艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十四話 初詣

 

 炬燵の中は、湯気と笑い声と、ほんのり甘いケーキの香りに包まれていた。

 

 年末の番組がテレビの中で喧騒を繰り広げている。お笑い芸人が大声を張り上げて、爆発音のような笑いを引き起こすその画面を、三人はのんびりと、こたつに潜って眺めていた。

 

 障子の外はすっかり冷え込み、吐く息が白くなる。だが、こたつの中は真逆の世界だ。湯気を立てる急須の緑茶が追加され、誰かの分の湯呑みにもう自然と手が伸びるくらいには、互いの距離が近づいている。

 

 「しかし、あれだな……あのチキンとケーキは、まさに年末の嵐だったなぁ」

 

 そう言いながら、提督は湯呑みを片手にくくくと喉を鳴らした。

 

 「や、やめてくださいぃぃ〜〜〜っ!」

 

 炬燵布団に突っ伏して、顔を真っ赤にした吹雪が叫ぶ。両手で頭を抱え、まるで全てを消し去るようにバタバタと足を動かす様子は、もはや小動物のようだ。

 

 「あー、何個来たんだったか。チキンが、ほら……日にちずらして四日間届いたよな? その度に玄関開けるたび匂いが……」

 

 「もうっ! 言わないでくださいってばぁぁっ!」

 

 「ケーキは……えーと、ご近所に配った数、何件だったっけ。八? 九?」

 

 「十件ですううっ!!」

 

 布団の中から聞こえる声はもはや嗚咽のようで、耳まで真っ赤に染まった吹雪は、炬燵に突き刺さるようにうずくまったままだ。

 

 そんな彼女の肩を、提督が楽しげに指先でちょん、と突く。

 

 「うりうり。あれか? ネット注文は戦術的判断ミスってやつか?」

 

 「うう……撃沈です……完全に轟沈しました……」

 

 「艦娘らしからぬミスだなー?」

 

 「や、やめてくださいぃぃぃ……!」

 

 指先でつつかれ、炬燵の中でくねくねと悶える吹雪の様子に、加賀が制止の声をかけた。

 

 「提督、そろそろやめてあげてください。吹雪さんがこれ以上縮こまると、炬燵の中で溶けます」

 

 口ではたしなめながらも、その横顔には笑いを噛み殺したような影が浮かんでいた。

 

 提督が目を向けると、加賀はぷいと視線を逸らそうとしたが、その唇がふるふると震えている。

 

 「……くっ……」

 

 「加賀、お前も笑ってんじゃねぇか!」

 

 「……だって……ふふっ……」

 

 ついに堪えきれず、加賀は小さく、しかし確かな笑い声を漏らした。いつもは凛とした彼女の肩が、ほんの少し揺れる。

 

 「だって……あのときの吹雪さんの、『なんで段ボールが五つもあるんですか!?』って顔が……あまりに……」

 

 「ひゃああああ〜〜〜〜っ!!!」

 

 炬燵の中に頭を突っ込んだまま、吹雪は枕のように布団を抱きしめて悶絶している。耳まで真っ赤というより、もはや小豆色に近い。

 

 「いやぁ、忘れられねぇな。あの慌てっぷり。まるで初めてソナーに引っかかった時の新米駆逐艦みてぇだった」

 

 「うう……笑ってくださいぃ……好きなだけ笑ってくださいぃ……!」

 

 「いいのか? 本当に笑うぞ?」

 

 「うう……せめて、せめて初詣では厄払いさせてください……っ」

 

 その言葉に、加賀が吹き出した。

 

 「ふふ……それは、吹雪さんだけじゃなくて、提督にも必要かもしれませんね」

 

 「おいおい、なんで俺もだよ!?」

 

 「……準備の全責任を丸投げするのは、作戦失敗の一因でもありますから」

 

 「おお、加賀、いつのまにか的確に俺を刺してくるようになって…脇腹は蜂の巣まみれだぞ」

 

 そんな冗談交じりのやりとりに、吹雪もこたつ布団の隙間から顔を覗かせて、小さく笑った。

 

 「……うぅ……ほんと、今年はすごい一年でしたね……」

 

 「まったくだな。でも、こうして過ごせてるってだけで、結構満点だと思うぞ?」

 

 提督の言葉に、加賀も静かに頷いた。

 

 炬燵の中には、膝同士が触れるほどの距離感があり、テレビの音だけが年の瀬を刻むように流れていた。

 笑って、悔やんで、また笑って――そうして、この小さな家の冬は、あたたかく更けていく。

 

 

 炬燵の上にはみかんの皮が小さな山を作り、茶菓子の皿はもう空っぽになっていた。

 

 テレビからは相変わらず年末特番の笑い声が鳴っていたが、三人のうち誰もまともに見ている者はいなかった。のんびりとした時間に流されるように、それぞれがそれぞれの姿勢で炬燵に半身を預けている。

 

 提督が、皮を剥いたみかんをひとつ口に放り込んでから、ふとした調子で呟いた。

 

 「……しかし、あれからもう二日か。加賀の荷物、運び終えたの」

 

 加賀は軽く頷き、湯呑みに口を寄せた。吹雪も、少し驚いたように目を丸くして加賀を見る。

 

 「そういえば、引っ越しの時、あまり重そうな荷物はありませんでしたよね」

 

 「ああ。家電はともかく、家具類は、向こうの大家さんの計らいでな。建物取り壊す際に処分してくれるって話だったから助かったよ」

 

 提督は二つ目のみかんの皮を剥きながら、肩をすくめるように言った。

 

 「大家さん、いい人だったな。加賀の引っ越し手続きにも丁寧に対応してくれて」

 

 「戦後すぐにお世話になったので、短い間とはいえ、私にとっては落ち着ける場所でした。……一年と少しですが」

 

