天文19年(1550年)、遠江国の一寒村に、後の「馬飼彦九郎」として転生した男は、百姓の息子として生を受けた。百姓の頃は、彦蔵(ひこぞう)と名乗っていた。生家は代々馬を飼うことを生業としていたが、それは農耕や荷駄運搬のための、ごく一般的な馬たちだった。
しかし、現代日本の「競馬」という文化に脳を焼かれた彦九郎の目には、周囲の馬たちが、まるで動きの鈍い鈍足な豚のようにしか映らなかった。この時代、馬は戦の道具か、生活の足でしかない。しかし、彦九郎は知っている。馬の秘めたる可能性、速さを競うことの美しさ、そしてその先に生まれるであろう莫大な富と文化の興隆を。
幼少の頃から、彦九郎は他の百姓の子とは一線を画していた。馬に関する知識は異常なほど深く、その調教法も、この時代の常識からはかけ離れたものだった。馬の筋肉の付き方、馬の呼吸効率を高める調教、そして餌の配合に至るまで、現代のスポーツ科学に基づいた知識を、彦九郎は密かに実践していた。さらには、重いそりを引かせる「輓馬(ばんば)競馬」の鍛錬方法についても、その原理と効果を理解していた。周囲の者からは「馬に憑かれた奇妙な子供」と見られたが、馬たちは彦九郎の手にかかると見違えるように活き活きとし、驚くべき速さと力強さを見せ始めた。
幼少の頃から馬に並々ならぬ情熱を傾け、良馬を求めて遠江の地を彷徨っていた彦九郎の運命を変える出会いは、永禄十二年(1569年)のことであった。戦の気配が色濃く漂う広野の片隅で、彦九郎は一頭の野生の牝馬を見つけた。その馬は、現代の超一流の牝馬に劣らぬ風格を備えていた。現代の知識を持つ彦九郎は、直感的に悟った。「この馬こそが、俺の夢を繋ぐ血統の源となる」と。
彦九郎は、その牝馬を保護し、村の馬小屋で大切に育てた。そして、「御影(みかげ)」と名付けた。驚くべきことに、保護した時点で御影は仔馬を身ごもっていた。双子だった。
馬の双子出産は、母体への負担が大きく、現代においても稀で危険なこととされている。通常、どちらかの仔馬の命を選ばざるを得ないこともあるが、御影は二頭の仔を無事に産み落とした。
しかし、その消耗は激しく、彦九郎に向けて一つ小さくいななくと、御影は力尽き、静かに息を引き取った。
その瞬間、彦九郎の心は、二つの新しい命の誕生という慶事と、恩馬である御影の死という悲劇が同時に押し寄せ、複雑な感情でぐちゃぐちゃになった。親の死に際してさえ涙を見せなかった彼が、この時ばかりは抑えきれず、静かに涙を流した。
生まれたばかりの仔馬たちは他の仔馬に比べても小さかったが、やんちゃで元気に野原を駆け回り、見る見るうちに成長していった。彦九郎は、彼らに「風神(ふうじん)」と「雷神(らいじん)」と名付けた。
風神は、やや小柄ながら黒鹿毛の美しい毛並みを持ち、しなやかで均整の取れた体つきをしていた。この馬は風のように軽やかに、そしてどこまでも走り続けるような無尽蔵のスタミナを備えていた。
一方の雷神は、馬体重が百三十貫(約五百キロ)を超える当時としては規格外の巨躯を誇る葦毛(あしげ)の馬で、全身が筋肉の塊であり、地を蹴るその蹄音は雷鳴のごときものだった。爆発的なパワーと、あらゆる悪路をものともしない驚異的な走破性を誇った。
彦九郎は、現代のトレーニング理論と栄養学を駆使し、彼ら二頭の能力を極限まで引き出していった。
風神と雷神の並外れた能力は、やがて遠江の地で噂となり、ついに徳川家康の耳にも届くことになる。
彦九郎と二頭は家康の前にまで召し出され、二頭は簡素な馬場で他の家臣の馬との力比べに駆り出された。
「ほほう!百姓の身でありながら、ずいぶんと見事な馬を飼っているな」
家康は、風神と雷神が駆け抜ける姿を見て、驚嘆の声を上げた。他のいかなる馬も追随を許さないその速さに、家康はこの二頭が乱世を生き抜き、徳川の家名を残すための一助になると直感した。
彦九郎はこの好機を逃さなかった。
「殿、この馬たちは、戦場で敵を蹴散らすだけでは、その真価を発揮できません。いずれ天下泰平の世が訪れた暁には、この馬たちが駆け競い、人々がその速さに歓声をあげる。そんな『競走馬』としての道を歩ませとうございます!」
百姓の身でありながら、不遜ともとれる彦九郎の熱心な訴えに、家康の側近たちは顔をしかめ、中には刀の柄に手をかけた者もいた。しかし、家康は目を閉じてその様を想像し、顔をほころばせた。この時、家康の脳裏に初めて、太平の世に対する具体的なビジョンが鮮やかに浮かび上がった。それは、戦におびえることなく日々を過ごし、たまの娯楽に現を抜かす人々の、穏やかな暮らしであった。
「面白い。彦蔵、お主の夢、見事である。わしに仕えよ。そして、その馬たちと共に、太平の世を作る一助を担え!」
こうして、彦九郎は一介の百姓から、徳川家康の馬奉行という侍の身分へと取り立てられた。この時、家康から「馬飼(まかい)」の姓が与えられた。そして、彦九郎の夢、競馬文化の興隆に向けた第一歩が、戦乱の世に、確かに踏み出された。
風神が四歳を迎えた元亀三年(1572年)、三方原の戦いで武田信玄に大敗を喫した家康は、死を覚悟し、夏目吉信が身代わりとなって討ち死にしようと進み出たその瞬間、風神が自ら家康の背に乗るよう促し、家康が風神にまたがるや否や、浜松城まで駆け抜けるという奇跡を起こした。そのため、夏目吉信も命を落とすことがなかった。風神と風神の末裔はその類まれな長距離走能力によって、家康とその一族を幾度となく窮地から救い、「家康公の守り馬」としてその名を馳せ、徳川家当主の守り馬として血統が受け継がれていくことになる。
雷神は、彦九郎の元に残された。その爆発的なパワーと悪路走破性は、彦九郎が馬飼家で血統を管理し、後の競馬における「スプリンター」の系統を確立するための、かけがえのない礎となった。雷神の葦毛という目立つ毛色と、その規格外の巨躯は、戦場においてはかえって狙われやすく、一部の傾奇者(かぶきもの)を除いては、多くの武士が興味を示すことはなかった。
また、その並外れた能力を知った一部の者が、身分を盾に雷神を手に入れようと画策することもあったが、その際には雷神の仔を譲渡するか、あるいは家康が間に入って仲裁することで、巧みに血統の維持と普及を図った。
風神と雷神。二頭の兄弟馬の異なる才が、日本の競馬の未来を創る、壮大な物語の横糸となったのである。
風神の三方ヶ原からの逃走なんですが、書いた当時は具体的なイメージは考えてなかったんですけど、多分武田の兵に見つかったら全力疾走で1000から2000メートル走って、振り切ったらスピードを落とすというのを繰り返していたんでは?それを何回も繰り返していた。十分バケモンですね。