇が、またしてもその形を維持できず、だらしのない水塊となって床に広がった。

 

「……ごめんなさい。もう一度やります」

 

「いや、もうよい」

 

 臓硯は、静かに訓練の中断を命じた。そして、桜の隣に座ると、その小さな顔をじっと見つめた。

 

「桜。この数日、お前の水は迷っておる。それは、お前の技が未熟なのではない。お前の心が、迷っておるからじゃ。……何があった? わしに話してみよ」

 

 その声は、どこまでも穏やかで、真摯だった。桜は、もう隠し通すことはできないと悟った。それに、心の奥では、誰かにこの苦しい気持ちを聞いてほしくてたまらなかったのだ。

 

 桜は、ぽつり、ぽつりと、自分の胸の内を打ち明け始めた。

 

 学校で聞いた、姉の噂。成績優秀で、スポーツもできて、誰からも好かれていること。それに比べて、自分は……。

 

「慎二兄様が、言っていました。私は、出来損ないだから、間桐家に来たんだって……。お爺様は、私のことを特別だって言ってくれるけど、本当は、私……姉さんの代わりにもなれなかった、いらない子なんじゃ……」

 

 一度堰を切ったように、言葉と涙が溢れ出した。子供らしい、剥き出しの劣等感。その告白を、臓硯は一度も遮ることなく、静かに、最後まで聞いていた。

 

 そして、全てを吐き出し、しゃくりあげて泣く桜の涙が少し収まるのを待って、臓硯が動く。

 

 安易に「そんなことはない」と慰めることもしなかった。かといって、彼は、桜を罰しなかった。

 

 代わりに、彼は一つの問いを投げかけた。

 

「――桜よ。お前は、太陽と月を比べて、どちらが優れ、どちらが劣っておると言うのかね?」

 

「え……?」

 

 唐突な問いに、桜は泣き顔のまま、きょとんとした。

 

「太陽は、自ら燃え盛り、世界を遍く照らす。その輝きは、誰の目にも明らかじゃ。一方、月は自らは光らぬ。太陽の光を借りて、夜の闇に静かに浮かぶだけじゃ。じゃが、桜。月が劣っておるなどと、誰が言えようか」

 

 臓硯は、ゆっくりと立ち上がると、水盤の前に立った。

 

「遠坂の魔術は、太陽の道じゃ。華やかで、力強く、誰の目にもその価値は分かりやすい。宝石に莫大な魔力を蓄え、それを炎や光の矢として、派手に解き放つ。まさに、消費と顕示の魔術。太陽そのものじゃ」

 

 彼は、ふっと指先に魔力を集めた。すると、その先端に、ちりちりと音を立てて眩しい光の弾丸が生まれる。

 

「じゃがな、桜。これは、ただ蓄えたものを派手にばら撒いておるに過ぎん。力を見せびらかしているだけとも言える」

 

 道場の薄暗がりが、その光でぱっと明るくなった。

 

「対して、我ら間桐の道は、月の道。そして、全てを飲み込む、深淵の道じゃ」

 

 臓硯は、桜に向き直った。

 

「桜。お前の力で、わしのこの光を、包んでみせよ」

 

「……はい」

 

 桜は、まだ涙の跡が残る顔を上げ、水盤に向き合った。彼女が意識を集中させると、水は黒い衣のように滑らかに立ち上り、臓硯の掲げた光弾へと向かっていく。

 そして、音もなく、その光を優しく、しかし抗いがたい力で包み込んだ。眩い光は、水の衣の中に吸収され、まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消え去った。

 

「――見たか、桜」

 

 臓硯の声が、静まり返った道場に響く。

 

「太陽の輝きは、深淵の前では無力じゃ。我らの魔術は、ただ破壊するのではない。吸収し、支配し、そして、存在そのものを『無』に還す魔術。その本質的な恐ろしさと、真の強大さは、表面的な輝きしか見えぬ者には、決して理解できん」

 

 彼は、桜の隣に再び膝をついた。その目は、かつてないほど真剣だった。

 

「桜。お前の姉が、太陽の道を歩むというのなら、それはそれでよいことじゃ。じゃが、お前は違う。お前は、月のように静かに、そして深淵のように深く、万物を飲み込む道を歩む者。お前のその身に宿る虚数の才能は、そのための、神に与えられた至宝なのじゃ」

 

 その言葉は、まるで魔法の呪文のように、桜の心に染み渡っていく。

 

「誰にでも分かる輝きを求めるのは、凡人のすることよ。真の探求者は、誰もが見過ごす影の中にこそ、根源へと至る真理が眠っていることを知っておる。お前は、その影の道を歩むことを許された、選ばれし者なのじゃ。何も卑下することはない。むしろ、誇るがよい」

 

 ―――選ばれし、者。

 

 その言葉が、桜の心に突き刺さった。

 

 そうだ。私は、出来損ないなんかじゃない。姉さんとは、「違う」だけなんだ。そして、私の歩む道は、誰にも理解されないかもしれないけれど、特別で、尊くて、そして、誰よりも深い道なんだ。

 

 劣等感という名の冷たい鉛が、心の奥で溶けていく。そして、その跡に、じわりと熱い、新たな感情が芽生えてくるのを感じた。それは、一種のプライド。選民思想にも似た、歪んだ、しかし力強い自尊心だった。

 

 桜の瞳から、迷いの色が消える。代わりに宿ったのは、静かで、冷徹で、そして少しだけ危険な、強い輝きだった。

 

「……はい、お爺様」

 

 桜は、顔を上げ、はっきりと答えた。

 

 彼女は、再び水盤へと向き直る。そして、意識を集中させた。今度の彼女が操る水は、もう迷いをたたえてはいなかった。それは、夜の湖面のように静かで、どこまでも冷たく、そして、触れるもの全てを飲み込んでしまうような、深淵の色をたたえていた。

 

 その光景を、臓硯は満足げに見つめていた。

 

(それでよい、桜。姉への憧れは、いずれ『太陽の道を歩む者を、影の道から見下ろす優越感』へと変わるじゃろう)

 

 彼の思考は、どこまでも老獪だった。

 

(その歪んだプライドこそが、お前をさらなる高みへと押し上げる、何よりの燃料となるのじゃ……)

 

 少女の心に生まれたコンプレックスは、老獪な師の手によって、この日、気高い誇りという名の、新たな力の種へと見事に変えられた。

 

 間桐桜は、また一つ、ただの少女から、「間桐の魔術師」へと、その階段を上ったのだった。

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