東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
深く、いつもよりもさらに深くスカーフを被り、赤蛮奇は足早に神社への坂を登っていた。
回りの視線が肌に刺さる。「首の傷を隠しているあの子だ」という、慣れ親しんだ目つき。
だが今は、その奥に潜む恐怖のほうが大きかった。――もし本当に“首無し”の自分を見られたら、と考えるだけで汗が止まらない。
幸い誰にも気づかれず、守矢神社の前に立つことができた。
胸の奥で息を吐き、赤蛮奇はそっと扉を押し開け、中を覗き込む。
人の気配はない。
「……誰か、いますか」
かすれた声が、空の社殿に吸い込まれる。
そのときだった。
背後から、静かだがよく通る声が響く。
「おや、盗みに入る場所を間違えてないかい?」
心臓が跳ねる。
赤蛮奇は反射的に振り返った。そこには小柄な少女――いや、どこか神秘的な気配を放つ存在、洩矢諏訪子が立っている。
「あっ……違う、一苗さんに用があって……」
「一苗を? あの子に妖怪の知り合いは、半妖の隠岐人くらいしかいないはずだけどね」
その一言に、赤蛮奇の血の気が引いた。
この少女は、自分を“妖怪”だと見抜いている。
「違う、私は妖怪なんかじゃ……」
「明らかに妖力が滲んでるけどね。――弾幕」
諏訪子の指先から、軽やかな光弾が飛び出した。
初めて見る弾幕に、赤蛮奇は身じろぎもできず、ただ光に打たれて倒れ込む。
その衝撃でスカーフがほどけ、転がった頭部が床を跳ねた。
「……ほら、頭が転がってるよ。どこの世界に首のない人間がいるって言うんだい。あの子に会わせるわけにはいかないね」
鋭い瞳に射抜かれ、赤蛮奇は息を呑む。
「ひっ……」
頭を抱え、転がるように森の中へ駆け出した。
(無理だ、無理だ……一苗さん、どうしていないの……。もし会えたとしても、妖怪の私には……もう会ってくれないのかな……)
深い木立に紛れながら、赤蛮奇の胸に渦巻くのは、安堵ではなく絶望だった。
森の奥は薄暗く、昼なお冷たい。
赤蛮奇は木の根元に座り込み、両手で頭を抱えて泣いていた。
「もう……どうしたら……」
声はか細く、森の湿った空気に溶けていく。
その時、草をかき分ける音。
振り向けば、黄ばんだ目が闇に光っていた。
狼たちだ。数匹が、音もなく赤蛮奇を取り囲んでいる。
「やめて! 来ないで!」
叫んでも、狼は腹を空かせた野生のまま、じりじりと距離を詰めてくる。
喉の奥が震え、体が動かない。
その刹那、森の奥から遠くまで響くような遠吠えが轟いた。
狼たちが一瞬たじろぐ。
赤蛮奇がそちらを見やると、木立の間から一人の女が現れた。
人間に近い姿だが、毛並みと耳は狼そのもの――人狼、今泉影狼だった。
「こっちに来て」
低くも優しい声。
差し出された手に、赤蛮奇は反射的に手を重ねる。
影狼が牙を剥き、低く唸ると、野良の狼たちは獲物を奪われた悔しさに吠えながらも、やがて森の闇に消えていった。
「ほら、もう大丈夫だよ」
影狼はふっと微笑む。
「私もだけど……君、妖怪なのに弱いんだね」
「ありがとう……妖怪、そうですよね……」
赤蛮奇はうつむき、声を震わせた。
「何かあったのかい? 私でよければ話を聞くけど」
赤蛮奇は、目覚めたら妖怪になっていたこと、神社でのこと、そしてどうしていいかわからない不安を一気に吐き出した。
「人間から妖怪に……ちょいちょい聞く話だけど、大変だねぇ」
影狼は頬杖をつきながら呟く。
「このまま家に戻っても、神様には妖怪なのがバレているし……もうどうすればいいか」
少しの沈黙の後、影狼は柔らかく笑って言った。
「うーん……それなら、家に来る? 私も一人なんだ」
赤蛮奇は驚いて目を見開く。
「いいの……?」
「いいよ。私も一人なんだもの」
その声に救われるように、赤蛮奇はこくりと頷いた。
二人は並んで立ち上がり、森の奥にある影狼の住処へ向かって歩き出した。
影狼の家は、森の奥の岩場に建てられた小さな木造小屋だった。
古びてはいるが、壁には干した薬草やハーブが吊るされ、床には柔らかな毛皮が敷き詰められている。
外の冷たい風とは対照的に、室内には焚き火の香ばしい匂いと暖かな空気が満ちていた。
赤蛮奇は戸口で立ち尽くしていたが、影狼が笑いながら手を引く。
「遠慮しないで、座って。……ほら、冷えただろう?」
差し出されたのは、湯気の立つ木の器。
中には野草を煮出した素朴なスープが入っていた。
赤蛮奇はおずおずと受け取り、口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、やさしい温かさが喉を通って胸に広がっていった。
「……おいしい」
呟いた声に、自分でも驚く。
人間だったころ、誰かと同じ食卓を囲むことすらほとんどなかった。
その寂しさを、今、初めて理解している気がした。
影狼は向かいに腰を下ろし、尻尾を揺らしながら笑った。
「気に入った? 私、こう見えて料理は得意なんだ」
焚き火の明かりに照らされた影狼の横顔は、獣の耳を持ちながらもどこか母性的で、赤蛮奇の胸の奥の不安をほどいていくようだった。
夜が更け、二人で毛皮の上に腰を下ろしていると、赤蛮奇はぽつりと呟いた。
「私、人間の時……友達なんて一人もいなかったんです」
「そうなの?」影狼は首をかしげる。
「首の傷を笑われて……みんな避けて。怖くて、誰にも近づけなかった。
でも、今は……妖怪になって、こうして影狼さんと話してて……不思議なんです。人間の時より、誰かがそばにいる気がして」
その言葉に、影狼は目を細めて笑った。
「妖怪ってね、怖いものだって思われてるけど、実は“ひとり”でいるのが苦手なやつも多いんだよ。特に力の弱い私なんかね。だから仲間を見つけてよかったよ。」
赤蛮奇はふっと笑い、初めて肩の力を抜いた。
自分の頭と体が離れていても、こうして誰かと同じ空間にいられる。
その当たり前のことが、今は胸にしみるほど嬉しかった。
焚き火がぱちぱちと鳴り、影狼の尻尾が毛布のように赤蛮奇の肩にかかる。
赤蛮奇はその温もりに身を預けながら、静かに目を閉じた。
(人間の時より、今の方が……友達がいる)
そう思えた瞬間、胸の奥にあった重たい孤独が、少しずつ溶けていくのを感じていた。