艦これ 砲声なき日々に 作:ダッフル
翌朝、空気は刺すように冷たく、白い息が街を覆っていた。
冬特有の澄んだ光が地面に落ちていたが、吹雪の心は重かった。
あの学祭から一日――いや、たった一晩しか経っていないというのに、
世界はまるで重力を増したように感じられた。
司令――提督は、朝から出かけていた。
「ちょっと、見て回るだけだ」
そう言って出ていったはずだった。
けれど、昼を過ぎても戻らず、夕方になってようやく帰宅した時の彼は、いつもの“司令”ではなかった。
静かな男だ。
仮に怒っても、それは感情の爆発ではなく、鋭い視線と淡い棘のような言葉で示す程度。
それが――
「……あのなァ!! じゃあ一体誰なら入れるって言うんだよ!? 条件クリアしてても“元艦娘”だから無理? なにそれ!!」
壁越しに聞こえた、怒声。
吹雪は、思わず身をすくませてしまった。
提督が怒鳴るなど、記憶の限りでも数えるほどしかない。
その声に混じるのは、焦り、苛立ち、そして――無力感。
やがて電話が切られ、しばらくの沈黙が訪れる。
気配を殺しながら台所の方へ向かうと、そこにいたのは背中を丸め、山のような資料を机に広げて項垂れている提督の姿だった。
ため息の音が、冬の室内にやけに大きく響いた。
吹雪は、そっと扉を閉め、物音を立てぬように自分の部屋へと戻った。
布団に潜りながら、両手を胸の前で握る。
指先が冷たい――けれど、それ以上に胸の奥が、ひりついていた。
(……私、余計なことを言っちゃったのかな)
最初に、学校に行きたいと口にした時、司令は笑ってくれた。
「いいじゃねぇか、吹雪」
そう言ってくれた。
あの時の笑顔は、本物だったと思う。
けれど――今の司令の顔には、あの笑みはなかった。
「すみませんが、こちらでは……」
「今期の募集はすでに締め切られておりまして……」
「やはり、彼女のご出身ですと、他の生徒との適応に懸念が……」
「保証人様のお立場も、特殊なものであると聞いておりますし……」
小さな声で言われた拒絶の言葉を、司令はどれだけ浴びてきたのだろう。
今は、艦娘であるということは“戦争が終わった存在”だ。
戦うべき時代が終わった今、元軍属というだけで“過去の人間”とみなされる。
それは、提督自身に対しても同じだった。
そして、その彼が“我が子でもない”少女を普通の学校へ入れたいと奔走する――
それが、世間には“厄介事の匂い”として伝わってしまっている。
(でも、私は……私は……)
吹雪は目を閉じた。
かつて、無人の海に砲弾を撃ち込んでいた頃のことを思い出す。
深海棲艦の姿を見た日。
友の喪失、勝利の喜び、そして“それしか知らない”という孤独。
けれどあの日、学園祭で見た景色は、違っていた。
笑って、食べて、手を繋いで――
そんな日々が、自分にも許されているのかもしれないと、そう思えた。
あの一言は、心からの願いだった。
けれどその願いが、司令を苦しめている。
(……どうすれば、よかったんだろう)
願っただけなのに。
夢を抱いただけなのに。
それすらも、許されなかったのかと、涙が滲んだ。
けれど、それを流してしまえば、自分が甘えているような気がして――
吹雪は、ぎゅっと歯を食いしばった。
次の日、提督は何も言わずに、また出かけていった。
笑顔もなければ、苦笑もなかった。
それでも、最後にふと振り返って、
「……吹雪、寒くなってきたから、風邪ひくなよ」
そう言ってくれた。
その言葉に、吹雪はうなずくしかできなかった。
(私、どうしたら……どうしたらいいんだろう)
誰も責めていない。
けれど、自分で自分を責めてしまう。
提督の苦悩も、学校側の事情も、社会の偏見も、全てわかるからこそ。
その狭間で吹雪は、自分の“願い”がどれほど重いものだったのかを知りはじめていた。
昼下がりの空は、真冬のわりにどこかやわらかだった。
舗装された道を、銀色の自転車がひとつ走る。
新品のフレームはまだ傷ひとつなく、タイヤは軽快に路面を蹴っていた。
風が吹くたび、マフラーの端がふわふわと踊る。
ハンドルをしっかりと握るその手は少し赤くなっていたが、ペダルを漕ぐ足には迷いがなかった。
――鳳翔さんのところへ行こう。
気がついたら、そう決めていた。
言葉にしていなかったけれど、吹雪の心には、前日からずっと張り詰めた膜のようなものがあった。
