蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第九話:ある魔術師の、忘却していた感情

 秋が深まり、冬の気配がすぐそこまで忍び寄ってきた頃だった。朝晩の空気は刃物のように鋭さを増し、日中の陽だまりさえも、どこか頼りない暖かさしか運んでこなくなった。

 

 その急激な季節の変化は、まだ幼い桜の身体に、確かな負担をかけていたらしい。

 

 道場での訓練中、桜の動きに、臓硯だけが気づく僅かな異変が見られた。水を操る指先の集中がふと途切れ、体内のオドの流れに、熱を帯びたような微細な淀みが感じられる。

 

「桜、今日はもうよい。早めに休むがよい」

 

「で、でも、まだ課題が……」

 

「わしがよいと言うておるのじゃ。師の命令は絶対じゃぞ」

 

 有無を言わさぬ臓硯の言葉に、桜は少し不満そうな顔をしながらも、素直に従った。彼女自身、身体が妙にだるく、思考に霞がかかったような感覚があったのは事実だった。

 

 自分の不調が、師に見抜かれたことへの悔しさ。そして、早く一人前になって、お爺様を安心させたいという焦り。そんな子供らしい感情が、彼女に無理をさせていることを、この老魔術師は見抜いていた。

 

 

 臓硯の見立て通り、その夜、桜の容態は急変した。屋敷の自室で、桜は燃えるような熱にうなされていた。布団を何枚重ねても、骨の芯まで凍えるような悪寒が止まらない。関節という関節が軋むように痛み、呼吸をするたびに喉が焼けるように熱い。視界は赤く明滅し、恐ろしい悪夢が次々と脳裏をよぎっては消えていく。

 

(……くるしい……おじい、さま……)

 

 助けを求める声は、か細い呻きとなって、喉の奥で消えた。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。不意に、部屋の障子戸がすっと開いた。桜の異変に気づいた臓硯が、ランプを手にそこに立っていた。彼は、荒い息を繰り返す桜の傍らに静かに座ると、そのしわがれた手を、汗でじっとりと濡れた桜の額に置いた。

 

「……む。これは、ただの風邪ではないな」

 

 常人離れした熱量。そして、体内で暴風のように荒れ狂うオドの乱れ。これは、魔術師がその成長過程で時折経験する、肉体と魂が新たな段階へ移行する際に起こる一種の拒絶反応、いわば「魂の熱病」だった。

 

 臓硯は冷静に診断を下すと、苦しそうに顔を歪める桜を見下ろした。彼女は、朦朧とした意識の中で、何かから逃れるように、いやいやと小さく首を振っている。

 

 その無防備で、あまりに幼い姿に、臓硯は微かに眉を寄せた。そして、ため息一つないまま、桜の身体を毛布ごと抱え上げると、自身の書斎に隣接する、普段は使わない静かな一室へと運んだ。管理し、対処するには、自分の目の届く場所が一番だった。

 

 桜は、書斎の隣室にある寝台に寝かされ、厚手の布団を掛けられた。

 

 臓硯は、まず書斎の奥深くにある、年代物の薬箱を取り出してきた。黒光りするその木箱の中には、乾燥させた様々な薬草や鉱石が、小さな桐の箱に分けられて整然と並んでいる。

 

 彼は、その中から数種類の薬草を手際よく選ぶと、石造りの乳鉢に入れ、慣れた手つきですり潰し始めた。ごり、ごり、という硬質な音が、静まり返った部屋に響く。

 

「……ベラドンナは熱を下げ、幻を鎮める。カモミールは精神を安定させ、安眠を誘う。そして、これは……マンドラゴラの根の粉末。乱れた魔力の鎮静には、これが一番じゃ」

 

 独り言のように呟きながら、彼は粉末状になった薬草を小鍋に入れ、清水でゆっくりと煎じていく。部屋に、独特の、しかし決して不快ではない薬湯の匂いが満ちていった。その一連の動作は、魔術師というよりは、むしろ古い知識を持つ医者か、錬金術師のそれだった。

 

 そして出来上がった熱い薬湯を、臓硯は匙にすくい、桜の口元へと運ぶ。

 

