天正十八年(西暦一五九〇年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まった。天下統一の総仕上げとして、秀吉は二十万を超える大軍を率いて小田原城を包囲した。難攻不落を誇る小田原城を前に、秀吉は長期戦を覚悟し、小田原城を見下ろす笠懸山(後の石垣山)に、わずか八十日で総石垣の本格的な城を築かせた。これが後に「一夜城」と語り継がれる石垣山城である。
この石垣山城の陣営は、単なる軍事拠点ではなかった。秀吉は、籠城する北条方の士気を徹底的に削ぐため、そして自軍の兵たちの慰安と威信を示すため、この陣中にまるで一つの町を築き上げた。茶屋や酒場が軒を連ね、商人たちが往来し、能や狂言が催されるなど、長期の包囲戦とは思えぬほどの賑わいを見せた。
その賑わいの一環として、秀吉は各軍の精鋭を集め、臨時の馬場を設けて「馬比べ」を催させた。これは、日ノ本中から集まった大名たちの軍馬の質と、その騎乗技術を天下に示す絶好の機会であった。加藤清正の屈強な馬、福島正則の荒々しい騎乗、そして徳川家康が率いる軍勢からは、彦九郎が品種改良と調教を重ねた風神、雷神、南蛮馬の子孫たちが、その堂々たる体躯と洗練された動きで注目を集めた。特に、風神、雷神の血統を受け継ぐ馬たちは、その速力と持久力で他を圧倒し、徳川家の馬術の優位性を天下に知らしめた。彦九郎は、この馬比べの運営にも深く関わり、各家の馬の能力や調教法を熱心に観察していた。彦九郎の脳裏には、この大規模な馬比べが、自身の現代の知識と寸分違わぬ形で「娯楽」として成立し、この時代でも大きな可能性を秘めていることを改めて確信し、その思いをさらに深めた。
一方、小田原城に籠城する北条方では、日を追うごとに絶望感が募っていた。しかし、長きにわたり関東を支配してきた名門としての意地と誇りは、決して失われていなかった。秀吉の華美な陣中と、そこで行われる馬比べの報は、城内にも届き、北条の将兵たちの胸には屈辱と憤りが渦巻いていた。
その中で、一人の若い武士が立ち上がった。彼は北条氏の譜代の家臣の出ではあったが、家柄はさほどでもなく、ただひたすらに武士としての誇りを胸に秘めた、若き勇者であった。名を小笠原源太夫(おがさわらげんだゆう)。
源太夫が馬比べへの単身での挑戦を申し出た時、北条家の首脳陣は驚きと困惑に包まれた。この絶望的な状況で、一介の若者が無謀とも思える行動に出ることに、最初は誰もが反対した。しかし、源太夫の目は、燃えるような決意に満ちていた。彼は、このまま朽ち果てるよりも、武士として、北条の意地を示すために、一矢報いたいと強く訴えた。その熱意と、彼の持つ馬術の腕前を知る一部の者が後押ししたこともあり、最終的には氏直が、その無謀とも思える挑戦を黙認する形となった。
城内の兵たちにも、源太夫の決意は瞬時に広まった。多くの者が、彼の行動を「無駄死に」と嘆き、諦めの表情を浮かべた。しかし、その一方で、一部の若者たちや、北条の誇りを胸に秘めた古参の兵たちは、彼の勇気に静かな感動を覚えていた。彼らは、源太夫の挑戦が、たとえ勝敗に関わらず、籠城する自分たちの心に一筋の光を灯すことを願った。
源太夫の申し出から数日後、秀吉の陣中で馬比べが最高潮に達しようとしていた時、小田原城の城門が静かに開かれた。
一騎の馬が単身、豊臣方の陣へと向かって駆け出した。騎乗するのは、下地が浅黄色で、背中に白く北条家の家紋である三つ鱗が染め抜かれた装束を身にまとい、馬に跨った若い武士であった。彼の鐙(あぶみ)は、この時代の一般的な物に比べて明らかに短かったが、彼はその鐙に足をかけず、馬の背に深く腰掛ける姿勢で跨っていた。彦九郎はそれを見て、違和感を覚えた。
場内はどよめきに包まれた。豊臣方の将兵たちは、まさかの出来事に息を呑み、成り行きを見守った。若い武士はそのまま馬場へと乗り入れ、堂々とした騎乗を披露した。馬を手足のように操るその様は、尋常ならざる技量を感じさせた。そして、彼は秀吉に向かって高らかに口上を述べた。
