小牧・長久手の戦いの後、彦九郎が清水屋に突きつけた「欧州の大型馬(重種馬)やオスマントルコあたりの馬も持って来い」という無茶な要求は、清水屋喜兵衛にとって、これまでの商売人生で経験したことのない、途方もない難題であった。南蛮との交易はすでに経験があったとはいえ、それは主に生糸や鉄砲、珍しい品々を扱うものであり、生きた大型の馬を、しかも特定の品種を求めて遠路はるばる運んでくるなど、前代未聞の事業であった。しかし、彦九郎はすでに徳川水軍の将である向井将監に命じ、竜骨を備えた南蛮船風の大型船の建造技術を研究させていた。また、その構造を詳細に調べさせるため、服部半蔵には密かに南蛮船の調査を依頼しており、遠洋航海における馬の輸送についても、その構想を練っていた。この彦九郎の先見の明が、清水屋の途方もない挑戦を、わずかながらも現実へと引き寄せていた。
「まことに、馬飼殿の御熱意には…この喜兵衛も、また途方もない道を行くことになりそうですな」
喜兵衛は、彦九郎の純粋すぎるほどの熱意と、その裏にある常識外れの要求に、苦笑いを浮かべるしかなかった。彦九郎は単に「大型馬」と言うだけでなく、現代の知識に基づいた具体的な馬のタイプ、例えば「より強靭な骨格を持つもの」「持久力に優れた品種」「特定の毛色や気性」など、細部にわたる要求を伝えてきた。それは、まるで見たこともない幻の獣を求めるかのような、清水屋には理解しがたい注文であった。
喜兵衛は、彦九郎の無茶な要求に応えるべく、まず日本に滞在する宣教師たちを訪ね、異国の馬に関する情報を集め始めた。彼らは、欧州やオスマントルコの馬の特性、そして遠洋輸送の困難さについて、貴重な知見をもたらした。その上で、ポルトガルやスペインの商人たちとの交渉に臨んだ。しかし、言葉の壁、文化の違い、そして何よりも「生きた大型の馬を、遠い日ノ本まで運ぶ」という前例のない事業は、容易には進まなかった。当時の航海は極めて危険であり、嵐や海賊の襲撃は日常茶飯事、長期間の船旅で馬が病にかかったり、衰弱死したりするリスクも高かった。
この困難な事業を成し遂げるために喜兵衛が指名したのは、二十代始めの若者、駒辰であった。相馬眼に関しては清水屋一で、商人としても一人前になりつつある、若手の有望株である。この男は一時期はおとくの婿候補でもあったが、徳川家からの提案で急におとくが彦九郎と結婚することになり、心も清水屋内での立ち位置も宙ぶらりんになっていた。駒辰は、この命じられた仕事に最初は難色を示した。異国の地へ赴き、前例のない馬の調達を行うという途方もない任務に、自身の不遇な境遇も相まって、内心では反発を覚えていたのだ。しかし、喜兵衛に「このままくさっていても仕方がないだろう」と諭され、渋々海を越えることに同意した。
駒辰はまずインドのゴアを拠点とした。そこで数年をかけて言葉や現地の習慣を学び、馬商人や船乗りたちとの人脈を築くことに専念した。また、部下に指示して東南アジアに幾つか拠点も作らせた。異国の地での生活は困難を極めたが、持ち前の商才と度胸で事業を推し進めていった。そして、いよいよオスマントルコの馬を手に入れるため、さらに西へと乗り込んでいった。
当時のオスマントルコは強大な帝国であり、その馬は軍事機密に匹敵するほど重要視されていた。まともな馬は正規のルートで輸出されることはまずなく、駒辰は帝国に反抗的な部族との繋がりや、多額の賄賂を使い、危険を冒して密かに馬を手に入れるしかなかった。その過程で、駒辰はとある部族の娘を娶ることになり、帝国当局からお尋ね者として追いかけられるという、まさに命懸けの冒険も経験したし、全財産を失いかけるような事態にも直面した。
「あ”あ”あ”あああああ!なんでこんなことにーーぃぃ!」
しかし、駒辰は諦めなかった。この前代未聞の事業が成功すれば、清水屋が日ノ本における「異国の馬の輸入」の第一人者として比類なき地位を確立できるという新たな商機、そして何よりも、自分からおとくを奪った彦九郎に対する複雑な敵愾心と、この困難な任務を成し遂げて見せるという反骨心が、彼を突き動かしていたからだ。
