日本競馬年代記   作:くさくさ

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何とか書けましたー。新しい章を始めるために、色々設定固めをしていたせいもあり、こんなに時間がかかりました。まあ、まだ設定固まってないんですけど。

3月1日に大幅に修正しました。内容が結構変わってしまった。


閑話・馬飼一族の隆盛

 元和元年(一六一五年)五月、大坂夏の陣の砲火は止み、戦国という名の巨大な獣がようやくその息の根を止めた。しかし、馬飼彦九郎の戦いはそこからが本番であった。

 

 戦後の混乱が続く大坂の地で、彦九郎は数ヶ月にわたり軍馬の損耗調査と、戦場に散った名馬たちの血統の記録に従事した。勝利の熱狂が冷め、秋の気配が濃くなった十月。ようやく後始末に区切りをつけた彼は、一頭の栗毛に跨り、江戸への帰路に就いた。

 

 しかし、駿河の国・浜松に差し掛かった折、内政の実務に捧げられた細身の身体を支えていた緊張の糸が不意に切れる。道端の茶屋で崩れ落ちた彦九郎は、駆け寄る息子たちの腕の中で、鉛を流し込まれたような底知れぬ倦怠感と、意識が遠のく感覚に抗えずにいた。

 

 この浜松は、彦九郎にとって単なるゆかりの地ではない。彼は元々、この地の土にまみれて生きる一介の農民であった。若き日にその非凡な才を認められ、主君・家康公の苦難の時期を支えるべく取り立てられた、己の原点ともいえる場所である。彦九郎は無理な行軍を断念し、懐かしい風が吹く浜松の屋敷へと運び込まれた。

 

 それから没時までのわずか二ヶ月足らずの療養生活が始まった。肌を刺すような遠州のからっ風が連日吹き荒れる十二月、彦九郎は生涯をかけて綴り続けた「馬事血統と生育の検証録」の束を、枕元に座る息子たちへと託した。

 

「父上、これからは……我ら兄弟は、どこを目指せばよいのでしょう?」

 

 長男の絞り出すような問いに、彦九郎は弱った視線を天井へ向け、少しだけ困ったように笑った。自分がいなくなった後、この真面目すぎる息子たちが、膨大な記録の重さに潰されてしまうのではないか。そんな一抹の不安を振り払うように、彼は掠れた声で語り始めた。

 

「目指す場所か。……そうだな、まずは野筋(芝)二十二丁(約二千四百メートル)を、二分二十二秒で駆け抜ける馬を追え。もしくは、五十戦して一度の不覚も取らぬ不滅の駿馬だ。……いつか、この日の本から、すべての常識を塗り替えるような怪物が現れる。それを作るのがお前たちでなくとも構わぬ。だが、その怪物が現れた時、誰よりも近くでその呼吸を数え、その蹄の跡を書き留めておける一族であれ。怪物の正体を、血統の理として解き明かすこと。それこそが、我が一族が命懸けで神から掠め取るべき、究極の業よ」

「二十二丁を、二分二十二秒……? 五十戦無敗……?」

 

 息子たちは顔を見合わせた。当時の感覚では、二十二丁を三分三十秒で走ることすら並大抵ではない。彦九郎の語る数字は、それよりもさらに一分以上も速い異次元の領域だ。

さらに、一度の敗北すら許されぬ五十の連勝など、勝負の綾を知る彼らにとっては荒農無稽な夢想に聞こえた。あまりの無謀さに言葉を失う息子たちを見て、彦九郎は満足そうに目を細めた。

 

「さればよ。驚くのも無理はない。……俺はな、知ってのとおり元は百姓だ。そんな男が大御所様に拾われ、お歴々の中で立ち回ってきた。俺はな、人をあっと言わせるのが好きだったのだ。それから、馬の世話をするのも、どうしようもなく好きだった。だから、好きが高じて馬で人を驚かせようと思い、この様なありさまになったのよ」

 

 彼の言葉には、単なる官僚としての義務感ではない、一人のホースマンとしての熱がこもっていた。

 