 加賀は湯呑みを置いて、小さく笑った。言葉の端々に、静かな別れの余韻があった。

 

 提督はその表情を横目に見ながら、ふと左の袖をまくる。

 

 「……明石曰く、この義手も最近ちょっと出力上がってるらしいからな」

 

 「えっ、そうなんですか?」

 

 吹雪が目を見開いて問い返すと、提督はにやりと笑った。

 

 「おかげで、一人暮らし用の冷蔵庫くらいなら、なんとか持ち上げられた。……あの程度なら、昔なら二人がかりだったろうに。楽なもんよ」

 

 「わ、わたし……冷蔵庫、絶対無理です……」

 

 吹雪が口を尖らせると、提督は茶を啜りながら笑った。

 

 「家電類は結局、全部廃品扱いでアパート前に置いとけば業者が持ってってくれるってんでな。書類と札だけつければいいし、案外楽で助かったわ」

 

 「……時代ですね」

 

 加賀がぽつりと呟くように言った。声に感傷は少なかったが、眼差しの奥には、確かに去っていった日々を思う光があった。

 

 提督は再びみかんを口に放り込んで、言った。

 

 「……まあ、引っ越しってのは、少しだけ寂しくて、少しだけ晴れがましいもんだ」

 

 その言葉に、誰も何も返さなかった。炬燵の中には、静かなぬくもりだけがあった。年末のテレビはまだ騒がしいままだったが、その音すらも、遠い別の世界のようだった。

 

 

 炬燵の中は、静かな余韻に包まれていた。

 

 年末番組の賑やかな笑い声はもう誰の耳にも届いておらず、三人とも自然と視線を合わせず、けれども空気を分かち合うように、それぞれがこの一年を思い返していた。

 

 提督は、剥きかけのみかんを指で割きながら、ぽつりと呟いた。

 

 「いやー……しかし、振り返ってみれば、今年はほんとにいろいろあったなぁ」

 

 みかんの房を一つ口に放り込みながら、天井をぼんやりと仰ぐ。

 

 「吹雪がうちに来て、毎日がちょっと騒がしくなって……。加賀のこともあったし。ほんと、静かだけど、濃い年だった」

 

 炬燵の向こう側で、吹雪は少し照れくさそうに目を伏せた。

 

 「……騒がしくて、すみません」

 

 「いやいや、いい意味でだ。おかげで、ずっと忘れてた“普通の生活”ってやつを思い出せた」

 

 吹雪は嬉しそうに微笑み、小さく「よかった」と呟いた。

 

 そして――その隣で、加賀が湯呑みを持ち直しながら、静かに言った。

 

 「そうですね。私も……この年の終わりに、ようやく想いを伝えることができました」

 

 その瞬間だった。

 

 「んぶっ……!?」

 

 提督が盛大に変な音を立てて、口にしていたみかんの房を喉に詰まらせかけた。

 

 「てっ……!? し、司令っ!? だ、大丈夫ですかっ!?」

 

 「けほっ……ごほっ、ごほっ!」

 

 吹雪が慌てて背中をさすろうとするが、提督はそれを手で制しつつ、反対の手で急いで湯呑みを掴んでぐい、と中の水を飲み干した。

 

 「……ん゛っ……ぶはぁ……」

 

 顔を赤くして咳き込みながら、ようやく落ち着いた提督は、ぐったりと肩を落とす。目元がやや涙ぐんでいる。

 

 「……おいおい、加賀よ……そういう爆弾を不意に投下するな……」

 

 「……爆弾ではないと思いますが。事実を申し上げただけです」

 

 加賀はいつものように淡々と、しかしどこか意地の悪い冗談を混ぜるような声でそう言った。

 

 提督はその言葉に明確な反論もできず、ただ水の入った湯呑みを空にしたまま、少し目を逸らす。

 

 その姿に、吹雪が何とも言えない表情で炬燵の端に身を縮めた。

 

 「(こ、これは……あえて言及しない方がいいやつだ……)」

 

 そんな空気の中、加賀だけがあくまで穏やかに湯呑みを口に運び、その仕草には微かな満足感さえ漂っていた。

 

 提督はというと、胸の奥に残るわずかな負い目を吐き出すこともできず、水の味を確かめるようにもう一口だけすすった。

 

 ――返事はまだ。けれど、言葉にできずとも、目を逸らしながらも、提督はその想いを受け取っている。

 

 年越しまで、あとわずか。

 

 静かな炬燵の中、未解決の気持ちも、微かな照れも、冬の夜の温もりにそっと包まれていった。

 

 

 こたつの中で、ゆったりと流れる時間に包まれていたそのとき。

 居間の壁際に置かれた黒電話が、突如として甲高く鳴り響いた。

 

 ――リン、リン、リン。

 

 音の余韻に、テレビの笑い声が一瞬掻き消える。

 

 「っと、俺か……」

 

 みかんの皮を手ぬぐいで拭いた提督が立ち上がり、足音静かに受話器を取る。

 

 「はい、こちら――……おう、おう。ああ、うん。大丈夫だ、こっちはこたつでぬくぬくしてる。ああ、そんな急がなくても……うん、了解了解……。うん、気をつけてな」

 

 短いやり取りを終えて、受話器を置いた提督は、そのままこちらへと戻ってきた。

 

 炬燵の向こうから、吹雪が小首を傾げる。

 

 「……誰からです? 今の」

 

 提督は少しばかり不思議そうな顔をして首を傾げた。

 

 「ん? 言ってなかったか?」

 

 そして、こたつの自分の席に腰を下ろしながら、さらりと告げた。

 

 「鳳翔が来るんだよ。年明けの初詣、一緒に行くって話してたろ?」

 

 「――えぇっ!? 鳳翔さんが!? 本当ですか!?」

 

