徳川家康の次男として生まれたにもかかわらず、父親には疎んじられ、後ろ盾となってくれた兄は切腹してしまい、父の家臣からは侮られ、豊臣秀吉の養子に出され、波乱万丈すぎる生い立ちを持つ秀康は、常に「ああ、僕ってなんてかわいそうなんだろう…」という自虐的な思いを抱えて生きてきた。
しかし、幼少期から折に触れ御馬奉行・彦九郎と交流があった秀康は、馬をこよなく愛し、馬術にだけは異常な才能を発揮していた。彼の心の拠り所は、言葉を話さぬ馬たち。特に、彼が大切にしている一頭の駿馬、雷神の血統を受け継ぐ愛馬は、秀康の「かわいそう」な境遇と、内に秘めた「なんか面白いことしたい」という情熱を映し出す、かけがえのない存在だった。
天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉が築いた聚楽第の落成式で行われた大規模な馬比べ。当時十三歳だった秀康は、この時初めて本格的な馬比べを目の当たりにした。それは三河の物とは比べ物にならない、絢爛豪華で真剣味に満ちた競馬だった。鍛え抜かれた騎手と馬が、観衆の熱狂的な喝采の中で、己の命を懸けるかのように疾走する。その姿は、秀康の血を沸騰させるとともに、彼の孤独な心を一瞬にして奪っていった。秀康にとって、それは単なる遊びではなく、自らの存在を証明する唯一の場所、そして生きる意味そのものとなったのである。彼の脳裏には、疾走する馬と騎手の躍動感が、まるで走馬灯のように焼き付いた。疾走する馬と騎手の躍動感に満ちた世界は、彼の「かわいそう」な人生を吹き飛ばすかのような、まばゆい輝きを放っていた。「これだ!これしかない!」と、彼は馬比べの奥深さと魅力に取り憑かれていく。この出来事が、後の彼の人格形成に決定的な影響を与えることとなる。
彦九郎が御馬奉行として江戸の馬政を統括する中で、秀康の馬への尋常ならざる情熱と、その愛馬の優れた資質に注目していた。ある時、所用で大阪に来ていた彦九郎は秀康に会いに行き、幼少期からの交流で培われた馬への知識をさらに深めるべく、より高度な調教法や血統に関する詳細な知識、あるいは現代の馬術理論の応用について伝授すると伝えた。秀康は、この申し出に狂喜し、彦九郎の奥深い知識と馬への並々ならぬ理解に感銘を受け、彼に全幅の信頼を置くようになる。 ある手紙で、彦九郎は、秀康に対し、かつて彼が抱いていた「かわいそう」という自虐的な感情を打ち破るかのような言葉を投げかけた。
「殿(家康)の息子という立場を超え、やがては殿が『秀康の父』として語られるほどの侍となられよ。そのためにこそ、馬の力を借りるのです」
この言葉に触発され、秀康は「そうだ!『僕はかわいそうな僕』じゃない!馬に乗って、僕自身の力で名を上げるんだ!」と、徳川の家を継げない自身の境遇を逆手に取り、自らが「騎手」として馬比べに参加し、その腕前で名を上げることこそが、自身の存在意義を示す道だと決意する。彦九郎は、その情熱を理解し、秀康の愛馬の調教や健康管理について具体的な助言や新しい技術を提供した。さらに、彼は猿乗りをしながら刀槍を自在に振るうという、常人離れした体幹と技術を持ち合わせており、これは知られている限り史上に唯一人という、彼ならではの特技であった。これにより、秀康の愛馬はさらにその能力を開花させ、秀康と馬の絆も一層深まっていった。
関ヶ原の戦いに先立ち、秀康は家康の命により、上杉景勝の抑えとして会津に派遣された。天下分け目の大戦に直接参戦できないことへの彼の関心は薄く、頭の中は「騎手」としての道のことでいっぱいだった。「この会津での任務は、どうにかして僕の騎乗技術を磨く機会に出来ないものか」と、戦場を「特訓の場」と捉える彼の思考回路は、もはや武将のそれとはかけ離れていた。彦九郎は、そんな秀康の心境を察し、直接的な言葉ではなく、馬を通じた交流の中で彼を励ました。例えば、秀康に愛馬の訓練メニューを指導しながら、馬が示す忠誠心や、困難を乗り越える姿を通じて、秀康に自身の道を見つめ直させるきっかけを与えた。
秀康は会津で上杉軍を牽制し、関ヶ原への上杉軍の参戦を阻止するという重要な役割を果たした。彼と彼が鍛えた騎馬隊は、会津での任務遂行において、その駿足を生かした迅速な部隊の展開や、戦況に応じた機動的な指揮、あるいは緊急時の情報伝達を可能にする重要な働きをした。時には、秀康自身が「この地形なら、愛馬の脚を試せる!」とばかりに、家臣の制止を振り切って危険な物見に出かけ、その度に家臣団は「殿!お待ちを!」と追いすがる羽目になった。さらに、秀康は「どうせなら、この会津で上杉と馬比べで決着をつけてしまおう!」と、上杉家に向けて大将同士の馬比べを申し込む手紙を送りつけた。これには上杉家も困惑し、まともに取り合わず無視するばかり。秀康の家臣団は、主君のあまりにも突飛な行動に頭を抱え、さらに胃を痛めるのであった。
家康の元には、伊賀の忍びが会津の戦況や秀康の動向に関する詳細な報告をもたらしていた。秀康が「馬に乗る口実」として危険な物見に出かけ、家臣を振り回す様子も逐一報告される。その報告を聞くたびに、家康は息子秀康の奔放さに呆れながらも、その情熱が、人質としての不安定な日々を乗り越え、秀康がようやく見出した心の拠り所であることを誰よりも深く理解していた。家康には、自身の手で息子を遠ざけなければならなかった拭い去れない負い目があった。だからこそ、その無茶に付き合わされる家臣たちの苦労を思うたび、息子を強く叱ることもできず、ただ「すまぬな、皆…」と内心で詫びるしかなかったのである。
関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に終わる。秀康は、直接の戦功はなかったものの、上杉を抑えた功績が認められ、その後の徳川幕府開府に向けて、大名としての責務を全うすることとなる。
史実では秀康は巨漢となっているようですが、この作品では中肉中背ぐらいに収まっています。ただ、腕力とかは常人の数倍はあったとしています。