艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十話 残響

 

翌朝、空気は刺すように冷たく、白い息が街を覆っていた。

 

 冬特有の澄んだ光が地面に落ちていたが、吹雪の心は重かった。

 あの学祭から一日――いや、たった一晩しか経っていないというのに、

 世界はまるで重力を増したように感じられた。

 

 司令――提督は、朝から出かけていた。

 

 「ちょっと、見て回るだけだ」

 

 そう言って出ていったはずだった。

 けれど、昼を過ぎても戻らず、夕方になってようやく帰宅した時の彼は、いつもの“司令”ではなかった。

 

 静かな男だ。

 仮に怒っても、それは感情の爆発ではなく、鋭い視線と淡い棘のような言葉で示す程度。

 それが――

 

 「……あのなァ!! じゃあ一体誰なら入れるって言うんだよ!? 条件クリアしてても“元艦娘”だから無理? なにそれ!!」

 

 壁越しに聞こえた、怒声。

 

 吹雪は、思わず身をすくませてしまった。

 提督が怒鳴るなど、記憶の限りでも数えるほどしかない。

 その声に混じるのは、焦り、苛立ち、そして――無力感。

 

 やがて電話が切られ、しばらくの沈黙が訪れる。

 

 気配を殺しながら台所の方へ向かうと、そこにいたのは背中を丸め、山のような資料を机に広げて項垂れている提督の姿だった。

 

 ため息の音が、冬の室内にやけに大きく響いた。

 

 吹雪は、そっと扉を閉め、物音を立てぬように自分の部屋へと戻った。

 

 布団に潜りながら、両手を胸の前で握る。

 指先が冷たい――けれど、それ以上に胸の奥が、ひりついていた。

 

 

 

 (……私、余計なことを言っちゃったのかな)

 

 最初に、学校に行きたいと口にした時、司令は笑ってくれた。

 

 「いいじゃねぇか、吹雪」

 

 そう言ってくれた。

 あの時の笑顔は、本物だったと思う。

 

 けれど――今の司令の顔には、あの笑みはなかった。

 

 

 

 「すみませんが、こちらでは……」

 

 「今期の募集はすでに締め切られておりまして……」

 

 「やはり、彼女のご出身ですと、他の生徒との適応に懸念が……」

 

 「保証人様のお立場も、特殊なものであると聞いておりますし……」

 

 

 

 小さな声で言われた拒絶の言葉を、司令はどれだけ浴びてきたのだろう。

 

 今は、艦娘であるということは“戦争が終わった存在”だ。

 戦うべき時代が終わった今、元軍属というだけで“過去の人間”とみなされる。

 それは、提督自身に対しても同じだった。

 

 そして、その彼が“我が子でもない”少女を普通の学校へ入れたいと奔走する――

 それが、世間には“厄介事の匂い”として伝わってしまっている。

 

 

 

 (でも、私は……私は……)

 

 吹雪は目を閉じた。

 

 かつて、無人の海に砲弾を撃ち込んでいた頃のことを思い出す。

 深海棲艦の姿を見た日。

 友の喪失、勝利の喜び、そして“それしか知らない”という孤独。

 

 けれどあの日、学園祭で見た景色は、違っていた。

 

 笑って、食べて、手を繋いで――

 そんな日々が、自分にも許されているのかもしれないと、そう思えた。

 

 あの一言は、心からの願いだった。

 けれどその願いが、司令を苦しめている。

 

 

 

 (……どうすれば、よかったんだろう)

 

 願っただけなのに。

 

 夢を抱いただけなのに。

 

 それすらも、許されなかったのかと、涙が滲んだ。

 

 けれど、それを流してしまえば、自分が甘えているような気がして――

 吹雪は、ぎゅっと歯を食いしばった。

 

 

 

 次の日、提督は何も言わずに、また出かけていった。

 

 笑顔もなければ、苦笑もなかった。

 それでも、最後にふと振り返って、

 

 「……吹雪、寒くなってきたから、風邪ひくなよ」

 

 そう言ってくれた。

 

 その言葉に、吹雪はうなずくしかできなかった。

 

 

 

 (私、どうしたら……どうしたらいいんだろう)

 

