東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
隠岐人は宮古芳香を支えるように歩きながら声をかけた。
「ほら、家はどこですか。送りますよ」
だが、芳香は答えなかった。うつむいたまま、震える唇でかすれた声を吐く。
「……なぜ。なぜだ。呪いだというなら、その呪いを私に寄越してくれ……まだ死にたくない……いやだ……いやだ……」
次の瞬間、痩せ細った指が隠岐人の衣を掴む。骨のような手は、必死に縋るように震えていた。
「なんでもやろう。金でも地位でも、望むものすべて与える……だから……死なない方法を……頼む……!」
声は途切れ、激しい咳が芳香の身体を揺らした。床に散る鮮血が、月光の下でぬらりと濡れる。
「大丈夫か」
隠岐人が手を伸ばすと、芳香はかすれた声で笑った。
「大丈夫なものか……! 家に帰れば布団の上で死ぬのを待つだけ……それが生きていると呼べるか……?」
隠岐人は迷った。
そして、決して口にすべきではない言葉を、零してしまう。
「……人を“辞める”選択肢があります。村で……人間が妖怪になった例を見たことがあります。死から逃れる術としては……」
その瞬間、芳香の目に生気が戻った。まるで死体に魂が戻ったかのように。
「――人間を辞める。そんな道があったか」
「忘れてください。妖怪になるというのは救いではなく、ただの異形――」
「礼を言おう、隠岐人。お主は……私に道を示した」
笑みは喜びとも絶望ともつかぬ、ぎらついた感情で満ちていた。
「礼がいるな。金か? 屋敷か? それとも……この朽ちかけた身体でも抱くか?」
「冗談でも言わないでください。病人にそんなことは」
「冗談じゃ。冗談」
彼女は懐から一振りの扇子を取り出し、隠岐人に押しつけるように渡した。月光を吸い込むような紋が刻まれている。
「宮古の家の印だ。売れば金にもなるし、都での面会の札にもなる。持っていろ。私は――調べることがある」
隠岐人が呼び止めようとした時、すでに芳香は歩き出していた。
足取りはふらふらなのに、迷いは一切ない。
「次に会う時、私はもう人間ではない。妖となって戻る。その時は改めて礼を言おう。ではな」
月が見下ろす中、宮古芳香は闇へと溶けていった。
隠岐人は残された扇子を見つめ、かすかに呟く。
「……救いではないが、あれが生きる気力と言うやつなのか」
隠岐人は宮古芳香の姿が闇に消えるのを見届けると、深く息を吐いた。
「……帰るか」
指先が虚空をなぞり、空間が裂ける。
いつもの自室へと繋がるはずの扉――その中へ足を踏み入れた瞬間、違和感が肌を刺した。
「……ここは?」
見覚えのない空間。
薄紫の帳が揺れ、視界は霞のような境界線に歪んでいる。
「私の空間じゃない。扉を間違えた? 隠岐奈の場所でもない……誰だ、ここは」
その問いに答えるように、背後から女の声が落ちてきた。
「ようこそ。あなたの“扉”は、私の“隙間”に繋がったのよ」
振り向くと、そこには紫を纏う女性が立っていた。
その存在感は圧倒的で、世界の構造そのものが彼女を中心に歪むようだった。
「突然の侵入、驚いたでしょう? 私は八雲紫。境界を操る者よ」
彼女は扇を軽く煽り、愉快そうに目を細める。
「さて――少し、質問をさせてもらうわ。
“月の民”という言葉に、聞き覚えはある?」
隠岐人の瞳が一瞬だけ揺れた。その微かな変化を、紫は決して見逃さなかった。
「その反応――やはり、ね」
胸の奥で脈が跳ねる。隠岐人は息をのむ。
(この人……月を知っている。どこまで、何を……?)
紫は静かに一歩踏み出した。その足取りは優雅だが、空気が凍るほどの殺意を孕んでいた。
「目的は知らないわ。けれど――月から来た存在に、地上を歩かせる訳にはいかないの」
裂け目が生まれる。紫の隣に開いたスキマが息を呑むほど滑らかに揺らぎ、そこから一本の槍が姿を現した。
「死になさい」
紫の声と同時に、槍が走る。
隠岐人が防ぐ間もなく、次々とスキマが開き、三本、四本と槍が身体を貫く。
「ぐっ……ならば……!」
血を吐きながらも扉を展開し、迫る槍の一本を吸い込み、紫の死角へと射出する。
だが――次の瞬間、それは自分の腹に突き刺さった。
「っ――!? なぜ……!」
紫は扇を口元へ運び、楽しげに目を細める。
「能力の扱いが甘いわ。“扉”に入る前に私のスキマに繋いだの。」
隠岐人の身体は地面に縫い付けられるように槍で固定されてゆく。
逃げ道として開いた扉も、紫のスキマに吸収され、出口として成立しない。
「自分の上位互換が相手でしたか……」
「成長する前に摘み取るのは、合理的な選択よ」
紫がゆっくりと近づく。
その歩みは捕食者のそれであり、隠岐人の呼吸は浅く速くなっていく。
(まずい……逃げ道がない……いやだ……誰か……
――隠岐奈、助けてください)
最後の抵抗とばかりに神力を解放する。
しかし紫の眉が小さく動いただけで、隠岐人の意識はそこで途切れた。
「神力……この子のものじゃない。だとしても――ここは私の隙間。
誰であれ、たどり着けないわ」
足元に倒れた隠岐人の血が床に滴り落ちる。紫は指先ですくい、舌先に乗せた。
「……やっぱり。これは“私の血”。
月は、私を殺すためにこの子を生み出した……?
殺せない身体にしてわざと地上へ放った……そういうこと?」
紫は一度距離を置く。だが隔離方法を考える間にも、隠岐人は死なず、ただそこに存在し続けている。
「永遠に隙間に閉じ込めるか……扱いに困るわね」
独り言のように呟いたその時――
ギィィ――ン
紫が開いた覚えのない扉が、空間の中に現れた。
紫の瞳が細められる。
「……誰? 私は客を呼んだ覚えはないのだけれど」
扉の向こうからゆっくりと姿を現した影が、紫の視線を真正面から受け止めた。
「招待? 確かに受けてはいない。だが――この子は私の“保護下”だ」
声は静かだった。だがその足音が床を踏むたび、空間そのものが震える。
「妖怪風情が、神の祝福を受けた子を――よくも弄んでくれたな」
摩多羅隠岐奈。
紫の顔に、初めて明確な警戒が浮かんだ。
隠岐奈は怒っていた。
それは、静かで――しかし底知れぬ神の怒りだった。
仕事が忙しく投稿遅れてすいません。