 吹雪の声が、炬燵の上で跳ねるように弾けた。

 

 頬を明るく染め、身を乗り出すようにして目を輝かせるその様子に、提督はくくっと喉を鳴らして笑った。

 

 「おう。どうせひとりで年越しなんてさせられるかってな。向こうも店を早く閉めて、こっちに来るそうだ」

 

 「わぁ……! あの、わたし、ずっと鳳翔さんに会いたかったんです!」

 

 吹雪は思わず口を押さえ、椅子から立ち上がりかけるほど喜びを露わにする。

 その隣で静かに湯呑みに口を寄せていた加賀も、ふと手を止め、ほんの少しだけ目を見開いた。

 

 「そうですか……」

 

 それだけ、静かに呟いた。

 

 けれどその声には、どこか柔らかさが混ざっていた。普段の端整な横顔が、気づけばごくわずかに、しかし確かにほころんでいる。

 

 提督はその様子に気づきながら、何も言わずにみかんをもう一つ手に取る。

 

 「……まぁ、店があるからな。年末は早めに閉めるそうで、もうじき来るらしい」

 

 「お迎えに……行かなくて大丈夫ですか?」

 

 「んー、あいつのことだ。道くらい分かってるさ。それに出迎えなんてしたら向こうが変に気を遣うだろ。あとコタツから出たくねぇ」

 

 「こたつの魔力恐るべし…」

 

 吹雪が肩を竦めながらも、笑いを堪えるように呟く。

 

 加賀はその会話を聞きながら、静かに立ち上がった。

 

 「……お茶、淹れ直してきますね。鳳翔さんが来たとき、すぐ温かいものを出せるように」

 

 その背に、提督が声をかける。

 

 「悪いな、頼んだ。……急がなくていいからな」

 

 加賀は一度だけこちらを振り返り、ほんのりと頷いた。

 

 玄関の外には、雪がうっすらと積もり始めていた。

 けれど、その家の中には、炬燵と、笑い声と、心待ちにする人を迎えるあたたかな準備が、もう出来ていた。

 

 

 外はすっかり暗く、白く霞んだ夜の空気が家を包んでいた。

 

 炬燵の中で、吹雪は膝を抱えながら湯呑みの余熱を手のひらに移し、加賀は茶葉を急須に移し替えながら、湯の温度をじっと見つめている。

 テレビの音はボリュームが絞られ、こたつの中には、静けさに似た落ち着いた空気が流れていた。

 

 そのときだった。

 

 ――チン、と小さなチャイムの音が、玄関先で鳴った。

 

 ピンと張り詰めたような冷気が、その音に呼応するようにどこかから忍び寄る。

 提督はみかんの皮を手の中で転がしながら、ふっと目を細めた。

 

 「……来たな」

 

 そう言って立ち上がると、こたつの中の温もりを名残惜しそうに抜けて、静かに玄関へ向かった。

 

 玄関の扉を開けた瞬間、外から吹き込んでくる冬の風に、顔がきゅっと引き締まる。

 

 そこに立っていたのは、長めのコートに身を包んだ一人の女性だった。

 

 鳳翔。

 

 薄藍のコートの肩口には、舞い落ちた雪がそっと積もっている。

 黒髪はきちんとまとめられているが、その上にも小さな雪片がいくつか残っていた。

 薄い白息が唇から漏れ、しかしその表情は、変わらぬ穏やかさに包まれている。

 

 「こんばんは、提督。……お待たせしました」

 

 その声に、提督はふっと目元を緩めた。

 

 「……いや、来てくれてありがとう。寒かったろ」

 

 「大丈夫です。……でも、今年の雪は少し足が早いですね」

 

 鳳翔はそう言って、上品に笑った。

 

 肩から軽く雪を払うと、手にした小さな風呂敷包みを持ち直した。

 

 「皆さん、お元気ですか?」

 

 「おう。吹雪なんか、さっきから“鳳翔さん来るの!?”ってそわそわしっぱなしだ。加賀も茶の準備を始めてたくらいだ」

 

 「ふふ……変わっていないようで、何よりです」

 

 提督は一歩下がり、玄関の明かりの中へと鳳翔を招き入れた。

 

 雪を運ぶ冷たい風が、一瞬、屋内に流れ込んでくる。

 

 しかしそのすぐ後に、彼女の持つ柔らかで落ち着いた気配が、すべての空気を和らげていった。

 

 靴を脱ぎ、優雅な所作で上がる鳳翔。吹雪は居間から身を乗り出して、ぱっと花のような笑顔を咲かせた。

 

 「鳳翔さんっ! 本当に来てくれたんですね!」

 

 「ええ、吹雪さん。お久しぶりですね」

 

 そうして再会の声が交わされた瞬間――

 

 炬燵の中は、いっそう暖かくなったような気がした。

 

 加賀は茶器を持ったまま、玄関へ目を向けて、鳳翔の姿を認めると、口元を静かにほころばせる。

 

 「ようこそ。お茶、淹れたてです」

 

 「まぁ……ありがとう、加賀さん」

 

 鳳翔はそっとその声に微笑みで応えると、炬燵の方へと歩み寄っていった。

 

 外では相変わらず、雪が静かに降っている。

 けれどこの家の中には、四人で迎える穏やかな年の瀬の気配が、少しずつ、しっかりと、満ちてきていた。

 

 靴を脱ぎ終え、玄関からゆっくりと居間へと歩を進める鳳翔。

 廊下の先、明かりのともる居間では、こたつのぬくもりがまるで彼女の到着を待っていたかのように迎え入れていた。

 

 「まぁまぁ、上がってくれ。炬燵が今日も絶好調だ」

 

 提督が声をかけると、鳳翔は軽く頭を下げながら、静かな足取りで炬燵へと腰を下ろした。加賀はすかさず湯呑みを手渡し、吹雪も隣でそわそわと動いている。

 

