日本競馬年代記   作:くさくさ

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かなり手を入れました。


馬比べと普請方の創設

 家康より馬飼の姓を賜り、馬奉行の任を受けた彦九郎にとって、まさに夢への大きな一歩であった。しかし、それは同時に、並々ならぬ困難を伴う道のりの始まりでもあった。当時の馬といえば、戦の道具か、あるいは農耕や荷駄運搬の手段であり、その速さを純粋に競うという発想自体が、人々には馴染みの薄いものであったのだ。

 

「馬比べを、ただの遊びにしてはなりませぬ。武士の鍛錬、馬の資質向上、ひいては国力の増強に繋がる、家中の催しとするのです!」

 

 彦九郎は家康の御前で熱く語った。家康は静かに耳を傾け、時折鷹揚に頷いた。彼は彦九郎の真意を見抜いていた。この男の狂気じみた馬への情熱が、乱世を生き抜く徳川家にとって、新たな「武威の象徴」となり得る可能性を。

 

 馬奉行としての彦九郎の仕事には、家康が預ける馬の調教はもちろんのこと、希望する家臣から馬を預かり、その調練を行うことも含まれていた。試しに彦九郎に馬を預けた者たちは、半年もするとその馬が見違えるように速く、そして従順になった効果に驚嘆した。彼の調教術は、一部で秘術とすら囁かれるほどであった。

 

 まず彦九郎が着手したのは、馬を走らせる「場」の整備であった。現代の競馬場の知識を持つ彦九郎は、単なる野原での駆け比べでは、馬の真の能力を引き出せないことを知っていた。彼は、初期の英国競馬場のように、自然の地形を最大限に生かし、ときに緩やかな坂や起伏、そして不規則なカーブを持つ、いわば「おにぎり型」のコースこそが馬の多様な能力を引き出す上で理に適っており、また彦九郎自身の競馬への情熱と美的感覚にも合致する形だと考えていた。この段階では、後の時代のような完璧な水はけよりも、まず馬が思う存分駆けることができる場を優先した。しかし、この時代に、広大な土地を均し、適切な傾斜をつけ、前例のない大規模な土木工事は想像を絶するものであった。

 

「土木の専門家を集め、新たな部署を設けるべきかと存じます。名付けて、『普請方(ふしんかた)』あるいは『作事方(さくじかた)』などとし、その中に馬場造営の職を設けるのがよろしいかと!」

 

 彦九郎の提案は、家康の家臣たちの間で驚きをもって迎えられた。特に、徳川家の財政を預かる勘定奉行は、かかる大規模な普請に膨大な費用がかかることを憂慮し、難色を示した。

「殿、現在の御家の財政では、この普請はまことに困難かと…」

 と、恐る恐る口を挟んだ。しかし、家康は勘定奉行の言葉を制し、彦九郎の目を見据えた。

 

「面白い。彦九郎、この新たな普請、家中の常識を超えるもの。ゆえに、もしその方がこの普請を成し遂げたいと強く願うならば、その方自身で金策を講じてみよ。さすればこの普請方、許す!」

 

 こうして、馬場建設の許可は下りたものの、その財源の確保は彦九郎の双肩にかかることとなった。彦九郎は、この難題こそが、自身の夢を実現する新たな道を開くと確信し、現代の知識と知恵を駆使して金策に奔走した。

 特に注目されたのは、清潔を尊ぶ貴族や寺社、上流階級の女性、武家、商人向けに、彦九郎がその知識を活かして製造・販売した、当時まだ珍しい石鹸であった。柚子や蜜柑などの柑橘類、沈丁花や梅といった花々を用いて香りを加える工夫が凝らされていた。

 さらに保存性があり栄養価も高いシイタケの栽培と流通。これらの事業は着実に利益を生み出し、馬場造営のための資金を捻出していった。

 だが、彦九郎自身は、こうした金銭のやり取りや事業の管理には一切興味を示さなかった。彼は、「馬の世話と、馬比べの創設に注力することこそが、この彦九郎の願いにございます。金策による利権は全て殿にお任せいたしますゆえ、この普請と馬に専念させていただければ幸甚にございます」と家康に申し出た。

 この彦九郎の意外な申し出に、家康は呆れ返った。通常であれば、これほどの大功を立てれば、禄高の加増や新たな知行地を望むのが武士の常識であったからだ。

「なんと、知行地は望まぬと申すか? それでは、その方、一体何を望むのだ?」

 家康は眉をひそめて問うと、彦九郎は真面目くさった顔で答えた。

「ははっ、恐れながら、土地の管理はまことに面倒にて、この彦九郎には向きませぬ。もしよろしければ、この金策における手柄も加味していただき、これからの禄高の全てを銭にてお支払いいただければありがたく!」

 家康は、再び彦九郎の常識外れの要望に呆れ果てた。だが、元々百姓上がりの彦九郎には、武士としての作法や常識が備わっていないのも仕方ないかと、妙に納得する部分もあった。何より、金銭の管理に興味を示さぬ彦九郎であれば、その才覚から生み出される莫大な利潤を全て徳川家が掌握できるのだ。

「ふむ…よかろう!彦九郎の申し出、聞き入れよう。これからの禄高、全て銭にて支払うことを約束する!」

 こうして家康は彦九郎の要望を受け入れた。なお、当初費用に難色を示していた勘定奉行も、その莫大な収益に眼をみはり、彦九郎に対する態度はすっかり軟化した。

 

 当初、この普設方の一部としての馬場造営は、奇妙な事業として嘲笑の的となることもあった。

「馬奉行が、石垣でも積むつもりか?」

「百姓上がりの分際で、大層なことを申すわい」

 

 しかし、金策の成功と目に見える馬の質の向上は、彦九郎を狂人じみた奇抜な発想をする男だと薄気味悪く思っていた者たちの間にも、静かな変化をもたらした。

 彼が出世争いにまるで興味を示さないという事実も相まって、馬に関すること以外では完全に中立的な立場と見なされ、彼との付き合いは以前よりも円滑なものとなっていった。

 

 そして数年後、徳川家の居城である浜松城近郊に、見事なおにぎり型の馬場が完成した。一周四千メートル(約一里)に及び、幅も馬が数頭並んで走れるほどに広い。地面は広野の自然な状態を活かしつつ、馬が走りやすいよう最低限の整備がなされていた。観客が見やすいようにと、小高い丘を利用した観覧席も設けられた。

 その姿は、まさしく現代の競馬場に通じるものであり、当時の人々にとっては、まさに「奇跡」としか言いようのない光景であった。

 

 こうして、馬比べの舞台は整った。馬比べによって、徳川家の騎馬の質が飛躍的に向上したことは、誰もが認めるところであった。次は、この舞台で馬たちが躍動し、人々が熱狂する「文化」を創り出す番であった。彦九郎の長い夢の、ようやく第二幕が上がったばかりだった。

 

 この彦九郎の異例の選択は、後世、馬飼家が他の旗本が領地の管理や農民との軋轢に頭を悩ませる中、ただ一家だけがその煩わしさから解放され、潤沢な金銭収入を享受するという、ある種の贅沢を享受することになるのであった。




徳川家永世馬奉行馬飼彦九郎誕生の瞬間。
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