慶長八年(西暦一六〇三年)、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。関ヶ原の戦いを経て天下泰平の世が訪れると、家康がかつて関東へ移封された直後から進められていた江戸の開発は、さらに加速していく。
徳川の拠点となった江戸には、戦乱で故郷を追われた東北の百姓や、土地を持たぬ周辺の村の次男三男など、職と新たな生活を求める人々が爆発的に流入してきた。彼らは、江戸城の普請、道路や水路の整備、武家屋敷の建設といった様々な現場で雇われ仕事に従事し、まだ荒涼としたこの地に活気の息吹を吹き込んでいく。しかし、急激な人口増加は、未整備なインフラと相まって、治安や衛生面での新たな課題も生み出していた。こうした状況は、御馬奉行として江戸の街づくりと馬の育成に心血を注ぐ彦九郎にとって、この活気とそれに伴う規模の拡大は希望であると同時に、馬の需要増大とそれに伴う飼料確保という大きな課題を突きつけるものであった。
当時の飼料は主に干し草や穀物であったが、これらを安定的に、かつ大量に確保することは容易ではなかった。品質の均一性や輸送コストもまた、彦九郎の頭を悩ませる問題であった。現代の知識を持つ彦九郎は、馬の健康と最高のパフォーマンス維持には、良質な飼料が不可欠であることを誰よりも痛感していた。それは、単なる技術的な課題ではなく、未来の日本の礎となる馬たちへの、そして彼らを支える人々への、彦九郎自身の熱い使命感でもあった。この問題の解決こそが、今、最も急がれることだと、彼は己に言い聞かせるように捉えていた。
彦九郎は、江戸に流入してきた人々の中に、農業経験のある者や、新たな仕事を探している者が多数いることに着目した。彼は、彼らを単なる日雇いの労働力としてではなく、「飼料を生産する専門集団」として組織化する壮大な構想を練る。この集団は、いずれ彦九郎の指導の下、先進的な農業技術の実験を繰り返し、人間も食べることのできる救荒食の生産や、生産のコストパフォーマンス・タイムパフォーマンスの向上にも取り組み、その成果を各地の農家に指導してまわる集団へと発展させるつもりであった。
具体的には、牧場周辺や江戸近郊の未開拓地を飼料用の畑として整備し、そこで良質な牧草や飼料用作物を栽培させる計画を立てた。彦九郎は、自ら栽培方法の指導を行い、収穫・加工技術の改善(乾燥や保存方法など)、そして品質管理の徹底を促した。
さらに、彦九郎は競馬場に集う人々への食の提供も重要な要素と捉えていた。彼は、料理の腕に覚えのある者、特に戦乱で夫を失い、新たな生計を立てたいと願う寡婦たちを積極的に募り、競馬場で提供する料理の準備を進めさせた。これは、女性たちの生活の安定と自立を促すという、彦九郎なりの社会貢献でもあった。この屋台は、救荒食(サツマイモや燕麦、蕎麦など)の調理法の開発・普及の役割も担うこととなる。
ある日、競馬場の屋台で供される料理を試食していた彦九郎は、味の単調さに物足りなさを感じていた。現代の豊かな食卓を思い出し、ふと脳裏に浮かんだのが、あの香ばしい「醤油」の味だった。当時の調味料は味噌や塩が主であり、その味付けには限界がある。人々の食生活を豊かにし、ひいては健康を支えるためにも、新たな調味料が必要だと感じた彦九郎は、大豆と小麦、そして麹菌を用いた醸造法を、自らの記憶を頼りに再現することを決意する。この新しい調味料は、江戸の食文化に革新をもたらし、競馬場の名物料理の味付けにも活用されることとなる。
食い詰めて江戸に流れ着いた百姓や次男三男たちは、当初は慣れない牧草の栽培や飼料の加工に戸惑いつつも、日々の糧が安定し、雨風をしのぐ住処が与えられることに安堵した。彦九郎は、彼らが単に雇われるだけでなく、自らの手で育てた飼料が、徳川の精鋭たる馬たちを支え、ひいては天下泰平の世を築く一助となっているのだと、その意義を熱心に説いた。やがて、彼らの間には連帯感が生まれ、互いに助け合い、技術を磨く中で、確かな誇りが芽生えていった。彼らは後に「馬養衆(ばようしゅう)」と呼ばれ、彼らが住んでいた場所は「馬養町(ばようまち)」と呼ばれるようになる。こうして、彼らは江戸の街の発展を陰で支えるかけがえのない存在となっていった。
飼料の安定供給は、御馬奉行所の重要な役割の一つとなった。風魔衆も、飼料の品質管理や輸送ルートの監視など、新たな任務を担い、その隠密性を活かして奉行所の活動を支えた。彦九郎は、飼料生産の仕組みが確立されることで、馬の健康状態がさらに向上し、競馬の質も高まることを確信していた。この飼料生産の仕組みは、単に馬を養うだけに留まらない。彦九郎の脳裏には、この地で培われる農業技術と効率的な流通網が、やがて日本の隅々まで広がり、来るべき飢饉の備えとなり、人々の暮らしを豊かにする未来が鮮やかに描かれていた。それは、平和な世を支える新たな基盤となるはずだった。
また、彦九郎は、馬養町から牧場までの間に馬車鉄道を敷設する構想も抱いていた。これにより、飼料や物資の輸送効率を飛躍的に高め、馬養衆の生活と牧場の運営をさらに円滑にする狙いがあった。
彦九郎は、単なる都市開発や競馬事業だけでなく、人々の生活と産業の基盤を支えることの重要性を再認識し、平和な世における自身の役割を深く考えるのであった。そして、彦九郎の意図とは裏腹に、競馬場の屋台で提供される救荒食の調理法や醤油の普及は、江戸の庶民の食生活に大きな影響を与え、やがて救荒食として開発された料理が日常的に食べられる都市へと変貌していくことになる。さらに、その調理法や栽培法も、江戸を起点として日本中に広がっていくこととなる。
屋台で出された料理は、初期には蕎麦のガレット、蕎麦きり、うどん、雑穀せんべい(塩)、雑穀団子(みたらし、あんこ、味噌、塩)、燕麦かゆ、焼き芋、串焼き(野菜や鶏肉)、麦茶、水増しされた酒。後年にはフライドポテト、大学芋、燕麦かゆ(昆布片入り)、おからドーナッツ等があります。
江戸の他の場所で食べられる寿司や天ぷらなどのファーストフードは基本的に供されることはありませんでした。これはすでに調理法も確立され、救荒食を使うものでもなかったためです。
あと、稗や粟などの雑穀、ジャガイモやサツマイモ、燕麦、麦、豆類などの作物は日本中に栽培方法が広められ、農家は米を作る片手間に栽培するようになりました。そして、保存の利く物はは常に幕府や藩が買い上げる習慣が定着しました。なので、災害が起きた時にそれらは提供され、かなり飢饉などの被害を和らげることができました。