 「鳳翔さん、本当にいらしてくださって……。わたし、すごく、すごく嬉しいです!」

 

 「ふふ、ありがとう。こうしてまた皆さんと年を越せること、私も嬉しいですよ」

 

 鳳翔の柔らかな声に、吹雪の表情が一層綻ぶ。

 

 そんな中、湯呑みを手にした鳳翔がふと問いかけた。

 

 「ところで……皆さん、夕飯はもう召し上がられましたか?」

 

 その一言に、提督が湯をすすりながら、ひょいと眉を上げた。

 

 「ああ、ちょうど食ったところでな。……売るほどあるチキンをな」

 

 「ちょ、ちょっ――司令ぇっ!!」

 

 突如吹雪が大声を上げ、勢いよく炬燵から身を乗り出した。

 

 「もぅーっ! やめてくださいってばっ……!」

 

 その頬は真っ赤に染まり、声のトーンも怒りなのか羞恥なのか判別がつかないほどに高い。

 こたつの端で手を握りしめて抗議する姿は、まるで小動物が抗戦しているかのようだった。

 

 「いやいや、事実だろ? “クリスマス用”のはずが、もう年末の主食だぞ、あのチキンは」

 

 「わ、忘れたいんですっ! もう記憶から消したいんですっ!」

 

 ぷいっと顔を背け、こたつ布団に突っ伏す吹雪。

 

 鳳翔はその様子を見て、口元にそっと手を添えながら目を細める。

 

 「まぁ……賑やかで何よりですね」

 

 「ええ、本当に。毎日が退屈しません」

 

 加賀が穏やかに言葉を添える。少し笑っているような表情は、どこか優しい姉のようだった。

 

 「……わ、わたしだけが損してる気がするんですけど……」

 

 布団に顔を押しつけたまま、吹雪がもごもごと呟く。提督はそれを聞きながら、口に残ったみかんの甘味を確かめるように、笑みを浮かべた。

 

 「じゃああれだな。今年の目標は“発注前に確認する”ってことでひとつ」

 

 「だからやめてくださいぃぃ〜〜〜!!」

 

 炬燵の中に再び笑いが広がる。

 加賀は静かに湯呑みに口をつけ、鳳翔は湯気の立つ茶をひとくち啜った。

 

 外では、まだ雪がしんしんと降り続いている。

 

 けれど家の中には、笑いと温もり、そして年の瀬にふさわしい穏やかで優しい空気が、ゆっくりと満ちていた。

 

 

 炬燵の中の熱が、じわじわと脚を包む。

 先ほどまで四人で笑っていた空気が、今はゆったりと落ち着いた深みに沈んでいた。

 

 時刻は夜半。

 吹雪はソファー脇に設えられた座布団の上に身を沈め、提督が掛けた毛布にすっかりくるまりながら、小さく寝息を立てていた。

 

 「……チキンで年越しなんてなぁ、こりゃ記憶に残るぞ」

 

 ぽつりと漏れた提督の声に、炬燵の上に置かれた湯呑みがかすかに揺れた。

 

 加賀が買い出しに行ってから、まだそう時間は経っていない。

 「夜空を見上げるのも、悪くないものですから」と、彼女はそう言って、上着の襟を整えてスタスタと玄関を出て行った。

 

 残されたのは提督と鳳翔の二人。

 

 炬燵の上に並んでいた酒瓶は空となり、急須からはほのかに湯気が立っていた。

 柔らかな照明が室内を淡く照らし、窓の向こうでは、雪がゆるやかに降り続けている。

 

 吹雪の寝息が小さく響く中、提督はずっと黙っていたが、やがて湯呑みを少し持ち上げ、言葉を探すように口を開いた。

 

 「……その、なんだ……」

 

 鳳翔は、優しく目を細めて、提督のほうに顔を向けた。

 

 「はい、なんでしょう?」

 

 その声は、まるでどんな悩みでも包み込むような、柔らかであたたかい響きだった。

 

 「……加賀にな。告白されちまって……」

 

 提督はぽりぽりと頭をかいた。

 顔を伏せ気味にしながらも、その口調には戸惑いと不器用な本音が滲んでいる。

 

 「……どうすりゃいいか、よくわかんねぇんだよ」

 

 言い終えると、鳳翔はふふっと喉を鳴らすように笑い、小さく肩を揺らした。

 

 「まぁまぁ……あらあら……」

 

 口元に手を当て、思わずにやけてしまった表情を隠そうともしない。

 

 「加賀さんらしい……まっすぐな想いですね。それは、それは……ふふふ」

 

 「……なんかもう、お前も楽しんでねぇか?」

 

 「だって、こんな話を提督から聞ける日が来るなんて思っていませんでしたもの」

 

 穏やかで、どこか懐かしげな声音だった。

 

 鳳翔は湯呑みに口を寄せ、一口飲んでから、カタンと静かに茶托に戻した。

 

 「……俺もな。恋愛ってのには疎くて、分かんねぇんだ。戦時中は、そんな余裕もねぇし。終戦してからも、再建と処理と訓練と、ようやく落ち着いたら、急に“気持ち”だなんて言われても……よ」

 

 自嘲気味に笑う提督に、鳳翔はゆっくりと頷く。

 

 「わかります。……私も、恋愛経験が豊富なほうではないですから」

 

 その言葉に、提督は思わず顔を上げた。

 

 「……そうなのか?」

 

 「ええ。でも、恋というのは、“わかる”かどうかではなくて、“育てていく”ものじゃないかと……そう思います」

 

 鳳翔の声は、まるで夜の湯気のように静かで、優しかった。

 