「この書は、これから始まる平和な時代に一族が迷わぬための灯火であり、神域へ至るための血の地図だ。この『二つの至高』のいずれかを体現する怪物が現れるまで、決して断絶させるな。そのためには一族を三つに分け、互いを写し鏡として守れ」

 

 元和元年十二月末、彦九郎は享年六十六で静かにその波乱の生涯を閉じた。農民から身を起こし、「人を驚かせたい」という一念で「馬事科学」という名の狂気を生み出した男の物語は、ここから新たな章へと引き継がれる。

 

 

 彦九郎の遺児たちは、父の遺した知識が一個人の器にはあまりに広大であることを悟っていた。彼らは父の遺訓に従い、江戸、京都、転じて浜松の三拠点に分かれ、専門化された分業体制を敷いた。

 

 江戸馬飼家は徳川の御指南役本家であり、徳川幕府直轄の牧場管理や江戸競馬場の運営という公的な重責を担った。彼らの強みは、その権威を背景とした「東国大名家への馬事コンサルティング」にある。各藩が抱える軍馬の質の維持、あるいは参勤交代に耐えうる良馬の調達。江戸の家はこれらの相談を一手に引き受けることで、東国諸藩の台所事情や軍事力の実態を自然と把握する立場となった。

 

 京都馬飼家は次男の血筋であり、朝廷をはじめとした西国の大名家に対しての馬事コンサルティングと、それに付随する京都競馬場の興行運営が本業である。機能としては本家の江戸馬飼家と似たようなものであるが、徳川の本拠地である江戸から離れているため、京都所司代などの幕府機関とのつながりがより密接であった。

 

 浜松馬飼家は、東西の馬飼家が集めた馬のデータの整理・分類、そしてその奥に潜む法則の「分析」を担う、一族の「頭脳」の役割を果たした。現代でいうインブリードやニックスといった血統の掛け合わせを数理的に研究する傍ら、彼らはその「数値を扱う知見」を国家の実務へと転用させていった。

 馬の生育を論理的に解明する彼らの思考法は、開墾や治水、兵站といった緻密な計算を要する幕府の重要政策と驚くほど相性が良かったのである。算術と観察を重んじる浜松の教育は、情に流されぬ冷徹な「技術官僚(テクノクラート)」を次々と育て上げ、幕府の深部へと送り出した。この高度な人材育成を支えるため、本家である江戸からは幕府直結の予算が、京都からは西国の経済力を背景とした潤沢な援助が浜松へと注ぎ込まれた。

 

 馬飼家の特殊性は、徹底した分業、客観性、それからその「透明性」にある。

 このパラレルワールドの日本において、馬飼家は決して日陰に潜む秘密結社ではない。むしろ、その卓越した知性と組織力は世に広く知れ渡った公然の事実であった。

 

 各地の現場に散らばる一族の人間は、馬事の相談や競馬場の運営を通じて情報を収集する。その情報はありのままに浜松の「検証チーム」へと集約され、冷徹に処理される。彼らは政治的には徹底して中立を貫き、泥沼の政争には一切の興味を示さない。この「実務に徹する姿勢」こそが、幕府や諸大名がその底知れぬ智謀を警戒しつつも、頼らざるを得ない理由であった。

 

 だが、この「中立」という鉄の掟は、他者から見れば傲慢な自立に見えるかもしれない。しかし根底には、自分たちを取り立ててくれた「将軍家に対する絶対的な忠誠」という揺るぎない背骨が通っていた。彼らにとって政治的中立とは、特定の派閥や大名に与せず、唯一無二の主君である将軍のためだけに、最適な「知見」を供給し続けるための献身の形であった。

 ゆえに、幕府の諜報網を担う「影の者」たちが持ち込む雑多な生情報が、各拠点に常駐する浜松仕込みの解析官の手で精査され、大名家の次なる一手を予見する「警告」へと姿を変えて将軍に差し出されることも、一度や二度ではなかった。

 

 馬飼家は将軍家への至誠を盾に、日本全土に根を張る巨大で不可侵の知能組織として、この泰平の世に君臨していた。

 

