小牧・長久手の戦いを終え、徳川家康は羽柴秀吉と和睦し、やがて秀吉は天下人としての地位を確固たるものにしていった。日ノ本は、戦乱の時代から、新たな統一の時代へと大きく舵を切ろうとしていた。
この頃、彦九郎は徳川家康の馬奉行として、その地位を不動のものとしていた。彼の指導のもと、徳川家の馬たちは質、量ともに飛躍的に向上し、その騎馬隊は日ノ本随一と謳われるまでになっていた。特に、小牧・長久手の戦いにおける鳥居小次郎と光嵐の活躍は、その名を天下に轟かせ、彦九郎の調教術と南蛮馬の優秀さを世に知らしめることとなった。
天下人となった秀吉は、その権勢を誇示するため、また、家康の持つ「馬比べ」という新たな文化に強い関心を示していた。秀吉は、自身が主催する大規模な催しの一環として、家康に馬比べの開催を提案してきた。それは、単なる娯楽に留まらず、徳川家の武威、ひいては彦九郎の馬術がどれほどのものかを見定めるための、天下人からの挑戦でもあった。
ある日、完成間もない絢爛豪華な聚楽第の一室で、秀吉は大名たちを前に、こう語りかけた。
「家康殿、聞けばそなたの家中に、馬飼彦九郎という稀代の馬奉行がいるとか。その男が創始したという『馬比べ』とやら、是非ともこの目で見てみたいものよのう」
秀吉からの言葉は、表向きは友好的なものであったが、その裏には明確な意図が隠されていた。秀吉は、宣教師から献上されたという、見事な異国の馬を所有しており、その馬をこの馬比べで披露するつもりであった。そして、その馬比べを、完成したばかりの絢爛豪華な聚楽第の落成式に合わせて行うことを、ついでに伝えてきた。
家康は、秀吉の提案に静かに耳を傾け、やがて口を開いた。
「ははあ、殿下のお言葉、畏れ入ります。馬比べの儀につきましては、我が馬奉行とよくよく相談し、改めてご返答申し上げましょう」
家康の言葉は、秀吉の誘いを断るものではなかった。むしろ、この好機を最大限に活かし、いかにして徳川の武威を示すか、その具体的な戦略を彦九郎と練るための時間稼ぎであった。
後日、秀吉の使者が家康のもとを訪れ、馬比べの具体的な条件を伝えた。その内容は、家康を少なからず驚かせた。
「殿下は、風神の血を引く馬の遠駆けにおける強さが天下に知れ渡っていることを承知の上で、あえて長距離の勝負を第一に据えられました。されど、殿下は、武士の馬術において要となる駆け比べの速さ、あるいは障害を越える妙技においてこそ、殿下の御馬の真価が問われることになりましょう、とのことでございます」
それは、風神の系統が持つ圧倒的なスタミナを警戒しつつも、自らの馬のスピードと多様な能力に自信を持っていることを示唆していた。この天下人からの挑戦に、家臣の末席にいた彦九郎は、不敵な笑みを浮かべていた。
秀吉が提案してきたのは、三本勝負であった。
第一の勝負は三十三町(およそ3600メートル)の長距離、第二の勝負はおよそ十八町(2000メートル)、そして第三の勝負はおよそ三十八町(4100メートル)の障害競走であった。秀吉側の思惑は明確だった。第一の長距離勝負では、風神の血を引く徳川の馬に花を持たせ、続く中距離と障害競走で勝利を収め、天下人としての面目を保つ算段であった。
しかし、彦九郎は天下人の思惑など意に介さなかった。彼の頭の中には、ただ「勝利」の二文字しかなかった。彼は空気を読むことなく、それぞれの距離と障害に最適と思われる馬と騎手を全力で選出する。特に二千メートルの勝負には、雷神の血を色濃く受け継ぐ一頭の馬を投入した。これが、歴史書に初めて雷神系統の馬の名が記される瞬間となった。
この馬比べの舞台は、聚楽第の近くに特設された。徳川家の普請方も協力し、短期間で壮麗な馬場が造成された。コースはトラック型で、内側に平地競走用の草場、外側に障害競走用のコースが設けられ、それぞれ二か所に坂が設けられていた。貴人方を迎え入れるため、馬場近くには仮設の宿も設けられ、万全の準備が整えられた。
勝負の日、京の都で初めて天皇の御前で行われた馬比べは、人々の熱狂の中で始まった。羽柴秀吉の威光を示すべく、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家といった有力大名たちも、それぞれが誇る名馬と、家中の腕利き(多くは伝令兵)の騎手を携え、この晴れの舞台に臨んでいた。
一本目の三十三町の長距離勝負では、風神の血を引く「疾風(はやて)」が、スタートから逃げを打ち、後続を何馬身も突き放しての強い勝ち方を見せた。秀吉は不満げな表情を浮かべつつも、後陽成天皇の御前であるため「まあ、長距離は徳川の得意とするところゆえ、致し方なし」といった風情で、渋々といった様子で頷いた。一方、天皇は疾風のあまりの速さに大はしゃぎで、「なんと美しい馬よ、まことに見事な走りである!」と、惜しみない賛辞を送った。
二本目の十八町の勝負では、雷神の血を引く「迅雷(じんらい)」が、後方待機から最終コーナーを抜け、直線に入った後の追い込みが決まり、まさに稲妻のような加速で他の馬たちを追い抜いていった。秀吉は雷神系統の噂を聞いてはいたため、決して油断をしていたわけでは無かったが、その想像を超えた爆発力のすさまじさに愕然とした。天皇はまたしても興奮し、「なんという力強さじゃ!加速する瞬間、馬場の草と土が爆発しておったぞ!」と叫んだ。
そして迎えた三本目の障害競走。ここには、小牧・長久手の戦いでその名を馳せた鳥居小次郎と、その相棒である光嵐が出場した。その場にいた武士たち、特に伝令を専門としていた男達は、あの「飛猿」の妙技を一目見ようと、かぶりつきでその走りに注目していた。猿乗りは、前二頭の騎手たちも既に習得していたが、小次郎のその熟練度は、他の騎手たちに比べても頭一つ二つ抜けていると、一目で見てわかるものだった。その走りはまさに人馬一体。一つの生き物のような一体感で、次々と障害を軽やかに越えていった。後陽成天皇はもはや言葉もなく、大興奮で手をひたすら打っていた。
この結果は、秀吉の思惑とは裏腹に、彦九郎が選んだ馬たちが圧倒的な力を見せつけ、三本全てを制するというまさかの全勝を飾った。秀吉は障害レースの勝負が決した直後、苦虫を噛み潰したような顔を一瞬見せたが、すぐに気を取り直し、にこやかに家康や後陽成天皇と言葉を交わし、出場したすべての馬と騎手に賛辞を贈った。
秀吉は、天皇の御前で面目を丸潰れにされ、歯噛みして悔しがった。しかし、天皇がこの馬比べをいたく気に入り、彦九郎にお褒めの言葉をかけ、今後も定期的にこの催しができぬかと提案してきたこともあり、天下人といえどもすぐに報復をするわけにはいかなかった。
彦九郎の野望は、天下人の思惑をも超え、着実にその歩を進めていた。
はい、天皇賞の起源になるレースのお話でした。