 誰も責めていない。

 

 けれど、自分で自分を責めてしまう。

 

 提督の苦悩も、学校側の事情も、社会の偏見も、全てわかるからこそ。

 その狭間で吹雪は、自分の“願い”がどれほど重いものだったのかを知りはじめていた。

 

 

昼下がりの空は、真冬のわりにどこかやわらかだった。

 

 舗装された道を、銀色の自転車がひとつ走る。

 新品のフレームはまだ傷ひとつなく、タイヤは軽快に路面を蹴っていた。

 

 風が吹くたび、マフラーの端がふわふわと踊る。

 ハンドルをしっかりと握るその手は少し赤くなっていたが、ペダルを漕ぐ足には迷いがなかった。

 

 ――鳳翔さんのところへ行こう。

 

 気がついたら、そう決めていた。

 

 言葉にしていなかったけれど、吹雪の心には、前日からずっと張り詰めた膜のようなものがあった。

 

 自分のせいで、提督が苦しんでいる。

 あの一言がなければ――

 

 そんな想いが頭から離れず、何をしても落ち着かない。

 誰かに話したい。けれど、司令には言えない。

 

 だから、向かった。

 

 赤提灯の小さな看板と、古風な木の暖簾。

 港のそばにひっそりと佇む、昔ながらの居酒屋「鳳翔」。

 

 店の正面ではなく、脇の小道を抜けた先の勝手口。

 そっとベルを鳴らすと、すぐに扉が開いた。

 

 「まあ……吹雪ちゃん?」

 

 顔を覗かせた鳳翔の、穏やかな声。

 彼女の顔を見るなり、吹雪は思わず、胸の奥が緩むのを感じた。

 

 「こんにちは、鳳翔さん……あの……その……」

 

 言葉にならない言葉を口の中でかき混ぜていると、

 鳳翔はその手をそっと取ってくれた。

 

 「寒いでしょう? どうぞ、入って。奥の部屋、暖かくしてあるから」

 

 頷いて玄関をまたぐと、ほんのりとした灯りと、煮物の香りが出迎えてくれた。

 

 

 

 店の裏手には、こじんまりとした和室がある。

 小さなこたつに湯呑み、飾り気のない障子の向こうには、陽だまりが射していた。

 

 「はぁ……あったかい……」

 

 マフラーと上着を脱いだ吹雪は、汗ばんだ額をぬぐった。

 顔はまだ火照っており、長い坂道を一気に駆け下りたせいで息も少し上がっていた。

 

 「……自転車で?」

 

 「はいっ。少し前に、司令に買ってもらって……」

 

 言いながら、自然と顔がほころびそうになって――すぐにその笑みは引っ込んだ。

 

 それに気づいた鳳翔は、あえて何も言わず、ふうふうと茶碗に息を吹きかけながら、吹雪の前に湯気の立つお椀を置いた。

 

 「鶏団子のスープ。生姜が効いてるから、体も温まるわ」

 

 「……いただきます」

 

 ふた口、みくち。

 やさしい出汁の香りと、ふんわりした団子が口の中に広がる。

 

 胸につかえていた何かが、すこし、溶けていく気がした。

 

 

 

 しばらく無言のままスープを飲み終え、吹雪はぽつりと話し始めた。

 

 「……私、学校に行きたいって、言ったんです」

 

 「うん」

 

 「……司令、すごく頑張ってくれてて……それなのに、上手くいかなくて……」

 

 言葉が詰まり、こたつ布団の端をぎゅっと握る。

 

 「もしかして、私、間違ってたのかなって……思って……」

 

 「……」

 

 鳳翔は何も言わず、そっと湯呑みを手に取った。

 

 「吹雪ちゃん。あなたの“学校に行きたい”って気持ち、それはね、間違いなんかじゃないわ」

 

 「でも……」

 

 「でも、それに向き合うには、大人たちがもう少し賢くならなきゃいけない。……それだけの話よ」

 

 鳳翔の言葉は柔らかいが、その中に一本芯が通っていた。

 

 「世の中は、優しさだけじゃできていない。けれど、優しさがなければ、壊れてしまう。あなたの気持ちは、きっと“正しさ”じゃなくて“優しさ”なの。だから、大丈夫」

 