「関白殿下、並びに豊臣方の皆々様方に申し上げる!我が名は小笠原源太夫。戦の行方はいざ知らず、馬比べならば豊臣方に負けるはずもなしと自負する北条一の乗り手なり!北条武者の誇りにかけて、正々堂々、馬比べの勝負を所望致す!返答やいかに?」
それは、勝ち負けを競うものではなく、ただひたすらに、北条氏の、そして武士としての意地と誇りを示すための、命懸けの挑戦であった。その勇気ある行動に、多くの武士たちは思わず喝采をあげた。
彼の馬は、日本の在来馬の様だったが、体格も大きく、毛艶や歩様も平均的な馬とは一線を画していた。若い武士の熟練した騎乗術と相まって、その雄姿は豊臣方の諸将に深い印象を与えた。
この時、秀吉にはこの勝負を受けないなどという選択肢は存在しなかった。若い武士が命懸けで、満天下の元で挑戦を表明してきたのだ。天下人としての器量が問われるというものである。しかし、彼は、この若者の行動が、北条方の士気を再び奮い立たせる可能性を瞬時に計算した。「こ奴が万が一にも勝ってしまったら、北条方の士気が上がってしまう」と。秀吉は、その場で家康に視線を送り、必勝を期すべく、徳川方の精鋭馬の出場を打診した。家康は、秀吉の意図を察し頷いた。そこへ更なる闖入者がやってきた。
「待て待て待て!そういうことなら俺も混ぜてもらおうか!」
この時代の人間からすると大柄な男が人垣をかき分け現れた。ド派手な衣装を身に着け、皆朱の槍を軽々と担いだ男。前田慶次である。
「遊びに命懸けで挑むとは見上げた奴!ぜひとも俺もこの勝負加えてもらう!」
慶次はそう声をあげると、一つ指笛を吹く。すると、とてつもない巨馬が地鳴りを立てて走り寄ってくる。人垣めがけて走ってくるため、皆慌てて道を開け、観客席と馬場を仕切る竹垣をひらりと飛び越え、慶次の前に着地した。慶次は巨馬に跨り、秀吉に向かって声をかける。
「構わんでしょう?関白殿下!」 「好きにせよ」
爽やかな笑顔を振りまく慶次に向かって、秀吉は苦笑いを浮かべた。
「勝負は障害の38町(4100メートル)でよいな?」 「承知」
秀吉の言葉に頷く源太夫。その後、この馬比べに参加しようと自薦他薦を問わず参加希望者が殺到するが、彦九郎がすぐさまそれらをさばき切り、出走者を12名までに絞った。
「彦九郎、解説せよ」
家康と秀吉の間に立った彦九郎に秀吉が命じる。
「まずは本命。我が家中の小粥国貞(おがいくにさだ)と夕立でございます。国貞は、鳥居小次郎から直接指導を受けた若手でございます。特に障害が得意で、馬と息を合わせる術は小次郎を凌ぐやもしれません。馬の方は夕立という名で、南蛮の血を引く悍馬でございます。すさまじく気性が荒く国貞と私の言うことしか聞きませんが、能力は折り紙付きです」
「ほう。期待の若手ということか」
「はい。次に蒲生家の~」
各家の騎手と馬を淀みなく解説していく彦九郎をみて、秀吉は内心あきれる。「こ奴どこまで把握しておるのだ」と。
「北条方の小笠原某は、騎乗を見る限り中々の腕前と見ました。馬との信頼関係も築けているようですし、馬自体の能力も申し分ない」
「あやういか?」
「いえ、問題ありません。戦場ならともかく、馬比べでは猿乗りができなければ話になりませんからな。見たところ、猿乗りは会得しておらぬようです。故に、長距離では体力を消耗するでしょう」
聚楽第での馬比べで披露された猿乗りの技術は瞬時に豊臣方の家中に広まっていた。とは言え、徳川家のように鍛錬方法が確立されているわけでは無いので、少数の玉と多数の石といった具合だが。
「ふむ。では慶次と松風はどうだ?」
「あの組み合わせはいけません。人中の慶次殿と馬中の松風です」
「ははははは!流石の彦九郎もお手上げか?」
「いえ、勝つのは国貞と夕立でしょう。しかし、一馬身も離せないでしょうな。松風はぜひ仔を残してもらいたい」