自分のせいで、提督が苦しんでいる。
あの一言がなければ――
そんな想いが頭から離れず、何をしても落ち着かない。
誰かに話したい。けれど、司令には言えない。
だから、向かった。
赤提灯の小さな看板と、古風な木の暖簾。
港のそばにひっそりと佇む、昔ながらの居酒屋「鳳翔」。
店の正面ではなく、脇の小道を抜けた先の勝手口。
そっとベルを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「まあ……吹雪ちゃん?」
顔を覗かせた鳳翔の、穏やかな声。
彼女の顔を見るなり、吹雪は思わず、胸の奥が緩むのを感じた。
「こんにちは、鳳翔さん……あの……その……」
言葉にならない言葉を口の中でかき混ぜていると、
鳳翔はその手をそっと取ってくれた。
「寒いでしょう? どうぞ、入って。奥の部屋、暖かくしてあるから」
頷いて玄関をまたぐと、ほんのりとした灯りと、煮物の香りが出迎えてくれた。
店の裏手には、こじんまりとした和室がある。
小さなこたつに湯呑み、飾り気のない障子の向こうには、陽だまりが射していた。
「はぁ……あったかい……」
マフラーと上着を脱いだ吹雪は、汗ばんだ額をぬぐった。
顔はまだ火照っており、長い坂道を一気に駆け下りたせいで息も少し上がっていた。
「……自転車で?」
「はいっ。少し前に、司令に買ってもらって……」
言いながら、自然と顔がほころびそうになって――すぐにその笑みは引っ込んだ。
それに気づいた鳳翔は、あえて何も言わず、ふうふうと茶碗に息を吹きかけながら、吹雪の前に湯気の立つお椀を置いた。
「鶏団子のスープ。生姜が効いてるから、体も温まるわ」
「……いただきます」
ふた口、みくち。
やさしい出汁の香りと、ふんわりした団子が口の中に広がる。
胸につかえていた何かが、すこし、溶けていく気がした。
しばらく無言のままスープを飲み終え、吹雪はぽつりと話し始めた。
「……私、学校に行きたいって、言ったんです」
「うん」
「……司令、すごく頑張ってくれてて……それなのに、上手くいかなくて……」
言葉が詰まり、こたつ布団の端をぎゅっと握る。
「もしかして、私、間違ってたのかなって……思って……」
「……」
鳳翔は何も言わず、そっと湯呑みを手に取った。
「吹雪ちゃん。あなたの“学校に行きたい”って気持ち、それはね、間違いなんかじゃないわ」
「でも……」
「でも、それに向き合うには、大人たちがもう少し賢くならなきゃいけない。……それだけの話よ」
鳳翔の言葉は柔らかいが、その中に一本芯が通っていた。
「世の中は、優しさだけじゃできていない。けれど、優しさがなければ、壊れてしまう。あなたの気持ちは、きっと“正しさ”じゃなくて“優しさ”なの。だから、大丈夫」
「……ほんとうに、そう……でしょうか」
「ええ。だってね――」
鳳翔はふわりと微笑んで、吹雪の頭をなでた。
「その気持ちで、あなたはずっと、誰かを守ってきたのでしょう?」
その言葉が、何よりも胸にしみた。
吹雪はこっそりと涙を拭ったが、鳳翔は気づかないふりをしてくれていた。
湯気の向こう、障子の外には、まだ冬の陽が射している。
こたつの中、空になった湯呑みをゆっくりと置いた鳳翔は、ふっとため息のように一言を漏らした。
「それに……提督は、昔の自分と吹雪ちゃんを重ねているのかもしれませんね」
「昔の……?」
吹雪が首を傾げると、鳳翔は窓の外――陽の落ちかけた曇り空を見つめながら、どこか懐かしげに微笑んだ。
「彼がまだ……そうですね、吹雪ちゃんと同じくらい、いえ、もしかするともう少し若かった頃かもしれません」
「……そんな時に、戦争が始まってしまったんです」
その言葉に、吹雪の背筋が自然と伸びる。
今まで誰も、彼の過去を語ったことはなかった。
いつもどこか飄々としていて、煙に巻くような調子で本心を語らない彼。
「……故郷も、家族も、友達も、みんな……焼かれてしまったそうです。空襲でした」
静かに語る鳳翔の声は、どこまでも優しかった。
けれどその優しさは、単なる慰めではない。
それは“重さ”を受け止めてきた人間にしか出せない声音だった。
「だから彼は、その“憎しみ”だけを糧に……前へ進んだんです」
「……」
吹雪は、言葉を失っていた。