 「……ほんとうに、そう……でしょうか」

 

 「ええ。だってね――」

 

 鳳翔はふわりと微笑んで、吹雪の頭をなでた。

 

 「その気持ちで、あなたはずっと、誰かを守ってきたのでしょう?」

 

 

 

 その言葉が、何よりも胸にしみた。

 

 吹雪はこっそりと涙を拭ったが、鳳翔は気づかないふりをしてくれていた。

 

 湯気の向こう、障子の外には、まだ冬の陽が射している。

 

 

こたつの中、空になった湯呑みをゆっくりと置いた鳳翔は、ふっとため息のように一言を漏らした。

 

 「それに……提督は、昔の自分と吹雪ちゃんを重ねているのかもしれませんね」

 

 「昔の……?」

 

 吹雪が首を傾げると、鳳翔は窓の外――陽の落ちかけた曇り空を見つめながら、どこか懐かしげに微笑んだ。

 

 「彼がまだ……そうですね、吹雪ちゃんと同じくらい、いえ、もしかするともう少し若かった頃かもしれません」

 

 「……そんな時に、戦争が始まってしまったんです」

 

 その言葉に、吹雪の背筋が自然と伸びる。

 今まで誰も、彼の過去を語ったことはなかった。

 いつもどこか飄々としていて、煙に巻くような調子で本心を語らない彼。

 

 「……故郷も、家族も、友達も、みんな……焼かれてしまったそうです。空襲でした」

 

 静かに語る鳳翔の声は、どこまでも優しかった。

 けれどその優しさは、単なる慰めではない。

 それは“重さ”を受け止めてきた人間にしか出せない声音だった。

 

 「だから彼は、その“憎しみ”だけを糧に……前へ進んだんです」

 

 「……」

 

 吹雪は、言葉を失っていた。

 

 「誰よりも勉強して、訓練して……若くして士官学校を出て、志願して、最前線に立って……」

 

 「学校や青春なんて、無縁でしたね。制服を着て教室に座っていた時間より、軍服を着て戦場にいた時間のほうが、ずっと長かった」

 

 鳳翔の目が、ゆっくりと細くなっていく。

 慈しむように、愛おしむように。

 

 「でも……そんな彼が、“誰かのために戦うこと”を知ったんです」

 

 「最初は復讐だった。自分の怒りと悲しみをぶつけるために銃を持った」

 

 「だけど――仲間ができて、部下ができて、“守るべき人”ができてからは、彼の中で何かが変わっていった」

 

 「……」

 

 こくりと、吹雪は小さくうなずいた。

 

 「私が彼に会ったのは、まだ彼が“艦娘という存在”に出会う前でした」

 

 「その頃の彼は、今とは少し違っていて……いえ、“人の顔”をしていなかった、とでも言えばいいかしら」

 

 「まるで機械のようでした。命令をこなして、感情を殺して……そのほうが楽だったんでしょうね。自分が壊れないために」

 

 「……鳳翔さん」

 

 吹雪は、こたつの縁をぎゅっと掴んだ。

 

 「じゃあ……私が“学校に行きたい”って言ったとき……司令は……」

 

 「きっと、嬉しかったと思いますよ」

 

 「でも同時に……怖かったんでしょうね。自分が手に入れられなかったものを、あなたが望んだから」

 

 「羨ましい……と思ったかもしれません。妬ましいと、少しだけ思ったかもしれません」

 

 「それでも、“叶えてあげたい”と思った。……それが、今の提督なんです」

 

 吹雪の胸に、何かがふわりと落ちてきたようだった。

 それはたとえば、氷の粒のように冷たくもあり、しかしどこかで温かな、涙に近いものだった。

 

 「……鳳翔さん、もっと……司令と、鳳翔さんの話、聞いてもいいですか?」

 

 そう言うと、鳳翔はゆっくりと、懐かしそうに目を細めた。

 

 「ふふ……そうですね、じゃあ少しだけ……昔話でも」

 

 そして、こたつの上に新しく注がれたお茶から、ほのかな湯気が立ち昇った――

 

 そこからはじまる「提督との出会い」、

 それはまだ誰も知らない、失われた青春の欠片と、心の結び目の記憶。

 