海を渡って10年程でオスマントルコ領内の紅海沿いにある小さな港とゴアを馬を乗せた船で定期的に行き来し、ゴアに作った牧場で馬を休ませ、そこからさらに東南アジアに点在する拠点で馬を休ませつつ日本に運ぶというルートを開拓した。正直、馬を運んでも儲けはないに等しく、そもそもこの頃のインド洋はポルトガルとオスマントルコの制海権を巡る戦いで荒れており、ゴアにすらたどり着けずに船が沈んだことさえあった。たまに正気に返り、なんで俺はこんなことしてるんだと自問したりもしたが、もう意地でしかなかった。ちなみに、行きは日本から送られてくる工芸品や日本刀、彦九郎の発明品などを満載し、帰りは馬(一回の航海で通常は2、3頭までしか載せない)以外にも交易品を乗せてくるので、儲けは悪くなかった。途中襲い掛かってくるアラブやポルトガル、スペインの海賊も、戦乱の日本から連れてきた侍や倭寇の敵ではなかった。
ちなみに、駒辰が調達した馬は、気性難の馬が多かった。一つには、まともな馬は高値でしか売ってもらえなかったため、比較的安価で手に入る気性の荒い馬を選ばざるを得なかったという事情があった。もう一つは、気性の荒い馬は生命力が横溢であり、長い航海にも耐えられるだろうという、駒辰自身の経験に基づいた判断もあったからである。なお、この気性の荒い馬たちを見た当時の日本の武士たちは「なんと元気な馬じゃ!これはいい仔が生まれるのう!」と、その荒々しさをむしろ好意的に捉え、好評であったという。
10年目以降は、オスマントルコに隣接する東欧に目を向けた。これらの地域には、西欧に存在する大型種によって品種改良された馬が存在したため、彦九郎の指示した品種ではないが条件自体は合致する馬がそれなりにいたため「まあ、これでよかろう」と思い、日本に送り込んだ。
そうして、海を渡ってからおよそ十五年もの歳月が流れた。この頃には駒辰の子供も物心がつくようになり、大きな旅をしてもいいだろうと思い日ノ本に一度帰ることにした。もちろん嫁も一緒である。
この頃にはオスマントルコからの密輸ルートが確立され、彦九郎が求める「欧州の大型馬(重種馬)」や「オスマントルコの馬」たちが、年に数頭づつだが、遠江の地に到着し始めていた。
長きにわたる異国での冒険を終え、駒辰は妻と子を伴い、ついに日ノ本の土を踏んだ。彼はまず清水屋の喜兵衛のもとへ赴き、無事の帰還を報告した。喜兵衛は、痩せこけた駒辰の姿に安堵し、その労をねぎらった。その後、駒辰は徳川家康からも直接感謝の言葉を受け、その功績を称えられた。そして、駒辰は初めて、自身の運命を大きく変えた張本人である馬飼彦九郎と対面した。
日本に帰ってきた駒辰を出迎えた彦九郎は、家康の前でさえ見せないような、真剣で感極まった顔つきで駒辰の手を取り、「まこと、まことに大儀でありました!これは駒辰殿でしかなしえない偉業でありましょう。後世の人間は、駒辰殿のことを日本馬の品種改良の父と称えるでしょう」と、その偉業を心から称賛した。それを聞いた駒辰は苦笑いを浮かべながら、「貴重な体験をさせてもらいました」と返した。
江戸時代、駒辰の一連の事業は挿絵入りの読み物として売りに出され、一世を風靡した。タイトルは「天竺駒辰の冒険」。ちなみに、東欧には東から来た馬商人の話が各地に伝わっており、実際に取引したという逸話のある家には日本刀や漆細工の茶器などが伝わっていることもあった。この巨大すぎる業績に、学者たちは天竺駒辰とはオスマントルコに渡った清水屋の従業員の総体を擬人化したものであり、実在していなかった、もしくはモデルになった複数人の人間がいたという説を唱え、長らくそれが信じられてきた。
しかし、令和に入ってすぐに彦九郎が書いた手紙が新たに発見され、「天竺の駒辰殿、日ノ本に並ぶものなき馬の目利きなり」という一文があり、従来の定説に波紋を投げかけ話題を呼んだ。この手紙によって駒辰の個人としての偉業が改めて認識されたことで、その功績を永く後世に伝えるべく、「天竺駒辰記念競走」と名付けられた、外国産馬限定の条件レースが創設され、異国の血統を巡る彼の冒険は、永く語り継がれることとなる。
天竺駒辰の十五年にわたる遠き道のりは、異国の血を日ノ本にもたらすだけでなく、彦九郎の夢を現実へと繋ぐ、まさに命懸けの架け橋となったのであった。
駒辰の確立したルートは江戸時代の半ばまで生き続け、長崎の出島以外では、貴重な海外の情報を仕入れることができるルートとして機能した。
駒辰の冒険は、戦国期の海洋冒険小説というジャンルを昭和に生み出しました。