「誰よりも勉強して、訓練して……若くして士官学校を出て、志願して、最前線に立って……」
「学校や青春なんて、無縁でしたね。制服を着て教室に座っていた時間より、軍服を着て戦場にいた時間のほうが、ずっと長かった」
鳳翔の目が、ゆっくりと細くなっていく。
慈しむように、愛おしむように。
「でも……そんな彼が、“誰かのために戦うこと”を知ったんです」
「最初は復讐だった。自分の怒りと悲しみをぶつけるために銃を持った」
「だけど――仲間ができて、部下ができて、“守るべき人”ができてからは、彼の中で何かが変わっていった」
「……」
こくりと、吹雪は小さくうなずいた。
「私が彼に会ったのは、まだ彼が“艦娘という存在”に出会う前でした」
「その頃の彼は、今とは少し違っていて……いえ、“人の顔”をしていなかった、とでも言えばいいかしら」
「まるで機械のようでした。命令をこなして、感情を殺して……そのほうが楽だったんでしょうね。自分が壊れないために」
「……鳳翔さん」
吹雪は、こたつの縁をぎゅっと掴んだ。
「じゃあ……私が“学校に行きたい”って言ったとき……司令は……」
「きっと、嬉しかったと思いますよ」
「でも同時に……怖かったんでしょうね。自分が手に入れられなかったものを、あなたが望んだから」
「羨ましい……と思ったかもしれません。妬ましいと、少しだけ思ったかもしれません」
「それでも、“叶えてあげたい”と思った。……それが、今の提督なんです」
吹雪の胸に、何かがふわりと落ちてきたようだった。
それはたとえば、氷の粒のように冷たくもあり、しかしどこかで温かな、涙に近いものだった。
「……鳳翔さん、もっと……司令と、鳳翔さんの話、聞いてもいいですか?」
そう言うと、鳳翔はゆっくりと、懐かしそうに目を細めた。
「ふふ……そうですね、じゃあ少しだけ……昔話でも」
そして、こたつの上に新しく注がれたお茶から、ほのかな湯気が立ち昇った――
そこからはじまる「提督との出会い」、
それはまだ誰も知らない、失われた青春の欠片と、心の結び目の記憶。
物語は、静かに紐解かれはじめた。
鳳翔が語る記憶は、遥か遠い過去――
深海棲艦が最初に“形を持ち”現れた、あの忌まわしき冬へと遡る。
「あの頃はまだ……艦娘という存在が生まれて間もなかったのです」
湯呑を両手に包み込むように抱えながら、鳳翔は吹雪へと語り始めた。
「実際、私たちが“配備”されたのは、すでに戦局が壊滅的になりかけていた時でした」
彼女の瞳は、遠く過ぎた焦土の景色を見つめるように細められていた。
「……効かないと分かっていても、旧式の兵器を使うしかなかったのです。敵には“人の形”すら見えない。けれど、その進撃を止めなければ、国そのものが沈む」
「それは……“戦争”ではありませんでした」
「ただの、地獄でした」
当時、深海棲艦に対抗し得る兵器はまだ開発中であり、艦娘という概念自体が、
“異常な存在に対抗するための、異常な兵器”という括りでしかなかった。
それでも投入されるしかなかった。
最前線――南西方面某所。
連合軍による反攻作戦の余波で、かろうじて形を保っていた野戦基地。
吹雪はこたつの中、息を呑んだ。
「私は、そこへ初めて“戦力”として派遣されたのです」
「多くの艦娘はまだ訓練段階。ですが、時間も余裕もなかった。だから“完成した私”が、最初の実戦配備として送り込まれました」
「そのとき、彼に会ったのです。あらかた戦いが収まり、基地が崩壊寸前になったその日の……午後でした」
乾いた赤土の上に、設営されたばかりの医療テント。
湿った包帯の臭いと、乾いた血のにおい、薬品の刺激臭が入り混じるその場所に――
一人の青年が、うずくまるように座っていた。
戦闘服は焦げ付き、左肩には血止めの包帯が巻かれていた。
それでも彼は、小銃を手放さなかった。
「……」
握ったままの小銃の銃床に、白い指の節が食い込んでいた。
「目だけが……“今”ではなく、“これから来る地獄”を見ていました」
「顔は引きつり、額には汗。顎にはうっすらと無精髭。けれど……彼の瞳は、“敵”を探していたのです」
鳳翔は、思い出すように微笑んだ。
「私はその時、“ああ、この人はきっと、戦場を降りられない”と直感しました」
「それほどに彼は……目の奥まで、戦場に沈んでいた」