 物語は、静かに紐解かれはじめた。

 

 

 

 

 

 

 鳳翔が語る記憶は、遥か遠い過去――

 深海棲艦が最初に“形を持ち”現れた、あの忌まわしき冬へと遡る。

 

 

 

 「あの頃はまだ……艦娘という存在が生まれて間もなかったのです」

 

 湯呑を両手に包み込むように抱えながら、鳳翔は吹雪へと語り始めた。

 

 「実際、私たちが“配備”されたのは、すでに戦局が壊滅的になりかけていた時でした」

 

 彼女の瞳は、遠く過ぎた焦土の景色を見つめるように細められていた。

 

 「……効かないと分かっていても、旧式の兵器を使うしかなかったのです。敵には“人の形”すら見えない。けれど、その進撃を止めなければ、国そのものが沈む」

 

 「それは……“戦争”ではありませんでした」

 

 「ただの、地獄でした」

 

 

 

 当時、深海棲艦に対抗し得る兵器はまだ開発中であり、艦娘という概念自体が、

 “異常な存在に対抗するための、異常な兵器”という括りでしかなかった。

 

 それでも投入されるしかなかった。

 

 最前線――南西方面某所。

 連合軍による反攻作戦の余波で、かろうじて形を保っていた野戦基地。

 

 吹雪はこたつの中、息を呑んだ。

 

 

 

 「私は、そこへ初めて“戦力”として派遣されたのです」

 

 「多くの艦娘はまだ訓練段階。ですが、時間も余裕もなかった。だから“完成した私”が、最初の実戦配備として送り込まれました」

 

 「そのとき、彼に会ったのです。あらかた戦いが収まり、基地が崩壊寸前になったその日の……午後でした」

 

 

 

 乾いた赤土の上に、設営されたばかりの医療テント。

 湿った包帯の臭いと、乾いた血のにおい、薬品の刺激臭が入り混じるその場所に――

 

 一人の青年が、うずくまるように座っていた。

 

 戦闘服は焦げ付き、左肩には血止めの包帯が巻かれていた。

 それでも彼は、小銃を手放さなかった。

 

 「……」

 

 握ったままの小銃の銃床に、白い指の節が食い込んでいた。

 

 「目だけが……“今”ではなく、“これから来る地獄”を見ていました」

 

 「顔は引きつり、額には汗。顎にはうっすらと無精髭。けれど……彼の瞳は、“敵”を探していたのです」

 

 

 

 鳳翔は、思い出すように微笑んだ。

 

 「私はその時、“ああ、この人はきっと、戦場を降りられない”と直感しました」

 

 「それほどに彼は……目の奥まで、戦場に沈んでいた」

 

 その姿は、敵が来るでもないのに、いつでも引き金を引けるよう身構えていた。

 

 「話しかけても、最初は返事もなかったのです」

 

 

 

 『あなた、もう戦闘は終わりました。大丈夫ですよ』

 

 その言葉に、青年はゆっくりと顔を上げた。

 

 目の奥が――濁っていた。

 

 憎しみ、怒り、疲弊、恐怖、混乱……そして、失望。

 

 『……“大丈夫”なんて、言うな』

 

 『どこが大丈夫だ、何一つ終わってねぇ……明日にはまた、誰かが死ぬ』

 

 鳳翔は、その声をよく覚えていた。

 

 若いのに、声だけが老いていた。

 

 

 

 「私は……あのとき、初めて、“人間が戦争で壊れていく瞬間”を見たのです」

 

 「けれど同時に、壊れながらも立ち上がろうとしている人間の意志も、見た気がしました」

 

 

 

 吹雪は、息を詰めたまま黙って聞いていた。

 

 自分の知っている“司令”――優しく、時に不器用で、怒らない男。

 けれど、その根にあったのは、このような荒れ地だったのだと――知ってしまった。

 

 

 

 「彼は、“誰かのために戦う”ということがどういうことか、ずっと知らずに生きてきたのです」

 

 「けれどその後、艦娘たちと出会い、部下ができ、そして……あなたのような子を守る立場になった」

 

 「今の彼は、“あの地獄の中”で失ったものを――」

 

