東方穢天落 月の失敗作は地球に落ちて摩多羅隠岐奈に拾われる 作:四国の探索人
数週間ほどが過ぎた。
岩笠――いや、隠岐人は宮古家での生活にも少しずつ慣れ始めていた。
朝は芳香と共に書物を読む。
昼は霍青娥から仙人について教わる。
夜は庭を眺めながら和歌を詠む。
不思議な日々だった。
鬼と殴り合うこともない。
妖怪退治もない。
命を狙われることもない。
紫に言われた「人間を学べ」という課題の意味はまだ分からなかったが、少なくとも以前とは違う時間を過ごしていた。
その日も三人で書物を読んでいた。
芳香は難しい内容に頭を抱えている。
「むぅ……。」
「何故仙人というのはこうも面倒な理屈ばかりなのだ。」
青娥は微笑む。
「だから勉強するのですよ。」
「私はもう寝たいぞ。」
「まだ昼ですわ。」
芳香が机に突っ伏した。
隠岐人はその様子を見ながら、ふと疑問を口にする。
「青娥。」
「どうされました、岩笠様。」
青娥が本から顔を上げる。
隠岐人は少し考えながら言った。
「仙人とは、誰でも修行を積めばなれるものなんですか?」
青娥は扇を口元へ当てる。
「そうですねぇ。」
「難しい質問ですわ。」
少し考える。
「努力で届く部分もあります。」
「ですが、結局は才能の世界でもあります。」
隠岐人は頷いた。
予想していた答えだった。
だから質問を変える。
「では。」
視線を芳香へ向ける。
「芳香に、その才能はあるんですか。」
部屋が静かになる。
芳香も顔を上げた。
青娥は少しだけ目を細める。
「まだ芽吹いていない可能性もあります。」
柔らかな言葉だった。
だが。
隠岐人には分かる。
それは現時点では才能が見つかっていないという意味だ。
隠岐人は芳香を見る。
以前会った時よりも痩せている。
札で病を抑えているとはいえ、病そのものが消えた訳ではない。
だからこそ口にした。
「このまま弱っていくだけなら、妖怪にしてしまった方が良いのでは。」
芳香が目を瞬かせる。
だが青娥は即座に否定した。
「嫌です。」
珍しく強い口調だった。
隠岐人も少し驚く。
青娥は芳香を見つめる。
「妖怪では、いつか死が来ます。」
「寿命が延びるだけ。」
「それでは意味がありません。」
隠岐人は眉をひそめる。
「ですが。」
「その前に病で死んでしまったら。」
青娥は静かに笑った。
だがその瞳だけは真剣だった。
「私がそんなことさせません。」
隠岐人は何も言わない。
青娥は続ける。
「死んでも面倒を見ますよ。」
その言葉に。
今度は隠岐人だけでなく、芳香まで固まった。
「ん?」
「今、何と言った?」
青娥は当然のように言う。
「だから。」
「死んでも面倒を見ると。」
芳香が慌てる。
「いやいやいや!」
「死んだら終わりではないか!」
青娥は首を傾げる。
「終わりとは限りませんわ。」
その笑顔は美しい。
だがどこか底知れないものを感じさせた。
隠岐人は以前見た制御札を思い出す。
そして芳香の額の札を見る。
(この人。)
(仙人に出来なかった場合の手段も既に考えているな。)
青娥は相変わらず微笑んでいる。
芳香だけが青ざめていた。
「せ、青娥?」
「私は生きたまま仙人になりたいのだが。」
「もちろんそのつもりですよ。」
「本当か?」
「ええ。」
青娥は優しく頭を撫でる。
「ですが、万が一の備えも必要でしょう?」
「芳香、ちょっと来い。」
隠岐人は芳香の手を引き、青娥のいる部屋から廊下へ出た。
人目のないことを確認すると、小さく息を吐く。
「一つ聞きたい。」
芳香は首を傾げる。
「何だ?」
隠岐人は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「……青娥は、本当に悪い人じゃないのか?」
芳香は一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「何だ、そんなことか。」
そう言って、自分の額に貼られた札へそっと触れる。
「私が今こうして生きていられるのも、この札のお陰だからな。」
「毎日薬も用意してくれるし、勉強も見てくれる。」
「私にとっては恩人だ。」
隠岐人は芳香の表情をじっと見つめた。
そこに嘘や怯えは見えない。
心からそう思っている顔だった。
(……恐らく本当だ。)
隠岐人は心の中で呟く。
(最後に会った時の芳香は、今にも死にそうなほど病が進んでいた。)
(それをここまで持ち直させたのは、間違いなく青娥だ。)
それでも、胸の奥に引っ掛かるものがある。
先ほど青娥が口にした言葉。
――「死んでも面倒を見ますよ。」
あの穏やかな笑みを思い出し、隠岐人は無意識に拳を握った。
「……そうか。」
隠岐人の様子を見た芳香が、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたのだ?」
隠岐人は首を横に振った。
「いや、何でもない。」
(私も紫からの課題のために芳香を頼っている。)
(利用している点では、青娥を責められる立場ではないのかもしれない。)
(だが……。)
隠岐人は芳香の顔を見る。
以前より元気にはなった。
それでも、その身体は病に蝕まれ続けている。
(関わりを持ったのなら、長生きしてほしい。)
(妖怪でも、仙人でも構わない。)
(とにかく、生き延びてほしい。)
決意を固めた隠岐人は芳香へ向き直る。
「悪い、芳香。明日から数日、家を空ける。」
芳香は少し寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑って頷いた。
「……うむ。分かったぞ。」
「戻ってきたら、また一緒に勉強しよう。」
「ああ。」
短く答えた隠岐人は、その約束を胸に刻んだ。
翌朝。
まだ日も昇りきらぬ頃、隠岐人は静かに宮古家を後にする。
向かう先は、かつて死闘を繰り広げた鬼の住処。
茨木童子の元だった。
山道を歩きながら、隠岐人は考える。
(病を治せる道具……。)
(打出の小槌のような都合のいい道具があればいいんだが。)