彦九郎が創設した「馬比べ」は、その明確な勝敗の基準と、馬の能力が際立つ面白さから、瞬時に人気が加速し、観戦に訪れる人々の数も飛躍的に増えていった。当初は武士の鍛錬を名目としていたが、その競技としての魅力が、身分を超えて人々を惹きつけていたのだ。最大で三千人もの観客を収容できるようになった競馬場は、地域の一大娯楽施設として賑わいを見せた。
馬比べは月に一度開催され、一戦につき出走する馬の数は五頭から十五頭と決められた。これは、競馬場の幅が最大で十五頭が同時に走れる限界であったためだ。一日の番組数は通常四回と定められた。
観客の増加に伴い、馬比べの運営はより洗練されていった。彦九郎は、現代競馬の知識を基に、より公平で分かりやすいルールを導入していった。
まず、着順判定の厳格化である。複数の家臣がそれぞれの馬の着順を記録し、その結果を照合することで、誤りをなくすようにした。特に、きわどい勝負の際には、家中の腕自慢の中でも特に目の良い者が選ばれ、ゴールの瞬間を見極める役割を担った。また、ゴール地点には磨かれた金属の板が鏡のように設置され、肉眼での判定を補助した。そして、失格となる行為も明確に定められた。他の馬の進路を妨害したり、馬の能力を著しく損なうような鞭の使い方は、厳しく罰せられるようになった。これにより、馬比べは単なる速さ比べから、公正な競争原理に基づくスポーツへと昇華していった。
馬比べの開催時には、安価ながらも入場料が徴収されるようになった。これは、運営費用の一部を賄うためであり、同時に無制限な入場を防ぐための策でもあった。金を支払った観客には入場札が渡され、これを持たぬ者の入場は厳しく制限された。観客もこの新たな娯楽を享受するための当然の対価として、これを受け入れた。また、競馬場は竹の柵によって外部と明確に区切られ、調教を行う際には関係者以外の立ち入りは厳しく禁じられた。これにより、馬たちの安全と、調教内容の秘匿性が保たれた。
馬比べの開始前には、馬奉行の配下の解説役が、各出走馬の特徴や近況を観客に分かりやすく説明した。初期の頃は彦九郎自身がこの役目を担い、その熱弁で観客の心を掴んだ。観客たちは、馬の疾走だけでなく、公正なルールのもとで繰り広げられる熱戦に熱狂した。勝ち馬の生まれ持った資質や、親馬の特徴、そして騎手の乗り方について語り合う光景も日常となり、馬比べは遠江・三河の新たな娯楽として深く根を下ろし始めた。
馬比べの隆盛に伴い、馬場周辺の屋台も多様化し、賑わいを増していった。温かい蕎麦きりやうどん、野菜たっぷりのけんちん汁、そして雑穀の握り飯といった、手軽ながらもこの時代にしては栄養価の高い品々が並び、観客の胃袋を満たした。さらに、近隣の住民たちが自ら育てた野菜や特産品を持ち寄り、様々な商人たちも集まって活気ある取引が行われるようになり、臨時の市が立つことも珍しくなくなり、馬場は単なる競技場に留まらない、地域経済の中心地としての役割も担うようになっていった。
馬比べが賭博の対象となることについては、家康はまだ慎重な姿勢を崩さなかった。彼は、すでに彦九郎が過去の事業で発揮してきた金策の才を認めていたものの、武士の士気や民の風紀に関わる賭博の公認には、時期尚早だと判断していたのだ。
しかし、馬比べの人気が高まるにつれて、徳川家に許可を得ずに非合法な賭博を行う者たちが現れ始めた。中には、金に目がくらんで八百長を企む家臣まで出てくる始末であった。この報告を受けた彦九郎は、かつてない激しい怒りを露わにした。「馬比べを汚す奴は死ねばいい」その言葉は、馬への純粋な情熱を持つ彦九郎の本質を突きつけ、周囲の人間を仰天させた。家康もまた、馬比べの秩序が乱れることに強い懸念を抱いた。
そこで、違法な賭博や八百長といった不正行為に対して、徳川家は極めて厳しい罰則を設けた。直接関わった者は身分を問わず死罪、その一族郎党は財産没収の上、所払い(領内からの追放)という、厳罰主義をもって臨むことが布告された。この厳格な規律は、馬比べの健全な発展と、その公正性への信頼を確保するための、彦九郎と家康の強い意思の表れであった。
こうした違法な賭博の横行を受けて、彦九郎自身が「それならば、勝ち馬を当てた者には、銭ではなく、米を渡すのはどうか」という意見を具申した。これは、米を物資として与えることで、直接的な金銭のやり取りによる弊害を抑えつつ、観客の興奮を煽るための、彦九郎ならではの知恵と金策の才が凝らされた工夫であった。この意見は家康にも受け入れられ、馬比べの新たな報酬として採用されることになった。
具体的な仕組みとしては、観客は入場料とは別に、予想する馬の番号が記された「予想札」を銭で買い求めた。観客たちは、解説役による詳細な説明に耳を傾け、さらに実際に馬の状態をよく見て品定めをした上で、この予想札を買い求めるのが、観客たちのスタンダードな遊び方となっていた。
集められた予想札の代金(銭)は全て米に換えられ、馬比べの後に、勝ち馬に投票した者たちで、その米を分け合う仕組みであった。これにより、胴元が不当に損をすることなく,また観客も予想が当たれば相応の報酬を得られる公平性が保たれた。
「賭け事の銭は、時に禍の種となる。今はまだ、この馬比べを、武士の鍛錬と、民の心豊かなる催しとして育てる時期であろう」
家康はそう語り、銭での賭博の公認を先延ばしにした。だが、彦九郎には分かっていた。いずれ天下が定まり、太平の世が訪れた暁には、この馬比べが徳川家の、ひいては日ノ本全体の財を潤す新たな道となり得ることを。今はただ、その時が来るのを静かに待つのみであった。
こうして、馬比べは、戦乱の世にあっても人々を惹きつけ、その魅力を広げていった。彦九郎の夢は、一歩ずつ、確実に形を成しつつあった。
なんかうちの家康さん、名将っぽくない?