 「……きっと、あなたに託しているのかもしれませんね

 

 

すぅーっと鳳翔がお茶をひとすすりしたあと。

 

 

 「それで……っ」

 吹雪は、ごくりと喉を鳴らした。

 手の中の湯呑みをぐっと握りしめる。

 

 「その……戦いは、どうなったんですか……!?」

 

 鳳翔はしばし黙り、窓の外に視線を落とした。

 冬の空は曇り始め、柔らかく陽を照らしていた光がうっすらと薄れていた。

 

 「……結果としては、“勝利”とは言いがたいものでした」

 

 「私たちは……撃退には成功しました。ですが、あれは勝ったとは言えません。あの戦いは、“ただ焼け野原を少し広げなかった”という程度のものです」

 

 「……」

 

 「ですが、まだあの頃は、“人型”の深海棲艦も多くはなかったのです。

 力も、知性も、今ほどは――だから、辛うじて追い返せたのです」

 

 

 

 鳳翔の声はどこか遠く、思い出を掘り起こすようにゆっくりだった。

 けれど、その瞳は鋭く、曇りの向こうに浮かぶ過去の影を確かに見ていた。

 

 「そして……その時、彼と一緒にいたのが――」

 

 そこで鳳翔は一瞬、口元にためらいの色を見せたが、静かに言った。

 

 「――風見さん、なんですよ」

 

 「えっ……!?」

 

 吹雪は、思わず身を乗り出した。

 知っていた。提督と風見が旧知の仲だというのは、会話の端々からも感じていた。

 

 だが、それが“戦場で共に生き残った仲”だとは、想像すらしていなかった。

 

 

 

 「彼は、まだ少年でした。士官候補生として動員されていたのです。本来なら士官候補生をそのような激戦区には行かせないのですが、そうも言ってられない事態でしたから。ですが、実戦経験もなく、初めての出撃……」

 

 鳳翔の手が、ゆっくりと膝の上に重ねられた。

 記憶の奥から、ひとりの少年の姿が浮かび上がる。

 

 「震えていました。怖くて……泣いていました。

 ……でも、それは自然なことです。あの地獄のような戦場で、平気でいられる方が異常なんです」

 

 「そして……」

 

 「その彼を、慰めるようにして……肩を抱き寄せていたのが、あの彼――吹雪ちゃんの“司令”だったんです」

 

 「え……」

 

 吹雪は思わず言葉を失った。

 

 彼らの関係性が、ただの「過去の上官と部下」程度のものではないと、その瞬間に悟った。それは「生きるために、互いを支え合った者たち」の絆だった。

 

 

 

 「……信じられない、ですよね?」

 

 鳳翔は微笑んだ。

 

 「でも……それが戦争というものなんです。人は、どんな立場であれ、あの場所では“誰かに寄りかからなければ”壊れてしまう。

 風見さんも、彼も、まだ子どもだったんです。必死に耐えて、守って、泣いて……」

 

 「だから、今の彼らの姿だけで、判断してはいけませんよ」

 

 「……“あの人は修羅場をくぐってきた”って、感じたことがあるでしょう?」

 

 「はい……」

 吹雪はうなずいた。

 

 提督の飄々とした態度。

 何事も他人事のように語る癖。

 けれど、時折見せる鋭い瞳と、何かを噛み締めるような表情。

 

 そして風見の、冷ややかで、どこか拗れた目つき。

 

 (……あれは、戦争で“背負ってしまった目”だったんだ)

 

 

 

 吹雪は、そのとき、ようやく自覚した。

 

 司令は、何も語らないのではなかった。

 語れないのだ――その痛みが、あまりにも深すぎて。

 

 そして、自分が「学校に行きたい」と言ったとき。

 司令がそれを無言で受け止め、動き始めた意味も。

 

 (あの人は、私に――)

 

 (“生き直してほしい”って、思ってくれたんだ)

 

 

 

 「……私は、あの二人のこと、誇りに思っています」

 

 鳳翔がそっと湯呑を手にとり、立ち上がった。

 

 「たとえ今、道が違っても――戦火の中で“人であろうとした”二人は、きっと、心のどこかで繋がっていると信じています」

 