 「初めての恋も、最後の恋も……どちらも、大切なもの。加賀さんの気持ちを、今すぐ完璧に理解できなくても、それでも一緒に歩もうと思えるなら、きっと答えは見えてくるはずです」

 

 提督は、湯呑みの中の揺れる液面を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

 「……悪いな、鳳翔。つまらねぇ話に付き合わせて」

 

 「いいえ。……嬉しいんですよ、私は」

 

 「……あ?」

 

 「提督が、そうして悩んだり、誰かに話そうと思えるようになったことが、私は嬉しいんです」

 

 それは、ずっとこの戦後を見守ってきた鳳翔の言葉だった。

 

 厳しい任務も、苦しい別れも、笑う余裕すらなかった日々を経て、ようやく「好きだ」と言える世界にたどり着いた彼ら。

 

 そのこと自体が、何より尊いと、鳳翔は言葉にはしなかったが、そう思っていた。

 

 「……ありがとうな、鳳翔」

 

 ぽつりと、けれど確かな声で提督が言う。

 

 鳳翔はただ、静かに微笑んだ。

 

 炬燵の上では、吹雪の寝息がふたたび聞こえる。

 外では雪が降り続けているが、この家の中には、明日を照らす初日の出の予感と、胸の奥にぽつりと灯る、恋の火種が静かに燃えていた

 

 

 窓の外では、相変わらず雪が舞っていた。

 街灯の明かりに照らされたそれは、まるで天から静かに降る羽毛のようで、時折そのひとひらがガラス窓に触れてはすぐに溶けていく。

 

 炬燵の中では、湯気の立つ急須が小さな音を立て、吹雪の寝息が変わらずリズムを刻んでいた。

 

 鳳翔は、提督の表情を穏やかに見つめながら、そっと問いかけた。

 

 「……そもそも、提督は加賀さんのこと……好き、ですか? それとも、嫌い?」

 

 その質問は、唐突のようでいて、けして軽くはなかった。

 

 提督は驚いたように一度だけ瞬きをしたが、すぐに視線をテーブルの上へと落とした。

 

 「……嫌いなもんかよ」

 

 ぽつりと、だがはっきりと返す。

 

 「嫌いじゃない。そりゃあ、あいつの真面目なとことか、どこか不器用なとことか……嫌いになる理由なんてどこにもねぇよ」

 

 「ええ、それは伝わってきます」

 

 鳳翔は頷いた。だが、提督は続けた。

 

 「だけどな……“好き”って、もっと確かな感情じゃないかと思うんだ」

 

 その声は、どこか遠くを見るような響きをしていた。

 

 「……誰かのことを、自然と目で追ったりする。何気ない一言に嬉しくなったり、落ち込んだりする。……そういうのが、“好き”って感情じゃねぇのかって、そう思うんだよ」

 

 指先で湯呑みをくるくると回す仕草に、提督の迷いがにじんでいた。

 

 「……この前、プレゼントを渡したとき、あいつ……加賀がな、すごく嬉しそうな顔をしたんだよ」

 

 「ええ」

 

 「その顔を見たら、俺も嬉しくなった。……その気持ちは、確かにある」

 

 「……それは、素敵なことですね」

 

 提督はふっと息を吐いた。

 

 「でもよ……吹雪だって、あの時、同じように嬉しそうな顔をしてた。あいつがそういう顔をすりゃ、俺だって同じように嬉しくなると思う。……それだけじゃ、区別がつかねぇんだ」

 

 テーブルの上の湯呑みに、うっすらと映る自分の顔を見つめながら、彼は続ける。

 

 「“LIKE”と“LOVE”。好きと、愛。……どこからが違うのか、俺には分からねぇんだよ」

 

 沈黙が一瞬、部屋の中を包む。

 

 けれどそれは、重たいものではなかった。

 

 鳳翔は静かに微笑みながら、湯呑みを両手で包み込むように持った。

 

 「……そうですね。たしかに、境界線は曖昧です」

 

 湯をひとくち含んでから、言葉を継ぐ。

 

 「けれど、“LIKE”は『その人が好き』。“LOVE”は『その人といたい』……そういう違いだと、私は思います」

 

 提督はゆっくりと顔を上げ、鳳翔の瞳を見た。

 

 「吹雪さんは、家族のような存在でしょう? 可愛くて、大切で、放っておけなくて……。だから、嬉しそうな顔を見れば、あなたも嬉しい」

 

 「……ああ、そうだな」

 

 「けれど、加賀さんといるときのあなたは、どこか違う」

 

 鳳翔の声は、まるで読み聞かせのように優しい。

 

 「その人と未来を想像してしまう。“一緒に暮らす”とか、“同じ食卓に座る”とか、“疲れて帰ってきたとき、その人がいる”とか……。そういう、日々の風景の中に、その人を自然に思い浮かべてしまう感情。それが“愛”なんじゃないかと、私は思うんです」

 

 提督は、ふと遠い目をした。

 

 「……未来か。俺にそんなもん、あると思ってなかったな」

 

 「ええ。……だからこそ、いま悩んでいるんでしょう?」

 

 鳳翔は、茶托にそっと湯呑みを戻し、ことりと小さな音を立てた。

 

 「人を想うということは、未来を信じるということ。きっと、加賀さんは、あなたとそういう時間を作りたいんです」

 

 「……あいつと?」

 

 「はい。たとえば、今日みたいな夜を、十年先もまた一緒に迎えたいって、そう思っているのだと思いますよ」

 

 提督は、湯呑みを口に運んだが、飲み干さずに少しだけ温かさを味わった。

 

 そして、静かに、けれど確かに呟いた。

 

 「……そっか。俺は――、怖かったのかもしれねぇな。人の気持ちに、応えられるほどの“愛”を持ってないんじゃないかって」

 

 「誰だって最初はそう思います。でも、気づけば“あたりまえのように一緒にいる”……そうなったら、それはもう十分に、愛ですよ」

 

