艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十一話 団欒

 

数日が経ち、カレンダーもいよいよ年末へと差し掛かっていた。外は冷たい風が身を刺すような気候で、冬至を過ぎてもなお寒さが衰える気配はなかった。

 

夕食の支度もほぼ終わり、鍋の火を調節しながら吹雪が味噌を溶き入れていると、インターホンが鳴った。提督は箸を手にしながら首を傾げ、エプロン姿の吹雪と顔を見合わせる。

 

「……誰だ、この時間に」

 

椅子から立ち上がり、玄関まで向かってドアを開けると、そこには大きなバッグと紙袋を両手に抱えた加賀が、少し困ったような顔で立っていた。

 

「よう、加賀。どうしたよ」

 

その問いに、加賀はほんのわずか眉を下げたが、すぐに真面目な声で淡々と答えた。

 

「……アパートでボヤ騒ぎがありました。私の部屋自体は無事でしたが、建物の半分近くが焼け落ち、老朽化の影響もあって取り壊しが早急に決まりました」

 

「……マジかよ。怪我人とかは?」

 

「それはありません。火元の部屋の住人も無事です。ただ……この寒空の中、帰る場所がなくて。赤城さんは既に実家に帰省していて、あのアパートには頼れません。そこで……」

 

言いづらそうに言葉を切り、しかし加賀は正面からまっすぐ提督を見た。

 

「……新居が決まるまで、一時的に、こちらに泊まらせていただけないでしょうか」

 

提督は、しばらくその言葉の意味を噛みしめるように黙っていたが、すぐにぽんと頭をかきながら苦笑した。

 

「ったく、災難だったな。大丈夫だ、うちでよけりゃいつまででも居ていい。ただな――」

 

少し口をつぐみ、苦笑を深めた。

 

「……親御さんにはちゃんと言っとくんだぞ?『男の家に転がり込んでる』なんて話が先に伝わったら俺、どう弁解すりゃいいかわからんからな。何なら俺からも一言、挨拶しとこうか?」

 

その提案に、加賀は驚いたように目を見開いた後、珍しく焦ったように言葉をかぶせた。

 

「い、いえ!私から言っておきますから!本当に、大丈夫です!」

 

「お、おう……そ、そうか。わかった。お前がそう言うなら……」

 

微妙に調子を狂わされたように、提督は少しばつの悪そうな顔をして居間へ戻り、湯気を上げる鍋の前に腰を下ろした。

 

「お待たせしました、加賀さん。どうぞ、温まってください」

 

吹雪は座布団を出し、そっと笑顔を浮かべて加賀を招いた。

 

「ありがとうございます」

 

そう言って加賀もこたつへ入り、ようやく肩の力を抜いたように一息吐いた。

 

「それにしても、タイミング悪くてなぁ。今日の鍋は豆腐多めなんだが……」

 

ぼやきながら提督は豆腐を掬って口に運んだが――

 

「っぃやっ!あぢっ、ぁぢぢぢっ……!」

 

「ふふっ、提督。そんなに慌てて食べなくても鍋は逃げませんよ」

 

「う、うるせぇ……!」

 

口を扇ぎながら悶える提督を見て、吹雪も加賀もつい笑ってしまう。加賀に至ってはほんの僅かだが、目元に柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

彼女の胸の内には、微かに高鳴る想いがあり、それを誰にも悟られぬよう丁寧に畳んで、今夜もその想いを静かに心の奥へと仕舞っていた、

 

つーか、白菜ねぇぞ。どーすんだこれ」と、提督は鍋を覗き込みながら眉をひそめた。豆腐、ネギ、鶏肉は揃っていたが、白菜という主役級の存在が見当たらない。吹雪が「さっき買い物のとき、売り切れだったんですよね」と申し訳なさそうに言うと、提督は「あー、そっか……」と頭をかいた。

 

その時、こたつに入っていた加賀のスマートフォンが振動した。画面を見ると「瑞鶴」の名前が表示されていた。加賀は「失礼」と一言添えて電話に出る。

 

「はい。加賀です――ええ、はい、鍋パーティーを」

 

電話の向こうの瑞鶴の声は明るく快活で、加賀が話している端から内容が筒抜けになっていた。

 

「鍋パーティーするけど燃えちゃったんでしょ? うち来る? っていうか今どこでやってんの?」

 

「提督の家です」

 

その一言に、鍋を見つめていた提督が「あっ……! こら加賀、余計なこと言うな!」と慌てて振り向いたが、もう遅かった。電話口から瑞鶴の驚きと興奮が同時に爆発する。

 

「うっそ! てーとくさんちでやってんの!? いいなー! 私たちも行きたい! ねっ、翔鶴姉ぇ!」

 

「えぇ!? ちょ、ちょっと瑞鶴……!」と翔鶴の困った声も漏れ聞こえてきたが、すでに勢いは止まらなかった。

 

提督は慌てて「貸せ、電話貸せ!」と加賀からスマホを奪い取り、受話口に向かって叫んだ。

 