 吹雪も、また立ち上がる。

 こたつのぬくもりを背に、手袋をつけ直しながら。

 

 

 

 窓の外には、もうすぐ雪が降る気配。

 空気は冷え込み始めていたが、吹雪の胸の中には、確かに灯るものがあった。

 

 

 

湯呑みの湯気はゆるやかに立ち上りながら、鳳翔の指先に吸い寄せられていくように静まっていた。

 

 「そういえば――」と、鳳翔は再び語り始めた。「……今は病床に伏しておられますが、当時の元帥閣下は、それはもう厳しいお方でした」

 

 吹雪は「はい……」と背筋を伸ばし、まっすぐ耳を傾けた。

 

 「現場至上主義。実力のある者はすぐに抜擢。立っている者は親でも使えという方針で……まさに戦場の論理そのものを体現しておられた方です」

 

 「それで……司令もまた、抜擢されたのですか?」

 

 「ええ。――異例中の異例でしたよ。確か、まだ二十代の半ばでしたかね。あっという間に横須賀の主要基地に配属され、司令官の任に就くことになったのです」

 

 「そ、そんな若さで……!」

 

 驚きに声を漏らす吹雪に、鳳翔はやわらかく微笑んだ。

 

 「若さは、彼の一番の武器でもありました。そして……脆さでもあった」

 

 窓の外、冬の曇天。吹雪が知らなかった“過去”が、静かに紐解かれていく。

 

 

 

 「最初の頃はね、“鳳翔さん”と、ちゃんと敬語だったんですよ」

 

 「へぇ……」

 

 「けれど、時が経つにつれて、口調はどんどん崩れていって。――まるで、親に甘える子どものようでした」

 

 「え……?」

 

 「ある日ね……作戦の打ち上げで、艦娘たちと少しお酒を飲んだんです。まだ若かったから、すぐ顔が真っ赤になって……それで、ふらふらしながら私の隣に来て、いきなり、抱きついてきたんですよ」

 

 吹雪の目が驚きに丸くなる。

 鳳翔は頬に手を当て、くすりと笑った。

 

 「『お母さんみたいな匂いがする……』って、嬉しそうに……」

 

 彼のあの、少しだけ無防備で、少年のような笑顔。

 戦場では決して見せなかった“素顔”が、鳳翔の記憶の中に今もなお、鮮やかに残っていた。

 

 「それからですね。“鳳翔さん”から、“鳳翔”に変わったのは」

 

 「……司令が、そんな風に……」

 

 「甘え方が、ぎこちなかったんです。どこか、やり方がわからないまま、恐る恐る距離を縮めてくるような。――本当に、母親に抱きつくみたいに」

 

 

 

 こたつの中、吹雪の心に、小さな波紋が広がる。

 

 司令は、家族を戦争で失った。

 親も、友も、愛したもののすべてを焼かれ、壊され、飲み込まれた。

 

 そんな彼が――

 鳳翔に、母のような“温もり”を求めたのは、あまりにも自然なことのように思えた。

 

 「……あのとき、彼にとって私は……人の形をした“港”だったのかもしれませんね」

 

 静かに、鳳翔は茶をひとすすりした。

 

 「提督としての顔ではなく、“少年”として、誰かに寄りかかりたかった。……そういう時間が、彼にもほんの少しだけあったのです」

 

 「……」

 

 吹雪の胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。

 

 (司令……)

 

 (そんな時期が、あったんだ……)

 

 

 

 「彼はね……今もなお、誰かの悲しみを抱えたまま立っているんです。

 それでも、あなたのような存在に……その優しさを託したいと、そう思っているのだと思いますよ」

 

 「……」

 

 吹雪は、唇を噛んで、こくんとうなずいた。

 

 提督の背中に隠れていた、無数の戦場の記憶。

 それを少しだけ理解した少女は、心の中に、そっと彼の手を重ねるような気持ちで、ただ静かに頷いた。

 

 

 「そして、それから……十数年あまりが過ぎた頃のことです」

 

 湯呑みを両手で包みながら、鳳翔は微笑みの奥に懐かしさを含ませた。

 

 「まだ、義務教育も終えていないくらいでしたかね……新たに横須賀へと配属された、ひとりの駆逐艦がいました」

 

 吹雪は、首を少しかしげる。

 

 (あれ……?)

