東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる   作:四国の探索人

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第2話 命名式

「……ここは?」

 

少年が掠れた声で呟いた。

それは音というより、想念に近かった。

 

目を開けると、そこは地でも天でもない。

どちらともつかない、奇妙な空間だった。

 

足元には、漆黒の鏡面のような“床のようなもの”が広がり、

一歩踏み出せば、波紋のような光が揺れる。

 

天井も壁もない。

霧が漂い、その上空には――無数の扉が、宙に浮かんでいた。

 

朱塗り、金属、木彫、障子、見たことのない様式のものすらある。

それらは静かに、勝手に、開いたり閉じたりを繰り返していた。

 

「ここは“後戸の国”だよ」

 

声がした。

 

「まあ、難しいことは考えなくていい。……私の住処とでも覚えておけばいい」

 

現れたのは、一人の女。

黄色の衣に金の扇。背中には、大きな扉の紋。

摩多羅隠岐奈――この時代では、まだその名すら知られていない神。

 

少年は、ただその女を見上げていた。

 

瞳に色はなく、魂の光も宿っていない。

まるで、自分という存在を見失った抜け殻のようだった。

 

隠岐奈はそっとため息を吐く。

 

「……魂が、削れているね。」

 

少年の頬が、かすかに震えた。

 

「その不死の効力がそうさせているのだろうか」

 

今度は、指がぴくりと動いた。

 

隠岐奈は膝を折り、少年の目の高さにしゃがむと、扇で口元を隠して言う。

 

「ここは、君を処分するための場所じゃない。

 ここは、“どう生きるか”を考える場所。」

 

「……まずは、君に“場所”を与えよう」

 

隠岐奈が空に手をかざすと、空間にひとつの扉が出現した。

古びた木造の引き戸。

朽ちかけた神社の倉のような、忘れ去られた神聖さを持つ扉だった。

 

「扉の向こうは、君が初めて“自分で選ぶ部屋”だ。

 住むも、籠るも、崩れるも、それは君の自由さ」

 

少年はしばらく無言のまま、その扉を見つめていた。

 

やがて、一歩。

また一歩と足を動かし、扉の前に立つ。

 

「……開けても?」

 

くぐもったその声は、弱々しくも“意志”を持っていた。

 

隠岐奈は頷く。

 

「もちろん」

 

少年が引き戸に手をかけると、そこには簡素な部屋が広がっていた。

畳もなく、土間のような床に木の寝台と机がぽつんと置かれているだけ。

 

けれど、そこには“何も求められない空気”があった。

休んでいい、考えなくていい――そう言ってくれる空間。

 

少年は部屋に入り、静かに扉を閉めた。

 

それが、

不老不死の実験体が、“自らの意志で何かを選んだ”初めての瞬間だった。

 

隠岐奈はその扉を見つめ、静かに呟く。

 

「ようこそ。我が家へ――名もなき者よ。」

 

 

 

 

少年――被験体一〇二号は、部屋に入ったものの、何もすることがなかった。

 

机には何も置かれておらず、寝台はきちんと整えられている。

窓もない。光は柔らかいが、どこから差し込んでいるのかもわからない。

 

少年は部屋の真ん中に座り、じっと壁を見つめていた。

 

「……死ねない。老いない。

 ……でも、あのとき檻にいた他の子たちは――きっと、もう死んでいる」

 

一緒にいた子どもたち。

友達ではなかった。言葉も交わさず、目すら合わせたことも少ない。

 

だが、自分だけが生き残ってしまったという事実が、胸の奥に鈍く刺さる。

 

感情なのか、記憶の残滓なのか、自分でもよくわからなかった。

ただ、そこにぽつりと穴が空いているような、そんな感覚だけがあった。

 

――コン、コン。

 

突然、扉が軽くノックされ、がらりと開いた。

 

「よっ……えーと、ご飯できたよ?」

 

ひょっこりと顔をのぞかせたのは、爾子田里乃。

 

その隣から、丁礼田舞が無表情で言葉を続ける。

 

「食べる?」

 

少年はしばらく二人を見つめていたが、やがて静かに頷いた。

 

「……食べます」

 

そう言って立ち上がり、彼女たちの後をついて歩いた。

 

再び戻ったのは、あの扉が浮かぶ広大な空間。

その中央に、粗末ながらも整えられた食卓があった。

木の膳に、湯気の立つ飯、煮物、椀。どれも温かく、匂いがあった。

 

「月と同じ食事かは分からないけど……」

里乃が苦笑する。

 

「……口に合うかな」

舞が小さく付け加えた。

 

少年は一礼もなく、膳の前に座り、箸を手に取らず、そのまま手で食べ始めた。

 

ご飯をつかみ、煮物をそのまま口に運ぶ。

 

「わ、わわわ……!?」

里乃があたふたと身を乗り出す。

 

「箸……使って」

舞がさらりと補足した。

 

少年は手を止め、箸を見て首を傾げる。

 

「……この棒切れが“箸”ですか?」

 

「そうそう。こうやって使うの」

里乃は隣に座り、ゆっくりと箸の使い方を見せた。

少年はじっと見つめてから、ぎこちなく箸を持ち直す。

 

「……月では使わなかった?」

 

舞が問うと、少年は小さく答えた。

 

「……“何か分からない固い食事”を、床に置かれて……

 一人一枚、それを食べるだけでした」

 

食べるというより“与えられていた”に近い口ぶりだった。

その食事に味や色はなく、感情も記憶も結びついていない。

 

――だから今、ここで初めて“人としての食事”をしている。

 

そんな静かな時間のなか、隠岐奈がゆっくりと現れた。

 

「おい、君」

 

少年は箸を止めて、反射的に「はい」と答える。

 

「いろいろ聞きたいことはあるが……まず、名前を教えてくれ。会話しにくくて仕方ない」

 

「……名前」

 

少年は一瞬、言葉を詰まらせた。

 

「月では……“一〇二号”と呼ばれていました」

 

「……なるほどな。流石に数字はまずいな」

 

扇を顎に当て、隠岐奈はうむ、と頷く。

 

「よし、名前を考えてやろう」

 

 そう言って立ち上がると、霧に包まれた空間をゆっくりと歩く。

 

「“月”を思わせる名は避けよう。あの場所の記憶を、これ以上刻ませたくないからな」

 

「じゃあ、どうするの?」

里乃がやや軽い調子で訊いた。

 

「……この子は、お師匠様に拾われた」

舞がぼそりと呟く。

 

「そうだ」

隠岐奈が頷く。

 

「私が拾い、私が養う。ならば、名には“私の一字”を与えるのが筋だろう」

 

彼女は再び少年の前へと戻り、その目をまっすぐに見た。

 

「“隠岐”――これは、私の名に含まれる文字だ。

 “隠”は見えざるもの、“岐”は分かれ道を意味する。

 そして“人”は……君が、“人としてもう一度生きる”ことを願って加えた」

 

「摩多羅 隠岐人(おきと)」

 

その名が、静かに空間に響いた。

 

「隠された場所で拾われ、道を外れ、なおも“人”として歩む者。それが、君の名だ」

 

少年は、一瞬目を見開いた。

 

そして、声にならない音を震える唇から絞り出す。

 

「……おきと……」

 

自分の口で、それを繰り返す。

 

「……わたしは……摩多羅 隠岐人、です」

 

その瞬間、彼の瞳にわずかに光が灯った。

長く閉ざされていた魂の扉が、ほんの少しだけ、内側から開いたように。

 

隠岐奈は小さく笑い、軽く頷いた。

 

「ようやく、君を“名前で呼べる”ようになったな――隠岐人」

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