日本競馬年代記   作:くさくさ

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彦九郎の嫁取

 織田信長との謁見を終え、馬飼彦九郎の名は徳川家中のみならず、信長の領国においても広く知れ渡り、馬奉行としての地位は揺るぎないものとなっていたが、彦九郎の周囲には、彼に関する新たな懸念が広がりつつあった。

 

「馬飼殿も、もう齢二十と半ば。いつまで独り身でいるつもりか」

 

 家康の側近、そして馬奉行である彦九郎が長を務める厩方(うまやがた)の配下、さらには彼に馬の調教を依頼する家臣たちの間で、そう囁かれることが増えていた。飛ぶ鳥を落とす勢いの彦九郎には、通常であれば徳川家中の娘を縁談相手として挙げるのが常である。しかし、多少の打算はあるものの、基本的には娘の幸せを願って縁談を取り持つわけだが、この男に果たして自分の大事な娘をやってよいものかと縁談相手の親は思うのだ。

 それでも、徳川家としては、彼の類稀な能力を永続的に利用するためにも、彼を家中にしっかりと根付かせ、血筋を残すことが不可欠だと考えられており、なんとかせねばと頭をひねっていた。

 

 そんな折、家康は自身の騎馬隊のさらなる強化を喫緊の課題として捉えていた。武田信玄が病に倒れ亡くなった後も、家督を継いだ武田勝頼との間で攻防が続いており、さらなる戦力増強が望まれていたのだ。また、目先の戦力を補うだけでなく、将来にわたって他を圧倒する騎馬隊を築くには抜本的な改革が必要だと考えていた家康は、軍馬の養成には時間を要すると知りつつも、彦九郎の持つ異才に期待し、その構想を彦九郎に託した。

 

「彦九郎、徳川の騎馬隊を、日ノ本一、いや、世界一の精強さに鍛え上げよ!」

 

 家康からのこの命に対し、彦九郎は己が野望に不可欠な血統改良の機会が来たと確信した。

 

「承知いたしました。であれは、日ノ本では未だ見ぬ、より優れた血統の馬を海外から導入し、徳川家の馬と交配させ、大規模な品種改良を進める所存にございます。しかし、異国の馬を迎え入れ、仔馬を育成し、精鋭の軍馬を育てるとなると、新たな専門の調教所も不可欠と存じます。それに伴い、潤沢な銭も必要となりますが…」

 

 この大規模な計画には莫大な費用がかかることは明白であったが、彦九郎は競馬場造営と前後して石鹸やシイタケ以外にも、炭団、七輪の製造、蹄鉄、そして紙(これらは全て他で作られるものに比べて一段も二段も上の品質を保っていた)の生産や製塩事業など、様々な事業を立ち上げており、徳川家を大いに潤していた。そのため、勘定奉行も家康も何らためらいなくこの事業に許可を出した。

 

 許可を得た彦九郎は、南蛮の馬の輸入についての伝手を自身が持っていなかったため、家康の側近であり、各地を放浪して様々なところに伝手を持っていた本多正信に相談した。相談された正信は、各所から彦九郎の嫁探しをお前も手伝えとせっつかれていたため、いい機会だと思い、こう持ち掛けた。

 

「馬飼殿、拙者の知る馬喰の中に、南蛮馬を仕入れたことのある者がおります」

 

「おお!流石本多殿!顔が広い!」

 

「…その者は駿河の国の住人で、清水屋喜兵衛と申します。紹介をすることはできるのですが、一つ問題がありましてな。清水屋は、徳川家との取引を望んではおりますが、北条家など他の有力大名との取引も抱えており、徳川家は数多ある取引先の一つに過ぎませぬ。特に南蛮馬の輸入ともなると、手間も銭もかかる大仕事ゆえ、まともな手段では本腰を入れてはくれませぬ。ゆえに、よほどの繋がりがなければ、全面的に協力は得られませぬ」

 

 正信は、彦九郎の顔色を窺いながら続けた。

 

「清水屋には、おとくという娘がおりましてな。私はこの娘を殿の養女とし、徳川家中の有望な若侍と娶らせることができれば、清水屋との繋がりも一層太くなるかと考えておりました。しかし、殿の養女とは言え、商人の娘を嫁に迎えるとなると難色を示すものが多くてですな、正直難航しているのですよ。しかし、もし、馬飼殿がおとくを嫁として迎えられるのであれば、清水屋も南蛮馬の輸入の件を無碍にはしないでしょうな。いかがでござろう?」

 

 彦九郎は、日頃から結婚を促す声に辟易していたこともあり、ならばこの機会にと縁談を承知した。その後の彼は、嫁となる女性の話よりも、いずれ手に入るかもしれない異国の馬に思いを馳せ、そのことを周囲にもこぼしていた。これを見た周囲の人間たちは「これは本物だ」と、改めて彦九郎の馬への執着に呆れ返った。

 

 清水屋は、彦九郎の奇矯な評判を耳にしていたため、この縁談に内心戸惑ったものの、徳川家との繋がり、そして南蛮馬輸入という大きな商機を天秤にかけ、最終的にはこの件を承知した。

 

 そして婚礼の夜、お客たちが帰って二人きりになった寝室で、彦九郎は真面目くさった顔で切り出した。

 

「おとく殿、実はな、そなたの実家の商売の伝手で、南蛮の馬をこの日ノ本へ招く件なのだが」

 

 その言葉に、おとくは目を丸くし、次いで深い溜息をついた。南蛮馬の輸入が清水屋にとって大きな商機であることは理解していたが、まさか夫となる男が、初夜に語り出すのが馬の品種改良の話だとは、想像だにしていなかったからだ。「まことに…馬のことしかお考えでないのですね…」その言葉には、呆れと、僅かな怒りの色が混じっていた。しかし、彦九郎は、そんなおとくの反応に構うことなく、熱弁を続けた。

 

 彦九郎の熱弁は、夜が更けても止まらなかった。夫となる男の情熱は理解できた。おとくも家の商売柄、馬は好きであった。しかし、彦九郎の馬への情熱は度が過ぎており、そのあまりの熱中ぶりに、ついにはおかしくなってきて、くすりと笑ってしまった。その笑いを隠すように、おとくは思わず顔を覆った。彼女のその様子を見て、彦九郎は急におどおどとしはじめ、「お、おとく殿、いかがなされた?」と声をかけてきた。その途端、おとくは彦九郎の変人ぶりの中に、思わぬ可愛らしさを見出してしまい、笑いをこらえきれなくなった。ついには腹を抱えて笑い始めた。なんだか、この先、彼と共に夫婦として、うまくやっていけるような気がした。

 

 おとくの実家の商家の尽力により、三年後には、遥か海の向こう、南蛮の地から、異国の血を引く馬たちが遠江の地へと運ばれてきた。

 

 南蛮馬は、日本の馬とは異なるしなやかさと、日本の馬をはるかに凌ぐ、堂々たる馬体、馬格を誇っていた。彦九郎は、輸入された南蛮馬を風神・雷神の仔たちと交配させ、来るべき未来の競馬を見据えた品種改良に心血を注いだ。

 

 こうして、彦九郎の夢は、着実に現実の形を帯び始めていた。血統改良、そして武士の役割の変化。彼の馬への狂気じみた情熱は、太平の世へと向かう日ノ本の未来を、少しずつ変え始めていた。




本多サドさん。好きですねえ。この人はいつ徳川家に帰参したかよくわからないので、もう戻ってることにします。
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