 

 その語り口が、どこか自分の記憶の奥にかすかに触れている気がした。

 

 「最初はね、しっかりしていましたよ。“よろしくお願いします!”って、真面目にお辞儀して……でも――」

 

 そこで、鳳翔の肩が小さく震えた。

 

 「すぐにね、言葉がぐちゃぐちゃになって……『は、はじめまひて! ふぶきでしゅ! どうか、よろしくおねがい……致しますゅ!』って――」

 

 吹雪は、ばっと顔を真っ赤にして、思わず手元の湯呑みを落としそうになった。

 

 「そ、それ……わ、わ、私……!?」

 

 「ええ、そう。……ふふ、かわいらしかったですよ」

 

 鳳翔の頬には、母のような温もりと、ふと涙がにじむような優しさが浮かんでいた。

 

 

 

 「……司令、提督もね、その時にあなたを見て……“あぁ、昔の俺と同じだ”って」

 

 「……」

 

 吹雪の指先が、こたつ布団をぎゅっと握る。

 

 「親がいない。学び舎も知らない。家族の愛も、友の笑顔も、なにもない。戦うことしか、自分を保つ術を知らない。そんな、ほんの子どものようなあなたに、提督は深い親近感を抱いたと、話してくれました」

 

 そう――

 それは鳳翔がかつて見た、夜の医務テントで震えていた少年と同じだったのだ。

 

 「少し長くなりましたが……だからこそ、彼はあなたに――“ただの兵士”ではなく、“一人の女の子”として、生きてほしいと願っていたんです」

 

 鳳翔は、まっすぐに吹雪を見つめた。

 

 「それはね、たった一人の戦場で育った少年が……命からがら生き延びた“もう一人の自分”にしてやりたかった、小さな“贖い”だったのかもしれません」

 

 

 

 吹雪の目には、もう涙が浮かんでいた。

 

 「……司令……」

 

 あの厳しくて、けれど優しくて、どこか寂しそうな背中を思い出す。

 

 いつもどこか遠くを見ていた。

 優しい言葉をくれるけれど、それをどこか、自分では信じていないような目だった。

 

 「……だから、あの日……“あの子はもう、戦わせたくない”って、言ってくれたんですね……」

 

 「ええ。――彼にとって、あなたは『失ったもの』であり、そして『取り戻したいもの』だったんですよ」

 

 

 

 鳳翔は、そっと吹雪の手を握った。

 

 「どうか……自分を責めないでください。提督があれほど必死に学校を探してくれているのは、あなたに、ちゃんと未来を歩いて欲しいと……そう願っているからなのです」

 

 「……はい……」

 

 吹雪の声は震えていた。

 けれど、その頬には確かに笑みがあった。涙とともに、優しさを滲ませた笑顔が。

 

 

冬の風が背を押すようにして、吹雪は提督とともに自宅の門扉を開けた。

鍵は既に外されており、提督が義手の代わりに使っていた古びた合鍵を、くるりと指に回してポケットに収める。

 

「ただいま戻りました……」

吹雪がそう言って靴を脱ぐと、玄関の奥から不穏な気配が漂ってくる。

部屋の奥――居間のほうで何かが「ぐしゃ」と、踏みしめられるような音を立てた。

 

彼女がリビングへ顔を出すと、テーブルの上に広げられていた紙類が散乱していた。

チラシ、パンフレット、申込書、学校案内、封筒、赤ペンの走り書き。

いずれも、近隣の中学や通信制の学園、定時制の説明資料だった。

 

その上には、飲みかけのコーヒーがこぼれて乾きかけており、斜めに投げ出されたファイルが半開きで壁際に転がっていた。

 

吹雪は、何も言わずに一歩中へ入り、崩れた書類の一枚をそっと拾い上げた。

裏には、提督の走り書きのような文字が見える。

 

《第3希望/書類は未到着 再確認必要》

 

苦労の跡が、乾いたインクと共にそこに刻まれていた。

彼女は思わず、唇を噛んだ。

 