「あーこらこら!帰れ帰れ、うちは満員御礼だ!」

 

だがその言葉に対して返ってきたのは、にひひっという茶化した笑い声。

 

『にひひー、もう家出ちゃったもんねー。今、駅前のスーパー向かってるからー。白菜も鶏肉も買うから安心してねっ♪』

 

「うぉい……」

 

提督は頭を抱え、深いため息を吐いた。そして天井を見上げるようにして一言。

 

「……じゃあもう、来てもいいけど野菜とか肉、しっかり買ってこいよ! いいな!? ついでにポン酢とビールも!」

 

『了解〜♪ てーとく、後でお酌してね〜♡』

 

ピッと通話が切れたスマホを提督はテーブルに戻すと、重々しく腰を沈めてこたつに身体をあずけた。

 

「……なんだこの流れは」

 

「瑞鶴さんらしいですね」と吹雪が苦笑しながらおたまを片手に味噌を溶かす。吹雪はまた賑やかになりますとふふっ、と思わず笑みがこぼれた。

 

「そういう問題じゃ……」

 

「……まあ、賑やかになるのも悪くないかもしれません」と加賀は控えめに呟いた。口元にほんの僅かな笑みが浮かんでいるのを、提督は横目に見ながら、肩をすくめて再び鍋の火加減を見直した。

 

こうして、急遽加わることになった来客を迎える準備が始まった。寒い夜、吹雪きそうな空の下でも、この家の中だけは少しずつ暖かくなっていくようだった。

 

 

 

冬の夜、外は冷え込みが一層厳しさを増し、街路樹にはうっすらと霜が降りていた。吐く息は白く、耳が赤くなるほどの寒さだ。それでも街は、年の瀬とクリスマス前の高揚感に包まれ、イルミネーションの灯りが淡く街を照らしていた。

 

 そんな中、提督の家ではひと足早い鍋パーティーの準備が進んでいた。居間のこたつには既に加賀が落ち着いた様子で座っており、吹雪は台所で大根を切っていた。香り立つ昆布出汁と湯気が、寒さを忘れさせるような温かさを家中に満たしていた。

 

 そこへ──

 

「ピンポーン♪」

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

「ん、来たか……」と提督が立ち上がり、玄関へと向かう。

 

 ドアを開けると、寒風とともに元気のいい声が飛び込んできた。

 

「おっじゃましまーーすッ!」

 

 瑞鶴だった。手には買い込んできた食材の袋、頬は紅潮し、はしゃいだように靴を脱ぎながら家へとずかずか入ってくる。

 

「あ、こら!瑞鶴、もう少し落ち着いて……」

 

 後ろから現れたのは翔鶴だった。いつもと変わらぬ丁寧な身のこなしで、玄関の敷居に一礼し、整えられたスラックスの裾をさっと手で直してから靴を脱ぐ。

 

「失礼いたします。お招きいただき、ありがとうございます。提督、加賀さん、吹雪さん、こんばんは。」

 

「お招きって…勝手に来たんだろうが……」と提督は苦笑しながらも、瑞鶴の元気な様子に怒る気も失せていた。

 

 翔鶴は廊下に広がる出汁の香りに目を細めると、「良い香りですね……昆布と干し椎茸、あと少し鰹も?」と、さりげなく食通の一面を見せる。

 

「流石翔鶴さん……」と吹雪が感心して口にした瞬間、さらにもう一度

 

「ピンポーン♪」

 

 立て続けに玄関チャイムが鳴る。

 

 提督が再び玄関へ向かうと、今度はやや派手なピンク色のマフラーを巻いた女子高生が二人、にこやかに立っていた。

 

「どーも〜♪おじゃましまーす☆」

 

「まあまあ、寒かったですわ……あら、案外お洒落な玄関なのね」

 

 鈴谷と熊野だった。

 

 一瞬、提督は軽く手を挙げて「らっしゃい」と言いかけた。

 

 ……が、そこで気づく。

 

「ってなんでお前らまでいるんだ!?」

 

 二度見した。

 

 完全に不意打ちだった。

 

 熊野はふふっと微笑みながら、提督の動揺を気にも留めず靴を脱ぐ。

 

「駅前で瑞鶴さんたちに偶然お会いして、それでご一緒にと……いけませんでしたか?」

 

「いけませんか?じゃねえよ……まったく、まるでここがたまり場になってるじゃねえか……」

 

 鈴谷は既にコタツへと滑り込み、「あっつ〜、こたつってやっぱ最高〜」と頬をほころばせる。

 

「ちゃんと買ってきたよ、野菜に肉に、あとほら、吹雪ちゃんの好きそうなプリンも〜」

 

 吹雪は驚いたように目をぱちくりさせたあと、静かに「ありがとうございます……」と頷く。手にはまだ大根が握られていたが、その目元はどこか嬉しそうに和らいでいた。

 

