小田原征伐が終わり、豊臣秀吉による天下統一が成し遂げられた天正十八年(西暦一五九〇年)。徳川家康は、秀吉の命により、長年慣れ親しんだ遠江・浜松から、未だ開発途上の広大な関東へと移封された。家康一行が江戸の地に足を踏み入れた時、そこに広がっていたのは、わずかな集落と、見渡す限りの湿地帯、そして葦の生い茂る荒涼とした風景であった。後の百万都市、大江戸の面影は、そこには微塵もなかった。
しかし、彦九郎の目には、この「何もない」土地こそが、自身の現代知識を存分に活かし、理想の都市と、そして馬の楽園をゼロから築き上げる絶好の機会と映った。彼は家康のブレーンとして、この新天地での街づくりに深く関わることを決意する。
当時の豊臣政権下では、後の将軍家によるような大規模な都市開発を、一度に自由に進めることは難しいと彦九郎は理解していた。そこで彼は、まず江戸を徳川の拠点として機能させるための「都市の中枢」を堅固に整備し、将来的な拡張性を最大限に考慮した都市計画を家康に進言した。
「京の都を上回る日ノ本一の都市を作りましょう!」
「ふふふふ、大きく出たな。まあ、お主のことだ。どうせ馬のための都市だろう?」
「は!恐縮です!」
家康は目を細め、脇息にもたれかかりながら愉快そうに笑った。この表裏の無い馬馬鹿は、馬を絡ませればいい仕事をすると家康は心得ていた。他の家臣も、もう慣れたもので「こいつホントどうかしてるな…」と言ったあきれ顔で主従のやり取りに耳を傾けていた。
彦九郎が提唱したのは、多角的な視点に立った都市基盤の構築であった。
まず、物流の動脈となる大路の整備である。単に道を拓くだけなく、将来的な交通量の増加を見越し、幅員を広く取り、直線的な配置を基本とした。これにより、人や物資の往来を効率化し、都市機能の活性化を図る。また、火災が頻発する当時の木造建築の街並みに鑑み、延焼を防ぐための空き地や公園を戦略的に配置する計画を立てた。これらは単なる空白地ではなく、将来的に住民の憩いの場となることも視野に入れていた。これらの大規模な工事は、後々、東ヨーロッパなどから運ばれてくる大型種の馬や、牛などの畜獣の力も活用して効率的に進められていくこととなる。
次に、水運の重要性を深く認識していた彦九郎は、既存の河川を活かし、あるいは新たな水路を開削して、水運のための河川と船着き場の整備を提案した。これは物資の輸送だけでなく、湿地帯からの排水にも寄与する一石二鳥の策であった。そして、人々の健康と衛生環境の改善のため、当時の技術で可能な範囲での上下水道の基礎作りにも着手する。飲料水確保のための上水道(後の神田上水などに繋がる)整備に加え、現代のような閉鎖的な下水道は不可能と知りつつも、汚水の効率的な排出を促す開渠(かいきょ)の整備や、廃棄物処理の効率化を図ることで、疫病の蔓延を防ぎ、安全な飲料水の確保は、都市生活に不可欠だと説いた。
さらに、彦九郎の未来を見据えた提言として、馬車鉄道の導入を見据えた基盤整備があった。これはまだ遠い未来の構想であったが、主要な大路の設計段階から、まずは木製の軌条(レール)敷設を視野に入れ、その耐久性を高めるための地盤強化や路面構造の検討を盛り込んだ。試験運用としては、江戸城と主要な市場を結ぶ短い区間での敷設を提案した。さらに、馬車の車輪側にも鉄の板で補強を施すことで、摩擦を減らし、より円滑な運行を可能にする準備を進めた。また、鉄製レールの製造技術は、彦九郎の指導の下、何代にもわたる研究と改良が重ねられ、幕末には史実を上回る日本の製鉄技術の発展を促すこととなる。この技術確立により、馬車鉄道における鉄製レールの本格的な採用は、幕末期から明治初期にかけて徐々に進められていくこととなる。
夜間の安全確保については、彦九郎は慎重かつ現実的な策を講じた。火災のリスクを最小限に抑えるため、主要な木戸番の詰め所側にのみ、風防を備えた安全性の高い街路灯を配置することを進言。これらの街路灯は、木戸番の人間が点灯・消灯、菜種油の燃料補充、そして異常の有無を監視・管理する体制を整えることで、夜間の防犯と通行の利便性を高めつつ、火災の危険性を抑制した。
江戸城を中心とした都市の中枢部においては、武家屋敷の区画を厳密に定め、後の参勤交代を見越して、各大名が滞在する際に必要な広大な屋敷地を確保し、効率的な配置計画を立てた。その周辺には、居住区、商業区、職人区(工業区)、そして役所や寺社などの公共施設区といった、用途に応じた区割りを効率的に配置することで、城下町としての機能性を高めると同時に、各区画の連携をスムーズにした。しかし、その計画的な区割り、特に後の発展を見越した広大な余白は、当時の住民からすれば、ずいぶんと妙な、あるいは無駄の多い区画に感じられたことであろう。一方で、天海僧正をはじめとする当時の高僧たちは、風水や陰陽道に基づき、江戸城の鬼門・裏鬼門の鎮護や、都市全体の結界を意識した寺社の配置を進言しており、彦九郎の合理的な計画と並行して、精神的な側面からも江戸の街づくりが進められていた。また、徳川家が所有する広大な牧場と、将来的な競馬場は、江戸城からほど近い、広大な湿地帯を干拓した先に整備されることになった。彦九郎は、馬の育成に最適な環境を追求しつつ、競馬場が都市の新たな娯楽と経済の中心となるよう、その配置と設計に心血を注いだ。
この競馬場は、単なる競走の場に留まらず、人々が集い楽しむ「アミューズメントパーク」としての機能も兼ね備えるよう計画された。牧場と競馬場の基礎は1590年代半ばには完成し、アミューズメントパークとしての競馬場がその全容を現すのは、三代将軍家光の頃となる見込みであった。場内には、様々な飲食物を提供する屋台が軒を連ね、馬具や馬の絵馬、関連する土産物を扱う商店が並んだ。また、馬の安全と繁栄を願う人々のために、馬頭観音を本尊とする寺院も建立されることになった。さらに、観客が快適に観戦できるよう、見やすい段差を設けた観客席や、日よけ・雨よけの施設も検討された。馬と触れ合える簡易な引き馬体験や、馬の品種や歴史に関する絵図による展示など、子供から大人までが馬と競馬の魅力を多角的に楽しめるような工夫が凝らされた。
彦九郎の現代知識は、単なる軍馬の育成に留まらず、この新しい徳川の拠点となる江戸の街の基盤作りに、多大な影響を与えていくこととなる。
徳川家の重臣たちは、彦九郎は内政家であり、馬さえ与えとけば出世争いにも加わらない無害な人間と認識してます。
あと、彼は俸禄を現金で受け取っており、この時点で9000石の旗本として扱われています。年収は現代の価値に換算すると大体6億7500万円~9億円ぐらいになります。で、領地はないので領地経営なしで、家臣もそれほど必要ありません。残った金は大体新技術の開発や馬の為に使ってます。