その姿は、敵が来るでもないのに、いつでも引き金を引けるよう身構えていた。
「話しかけても、最初は返事もなかったのです」
『あなた、もう戦闘は終わりました。大丈夫ですよ』
その言葉に、青年はゆっくりと顔を上げた。
目の奥が――濁っていた。
憎しみ、怒り、疲弊、恐怖、混乱……そして、失望。
『……“大丈夫”なんて、言うな』
『どこが大丈夫だ、何一つ終わってねぇ……明日にはまた、誰かが死ぬ』
鳳翔は、その声をよく覚えていた。
若いのに、声だけが老いていた。
「私は……あのとき、初めて、“人間が戦争で壊れていく瞬間”を見たのです」
「けれど同時に、壊れながらも立ち上がろうとしている人間の意志も、見た気がしました」
吹雪は、息を詰めたまま黙って聞いていた。
自分の知っている“司令”――優しく、時に不器用で、怒らない男。
けれど、その根にあったのは、このような荒れ地だったのだと――知ってしまった。
「彼は、“誰かのために戦う”ということがどういうことか、ずっと知らずに生きてきたのです」
「けれどその後、艦娘たちと出会い、部下ができ、そして……あなたのような子を守る立場になった」
「今の彼は、“あの地獄の中”で失ったものを――」
「……きっと、あなたに託しているのかもしれませんね
すぅーっと鳳翔がお茶をひとすすりしたあと。
「それで……っ」
吹雪は、ごくりと喉を鳴らした。
手の中の湯呑みをぐっと握りしめる。
「その……戦いは、どうなったんですか……!?」
鳳翔はしばし黙り、窓の外に視線を落とした。
冬の空は曇り始め、柔らかく陽を照らしていた光がうっすらと薄れていた。
「……結果としては、“勝利”とは言いがたいものでした」
「私たちは……撃退には成功しました。ですが、あれは勝ったとは言えません。あの戦いは、“ただ焼け野原を少し広げなかった”という程度のものです」
「……」
「ですが、まだあの頃は、“人型”の深海棲艦も多くはなかったのです。
力も、知性も、今ほどは――だから、辛うじて追い返せたのです」
鳳翔の声はどこか遠く、思い出を掘り起こすようにゆっくりだった。
けれど、その瞳は鋭く、曇りの向こうに浮かぶ過去の影を確かに見ていた。
「そして……その時、彼と一緒にいたのが――」
そこで鳳翔は一瞬、口元にためらいの色を見せたが、静かに言った。
「――風見さん、なんですよ」
「えっ……!?」
吹雪は、思わず身を乗り出した。
知っていた。提督と風見が旧知の仲だというのは、会話の端々からも感じていた。
だが、それが“戦場で共に生き残った仲”だとは、想像すらしていなかった。
「彼は、まだ少年でした。士官候補生として動員されていたのです。本来なら士官候補生をそのような激戦区には行かせないのですが、そうも言ってられない事態でしたから。ですが、実戦経験もなく、初めての出撃……」
鳳翔の手が、ゆっくりと膝の上に重ねられた。
記憶の奥から、ひとりの少年の姿が浮かび上がる。
「震えていました。怖くて……泣いていました。
……でも、それは自然なことです。あの地獄のような戦場で、平気でいられる方が異常なんです」
「そして……」
「その彼を、慰めるようにして……肩を抱き寄せていたのが、あの彼――吹雪ちゃんの“司令”だったんです」
「え……」
吹雪は思わず言葉を失った。
彼らの関係性が、ただの「過去の上官と部下」程度のものではないと、その瞬間に悟った。それは「生きるために、互いを支え合った者たち」の絆だった。
「……信じられない、ですよね?」
鳳翔は微笑んだ。
「でも……それが戦争というものなんです。人は、どんな立場であれ、あの場所では“誰かに寄りかからなければ”壊れてしまう。
風見さんも、彼も、まだ子どもだったんです。必死に耐えて、守って、泣いて……」
「だから、今の彼らの姿だけで、判断してはいけませんよ」
「……“あの人は修羅場をくぐってきた”って、感じたことがあるでしょう?」
「はい……」
吹雪はうなずいた。
提督の飄々とした態度。
何事も他人事のように語る癖。
けれど、時折見せる鋭い瞳と、何かを噛み締めるような表情。
そして風見の、冷ややかで、どこか拗れた目つき。
(……あれは、戦争で“背負ってしまった目”だったんだ)
吹雪は、そのとき、ようやく自覚した。