 加賀はコタツの中で膝を抱えながら、「提督、人数が増えるなら鍋の具材が足りなくなるかもしれません」と淡々と報告する。

 

「ったく、予備の鍋もう一つ出すか……。吹雪、米もうちょい研いでくれ。雑炊の分もな」

 

「は、はい!」

 

 提督が腕まくりをしながら台所へ向かうと、その背を見つめながら翔鶴がぽつりと呟いた。

 

「……やはり、提督の背中は落ち着きますね。昔から、どんな時でも背筋を伸ばしているのが、印象的でした」

 

「へーぇ?それってつまり背中萌えってやつぅ?」と鈴谷がからかうように言うと、

 

「そういう意味ではありません!」と翔鶴が頬を染めた。

 

 そして、鍋の用意の第2陣整った頃には、居間はすっかり賑やかな雰囲気に包まれていた。

 

 誰かが缶を開ける音がした。プシュッ、という音とともに瑞鶴が「ん〜!この一口のために生きてる〜!」と叫ぶ。

 

 翔鶴は眉をひそめながらも、姉らしく「飲みすぎないようにね」と注意しつつも、チューハイをひとくち。

 

 熊野は「私、この白子がとても好きなのよね」と湯気の立ち上る鍋を覗き込みながら箸を伸ばし、

 

 鈴谷は「ねぇねぇ、マロニー入れる?」と楽しげに話していた。

 

 吹雪はみんなの輪に包まれながらも、時折ちらりと提督の方を見ては、その横顔に微かな安心を覚えていた。

 

 あの戦争を共に生き延び、ようやくこうして平和な夜を囲める──それがどれほど貴重なものなのか、彼女たちはよく知っていたからこそ。

 

 ──その夜、こたつの中の温もりと共に、笑い声が響いていた。

 

 こたつの中では鍋がぐつぐつと音を立てていた。室内はもう湯気で満ち、窓ガラスは曇り、鍋の匂いと笑い声とが溶け合って、寒さすらもどこかに消え去ってしまったかのようだった。

 

「ふぅ、ふぅ……あっつ……!」

 

吹雪が目を細めながら鶏肉をはふはふと頬張っている。両手で小さな器を包み込むように持ち、器の縁に口を寄せて慎重に汁をすすりながら、「おいし……」とつぶやく姿は、まるで遠足に来た子供のようで、その頬はうっすらと紅潮していた。

 

一方、居間の中央では――

 

「だから高校生が酒なんて飲んじゃダメだって言ってるだろ!」

 

「えー、ちょっとくらいならいいじゃーん!」

 

「こら、鈴谷ァ!」

 

「うわっ、うるさい父親みたい〜っ!」

 

缶ビール片手に逃げる鈴谷、それを半ば本気で追いかけ回す提督の姿に、周囲の空気はますますにぎやかさを増していた。

 

「くっ……返せ、その缶を返せ!」

 

「やーだよー、もう飲んじゃったもんね〜!」

 

すばしこく炬燵の縁を飛び越えようとする鈴谷。鍋の周囲の小さなテーブルにぶつかりそうになって皆が息を呑んだ――その瞬間。

 

「――あまり、困らせてはダメよ」

 

すっと立ち上がった加賀の冷静な声が部屋を切り裂いた。

 

ピシリと背筋を伸ばすように鈴谷と瑞鶴の動きが止まる。いたずらがバレた小学生のように顔を見合わせ、頬を赤らめて一斉に口を開いた。

 

「「はーい……」」

 

加賀は何も言わず、静かに腰を下ろすと、ふたたび鍋に視線を戻す。彼女の中では既に一件落着だった。

 

瑞鶴はまだ顔をむくれていたが、すぐ隣の翔鶴がそっと膝に手を置いて、眉を下げたまま優しく囁く。

 

「今日は楽しく過ごしたいですから……ね?」

 

「……うん、わかったよ……」

 

鈴谷も、空になった缶をそっとテーブルの端に置き、「ごめーん」と言いながら提督の前に正座し、「怒らないでよぉ〜」と舌を出した。提督は呆れたようにため息をつきながらも、どこか緩んだ口元で小さくつぶやく。

 

「まったく……世話の焼ける……」

 

そんなやり取りを横目に、吹雪は小さな笑みを浮かべながら鶏肉をもう一つ口へ運んだ。あつあつのそれは、心の隙間までじんわりと温めてくれるようだった。

 

夜の帳は静かに降りてきていたが、この家の中は、まだまだ暖かく、明るく、そして笑い声に満ちていた。

 

 

「しかし加賀、お前……えらくその……瑞鶴に対して、な」

 

湯気の向こう、こたつの端に腰掛けた提督が、ぽつりと話しかけた。湯呑を手にしながら、じっと加賀の様子を窺うような目をしている。

 

鍋の中では白菜と鶏肉がぐつぐつと音を立て、部屋の暖気と混ざって和やかな空気が満ちていた。瑞鶴と鈴谷はさっきの注意のあと、大人しく吹雪と並んで料理の順番を待っている。