 そのとき、玄関の引き戸が開く音がした。

 

 冷たい夜風と共に、足音が近づいてくる。

 

 「……戻ってきました」

 

 加賀の落ち着いた声が、廊下の先から届いた。

 

 提督は、鳳翔と視線を交わし、ふっと笑う。

 

 その笑みは、どこか心の靄が晴れたような、そんな穏やかさを帯びていた。

 

 

 玄関の引き戸が、かすかな音を立てて閉じられる。

 それに続く足音は、落ち着いたものだった。加賀が帰ってきたのだ。

 

 提督は、湯呑みの残りを一口飲み干すと、茶托の上にそれを戻し、すぅと息をついた。

 

 「……そろそろ、あいつも戻ってくる頃だな」

 

 「ええ」

 

 鳳翔はゆっくりと、湯気の残る湯呑みに視線を落とす。

 そしてほんの短い沈黙のあと、ふとそのまま視線を提督に向け、柔らかく口を開いた。

 

 「提督」

 

 「ん?」

 

 「……あなたは、“好き”という気持ちを伝えることに、ただ臆病なだけなのではありませんか?」

 

 その声音は、静かだった。

 けれど、それは夜更けに響く鐘のように、胸の奥の最も触れられたくなかった場所に、すうっと届く一言だった。

 

 提督は、わずかに目を見開いた。

 

 鳳翔の顔は微笑んでいた。

 それは優しさに満ちていたが、そこには揺るぎのない確信が宿っていた。

 

 「それは……」

 

 言い返そうとして、言葉が出ない。

 

 それを見て、鳳翔はくすりと笑いながら、まるで母親のように穏やかに付け加えた。

 

 「伝える勇気があるかどうかなんて、誰にでも怖いものです。けれど――それでも誰かと向き合おうとすることこそが、愛なのだと思います」

 

 加賀の足音が、廊下を静かに近づいてくる。

 

 提督は、ただ黙って座ったまま、少しだけ視線を落とした。

 その手は膝の上で静かに組まれ、先ほどよりも少しだけ、指先に力がこもっていた。

 

 鳳翔は何も言わず、ただその横顔をそっと見守っていた。

 

 そして、襖の向こうから加賀の声が聞こえる。

 

 「ただいま戻りました。お酒、買ってきました」

 

 ――炬燵の灯りは静かに揺れていた。

 伝えられない言葉と、伝えようとする勇気のあいだで、ひとつの心が確かに揺れ始めていた

 

 

 炬燵の上に、買ってきたばかりの酒瓶が一本、ことりと置かれる。

 

 「これで良かったですか?」

 

 加賀はいつものように、淡々とした声で尋ねた。

 だがその声の奥には、ごくわずかな安堵と、どこか満足げな響きがあった。

 

 「おう、悪ぃな。助かった」

 

 提督はそう言いながら、手慣れた仕草で封を切り、酒器に注ぎ入れる。

 ひと口。ぐいと呷る。

 

 舌の上に転がる馴染んだ味わいが、喉を過ぎていく。

 思わず目を細めながら、ふう、と息を吐いた。

 

 「……むむぅ……」

 

 湯気の中で鼻を鳴らすように唸る。

 

 “素直になる、か”――

 

 先ほどの鳳翔の言葉が、まだどこか胸に残っていた。

 

 ぐるりと視線をこたつの上に移すと、買ってきたツマミがいくつか並んでいる。

 塩辛、チーズ、するめ、漬物……どれも、提督の好みにぴたりと合っているものばかりだ。

 

 「……」

 

 ふと視線を横に向けると、湯呑みを両手で包みながら静かに座っている加賀が、そこにいた。

 

 正面を向いたまま、特別何かを話すわけでもない。

 表情はいつも通り――無駄な感情を表に出さない、彼女らしい落ち着いた佇まい。

 

 だがその横顔には、どこか柔らかな、穏やかな色が浮かんでいた。

 

 “……可愛い顔してるな”

 

 気がつけば、言葉が口の中にふわりと生まれていた。

 

 「……何か、顔についていますか?」

 

 気づいたのか、加賀がほんの少しだけ首を傾げる。

 

 その声に、提督は湯呑みを持ったまま、ふっと笑って答えた。

 

 「……あぁ。可愛い顔が、ついてるよ」

 

 加賀の目が、わずかに見開かれた。

 

 「ぇ……」

 

 小さな、けれど確かな驚きが、その一言に滲む。

 

 その場の空気が、ほんの数秒だけ固まったように沈黙する。

 

 ……鳳翔はと言えば、口に運ぼうとしていた湯呑みを途中で止め、表情を動かさぬままそっと視線を逸らした。

 

 (それは……ちょっと、方向性が……)

 

 口には出さないが、内心で肩を竦めながらも、どこか呆れと愛しさを感じるような微笑みが浮かんでいた。

 

 加賀はそのまま無言で、ゆっくりと提督の方へ身を寄せる。

 

 そして、まっすぐに向き直ったかと思うと――

 

 ぽす、と額に手を当てた。

 

 「……っ、おいおい」

 

 驚いたように提督が身を引く。

 

 「熱はねぇぞ、俺は。風邪もひいてねぇし」

 

 「あまりにも不自然だったので。体調の異常かと」

 

 「ひでぇな……」

 

 軽く払いのけるように加賀の手をどけながら、提督は肩を竦める。

 

 だがその頬は、ほんのりと赤くなっていた。

 

 言葉にすればするほど、自分でも何を言ってるのか分からなくなる。

 けれど、たしかにそこには嘘がなかった。

 

 それを誰よりも敏く察しているのが、鳳翔と、そして……加賀自身なのだということも、また。

 