司令は、何も語らないのではなかった。
語れないのだ――その痛みが、あまりにも深すぎて。
そして、自分が「学校に行きたい」と言ったとき。
司令がそれを無言で受け止め、動き始めた意味も。
(あの人は、私に――)
(“生き直してほしい”って、思ってくれたんだ)
「……私は、あの二人のこと、誇りに思っています」
鳳翔がそっと湯呑を手にとり、立ち上がった。
「たとえ今、道が違っても――戦火の中で“人であろうとした”二人は、きっと、心のどこかで繋がっていると信じています」
吹雪も、また立ち上がる。
こたつのぬくもりを背に、手袋をつけ直しながら。
窓の外には、もうすぐ雪が降る気配。
空気は冷え込み始めていたが、吹雪の胸の中には、確かに灯るものがあった。
湯呑みの湯気はゆるやかに立ち上りながら、鳳翔の指先に吸い寄せられていくように静まっていた。
「そういえば――」と、鳳翔は再び語り始めた。「……今は病床に伏しておられますが、当時の元帥閣下は、それはもう厳しいお方でした」
吹雪は「はい……」と背筋を伸ばし、まっすぐ耳を傾けた。
「現場至上主義。実力のある者はすぐに抜擢。立っている者は親でも使えという方針で……まさに戦場の論理そのものを体現しておられた方です」
「それで……司令もまた、抜擢されたのですか?」
「ええ。――異例中の異例でしたよ。確か、まだ二十代の半ばでしたかね。あっという間に横須賀の主要基地に配属され、司令官の任に就くことになったのです」
「そ、そんな若さで……!」
驚きに声を漏らす吹雪に、鳳翔はやわらかく微笑んだ。
「若さは、彼の一番の武器でもありました。そして……脆さでもあった」
窓の外、冬の曇天。吹雪が知らなかった“過去”が、静かに紐解かれていく。
「最初の頃はね、“鳳翔さん”と、ちゃんと敬語だったんですよ」
「へぇ……」
「けれど、時が経つにつれて、口調はどんどん崩れていって。――まるで、親に甘える子どものようでした」
「え……?」
「ある日ね……作戦の打ち上げで、艦娘たちと少しお酒を飲んだんです。まだ若かったから、すぐ顔が真っ赤になって……それで、ふらふらしながら私の隣に来て、いきなり、抱きついてきたんですよ」
吹雪の目が驚きに丸くなる。
鳳翔は頬に手を当て、くすりと笑った。
「『お母さんみたいな匂いがする……』って、嬉しそうに……」
彼のあの、少しだけ無防備で、少年のような笑顔。
戦場では決して見せなかった“素顔”が、鳳翔の記憶の中に今もなお、鮮やかに残っていた。
「それからですね。“鳳翔さん”から、“鳳翔”に変わったのは」
「……司令が、そんな風に……」
「甘え方が、ぎこちなかったんです。どこか、やり方がわからないまま、恐る恐る距離を縮めてくるような。――本当に、母親に抱きつくみたいに」
こたつの中、吹雪の心に、小さな波紋が広がる。
司令は、家族を戦争で失った。
親も、友も、愛したもののすべてを焼かれ、壊され、飲み込まれた。
そんな彼が――
鳳翔に、母のような“温もり”を求めたのは、あまりにも自然なことのように思えた。
「……あのとき、彼にとって私は……人の形をした“港”だったのかもしれませんね」
静かに、鳳翔は茶をひとすすりした。
「提督としての顔ではなく、“少年”として、誰かに寄りかかりたかった。……そういう時間が、彼にもほんの少しだけあったのです」
「……」
吹雪の胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
(司令……)
(そんな時期が、あったんだ……)
「彼はね……今もなお、誰かの悲しみを抱えたまま立っているんです。
それでも、あなたのような存在に……その優しさを託したいと、そう思っているのだと思いますよ」
「……」
吹雪は、唇を噛んで、こくんとうなずいた。
提督の背中に隠れていた、無数の戦場の記憶。
それを少しだけ理解した少女は、心の中に、そっと彼の手を重ねるような気持ちで、ただ静かに頷いた。
「そして、それから……十数年あまりが過ぎた頃のことです」
湯呑みを両手で包みながら、鳳翔は微笑みの奥に懐かしさを含ませた。
「まだ、義務教育も終えていないくらいでしたかね……新たに横須賀へと配属された、ひとりの駆逐艦がいました」
吹雪は、首を少しかしげる。
(あれ……?)