 

加賀は一瞬だけ視線を泳がせた後、口を開いた。

 

「……優しい、ですか?」

 

「あぁ、まあ……」

 

提督は曖昧に頷きつつ、記憶の奥にある昔の光景を思い出していた。

 

――かつて、まだ戦時中の艦隊勤務の頃。

 

初対面の場で、加賀は冷たく言い放った。

 

『五航戦の子なんかと一緒にしないで』

 

あの時、瑞鶴の顔は瞬間的に険しくなり、即座に二人は取っ組み合いに発展した。たしかその時の提督は会議から戻ってきて、ふすまを開けた瞬間に障子の向こうから椅子が飛んできたという記憶すらある。

 

「……思い出すなぁ。瑞鶴と初めて会った時なんて、あんた、全身から氷柱みたいなオーラ出してたよな」

 

「事実、実力も経験も未熟な子でしたから」

 

加賀はまっすぐ前を見ながら、落ち着いた口調で応えた。

 

「けれど、そうですね。……あの子は、まっすぐでした。無鉄砲で、言葉も足りなくて、よく泣いて……それでも、何があっても逃げなかった」

 

提督は黙って湯呑の湯をひとすすりしながら、その言葉に耳を傾ける。

 

「いつからか……そうですね。意識しないうちに、戦友としてではなく、妹のように思っていたのかもしれません」

 

そう言って、加賀はふっと小さな笑みを浮かべた。表情の変化が乏しい彼女にしては、珍しくやわらかなものだった。

 

「……戦いの中で育ったあの子を、守りたいと思ったのは、たぶん私にとっても、戦いから離れるきっかけになったのかもしれませんね」

 

提督はその言葉に、どこか納得したように頷いた。

 

「……そっか。あいつも、丸くなったなって思ってたが、変わったのはお前の方かもしれんな」

 

「人は、変わるものです。特に、平和が訪れれば」

 

加賀の言葉に、提督は少しだけ、何かが胸に滲みるような感覚を覚えた。

 

――変わる、か。

 

自分は変わったのだろうか。あの時から。あの焦土の中で、怒りと憎しみしか知らなかった日々から――。

 

「なぁ、加賀」

 

「はい」

 

「お前、瑞鶴のこと……これからも頼んだぞ。多分、あいつも……お前のこと、姉みたいに思ってるからさ」

 

加賀は驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を鍋に落とし、静かに頷いた。

 

「……了解しました、提督」

 

そしてまた、ぐつぐつと鍋の音が部屋に満ちていく。

 

賑やかな声。湯気。白く染まる窓。

 

戦火の記憶が過去に過ぎ去り、確かに今ここには、小さな平和と、寄り添うような絆があった。

 

それは、たしかに変わっていく証だった。

 

居間には、鍋の湯気と笑い声が立ち込めていた。

 

冬の夜にしてはぬくもりすぎるこたつの熱と、日本酒の香り、あちこちに置かれた缶ビールやチューハイの空き缶。それぞれが自由に食べ、笑い、語り合いながら、戦の名残を忘れるかのように日常の静けさに身を任せている。

 

その輪の中で、瑞鶴がふと、目の前の酒器に視線を落とした。

 

「あ、杯、空いてるわね」

 

加賀がそう言ったのは、ほんの何気ない口調だった。けれど、瑞鶴は目を見開いたまま硬直した。こくこくと日本酒を注ぐ加賀の手元を凝視して、その様子に、椅子から滑り落ちんばかりの勢いで体をのけぞらせる。

 

「あ、あ、あの加賀さんが……お酒注いでくれた……っ!?やさしいっ!?え、夢!?夢なの!?」

 

慌てて周囲を見回し、そして隣に座る提督の腕に手を伸ばす。

 

「提督!ちょっと頬、抓っていい!?あたし今夢見てる!?」

 

「いだだだだっ!こら痛ぇって!普通こういう時は自分の頬抓るだろ!」

 

「いや!現実確認のためには第三者の反応が一番なのよ!っていうかこれ、何かの前兆!?大地震来るんじゃないの!?もしくは瑞鶴死ぬ前兆とかじゃないよね!?」

 

「縁起でもねぇこと言うな……」

 

提督が苦笑まじりに湯飲みでコーヒーを口に運ぶ一方で、瑞鶴は加賀の差し出した酒を恐る恐る受け取る。そして、どこか目を泳がせながら、

 

「戦いが終わって、お腹も……性格も丸くなったのかしら?」

 

ぽそりと、しかし明瞭に口にした。

 

その瞬間だった。

 

「――ふぎゃっ!?」

 

「何を言ってるのかしら?」

 

ぐいぃぃ、と肘が瑞鶴の脇腹にめり込む。

 

まるで当たり前のように、過不足なく、見事な角度で突き刺さる加賀の一撃。

 

「いだだだだっ!や、やっぱりいつもの加賀さんかも……っ!」

 