そのまま、彼はキッチンで湯を沸かしていた。

コトコトと鳴るやかんの音と、背中の静けさ。

背中の広さが、どこか少し小さくなったようにも見える。

 

「……司令」

「あん?」

「私……今日、鳳翔さんのところに行ってきました」

 

手を止めた提督が、少しだけ肩越しに振り向く。

彼女は深く息を吸い、胸の奥に引っかかっていた言葉を静かに吐き出した。

 

「……鳳翔さんに、少しだけ、司令の……昔のことを、教えてもらいました」

 

その瞬間、湯気が立ち上る音だけが部屋に残る。

彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑した。

 

「……そうか。鳳翔が、俺の話を……話したのか」

 

言葉の端に、ほんの僅かな諦めと、照れくささが滲んでいた。

それは、普段のどんな命令にも見せなかった柔らかさだった。

 

吹雪は、手に持っていた一枚のパンフレットを差し出した。

「……こんなに、色々探してくれてたんですね」

 

「……お前が言い出した時点で、やるって決めたからな」

 

そう答える彼の声は、ほんの少し掠れていた。

どれだけ多くの門前払いを食らったのか、いくつ断られ、どれほど頭を下げてきたのか――その全てを語らずとも、吹雪にはわかった。

 

「……学校なんだが、ひとつ――」

 

彼がそう言いかけた時だった。

突然、リビングの電話がけたたましく鳴り響いた。

 

「……ああ、俺だ」

 

吹雪が様子を伺う中、提督は受話器を取って名を名乗った。

数秒の沈黙の後、スピーカー越しに聞こえてきたのは、あの嫌味な高音――風見の声だった。

 

『いやー、相変わらずご苦労様です。まさか、あれからずっと入学手続きを見て回ってたなんて、やっぱり“人情派”は違いますねぇ』

 

「……で、要件はなんだ」

 

『おっと、冷たい。まぁまぁ、そう睨まないで。で、本題ですがね。中学三年生……つまり来年度の春からなら、転入受け入れの方向で動かせそうです。条件付きですが』

 

提督は、眉をわずかに吊り上げた。

 

『とはいえ、私も上と掛け合って結構苦労したんですよ? 貴方の“功績”を並べ立ててね、ほら、恩返しってヤツ?』

 

「……それで、条件ってのは?」

 

『そちらが“静かに”してくれるなら、ということですよ。艦娘関連の支援や法整備の件で、余計な騒ぎを起こさないようにって。ま、そこは……お互い“大人の対応”ってやつを』

 

「……フン」

 

鼻で笑い、提督は受話器のコードをくるりと指に巻きつけながら短く言った。

 

「感謝しとくよ、“後輩”」

 

『お褒めいただき光栄です。それじゃあ、連絡はまた改めて――』

 

ガチャリ、と電話が切れる音が部屋に響いた。

 

「し、司令……?」

 

振り返った吹雪の目には、希望と不安がないまぜになっていた。

提督は、ゆっくりと頷く。

 

「来年の春からだ。中学三年の学年からになるが……ちゃんと、入れる」

 

その瞬間だった。

 

吹雪は、思わず飛び上がるように両手を広げ、ポンと勢いよく跳ねるようにして、

「っやったあああああああああっっ!!!」と声を上げた。

 

提督が驚いて振り返ると、彼女は顔を真っ赤にしていた。

 

「す、すみません!……でもっ、でも……っ、すっごく嬉しくて……!」

 

そして一歩近づいて、まるで幼子のように、そっと彼の胸に額をあてた。

「ありがとうございます……司令……!」

 

提督は、口元を少しだけ綻ばせ、頭をぽんぽんと撫でてやる。

 

「……その代わり、しっかり勉強しろよ。中学三年ってことは、受験だぞ」

 

「は、はいっ! でも頑張りますっ!」

 

吹雪の声は、どこまでも澄んでいた。

あの冬の空に負けないくらい、凛とした清さを宿していた。

 

部屋に転がるままになっていた封筒やパンフレットを、ふたりで一つひとつ拾い集めた。

破れた書類も、濡れた封筒も、もう過去のことだ。

 

暖かいストーブの火が、ふたりの頬をうっすらと照らしていた。

 

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