その語り口が、どこか自分の記憶の奥にかすかに触れている気がした。
「最初はね、しっかりしていましたよ。“よろしくお願いします!”って、真面目にお辞儀して……でも――」
そこで、鳳翔の肩が小さく震えた。
「すぐにね、言葉がぐちゃぐちゃになって……『は、はじめまひて! ふぶきでしゅ! どうか、よろしくおねがい……致しますゅ!』って――」
吹雪は、ばっと顔を真っ赤にして、思わず手元の湯呑みを落としそうになった。
「そ、それ……わ、わ、私……!?」
「ええ、そう。……ふふ、かわいらしかったですよ」
鳳翔の頬には、母のような温もりと、ふと涙がにじむような優しさが浮かんでいた。
「……司令、提督もね、その時にあなたを見て……“あぁ、昔の俺と同じだ”って」
「……」
吹雪の指先が、こたつ布団をぎゅっと握る。
「親がいない。学び舎も知らない。家族の愛も、友の笑顔も、なにもない。戦うことしか、自分を保つ術を知らない。そんな、ほんの子どものようなあなたに、提督は深い親近感を抱いたと、話してくれました」
そう――
それは鳳翔がかつて見た、夜の医務テントで震えていた少年と同じだったのだ。
「少し長くなりましたが……だからこそ、彼はあなたに――“ただの兵士”ではなく、“一人の女の子”として、生きてほしいと願っていたんです」
鳳翔は、まっすぐに吹雪を見つめた。
「それはね、たった一人の戦場で育った少年が……命からがら生き延びた“もう一人の自分”にしてやりたかった、小さな“贖い”だったのかもしれません」
吹雪の目には、もう涙が浮かんでいた。
「……司令……」
あの厳しくて、けれど優しくて、どこか寂しそうな背中を思い出す。
いつもどこか遠くを見ていた。
優しい言葉をくれるけれど、それをどこか、自分では信じていないような目だった。
「……だから、あの日……“あの子はもう、戦わせたくない”って、言ってくれたんですね……」
「ええ。――彼にとって、あなたは『失ったもの』であり、そして『取り戻したいもの』だったんですよ」
鳳翔は、そっと吹雪の手を握った。
「どうか……自分を責めないでください。提督があれほど必死に学校を探してくれているのは、あなたに、ちゃんと未来を歩いて欲しいと……そう願っているからなのです」
「……はい……」
吹雪の声は震えていた。
けれど、その頬には確かに笑みがあった。涙とともに、優しさを滲ませた笑顔が。
冬の風が背を押すようにして、吹雪は提督とともに自宅の門扉を開けた。
鍵は既に外されており、提督が義手の代わりに使っていた古びた合鍵を、くるりと指に回してポケットに収める。
「ただいま戻りました……」
吹雪がそう言って靴を脱ぐと、玄関の奥から不穏な気配が漂ってくる。
部屋の奥――居間のほうで何かが「ぐしゃ」と、踏みしめられるような音を立てた。
彼女がリビングへ顔を出すと、テーブルの上に広げられていた紙類が散乱していた。
チラシ、パンフレット、申込書、学校案内、封筒、赤ペンの走り書き。
いずれも、近隣の中学や通信制の学園、定時制の説明資料だった。
その上には、飲みかけのコーヒーがこぼれて乾きかけており、斜めに投げ出されたファイルが半開きで壁際に転がっていた。
吹雪は、何も言わずに一歩中へ入り、崩れた書類の一枚をそっと拾い上げた。
裏には、提督の走り書きのような文字が見える。
《第3希望/書類は未到着 再確認必要》
苦労の跡が、乾いたインクと共にそこに刻まれていた。
彼女は思わず、唇を噛んだ。
そのまま、彼はキッチンで湯を沸かしていた。
コトコトと鳴るやかんの音と、背中の静けさ。
背中の広さが、どこか少し小さくなったようにも見える。