瑞鶴は顔をしかめてお腹を押さえながら悶絶。提督も鈴谷も、翔鶴ですら苦笑いを浮かべる中、加賀はまるで何事もなかったかのように、静かに自分の杯へと酒を注いでいた。

 

「加賀さん、手加減してくださいな……」と苦笑交じりに言う翔鶴に、

 

「もちろん、してますよ」と加賀が返し、また瑞鶴は「してアレなんですか!?」と目を見開く。

 

それを見ていた提督は、ふと昔のことを思い出した。

 

かつて、訓練艦隊の中で本気で火花を散らしていたあの二人。ぎすぎすとした空気、言葉の応酬、周囲が冷や汗をかくような張りつめた時間……それが、今やどうだ。

 

口は悪いが肘は容赦なく、けれど間違いなく、そこには情がある。姉妹のような、あるいはもっと強い絆。

 

提督は心の中でひとつ、深く小さくうなずいた。

 

――変わったんだ、皆。

 

戦いが終わって、壊れそうだったものが、ようやく育ちはじめた。

 

加賀の注いだ酒をひと口、瑞鶴が口に含む。

 

「あ、おいしい……」

 

その一言に、加賀はほんのわずかだけ、満足げに目を細めた。

 

 

 

提督は、コタツに背を預けながら湯飲みを手にし、ふと周囲を見回した。

 

皆が一通り腹を満たし、酒やジュースを片手に談笑する中、その場にふと、提督らしい問いかけが落とされる。

 

「ところでお前ら、進路はどうすんだ?」

 

一瞬、場が静まった。誰もが思ってはいたが、声にするには少し気恥ずかしくて、けれど逃げるには場が和みすぎていた。

 

最初に口火を切ったのは鈴谷だった。

 

「えー? 進路って言われてもなー」

 

手元の缶ジュースを一気に煽ると、ぷはっと息を吐いて、笑った。

 

「来年ウチら高3っしょ? ま、なんとかなるでしょー。今はそれより、学生生活を満喫したいっていうか? スカート短くしてディズニーとか行ったりさー、JKっぽいことまだまだしたいんだよね〜」

 

「まったくですわ、鈴谷ったら真面目な話も聞かずに……。けれど、私も同意見ですの。今この瞬間の“青春”を丁寧に味わいたいですわ」

 

熊野もそう続け、どこかふわふわとした二人の口ぶりに、提督は「お前らなぁ……」と呆れ半分、笑い半分で肩を竦める。

 

続いて、瑞鶴。

 

「アタシもー、特にこれって決めてないかな。なんかこう、風に乗って生きてくタイプ? 流れるまま、みたいなー?」

 

軽口めいた言葉に合わせて、にへらと笑う。

 

「だいたい、今までだって作戦って名の運命に流されてきたんだし、今さら人生設計なんてできっこないってーの」

 

「計画性の欠片もないな……」と提督は思わず溜息をこぼしたが、それでもどこか安堵していた。戦場で“次”のことなど考える暇もなかった彼女たちが、こうして未来を語れるようになったのだ。たとえ浮ついていようが、それこそが平和の証。

 

だが――

 

「私は、教職を目指そうと思っています」

 

凛とした声が、皆の耳を打った。

 

翔鶴だった。

 

柔らかな表情のまま、コタツの上に揃えて置かれた手を見つめるようにしながら、はっきりとそう口にした。

 

「具体的には、教員免許を取得して、できれば国語か倫理を……。その後、戦争を経験した私たちのような世代が、ただ戦った、ただ守った、という記録だけで語られないように……」

 

翔鶴の瞳には、微かな決意の色が宿っていた。

 

「子供たちに、物語を語るようにでもいい。命を、希望を、誇りを、ちゃんと伝えられる教師になりたいんです」

 

一瞬、場に流れる空気が変わる。真剣な声色に、誰も茶化すことができなかった。

 

瑞鶴が口を開いた。

 

「……翔鶴姉ぇ、前から言ってたよね。教える人になりたいって」

 

「ええ。昔、艦隊の若い子たちに読み聞かせをしたとき……その子たちが、“本の中の世界”で笑った顔、忘れられなくて」

 

その言葉を聞いて、提督はそっと湯飲みを置いた。

 

「……立派な志だな。今の時代だからこそ、必要とされる職業だ」

 

「ありがとうございます、提督」

 

翔鶴は深々と頭を下げる。

 

そこには、艦載機を飛ばし、空を切り裂いたかつての戦闘機動の面影はなかった。あるのは、若き教育者としての覚悟を纏い、誰かの未来に灯りを灯そうとする、一人の女性の横顔だった。

 

「なんか、アタシも見習おっかなー……」と瑞鶴が冗談めかして言う。

 

「冗談で結構ですよ」と加賀のツッコミが鋭く飛び、

 

「えぇー!?ヒドっ!」と瑞鶴が叫び、皆の笑いがこだまする。

 