 十八世紀の幕が開けて間もない頃、宝永六年に秋田藩から幕府へ向けた嘆願が、馬飼一族の運命を再び大きく動かした。当時、一族は繁栄の頂点にありながら、同時にその技術体系において、かつてない深刻な「踊り場」に直面していた。

 

  彦九郎の遺した「二十二丁、二分二十二秒」と「五十戦無敗」という二つの頂。その夢想に近い目標を追い求め、馬飼一族の血統理論と育成技術は、まさに日進月歩の勢いで進化を遂げてきた。しかし、その輝かしい成長は、二十年ほど前から突如として停滞し始めていた。

 

 現在、一族が保持する最高傑作ですら、二十二丁の走破タイムは三分十五秒。世間では「縮地」とまで謳われる神速だが、彦九郎の遺言にある数値に照らせば、まだ五十秒近い絶望的な溝がある。

 

 かつて家康が下した「世界に並ぶことなき新たな日本馬を創造せよ」という壮大な命を受け、政商・清水家が「西方の駿馬」とその知見を運び込み続けて久しい。だが、風神・雷神という、日の本が生んだ奇跡の二大系統を以てしても、三分十秒という壁は高く、厚い。一族は清水家がもたらす外来の血をこれら二系統へ執拗に注ぎ込み、和馬の極致を超えようと足掻き続けてきたが、記録上の秒針は無慈悲なほどに動かなかった。

 

「風神・雷神の血を以てして、なおこれ以上の速みは許されぬのか。五十戦、一度の過ちも許されぬ剛毅な精神など、この世に存在し得るのか」

「配合を重ねても、ここから一秒を削り出すのに十年の月日が要る。このままでは、父祖が夢見た『怪物』に出会う前に、一族が尽きてしまう」

 

 蓄積された膨大な記録は、新たな発見を導くための鍵ではなく、もはや「これ以上の進化は不可能である」ことを残酷に証明し続ける重石へと変わりつつあった。

 

 そんな折の秋田藩からの嘆願であった。相次ぐ凶作と長年の藩財政の窮乏を打開するため、藩主・佐竹義格が、藩の命運を賭けて「寒冷地における名馬の創出」を請うたのである。一族の長老たちは、これを単なる地方振興とは見ていなかった。北国という極限の変数を敢えて投入することで、停滞した知見に劇的な化学反応を起こすための「荒療治」であった。

 

 折しも、時の将軍が代替わりし、世が新たな秩序を模索する中、一族はこの秋田藩プロジェクトを幕閣へ具申した。

 

 この命運を懸けた実験の最前線へと送り込まれたのは、浜松馬飼家の中でも最も実直に現場の泥を啜ってきた叩き上げの男であった。彼は一族の焦燥を一身に背負い、雪深い北の地へと旅立った。

 

 そして、その父の影を踏み、黙々と歩む幼き息子の名は、信太郎。後に、あまたの権謀術数を潜り抜け、日本の「第一次競馬ブーム」を巻き起こす男である。

 




小ネタ1
 それぞれ三家の当主は、隠居すると浜松に居を移し、数年に一度、一族内だけの競馬を催すようになった。このレースは戦後の昭和になって「馬飼記念」と呼ばれる行事になり、引退した功労馬や名馬を集めて浜松競馬場でパレードを行う競馬界のお祭りとなった。

小ネタ2
 馬事血統と生育の検証録に記されている天候の記録は、後年地球の気候変動に対する貴重な資料となる。なお、この資料を研究した学者は大体江戸期の馬に詳しくなる。

小ネタ3
 この世界の時代小説やTVの時代劇においては、馬飼一族は恐ろしく都合の良い舞台装置として使われ、歴史に詳しくないものでもその名を知っているレベルで有名である。中には、忍者の一族と誤解している者もいる。

小ネタ4
 同時代の人間の日記などを読むと、馬飼家に対する非常に複雑な感情が垣間見れる。善意で家の財政を上向かせるアドバイスはしてくれるが、それは別として、家の内情をどんどん抜かれていくのがわかっているので、何とも付き合いづらい家だったらしい。また、思考法が通常の武士からするとかなり異質だったらしく、人によっては狐狸妖怪の類に見えたらしい。
 
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