 炬燵の上では、酒の瓶が少しだけ傾き、注がれた器の表面が微かに揺れていた。

 吹雪は相変わらず、静かに寝息を立てている。

 

 外では、夜明け前の星が静かにまたたいていた。

 

 

 炬燵の中の空気が、少しずつ夜明け前の冷気を孕みはじめる頃――提督は腕時計をちらりと見て、そろそろだなと静かに腰を上げた。

 

 「……吹雪、起きろ。初詣行くぞ」

 

 声をかけながら、ソファー脇に丸くなって眠っていた吹雪の肩にそっと手を置く。

 

 「んぅ……? ……もう、朝……?」

 

 吹雪はまぶたを重たそうに開けながら、まだ夢の中に足を浸したままのような声を出した。

 毛布をぎゅっと掴んだまま、身体を少しずつ起こす。

 

 「まだ夜は夜だけど、もうじき初日の出だ。ほら、着替えてこい。寒いぞ」

 

 「……うぅぅ……はい、司令……」

 

 眠気と闘いながらふらふらと立ち上がる吹雪に、提督はすかさずダウンジャケットとマフラーを手に取って渡した。

 「手袋も忘れんなよ。あと足首冷やすな。厚手の靴下、履いていけ」

 

 「……えへへ、なんだかお父さんみたいですね……」

 

 眠そうに笑いながら、吹雪はマフラーを巻きつける。

 

 「黙って言うこと聞いとけ。風邪ひいたら初詣どころじゃねえぞ」

 

 提督の声はどこかぶっきらぼうだったが、その言葉の一つひとつに、吹雪への気遣いがこもっていた。

 

 加賀と鳳翔も、既に準備を整えていた。

 

 鳳翔は落ち着いたグレーのコートに、耳当てと手袋を合わせており、手には小さな巾着を下げていた。

 加賀は白と紺のマフラーをぐるりと巻き、静かにブーツの紐を結んでいる。

 

 「準備はいいですか?」と加賀が言うと、吹雪は手袋の指先を整えながら、「はい、ばっちりです」と頷いた。

 

 提督は玄関で皆の格好をざっと確認し、よしと頷いた。

 

 「じゃあ行くか。……今年も、無事で過ごせるようにな」

 

 玄関の扉を開けると、冷気が一斉に流れ込んできた。

 吹雪は思わず肩をすくめたが、それでも小さく頷いて一歩を踏み出した。

 

 道にはうっすらと雪が残り、足音がしんと響く。

 

 空はまだ暗いが、東の地平には淡い青がわずかに顔をのぞかせている。

 もうすぐ、初日の出だ。

 

 「鎮守府にいた頃は……こんなふうに外へ出られるなんて、思ってもみませんでした」

 

 歩きながら、吹雪がふと呟いた。

 

 「初詣っていっても、あの頃は鎮守府の神棚に手を合わせるだけでしたから。ほんの数秒、形式的に……」

 

 「そうだな。外に出る余裕なんて、なかった」

 

 提督は足元を確かめながら、かすかに息を吐く。

 

 「……けど、今は違う。あいつらが命懸けで守ってくれたおかげで、こうして年越しができる。夜中に出かけて、寒いなぁとか言いながら初詣に行ける……それ自体が、尊いもんだ」

 

 吹雪はその言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。

 

 「……はい」

 

 加賀も何も言わなかったが、彼女の歩幅は少しだけ吹雪に合わせるように、ゆっくりと落ちていた。

 鳳翔は時折振り返りながら、手袋をした指でマフラーの端を整えている。

 

 ――やがて、神社の灯りが見えてくる。

 

 参道の先には、少しずつ人が集まりはじめていた。

 屋台の灯が並び、甘酒の香りがほのかに鼻をくすぐる。

 

 夜明けの境界が、空をほんのりと赤く染めていた。

 

 吹雪が目を細めながら空を見上げる。

 

 「……あ、もうすぐ。初日の出」

 

 「……急がず、ゆっくり行こう」

 

 提督のその一言に、吹雪も、加賀も、鳳翔も――一斉に足を揃えて、ゆっくりと、初日の出へと向かって歩みを進めていった。

 

 夜の終わりと、年の始まり。

 

 その境目を、静かに、穏やかに――四人は確かに歩いていた。

 

 踏みしめるたび、雪の下に沈んだ土の感触が、長靴越しに足裏へと伝わる。

 まだ夜の名残が濃く残る山道を、四人は静かに歩いていた。

 

 目的地の神社は、山の中腹にある古びた社。

 町から続く参道は、年に一度だけ賑わいを見せる。今まさに、その時間が始まろうとしていた。

 

 木立の隙間から覗く東の空が、ゆっくりと青みを帯び始めていた。

 はじめは深く暗い藍色だった空が、薄い灰へ、そしてほんのりとした桃色へと、確かに変化している。

 

 それに呼応するかのように、道を進む人の数も徐々に増え始めていた。

 

 参道の両脇には仄かな明かりが灯り、寒さに鼻を赤らめた家族連れや、連れ立つ若者たちの小さな笑い声が、雪の中に吸い込まれていく。

 

 提督は無言で前を見据えて歩いていた。

 しかし、人波が徐々に密度を増し、すれ違う肩が時折ぶつかるようになると、自然と隣を歩いていた吹雪の肩を、自分の脇に引き寄せた。

 

 それはまるで、無意識のような動作だった。

 

 「……っ」

 

 吹雪は、一瞬だけ肩をすくめた。

 

 けれど、それが怒られているのではなく、自分を守るように自然に向けられたものだと気づくと――

 ふふっと、小さく笑みがこぼれた。

 

 提督の体温が、ダウンジャケット越しにじんわりと伝わってくる。

 

 彼の腕がちょうど自分の背中を包むようになっていて、ほんの少しだけ、寄り添って歩くような形になった。

 