 

鍋の湯気が立ち込める中、まだまだ温もりを帯びた団欒の空気に包まれながら、ふと瑞鶴が冗談交じりに言った。

 

「で、提督は? 未来のこととか、考えてるのー?」

 

提督はその問いに一瞬だけ目を細め、湯呑みを傾けた。ぐび、と音を立ててお茶を飲み干し、天井を仰ぐ。

 

「俺は……そうだな、このまま平和にここで余生を過ごして――」

 

「おじんくさーい!」と鈴谷と瑞鶴が即座にツッコミを入れる。

 

「え? 今の言い回し、おじいちゃんじゃない?」と鈴谷が笑いながら肘で瑞鶴を小突き、瑞鶴も「余生ってなにー!? せめて“これから人生を楽しむ”くらい言ってよねー」と茶化した。

 

提督は苦笑して肩をすくめる。

 

「おいおい、現場叩き上げのオッサンに未来設計なんて似合わねぇだろ」

 

「いやいやいや、提督ってまだアラフォーじゃないんですか? その歳で“余生”は早すぎっしょ〜」と瑞鶴。

 

「そもそも今の時代、五十六歳でもアイドルデビューできるんですよ?」と鈴谷が変な例えを持ち出し、熊野まで「それは極端すぎますわ」と笑いながらも混ざってきた。

 

「それにさー」

 

と、瑞鶴がずいっと身を乗り出し、胡座をかいていた提督の前に腕を組んで詰め寄る。

 

「好きな人とかいないの? 誰かと一緒に老後を楽しむとか、そういうのはー?」

 

その瞬間だった。

 

加賀の動きが止まった。

 

片手には箸、もう片方には鍋の豆腐をすくったまま――一瞬の静止。そのまま何気ない風を装うが、明らかに落ち着かないそわそわとした空気を纏っている。視線は逸らし、コタツの隅を見つめるように。

 

そして――

 

吹雪もまた、その加賀の挙動に気付いた。

 

(あ……)

 

年頃の娘として、そうした“勘”は鋭い。誰かが誰かを想う気配にはすぐに気付く。いつもは凛として冷静で、無口で余計なことは言わない彼女が、今だけはなぜか“加賀さん”ではなく“ただの一人の女性”としてそこにいるように見えた。

 

その視線の先にいるのは――提督。

 

吹雪は無言のまま、そっと息を殺すようにコタツの端で身体を寄せた。

 

「俺に? ……ないな」

 

提督は即答だった。

 

「つっまんなーい!」と今度は鈴谷と瑞鶴が声を揃えた。

 

「夢も希望も色気もないっ!」と鈴谷が指をさしながら抗議し、瑞鶴は「この鍋が色恋禁止鍋だったらどうすんのさ〜!」と笑いながらお玉を振るう。

 

「おふざけもほどほどに」と翔鶴がたしなめながらも、口元は笑っている。

 

「熊野も混じってるし……」と誰かが呟いたとき、「え? わたくしは別に……その……」と熊野が頬を赤らめて、口を濁す。もしかすると、熊野もまた“恋”というものに憧れを抱き始めていたのかもしれない。

 

そんな空気の中で、ただ一人――

 

加賀はそのまま、黙って鍋の中の湯気を見つめていた。

 

提督の「ないな」という即答が、彼女の心にどう響いたのかは、誰にもわからなかった。

 

けれど吹雪だけは、なにかを察していた。

 

この部屋の中には、言葉にならない想いがいくつも浮かび、鍋の湯気のように、暖かく、そして少しだけ切なく、宙を漂っていた

 

 

 

「んじゃ、好きなタイプは?」

 

鍋の蓋が湯気とともにカタリと音を立てた。誰かが汁をよそっている音、吹雪が「熱っ」と指先を振る音、瑞鶴がくいっと日本酒を煽る音、そのすべてが、その言葉を境に一瞬だけ凍りついた。

 

「やっぱしさぁ、おっぱいおっきい人が好きなのー?」と瑞鶴。

 

「……コイツ、酒が入っておかしくなってんなー?」

 

と、呆れを隠しもしない提督は、目の前の杯を置いて、横から瑞鶴の頭に片腕を回し、ガシガシとグリグリヘッドロックをかける。

 

「ぬがっ、うぎゃっ、あ゛あ゛〜ッ!」

 

「今度言ってみろ、義手の方でアイアンクローだからな」と言いながら、機械の義手をパキンと指鳴らすように屈伸させて見せると、瑞鶴は「ヒィィ!」と肩をすくめて後ろへ下がる。

 

そのやりとりに、鈴谷と熊野は手を叩いて爆笑している。翔鶴は肩を落としつつも口元を隠して笑い、吹雪は「こらこら〜」と困ったように笑いながらも、どこか楽しそうだ。

 

だが――

 

その時、ほんのわずかに、ピクリと反応した者がいた。

 

