東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
朝靄が村を包み込み、炊き出しの煙が軒先に立ち上る頃。
諏訪村――いや、今は八坂神奈子の統治に移ったこの村では、まだ寝ぼけ眼の村人たちが一日の準備を始めていた。
「……今日は冷えるなぁ。朝餉でも炊いて……っと」
ある一軒の家、年老いた男が味噌汁の鍋を火にかけようとしたそのとき、外からかすかに“ざわっ”と草が揺れる音がした。
風のない朝――それは明らかに不自然な気配だった。
「……ん?」
男は眉をひそめ、戸口へと歩く。
ごく普通の朝のはず。だが、なぜか背筋に氷のような感覚が走る。
そっと戸を開けると、そこにいたのは――
白く、長く、滑るように蠢く異形の存在。
全長はゆうに大人三人分。分厚い鱗が朝日に鈍く光り、その冷たい眼が、まっすぐに男の目を射抜いていた。
「……ッ!」
一瞬で血の気が引く。男は何も言えず、戸を“バンッ”と乱暴に閉めた。
心臓が早鐘を打つ。
(なんで、なんで白蛇がここに……?)
震える手で柱をつかみ、記憶を探る。
あの白蛇は、かつてこの地の守護神だった“洩矢諏訪子”の神獣。 だが彼女は、八坂神奈子に敗れ、すでに追いやられたはずでは――?
「まさか、神奈子様の統治に切り替えたことを……怒ってるのか……?」
男の脳裏に、ぞっとする光景が浮かぶ。 白蛇が夜な夜な村を這い、信仰を裏切った者の寝所に忍び込み、いつのまにか喉元に巻きつく――
(信仰を変えたのは……神の怒りに背くことだったのか……)
その時、家の外を“ずる……ずる……”と何かが這う音が通り過ぎていく。 白蛇はその家を一周するようにして、やがて隣の家へと向かっていった。
次の家でも同じように。
玄関の前に静かに佇み、何もせずに、ただ**“見つめる”。**
その目に宿るのは、罰でも、怒りでもない。もっと冷たい――“見届ける者”の眼差し。
「見られている……我々の選択が、“誰を神と仰ぐか”が、あの蛇に……いや、神に見張られている……!」
村人たちは次第に畏怖を覚え始めた。 誰も傷つけていない、何も壊していない、ただ歩くだけ――
それだけで、“信仰を裏切った”ことを思い出させるには、十分すぎた。
朝の空気は、もう温かくなかった。 村全体に、目に見えぬ蛇の冷気が這いずりまわるような気配が充満していた。
その朝、村中に不穏な空気が流れ始めた。
白蛇の足音なき巡回――それは家々を静かに這い、村人たちの胸中に“かつての神”の存在を蘇らせていた。
とある家では老婆が膝を抱えて震えていた。 「見たよ……あの目は……災厄の前に現れる兆し……諏訪子様が怒っておられる……」
そんな中、村の集会所で男たちがざわついていた。
「おい、あの白蛇は……」
「間違いねぇ。洩矢様の使いだ」
「昨日までなんともなかったのに、今朝から村中を見て回ってる。まるで“何か”を試してるように……」
「神奈子様の軍勢は強い。勝った。それは事実だ。だが……」
一人の壮年の男が、ぽつりとつぶやく。
「……俺たち、神様を捨てたんじゃないか?」
誰もが口を閉ざす。 それを否定する声は、どこにもなかった。
その時、巫女が立ち上がった。 東風谷家の末裔――かつて諏訪子に仕え、神奈子によって地に伏した巫女であった。
「私たちは、諏訪子様に祈りを捧げていた。雨を願えば雨が降り、豊穣を祈れば実りを与えてくれた……。 でも、戦が始まったあの日、私たちは神奈子を待たずに戦いを挑んだ」
巫女は、手にした小さな紙垂を胸に掲げる。
「けれど、忘れていた。神は、“力”ではなく“心”で結ばれる存在だということを」
村人の中に、静かなざわめきが広がる。 誰もが思っていたが、誰も口にしなかった言葉が、そこにあった。
その瞬間、村の中心にある石碑――諏訪子が祀られていたかつての社の跡地に、ふわりと白蛇が姿を現した。
誰に襲いかかるでもなく、ただ石碑の前に身を横たえるようにして、まるで“戻るべき神の居場所”を示すかのように静かに伏していた。
そして――誰かが、言った。
「……やっぱり、洩矢様を怒らせちゃいけねぇ」
「神奈子様は強い。だが、“この地”を守ってきた神様は、諏訪子様だ」
「神様は、追い払うもんじゃない……“迎える”ものだ」
一人、また一人と―― 石碑の前に人が集まり、花を供え、昔のように手を合わせはじめた。
忘れていた祈り。
見捨てたと思っていた神。
それが、いま“静かな怒り”によって、再び村人たちの心に火を灯しつつあった。
そのすべてを、森の中の朽ちた祠から――諏訪子と隠岐人は、見つめていた。
祠の奥、苔むした梁の下。
諏訪子は岩に腰かけ、白蛇の頭を静かに撫でながら呟いた。
「……ね、見たでしょ? 信仰ってのは、消えたように見えても、ちゃんと“土に根を張ってる”ものなんだよ」
その隣で隠岐人は腕を組み、村の方角に目を細めていた。
「……それでも、決着はまだついていない。人の心が揺れても、あの御柱が立ち続ける限りは」
「うん、まだ“神奈子の支配”は終わってない。だけど、ね――あの白蛇のおかげで、人々の心の隙間に、もう一度私の名前が芽吹いた。少しだけ、力も戻ったよ」
諏訪子はすっくと立ち上がり、地面についた手を軽く払った。
「これでようやく、“土着神”として土俵に立てるってわけだ。あとは――」
「――八坂神奈子、か」
一方その頃、村の中心。
太鼓も笛も止まり、祝宴の喧騒はどこかに消えていた。 残るのは、焚かれた火の揺らめきと、静まり返った夜の空気。
八坂神奈子は一人、広場の中央に立っていた。
その眉が、ぴくりと動く。
「……この気配。懐かしいな。東風谷の巫女と戦った時にも、ほんのわずかに感じた。やはり……洩矢諏訪子、貴様だったか」
神奈子は大杯を静かに地面に置き、夜空を見上げる。
雲の切れ間から覗いた月明かりのなか、わずかな神気の揺らぎが風に溶けて漂っていた。
「いいだろう。この地の神として、どちらが相応しいか――力と信仰、その両方で決める時だ」
背後に立てられた御柱に、神奈子が手を添える。
その瞬間、地面がドン……と低くうねるように震えた。
「来るがいい、洩矢。土に伏した古き神の意地、見せてもらおうじゃないか」
八坂神奈子は、口元に挑発的な笑みを浮かべた。
その眼には、これから始まる“神と神の争い”への興奮が、はっきりと宿っていた。