「……司令」
「あん?」
「私……今日、鳳翔さんのところに行ってきました」
手を止めた提督が、少しだけ肩越しに振り向く。
彼女は深く息を吸い、胸の奥に引っかかっていた言葉を静かに吐き出した。
「……鳳翔さんに、少しだけ、司令の……昔のことを、教えてもらいました」
その瞬間、湯気が立ち上る音だけが部屋に残る。
彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑した。
「……そうか。鳳翔が、俺の話を……話したのか」
言葉の端に、ほんの僅かな諦めと、照れくささが滲んでいた。
それは、普段のどんな命令にも見せなかった柔らかさだった。
吹雪は、手に持っていた一枚のパンフレットを差し出した。
「……こんなに、色々探してくれてたんですね」
「……お前が言い出した時点で、やるって決めたからな」
そう答える彼の声は、ほんの少し掠れていた。
どれだけ多くの門前払いを食らったのか、いくつ断られ、どれほど頭を下げてきたのか――その全てを語らずとも、吹雪にはわかった。
「……学校なんだが、ひとつ――」
彼がそう言いかけた時だった。
突然、リビングの電話がけたたましく鳴り響いた。
「……ああ、俺だ」
吹雪が様子を伺う中、提督は受話器を取って名を名乗った。
数秒の沈黙の後、スピーカー越しに聞こえてきたのは、あの嫌味な高音――風見の声だった。
『いやー、相変わらずご苦労様です。まさか、あれからずっと入学手続きを見て回ってたなんて、やっぱり“人情派”は違いますねぇ』
「……で、要件はなんだ」
『おっと、冷たい。まぁまぁ、そう睨まないで。で、本題ですがね。中学三年生……つまり来年度の春からなら、転入受け入れの方向で動かせそうです。条件付きですが』
提督は、眉をわずかに吊り上げた。
『とはいえ、私も上と掛け合って結構苦労したんですよ? 貴方の“功績”を並べ立ててね、ほら、恩返しってヤツ?』
「……それで、条件ってのは?」
『そちらが“静かに”してくれるなら、ということですよ。艦娘関連の支援や法整備の件で、余計な騒ぎを起こさないようにって。ま、そこは……お互い“大人の対応”ってやつを』
「……フン」
鼻で笑い、提督は受話器のコードをくるりと指に巻きつけながら短く言った。
「感謝しとくよ、“後輩”」
『お褒めいただき光栄です。それじゃあ、連絡はまた改めて――』
ガチャリ、と電話が切れる音が部屋に響いた。
「し、司令……?」
振り返った吹雪の目には、希望と不安がないまぜになっていた。
提督は、ゆっくりと頷く。
「来年の春からだ。中学三年の学年からになるが……ちゃんと、入れる」
その瞬間だった。
吹雪は、思わず飛び上がるように両手を広げ、ポンと勢いよく跳ねるようにして、
「っやったあああああああああっっ!!!」と声を上げた。
提督が驚いて振り返ると、彼女は顔を真っ赤にしていた。
「す、すみません!……でもっ、でも……っ、すっごく嬉しくて……!」
そして一歩近づいて、まるで幼子のように、そっと彼の胸に額をあてた。
「ありがとうございます……司令……!」
提督は、口元を少しだけ綻ばせ、頭をぽんぽんと撫でてやる。
「……その代わり、しっかり勉強しろよ。中学三年ってことは、受験だぞ」
「は、はいっ! でも頑張りますっ!」
吹雪の声は、どこまでも澄んでいた。
あの冬の空に負けないくらい、凛とした清さを宿していた。
部屋に転がるままになっていた封筒やパンフレットを、ふたりで一つひとつ拾い集めた。
破れた書類も、濡れた封筒も、もう過去のことだ。
暖かいストーブの火が、ふたりの頬をうっすらと照らしていた。