鍋の端で、静かに箸を動かしていた加賀が、ほんの一瞬だけ、目を伏せたまま耳を傾けたのだ。

 

視線は鍋の湯気の奥、誰にも気づかれないように、ただじっと――

 

……提督の「好きなタイプ」を、待っていた。

 

その問いは瑞鶴の冗談交じりのものだったが、加賀にとっては、決して笑い飛ばせるような話ではなかった。

 

胸の奥にしまい込んでいた想いが、小さく脈を打つように膨らむ。

 

加賀はそのまま、耳を澄ませた。

 

提督は、まだ笑っていた。

 

「お前なぁ……そーいうのはな、酒の場でも聞くもんじゃねーんだよ」

 

「ケチー! 男なんだから堂々と言いなよぉ〜!」

 

「はいはい、うるせぇうるせぇ」と提督は苦笑しつつ、ちらりと義手の方の手を動かしながら机に戻す。

 

「でも、ほら、言ってもいいじゃん? ね? ね?」と瑞鶴はさらに追撃する。

 

「そーですよ提督、気になるじゃないですか!」と鈴谷が加勢し、熊野まで「わたくしも少し、気になりますわ」と背筋を伸ばして口にした。

 

「……はぁ」

 

提督は、湯気に霞む空間の中で、少しだけ天井を見上げてから、ぽつりと呟いた。

 

「……そうだな」

 

その言葉に、加賀の指が箸から力を抜いた。箸が器にカタンとぶつかる音がしたが、誰も気づかなかった。

 

「強い人、かな」

 

「強いって、体力? 腕力?」と瑞鶴。

 

「いや、心が、だな。……なんていうか、たとえ辛いことがあっても、前を向ける人。誰かのために、ちゃんと立ち続けられる人……そういうのが、俺はいいと思う」

 

一同は、思いのほか真面目な答えに「おぉ……」と声を漏らす。

 

「でも、それって提督じゃない? まんま」

 

と吹雪がふと呟くと、提督は「いやいや、俺はそこまで器用な人間じゃない」と笑って手を振った。

 

その横で――

 

加賀はそっと、己の膝上に置いた手を見つめていた。

 

自分は、彼の言ったような存在になれているのだろうか。

 

苦しさを噛み締めても、戦場に立ち続けた日々。

 

あの頃の誇りが、いま、彼の「理想の人」に少しでも重なるならば――

 

その鼓動は、あの日のように、どこか焦がれるような熱を帯びていた。

 

「他にあるでしょ? おしり派? とかさ」

 

瑞鶴が空いた缶を机に置き、得意げに提督へと詰め寄る。酔いがまわってきたのか、その顔はほんのり赤く、笑いながらもどこか悪戯っぽい目をしていた。

 

「……あぁ」

 

提督は、一瞬間を置いてから、あっさりと答える。

 

「断然、ケツだな」

 

その言葉に、場がひとつ凍った。

 

吹雪がもぐもぐしていた鶏肉を咀嚼する手を止め、翔鶴がそっと湯飲みに手を伸ばし、熊野が「え?」と眉をひそめ、鈴谷が一瞬キョトンとしてから吹き出しかける。

 

「え……え、マジで……?」

 

「うん。健康なのがいい。……ひっぱたきたいくらい、な」

 

と、提督は言いながら、鍋の中に沈んでいた豆腐を掬う。

 

コポッ――と音を立てて浮かび上がる豆腐と、言葉の重さとが、まったく釣り合っていないようで――場の空気が数秒だけ止まった。

 

それを最初に破ったのは瑞鶴だった。

 

「ちょ、ちょっと待って!? いまさらっと言ったけど、ひっぱたきたいって!?」

 

「……うん。別に変な意味じゃねぇぞ。なんていうかこう、健康的で、弾力あって、こう……こう、元気そうなのがな。見てて安心するというか」

 

「安心感!?」

 

「そういうのってあるだろ? しっかり食って、しっかり寝て、ちゃんと地に足ついてるって感じの、なんていうか、うん」

 

「あ、ある……かも……?」

 

翔鶴が困惑したようにフォローし、吹雪は鍋を見つめながら頬を赤くしていた。熊野は口元を覆って「わたくし、ついていけませんわ……」と小さく呟く。

 

一方で、加賀だけが――黙っていた。

 

だが、その頬には、微かに赤みが差していた。誰よりも静かに、しかし確かにその言葉に反応していた。元より、ストイックな生活と鍛錬で鍛え上げられた自分の体。特に後ろ姿は、赤城に何度も「もっと自信を持ちなさい」とからかわれたこともあった。

 

「……ひっぱたきたい、くらい……」

 

その言葉を胸の内で繰り返しながら、加賀はそっと、こたつの中に足を深く潜らせた。

 

鈴谷はそれを見ていた。

 

「へぇー……そういう俗っぽい話、できるんだ……」

 

「ん?」

 

「いやいや提督ってさ、なんかこう……もっとクールっていうか、寡黙なタイプだと思ってたから、なんか意外~」

 

