東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
鬼傑組の部屋。
任務から戻った隠岐人を見て、八千慧はすぐに目を細めた。
「服が裂けてるね。それに――あげた刀も折れてる。」
指先で机をとん、と叩く。
「……負けたの?」
隠岐人は一瞬だけ視線を落とした。
「……逃げられました。」
八千慧の瞳がわずかに鋭くなる。
「相手は?」
短い沈黙。
やがて、隠岐人は答えた。
「……昔の知り合いです。」
その瞬間。
空気が、冷えた。
八千慧は背もたれにゆっくり体を預け、静かに告げる。
「――つまり、手加減して逃がした訳だ。」
間。
「期待外れだよ。」
言葉は穏やかなのに、重かった。
しばらくの沈黙。
やがて。
隠岐人が、ぽつりと口を開く。
「……友達を、斬りたくないです。」
拳が震えている。
「……見逃してください。」
八千慧の視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
「こっちには損害が出てるのに。」
ゆっくりと首を傾げる。
「そんな意見、通ると思う?」
空気が張り詰める。
その中で――
隠岐人は、床に額をつけた。
土下座だった。
「……お願いします……。」
静寂。
数秒。
椅子が、きしむ。
八千慧は立ち上がると、ゆっくり隠岐人の前に歩み寄った。
そして。
ぽん、と頭に手を置く。
「……いいよ。」
隠岐人の肩がびくりと震える。
「君のお願いだからね。」
顔を上げる。
「……いいんですか?」
八千慧はくすりと笑った。
「そもそも制御札といえど、拒否反応の強い命令は通りにくいしね。」
「……ありがとうございます。」
その声は、どこか安堵していた。
――だが。
八千慧の笑みが、少しだけ深くなる。
「その代わり。」
空気が変わる。
「叶えてほしいお願いがあるんだ。」
隠岐人の背筋に、嫌な予感が走る。
「……それは……」
八千慧は楽しげに続けた。
「君が、なりたくもない私の下僕にさせられた――鴉天狗たち、いるでしょ。」
隠岐人の指先が、わずかに強張る。
「……はい。」
八千慧は、にこりと笑った。
「――彼女らを潰してきてよ。」
沈黙。
隠岐人の喉が、わずかに鳴る。
「……えーと……」
「悪い話じゃないと思うけどな。」
八千慧は屈み込み、視線を合わせた。
「君のお願いだから、“君の友達は見逃してあげる”。」
優しい声。
だが逃げ場はない。
「その代わり、私のお願いも聞いてくれるよね?」
長い、長い間。
そして。
「……分かりました……。」
八千慧は、満足そうに微笑む。
「そんな顔しないでよ。」
指先で、隠岐人の頬を軽く叩く。
「君をこんな目に遭わせた天狗に、やり返すだけさ。」
甘い声。
「気に病む必要もない。」
さらに、畳みかけるように。
「もちろん――」
一拍。
「君が“本当に嫌だ”と思うなら、断ってもいい。」
優しい提案の形。
だが。
「君がしないなら――私が直接やるから。」
その一言で。
隠岐人の瞳が、揺れた。
(……それだけは……)
逡巡は、もう長く続かなかった。
ゆっくりと、頭を下げる。
「……喜んで……やります。」
八千慧は、隠岐人の返答を聞くと満足げに頷いた。
そして、背後の棚へ歩み寄る。
金属の擦れる音。
数本の刀、短刀、見慣れぬ刃物が机の上へ並べられた。
「はい、これを使ってね。」
隠岐人は一瞬だけ眉を寄せる。
「……いや、なくても。」
言い終える前に、八千慧の声が重なった。
「――必ず使ってね。」
柔らかな口調。
だが、拒否の余地はない。
拳で十分だ、と言いかけた言葉は喉で止まった。
(……つまり、確実に“命を取れ”ってことか。)
胸の奥が、鈍く冷える。
(天狗に勝っても、八千慧からは逃げられない……)