彦九郎の解説が終わり、いよいよ勝負の時が来た。号砲と共に、十二頭の馬が一斉に砂塵を巻き上げて飛び出した。その瞬間、小笠原源太夫は、馬の背に身を伏せ、鐙に足をかけ「猿乗り」の姿勢に切り替えた。観客席からは驚きのざわめきが起こり、他の騎手たちも一瞬、その姿に目を奪われた。彦九郎は、源太夫が初めから鐙に足をかけず、奇妙な姿勢で跨っていた理由が、この猿乗りを試みるためであったことを悟り、驚きに目を見開いた。背中に三つ鱗を背負った源太夫は、その誇りを胸に先頭集団に食らいつく。彼の馬は、日本の在来馬としては類稀なる速力を見せ、観客からは大きな歓声が上がった。前田慶次と松風は、その巨体と従来の騎乗姿勢である天神乗りにもかかわらず、驚くべき加速で中団から一気に位置を上げ、その豪快な走りは見る者を圧倒した。
レースが中盤に差し掛かり、馬群が縦長に伸び始める。源太夫の馬は懸命に食らいつくが、拙い猿乗りでは完璧な体勢を維持できず、徐々にスタミナを消耗していく。慶次と松風は、その圧倒的なパワーで障害を乗り越え、先頭を窺う位置まで進出するが,、細かなコース取りや着地の滑らかさでは、猿乗りの騎手には一歩譲った。
最後の直線、夕立は国貞の猿乗りによって蓄えられた爆発的な末脚を炸裂させた。まるで風のように加速し、先行する馬たちを次々と抜き去っていく。松風も慶次の巧みな手綱捌きに応え、必死に追いすがるが、その差は徐々に開いていく。源太夫の馬は既に限界に達し、それでもなお、北条の意地を示すかのように、必死にゴールを目指していた。
そして、夕立が先頭でゴール板を駆け抜けた。二着には松風が、そして三着には、満身創痍ながらも意地で走り切った源太夫の馬が飛び込んだ。
場内は割れんばかりの歓声に包まれた。徳川方の勝利に沸き立つ者、慶次の豪快な走りに興奮する者、そして、小笠原源太夫の命懸けの挑戦に心を打たれ、静かに涙する者もいた。
馬比べを終えた前田慶次は、松風の首筋を優しく撫で、その健闘を労った。「いやはや、見事な走りであったな、松風よ!」と高笑いし、勝利した国貞と夕立に近づき、「徳川の若造、なかなかやるではないか!」と肩を叩いた。その表情には、勝敗を超えた満足感が満ち溢れており、源太夫に対しても「北条武者の意地確かに見届けた!」と声をかけ、その勇気を称えた。
小田原城内では、源太夫の奮闘が豊臣方の陣地に忍び込んだ間者によって知らされた。天下にその名を轟かせる徳川の精鋭やあの前田慶次を向こうに回し、三着に入ったのだ。北条武士の意地を示したと言えるだろう。城内は沸き返った。
小田原城から聞こえる歓声に、秀吉は顔をしかめた。たしかに徳川の夕立と前田慶次の松風は源太夫に勝利したが、源太夫はそれ以外の豊臣方の家中を相手に優位を示し、しかも先頭集団に食らいつき、大差をつけられることなく三着に入ったのだ。この結果は、彦九郎の予測通りではあったが、秀吉の胸中には複雑な思いが交錯した。徳川の馬と騎乗技術の優位性は天下人としての秀吉の威信をも高めるものであったが、同時に家康の底知れぬ力を改めて見せつけられた形でもあった。
「まこと、見事な馬比べであった。源太夫の武士の意地、見事なり」
秀吉はそう言って、源太夫の勇気を称え、固辞する彼に褒美を取らせ、五体満足で小田原城へと返した。
馬比べの後、源太夫の奮闘に奮起した北条方は、豊臣方との徹底抗戦を決意した。籠城戦は続き、彼らは武士の意地を見せ、最後までしぶとく抵抗したが、大勢を覆すことはできなかった。数ヶ月にわたる包囲の末、小田原城はついに開城し、北条氏は滅亡した。こうして秀吉は天下統一を成し遂げ、徳川家康には関東への移封を命じた。
家康の関東移封は、徳川家にとって新たな挑戦の始まりであった。当時の関東平野は、広大な湿地帯が広がり、開発の余地を多く残していた。しかし、その広大な土地は、将来的に馬の飼育や調教に最適な地となる可能性を秘めており、彦九郎の野望は、この新天地でさらに大きく花開くこととなる。
夕立は鹿毛で、への字のような流星があります。人間をいじめるのが好きなドS馬です。