日本競馬年代記   作:くさくさ

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飛猿小次郎、戦場の新風

 

 清水屋の尽力により、婚礼からおよそ三年後、遥か海の向こう、南蛮の地から、三十頭の異国の血を引く馬たちが遠江の地へと運ばれてきた。これらは実際には、ポルトガル商人の根拠地であるゴアやマニラ、マカオなどから持ち込まれたものであった。清水屋が誇る相馬眼の持ち主が厳選したこれらの南蛮馬は、彦九郎も満足するほどの、日本の馬とは異なるしなやかさと、日本の馬をはるかに凌ぐ、堂々たる馬体、馬格を誇っていた。

 

 輸入された三十頭の馬のうち、五頭はまだ二歳以下の仔馬であり、さらに三頭の母馬は日本への航海の途中で仔を宿し、遠江の地で無事に産み落とした。これにより、清水屋の厩舎には合計三十三頭の南蛮馬が揃うこととなった。

 

 彦九郎は、輸入された成馬の南蛮馬を全て繁殖に回し、風神・雷神の仔たちとの交配に心血を注いだ。交配の成果がすぐに戦力として現れるわけではなかったが、生まれた仔馬たちの中には、親馬の優れた特徴を受け継ぎ、特に大柄な馬体を持つものや、驚くほどの速さを見せるものなど、新たな血統の傾向が明確に現れ始めていた。

 

 一方、まだ幼い仔馬たちや、日本で生まれたばかりの仔馬たちには、未来の軍馬、そして競馬を見据え、徹底した調教が施された。

 

 この頃、日ノ本は激動の渦中にあった。天正十年(1582年)、織田信長が本能寺の変で非業の死を遂げると、天下の趨勢は大きく変わり、羽柴秀吉が急速にその勢力を拡大し始めた。信長の後継を巡る争いは、やがて秀吉と、信長の同盟者であった徳川家康との間に、避けられぬ対立の火種を宿すこととなる。家康は、来るべき戦に備え、さらなる軍備の強化を急いでいた。

  

 彦九郎は一人の侍に目を留めた。名は鳥居小次郎。彼は、代々徳川家(松平家)に仕える旗本衆の一角を占める家柄の生まれであったが、その小柄な体躯ゆえに武勲を挙げることも叶わず、さりとて明晰な頭脳を誇るでもなく、どうしようもない劣等感を抱えていた。そんな彼にとって、唯一の慰めであり、心の拠り所であったのが馬の存在だった。幼い頃から馬の世話をすることに無上の喜びを感じていた彼は、必然的に厩方(うまやがた)に回されていた。そこで彼は、彦九郎に見いだされ、自身の悩みを吐露した。家からの大きな期待に応えたいが、そのための力が自分にはないことを。

 

 彦九郎は、その悩みに耳を傾けると、すぐさま提案した。

「それなら伝令兵になってみてはどうだ?お前は馬の扱いもうまいし、体が小さいということは、馬にかかる負担が小さいということだ。向いているかもしれんぞ?」

 

 彦九郎は、小次郎に自らが現代で培った「秘術」とも言える騎乗技術と、馬との意思疎通の極意を伝授した。それは、馬のわずかな動きや息遣いを読み取り、乗り手自身の重心や呼吸を同調させることで、まるで馬と心が通じ合うかのように一体となる術であった。そして、その極意を体現する革新的な乗り方こそが、「猿乗り(さるのり)」と呼ばれるものであった。鐙を短くし、馬の負担を最小限に抑え、その潜在能力を最大限に引き出すこの騎乗法は、この時代にはまだ存在しないものであった。小次郎は彦九郎の教えを貪欲に吸収し、短期間で目覚ましい成長を遂げた。彼の騎乗は、まるで馬と一体になったかのように滑らかで、その速さは徳川家中でも群を抜くものとなった。そして、馬比べにおいても頭一つ抜きんでた存在となっていった。

 

 彦九郎は、彼に一頭の南蛮馬を与えた。小柄ながら激しい気性の持ち主で、並の乗り手ではすぐに振り落とされてしまうほどの悍馬であったが、「悍馬ほどよく走る」という言葉を体現する黒鹿毛の馬だった。馬の名は「光嵐(こうらん)」といった。

 

 南蛮馬の導入から程なくして勃発した小牧・長久手の戦い(1584年)において、小次郎は、その圧倒的な力を持つ光嵐と共に戦場を縦横無尽に駆け巡り、正確かつ迅速に情報を伝達した。彼は伝令役として矢を防ぐための「幌(ほろ)」すらつけず、ただ伝令兵と一目で分かるように派手な戦衣装を身にまとい、短刀一つを腰に戦場を駆け抜けた。この命知らずの豪胆な働きに、小兵である小次郎を侮っていた者たちも認識を改め、称賛した。「あれこそは飛猿、鳥居小次郎よ!」

 

 小次郎と光嵐は、戦場のどこへでも瞬時に駆けつけ、刻一刻と変化する戦況を正確に伝え、家康の指示を各部隊に迅速に届けた。敵の奇襲の報をいち早く伝え、徳川軍が反撃の準備を整える時間を稼ぎ、孤立した部隊への援軍要請を間に合わせ、壊滅を防ぐ。その働きぶりは、時に敵陣を突破し、敵兵が矢を放つ間もなく姿を消すほどであった。これにより、徳川軍は常に敵の一歩先を行く情報戦を展開し、劣勢を覆す場面も少なくなかった。小次郎の働きは、この戦いにおける徳川軍の戦術的な勝利に大きく貢献し、小次郎はその面目を施したのである。

 

 なお、彦九郎はこの戦いの後、清水屋に新しい南蛮馬の注文を出していた。欧州の大型馬(重種馬)やオスマントルコあたりにいる馬も持って来いと。清水屋は大いに困惑した。なんでそんなに世界の馬に詳しいんだ?そんな未知の世界の馬とかどうやって手に入れればいいんだ?と。しかし、清水屋は彦九郎の無茶な要求に応えるべく、およそ十五年もの歳月をかけて、ついにオスマントルコからの密輸ルートを確立するのであった。




何で密輸かと言うと、当時のオスマン・トルコからすると、軍馬に使えるような馬は重要な戦略兵器だろうから、正規のルートでは手に入らないんじゃないかなと思ったからです。あと、国交がないし。              

ちなみに、清水屋は彦九郎のせいで、日ノ本の商人の中でも指折りの海外通になってしまいます。
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