東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
一時間ほどして、女はようやく満足したように指先で机を叩いた。
月に人がいる――その話を聞き終えた彼女は、面白そうに目を細める。
「ふーん。月に人がいるのは本当なのか。」
乾いた声に、隠岐人は淡々と答えた。
「穢れの溜まり場みたいなここは、向こうからすれば相手にされませんよ。」
次の瞬間だった。
「――お座り。」
短い命令。
身体が、勝手に動いた。
膝が折れ、床に落ちる。
自分の意思ではないと分かっていても、止められない。
女は満足そうに口角を上げた。
「よしよし。いい子ですね。」
指先が頭に触れる。
撫で方は優しい。
だがそれは、言うことを聞いた“駒”を褒める手つきだった。
やがて彼女は椅子にもたれ、軽い調子で言う。
「さて、最初の仕事を頼もうか。」
間。
「神子もいなくなったから――ちょっと都を荒らしてきてよ。」
思わず顔が上がる。
「……何を言って――」
「平和なんだよね、最近。」
女は退屈そうに指を弄んだ。
「神子の成果なのか知らないけどさ。
こっちは商売がやりにくいのなんの。」
その瞳に、迷いはない。
「貧困が広まれば、ビジネスがしやすくなる。」
隠岐人の喉がわずかに鳴る。
「疫病の蔓延などが起きて逆効果じゃ――」
言い終わる前に、女は首を傾げた。
「死ぬの、人間だけでしょ?」
本気で分かっていない目だった。
そこに善悪の基準はない。
ただ“効率”だけがある。
そして――
身体が、勝手に立ち上がった。
夜の都に火の手が上がる。
扉が開き、倉が崩れ、金品が消える。
怒号。
悲鳴。
憎悪。
無数の視線が、隠岐人に突き刺さる。
それでも――
止まれない。
悪夢のような日々が続いた。
望まぬ放火。
望まぬ強奪。
望まぬ襲撃。
拒絶しようとするたび、札が静かに意思を削る。
一ヶ月も経つ頃には――
何も、感じなくなっていた。
ある日。
「お疲れ様。見事な働きぶりだね。」
労わるような声。
女は、満足げに微笑んでいた。
操っているだけの駒に向けるには、どこか甘い声音。
その手が、また頭に触れる。
(……犯罪をさせてくるのに)
思考が、ゆっくりと濁る。
(この人は……褒めてくれる)
その変化を――
女は見逃さなかった。
口元が、静かに吊り上がる。
「……うん。いい具合だ。」
そして椅子から立ち上がり、楽しげに告げた。
「今日から、やることを変えようか。」
反射的に返事が出る。
「……何を?」
命令を疑わず、要件だけを尋ねる。
その様子に、女は心底嬉しそうに笑った。
「ビジネスにも邪魔が入るんだよね。」
指先で机をとん、と叩く。
「君が都を荒らしてくれたおかげで、貧困層に丹薬の需要は出てきた。」
一拍。
その目が、冷たく細まる。
「――だけど、それを邪魔する連中がいてね。」
静かな命令。
「ちょっと消してきてよ。」
間髪入れず、口が動いた。
「……はい。」
丹薬の集積地。
近頃、この周辺では放火や盗難が相次いでいる。
その警備として――隠岐人は夜の倉庫街に立っていた。
静まり返った夜。
だが。
――ボッ。
倉の一角に、小さな火が上がる。
(……来た。)
隠岐人は迷いなく扉を開いた。
空間が裂け、次の瞬間――
犯人の真横に現れる。
拳を叩き込む。
「――っ!」
不意打ちを受け、相手の体がよろめく。
だが。
次の瞬間。
隠岐人の目が、見開かれた。
「……影狼?」
相手も同時に固まる。
「……隠岐人?」
一瞬の静止。
本来なら、そのまま任務を遂行するはずだった。
だが――
身体が、微かに軋む。
(……久しぶりの……)
思考が、揺れた。
その隙に、命令が内側から押し寄せる。
――排除せよ。
隠岐人の瞳が歪む。
「……避けろ!」
「私と分かったなら攻撃しないでよ!」
噛み合わない会話。
隠岐人は歯を食いしばる。
「額の……これ!」
影狼の視線が跳ね上がる。
「……制御札。」
状況を理解した瞬間、彼女の口元がわずかに歪んだ。
「隠岐人。君も案外マヌケなんだね。」
「……っ。」
否定できない。
影狼が地面を蹴る。
「そういう事!」
鋭い爪が振り下ろされる。
だが――
ギィン!!
隠岐人は刀で受け止めた。
火花が散る。
「丹薬の邪魔をする相手を消せとしか命令されてない。」
低い声。
「だから話せるうちに言う。――もう関わるな。」
腕が震えている。
「……手が止まらない。」
影狼の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「一応、友達でしょ。」
間合いを詰める。
「助けるわよ。」
押し合い。
火花。
軋む刃。
――バキン。
鈍い音と共に、刀が折れた。
次の瞬間。
爪が、隠岐人の体を裂く。
血が散る。
「……!」
影狼はすぐに額へ手を伸ばす。
だが――
遅い。
扉が開く。
空間が歪み、影狼の腕が強制的に引き寄せられる。
そして。
折れた刀の切っ先が――
彼女の手を貫いた。
「っ……!」
血が滴る。
影狼は反射的に手を引いた。
隠岐人の声は、低く、掠れていた。
「……逃げろ。」
「……ごめん。」
影狼は後退る。
「また助けるから。」
二足歩行で駆け出す。
だが――
負傷のせいで、遅い。
隠岐人の足が、無情に距離を詰める。
(止まれ――)
(止まれ……!)
止まらない。
腕が振り上がる。
その瞬間――
「こっちだ!」
横から、何かが高速で飛来した。
隠岐人は即座に構える。
だが、それは途中で――
四つに分裂した。
「……弾幕じゃない。あれは――」
空中で静止。
包囲。
そして。
「……赤蛮奇の頭?」
次の瞬間。
ボンッ!!
頭部が一斉に煙幕を撒き散らした。
視界が、白に沈む。
外から弾幕が数発飛び込む。
隠岐人は反射的に迎撃姿勢を取る。
だが――
それ以上、攻撃は来ない。
静寂。
やがて煙が晴れる。
そこにいたのは――
誰もいない倉庫街だけだった。
隠岐人の手が、わずかに震えていた。