(負けたら――天狗に何をされるか分からない。)
思考が沈みかけた、その時。
八千慧が、ふと思い出したように言った。
「そうだなぁ。」
椅子に腰掛け、頬杖をつく。
「大天狗の首でも取ってこれたら――」
一拍。
「制御札、外してあげよう。」
空気が止まった。
隠岐人の瞳が、大きく揺れる。
「……それ、本当ですか?」
思わず身を乗り出す。
八千慧は、その反応を面白そうに眺めた。
「うん。」
口元がゆるむ。
「でもその顔――喜びすぎじゃない?」
隠岐人ははっとして視線を落とした。
「……すいません。」
「いいよ、いいよ。」
八千慧は楽しげに手を振る。
「さぁ――行ってらっしゃい。」
隠岐人が踵を返しかけた、その時。
「あっ、ちょっと。」
呼び止められる。
「こっち来て。そのまま。」
一歩、近づいた瞬間。
――ぐい。
突然、首元に腕が回された。
「……っ!?」
反応するより早く。
ぬるりとした感触が、首筋をなぞる。
「……!?」
八千慧が、ゆっくりと舌を這わせていた。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
反射的に、隠岐人は身体を押し返した。
「……何を――」
八千慧はまったく気にした様子もなく、くすりと笑う。
「もう行っていいよ。」
唇を指で軽く拭いながら、
「――マーキングは終わったから。」
その笑みは、やけに満足げだった。
「じゃあね。」
そもそも――制御札を貼られる原因になったとはいえ。
流石に、殺しは気が進まない。
(……誰か、止めてくれないか。)
そんな他力本願な願いを胸に抱きながらも、隠岐人の足は止まらない。
命令は、絶対だ。
ゆっくりと、天狗の住処へ向かう。
(助けて欲しいが……影狼たちが来たところで、相手にならないしな。)
自嘲気味に息を吐いた、その時。
山の入口。
すでに、見張りは構えていた。
犬走椛。
彼女は最初から剣に手をかけ、戦闘態勢に入っている。
「文さんがした事はこちらに非がありますが――」
静かな声。
「何をしに来ましたか?」
隠岐人は、わずかに目を伏せ。
そして、はっきりと言った。
「……大天狗の首を取りに。」
空気が張り詰める。
椛の瞳が細くなった。
「山への侵入は許可できませんね。」
「逃げた方がいい。」
短刀を握る。
「私の攻撃は――避けられない。」
次の瞬間。
隠岐人の手が扉に沈む。
そして――
椛の背後に、空間が裂けた。
しかし。
扉が開く音。
その“わずかな違和感”に、椛は反応した。
「――っ!」
咄嗟の横跳び。
刹那、短刀が空を裂く。
隠岐人の眉がわずかに動いた。
「……なら、これは。」
今度は。
椛の周囲を囲むように――
無数の扉が、一斉に開いた。
空間が歪む。
前後左右、死角という死角が消える。
椛の視線が高速で走る。
(どこから来る……!?)
判断が一瞬、遅れた。
――ドス。
鈍い感触。
短刀が、椛の腹部に突き立つ。
「……っ!」
だが。
椛の手が、がっしりと隠岐人の手首を掴んだ。
離さない。
そのまま、叫ぶ。
「文さん!!」
「はいはい!」
風を裂く音。
次の瞬間、茂みから黒い影が弾丸のように飛び出した。
――ドゴッ!!
隠岐人の首が、横から叩き折られる。
身体が地面に叩きつけられ、動かなくなる。
静寂。
だが――
数秒後。
ぐにゃり、と。
隠岐人の身体が再生を始めた。
骨が戻り、皮膚が繋がる。
射命丸が、やれやれと肩をすくめる。
「これで仕留めたかったんですがね。」
視線が鋭くなる。
「……そうはいかないようですね。」
椛は腹を押さえながらも、目はまだ死んでいない。
「やはり――」
呼吸を整え、
「制御札を取らないと、ですね。」
二人の天狗の視線が、同時に隠岐人の額へ向いた。
――そこに貼られた、制御の札へ。