 (……嬉しい)

 

 言葉にはしなかった。

 

 ただその温もりを感じながら、そっと体を預けるように、吹雪は提督の横腹に背中を押し当てた。

 

 「寒くないか?」

 

 ぽつりと提督が言う。

 

 「……はい、大丈夫です」

 

 短く、けれど確かな声で返す。

 

 それ以上は何も言葉を交わさなかった。

 

 けれど、それで十分だった。

 

 静かに山道を登りながら、吹雪は足元の雪を踏みしめ、提督の歩幅に遅れないように一歩ずつ進んだ。

 

 加賀と鳳翔は、少し前を歩いていた。

 鳳翔が振り返って吹雪と提督の姿を見つけると、静かに目を細めて微笑む。

 

 「……ふふ」

 

 「どうかしましたか?」と加賀が問うと、鳳翔は「いえ、なんでも」と首を振った。

 

 ――やがて、木立の先に、神社の石段が姿を現す。

 

 朱色の鳥居が、夜明けの空を背景に浮かび上がるようにして立っていた。

 

 その向こうに、初日の出が顔を覗かせようとしていた。

 

 新しい年のはじまりを告げる光が、ゆっくりと山を照らしはじめる。

 

 吹雪は、その光景を胸に刻みながら、提督の腕の温もりをそっと感じ続けていた。

 

 戦いに明け暮れた過去の、寒く殺伐とした正月では味わえなかった、この時間。

 

 今、自分は守られている。

 そして、願わくば、来年も、その先も――この人たちと一緒に、同じ景色を見たい。

 

 そう思いながら、吹雪はただ静かに、初日の光を見つめていた。

 

 

 

 初詣を終えた参拝客たちが、まだ寒さの残る境内を思い思いに歩いていた。

 

 おみくじを手に一喜一憂する若者たち、甘酒を手に家族の笑い声が弾む親子連れ、焚き火の前で手を温めながら静かに祈りを捧げる老夫婦――

 そのどれもが、どこか穏やかで、そしてどこか懐かしい。

 

 「私、家内安全のお守りと、恋愛成就のも欲しいです! それと……無病息災も……!」

 

 吹雪がそう言って嬉々と駆け出していくと、鳳翔も「ふふ、では私も同行しますね」と静かに微笑みながら後に続く。

 

 ぽつんと残された提督と加賀。

 

 参道の端に立つ、苔むした灯籠のそば。風よけのために設けられた板塀の影に、ふたりは自然と並んで立っていた。

 

 しばらく、何も話さなかった。

 

 吐いた白い息がふわりと空へと消えていく。

 遠くで社務所の呼び鈴が鳴り、賑わいの声が柔らかに響いている。

 

 その中で、提督は手袋を外し、指先でそっと額のあたりを掻いた。

 落ち着かないように小さく足先を動かし、そしてふと、低く、ぽつりと呟いた。

 

 「……色々、考えたんだけどさ」

 

 加賀は、黙ってその声を聞いていた。

 

 「お前の……その、好きって気持ちにさ。応えるのに……俺は……」

 

 言葉が詰まる。

 

 うまく話そうとすればするほど、どうしてか喉が渇き、言葉が逃げていく。

 それでも、止まらずに続けた。

 

 「臆病だった。……いや、正確には“向き合うのが怖かった”んだと思う」

 

 加賀は、まだ何も言わなかった。

 

 ただ、微動だにせず、瞳を真っすぐに提督へ向けている。

 

 その瞳には、期待でも催促でもなく、ただ――信頼があった。

 

 「……俺なんかで、お前の“特別”に応えられるのかって、ずっと考えてた」

 

 「……」

 

 「好きって何か、愛って何か……そんなもん、自分には分かんねぇって逃げてた。でも、やっぱり……」

 

 そう言いながら、提督はゆっくりと、ポケットから出した手を差し出した。

 

 加賀の手に、そっと触れる。

 

 冷たい空気の中、手袋をしていない指先がかすかに震えていた。

 加賀の手は、一瞬だけ反応を見せたが、次の瞬間にはしっかりと、その手を包み返していた。

 

 提督は、加賀の瞳を見た。

 

 「……俺で良ければ、だけど」

 

 ひどく照れくさそうに、頬をかきながら、けれどその声は真剣だった。

 

 「一緒に……生きていってくれないか」

 

 その瞬間、加賀の瞳が少しだけ揺れた。

 

 けれどすぐに、彼女は深く、ゆっくりと頷いた。

 

 「……はい」

 

 それだけだった。

 

 派手な言葉も、大仰な約束も要らなかった。

 そこには、ただ“伝わった”という確かな実感が、二人の間にあった。

 

 指と指は、冷たい風の中でも確かに繋がれたまま。

 互いの体温が、その接点から静かに流れ込んでいく。

 

 「遅くなって……悪かったな」

 

 「……待つのには慣れています。あなたが、ここにいてくださるなら、それで十分です」

 

 その言葉に、提督は小さく笑った。

 

 「……やっぱ、俺にはもったいない女だな、お前は」

 

 「そうでしょうか?」

 

 小さな、けれど確かな微笑が、加賀の唇に浮かんだ。

 

 その時、遠くから吹雪の声が聞こえた。

 

 「司令ー! 加賀さーん! お守り、買いましたよー!」

 

 「鳳翔さんが恋愛成就いらないって言うから、わたしが代わりに……って、あ、い、今のは違っ……!」

 

 はしゃいだ声が、境内の空に響いていた。

 

 提督と加賀は、まだ手を離さぬまま、それを聞いてふっと顔を見合わせた。

 

 そして、どちらともなく笑った。

 

 ――新しい年が、静かに明けていく。

 そのはじまりの朝、ふたりの物語もまた、新しい章へと歩き始めていた。

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