「ああ。……まぁ、普段は言わんだけでな。たまには、いいだろ?」

 

「たまには、ねぇ~」

 

瑞鶴がにやにやしながら、もう一本缶を開けた。

 

「じゃあ次は――脚派? 髪派? それとも耳たぶ派? ほらほら教えてよ~!」

 

「……おい瑞鶴、そろそろ黙らせるぞ?」

 

「やだなぁ~、それって“ひっぱたく”の延長ですか~?」

 

「うるせぇ!」

 

その瞬間、こたつの中でぐいっと引っ張られた瑞鶴が「ぎゃーっ!?」とひっくり返るのだった。

 

だが、そんな喧騒の中、加賀は――

 

ほのかに染まった頬を隠すように湯飲みに口を寄せ、そっとつぶやく。

 

「……健康、ですか」

 

その言葉は誰にも聞こえないほど小さく、だが確かに、彼女の胸に響いてい

 

 

縁側の廊下はひんやりとして、外の空気にさらされた畳の縁が肌に心地よかった。

 

雪こそ降らなかったが、冬の夜は透き通るように冷たく、けれどその分だけ、空に浮かぶ月は凛と冴えて、まるで見上げる者の心を透かすように美しかった。

 

家の中からは鍋の残り香と、ほんの少しの寝息が漏れていた。騒がしかった大所帯の宴もようやく幕を引き、リビングでは瑞鶴がごろりと横になり、隣で翔鶴が穏やかな顔で丸くなっていた。熊野と鈴谷も、コタツに埋もれてうたた寝をしている。

 

すべてのざわめきが過ぎ去ったあとの、静寂。

 

その中、提督は縁側に腰を下ろし、片手に盃を持って月を仰いでいた。

 

「……月見酒ってのも、悪かねぇな」

 

そう呟いた声に、カチンと盃が触れる音が重なった。

 

「私も、そう思います」

 

隣に静かに腰を下ろしたのは加賀だった。コートの裾を整えながら、湯気の立つ酒器を傾けて、彼女もまた月を見上げていた。

 

「随分と賑やかだったな」

 

「……ええ。でも、嫌いじゃありません」

 

「そりゃ良かった」

 

ふと笑って提督は盃を煽る。温かい酒が喉を滑り、胃へと落ちていく感触に、ようやく今日一日が終わったと実感する。

 

「……なあ」

 

「はい」

 

「前にも言った気がするが、好きなタイプってやつ。やっぱあれ、今思い返しても墓穴だった気がすんだが……」

 

「あら。そんなことありませんよ?」

 

加賀の声は、少しだけ柔らかく、そしてなにかを含んだようだった。

 

「ふむ……?」

 

「むしろ、よく分かりました」

 

「なにがだよ」

 

「……私の、好きなタイプが」

 

提督が不思議そうに眉をひそめる。だが加賀は盃を見つめながら、ひとつ、ふたつと口を開く。

 

「頑固で、口下手で、でも誰よりも優しくて……」

 

「……」

 

「戦争を知っていて、誰よりも人の痛みに敏感で……」

 

「……」

 

「年下の者にいつも気を遣って、つい損な役回りを引き受けてしまうところとか」

 

「……おい」

 

「頼りなくはないけれど、完璧でもなくて。だけど、だからこそ信じられる……そんな人です」

 

その言葉のひとつひとつが、まるで淡い灯りのように夜の縁側を照らしていく。

 

提督は盃をゆっくりと置き、加賀の方を向いた。

 

「お前……」

 

呆れたような、けれどどこか照れ隠しのような声音で言いかけたその瞬間――

 

加賀が身を寄せた。

 

そして、頬に、そっと唇を落とした。

 

触れるだけのような、けれど確かな熱を伴う口づけだった。

 

夜の静けさに、どこか緊張したような、けれど穏やかな沈黙が流れる。

 

「……好きです」

 

それは、凛とした声だった。普段の彼女らしい、揺るがぬ意志の込もった言葉だった。

 

提督は目を見開いたまま、数秒、何も言えなかった。あの加賀が、まっすぐに、自分にそう言ってくるとは、思ってもみなかった。

 

「……」

 

「返事は……すぐでなくても構いません。でも、伝えておきたくて」

 

加賀はゆっくりと背筋を正し、また月を見上げるようにして盃に口をつける。

 

その横顔は、いつになく穏やかだった。

 

提督は、隣に座る彼女を見つめながら、自分の胸の中にある静かな高鳴りを感じていた。

 

それは、戦争の中で感じた焦燥や怒り、絶望とは違う。

 

ひとつの大切なものを、ようやく掴もうとしている心の震えだった。

 

「……ったく」

 

そうひとつ息を吐いて、提督は再び盃を取り上げた。

 

「じゃあ、もう一杯だけつきあえよ。冬の月は、まだ長い」

 

「ええ。喜んで」

 

そして二人の盃が、静かにもう一度、音を鳴らした

 

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