「桜。これを飲むのじゃ。苦いが、お前のための薬じゃ」

 

 だが、高熱に浮かされた桜は、意識なく首を横に振る。苦い薬を嫌がる、ただの子供の反応だった。

 

「……やれやれ。手のかかることじゃ」

 

 臓硯は、ため息をつくと、桜の上体を優しく抱き起し、再び匙を口元へと運んだ。そして、根気強く、何度も何度も、薬を飲むようにと語りかける。

 

 その時だった。

 

 ふと、臓硯の脳裏に、遠い昔の光景が、陽炎のように揺らめいた。

 

 ――薄暗い部屋。病に伏せる、まだ幼い自分の息子。そして、同じように匙を手に、根気強く薬を飲ませようとしている、若き日の妻の姿。

 

『あなた、この子ったら、嫌がって少しも飲んでくれないのですよ』

 

『ははは、良薬は口に苦し、というからな。もう少し大きくなれば、分かるだろう』

 

 そんな、何でもない、ありふれた家族の会話。

 

「――くだらぬ。幻か」

 

 臓硯は、かぶりを振って、即座にその記憶の残滓を打ち消した。五百年という永い時の中で、とうに捨て去ったはずの、感傷。ノイズだ。思考を鈍らせる、ただのノイズに過ぎない。

彼は、再びただの冷徹な魔術師の顔に戻ると、半ば強引に桜の口を開かせ、薬湯を流し込んだ。

 

 

 その後も、臓硯の看病はつきっきりで続いた。熱で汗びっしょりになった桜の寝間着を、手際よく新しいものに着替えさせ、濡れた手ぬぐいで、汗ばんだ身体を丁寧に拭いてやる。

その、熱を持った子供の柔肌に触れた時、またしても、別の記憶が彼の魂の表面を掠めた。

 

――それは、もっと古い記憶。まだ彼がマキリ・ゾォルケンと名乗り、理想に燃えていた頃。原因不明の病で伏した家族の誰かを、ただ無力に、必死で看病した日の記憶。その手のひらから、命がすり抜けていく、あの絶望的な感触。

 

 臓硯の貌が、一瞬だけ、苦痛に歪んだ。

 

「……感傷など、とうに捨てたはず。わしは、この世全ての悪を根絶するために、人の情などという不確定なものを切り捨てたのじゃ……」

 

 彼は、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

 

 

 夜が更け、薬が効いてきたのか、桜の呼吸はようやく穏やかな寝息へと変わっていた。臓硯は、部屋の隅の椅子に腰かけたまま、その無防備な寝顔を、ただ黙って見つめていた。

 

 月の光が、窓から差し込み、桜の紫色の髪を淡く照らしている。苦痛から解放されたその寝顔は、あどけなく、何の穢れも知らない子供のものだった。

 

 朦朧とした意識の中で、桜は自分を看病してくれる存在を感じていた。

 

 いつもは厳しい修行を課す、師の姿。だが、夢うつつの中で感じるその手つきは、ただひたすらに優しかった。それは、怖い魔術師の姿ではなく、自分のことを心から心配してくれる、優しい「おじいちゃん」の姿そのものだった。

 

 臓硯は、静かな寝息を立てる桜を見つめながら、己に言い聞かせるように、心の内で呟いた。

 

(……早く癒えよ、桜。お前が健やかでなければ、わしの計画も、マキリの悲願も、全てが進まぬからの)

 

 あくまで合理的な、利己的な理由。彼はそう結論づけた。

 

 だが、その言葉とは裏腹に、桜の寝顔を見つめる彼の瞳の奥には、彼自身もまだ名付けられない、あるいは認めたくない、温かく、そして煩わしい光が確かに宿り始めていた。

 

 ―――それは、かつて彼が「家族」と呼んだものたちに向けていた光と、よく似ていた。

 

 

 この数日間の出来事は、二人の絆を、もはや単なる師弟関係ではいられないほどに、深く、そして複雑に変質させていた。

 

 そして、臓硯の五百年間凍てついていた魂に、忘れ去られていたはずの「感情」という名の厄介なものが、確かに根を下ろし始めていることを、この老魔術師は、まだ頑なに認めようとはしていなかった。

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