艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十五話 空回り

 

 お正月の賑やかさも、あっという間に終わってしまった。

 三が日が過ぎ、空気が急に日常の色を取り戻していくのを、私はなんだか肌で感じていた。

 

 加賀さんが大学に行く準備を始めたのは、それからすぐのことだ。

 新しい教科書やノートを揃え、鞄に詰めたり出したりしては、持ち物を確認している。

 その姿は、いつも落ち着いていて、無駄がない。家の中にいるときも、やっぱり加賀さんは加賀さんだった。

 

 ……それが、私には少しだけ、焦りになっていた。

 

 だって、加賀さんは本当に何でもできてしまう。

 料理も、掃除も、洗濯も、買い物だって、計画的にきっちりこなしてしまう。

 それに、あの人の家事ってただやるだけじゃなくて、見た目も整っていて……まるで旅館の女将さんみたいに完璧なんだ。

 

 私はといえば、料理だってまだ包丁の扱いがおぼつかないし、洗濯物をたたんでも形がバラバラになる。掃除だって、やってるつもりなのに「あそこ埃残ってるぞ」って司令に指摘される始末だ。

 このままじゃ、本当に居場所がなくなっちゃうんじゃないか――そんな不安が、じわじわと胸の奥に広がっていった。

 

 今までは、司令と二人だったから良かったんだ。

 不器用でも、「まあ、そのうち慣れるさ」って笑ってくれた。

 でも、加賀さんがいると……そういう甘えが、できなくなる気がする。

 

 いや、加賀さんが悪いわけじゃない。むしろ、いつも優しくしてくれるし、私のことも気にかけてくれる。

 ただ、その完璧さが……怖い。

 

 例えば朝。

 私は眠たい目をこすってキッチンに行くと、もう朝ごはんがきれいに並んでいる。

 焼き魚に味噌汁、出汁巻き卵までちゃんと巻きが揃ってる。しかも、食後のフルーツまで用意されていて……私は何を手伝えばいいのか、分からなくなってしまう。

 

 「おはようございます、吹雪さん。朝は寒いですから、暖かいうちにどうぞ」

 

 加賀さんは、私の心を読んだみたいに微笑む。

 そんなふうに言われたら、「はい」としか返せなくて……自分が情けなくなる。

 

 大学が始まったら、加賀さんはきっと朝早く出かけて、夜は遅く帰ってくるだろう。

 その間、私は司令と二人になる。――それはそれで、以前の暮らしに戻るだけなんだけど……でも、そのうち加賀さんはもっと大学の方が忙しくなって、家のことを全部私に任せる日が来るかもしれない。

 

 その時、私はちゃんとやれるだろうか?

 

 ……いや、やらなきゃ。

 加賀さんに「吹雪さんじゃ任せられないわ」なんて思われたくない。

 

 司令だって、私のことを子ども扱いし続けるかもしれないけど……少しずつでも、違うってところを見せたい。

 

 そう思いながら、私はこたつの中で拳を握りしめた。

 

 ……でも、どうやって?

 

 加賀さんは、またテキパキと買い物リストをまとめている。

 その背中を見ながら、私はますます焦りを募らせていった。

 

 なんだか……味噌汁まで、味が違う気がした。

 

 朝食の席でお椀を手に取ったとき、最初は気のせいかと思ったけれど――やっぱり、違う。

 だしの香りも、口に含んだときの深みも、私が作ったときよりもずっとやわらかくて、まとまりがある。

 

 「……ん? 味噌、変えたか?」

 

 司令も同じことを感じたらしく、箸を止めて首をかしげた。

 

 「あ、そうか。加賀さん、田舎出身だったから……特別な味噌を使ってるのかな……?」

 

 私は思わずそう呟いた。

 でも加賀さんは、静かに首を横に振った。

 

 「火の入れ方かもしれませんね」

 

 ――その一言で、私はドキリとした。

 

 別に責められているわけじゃない。

 加賀さんは本当に、何の悪意もなく、ただ淡々と事実を言っただけだ。

 だけど、私の中で、その言葉が変なふうに膨らんでしまう。

 

 (……技術の差、ってこと……?)

 

 もちろん、加賀さんにそんなつもりはない。

 それくらい、私だって分かってる。

 

 でも――料理だけじゃなく、掃除も、洗濯も、全部あの人の方が上手で、手際がよくて、完璧で……。

 

 味噌汁ひとつでさえ、その差をはっきり見せつけられたような気がしてしまう。

 

 自分の中の負い目が、余計に大きくなっていく。

 まるで、私の存在理由が少しずつ薄れていくみたいに。

 

 (……どうしよう……)

 

 胸の奥がじわっと重くなり、手の中のお椀がやけに熱く感じた。

 

 

 昼になると、加賀さんは家の中をせかせかと掃除して回り始めた。

 

 玄関から始まり、廊下、台所、窓ガラス……。

 雑巾の動きに無駄がなくて、見ているだけでこっちが疲れてしまいそうなくらい。

 

 私は何か手伝えるところを探して、あっちへ行きこっちへ行き――そして、ふと思いついた。

 

 (そうだ……風呂場なら……!)

 

 加賀さん、さすがにそこまでは手をつけてないかもしれない。

 私がきれいにして、「ここは私が!」って胸を張れたら……!

 

 そう思って、勢いよく風呂場の戸を開けた。

 

 ――その瞬間。

 

 私は、文字通り度肝を抜かれた。

 

 浴槽の内側が、鏡みたいにピカピカだった。

 水滴ひとつ残っていない。

 壁も床もくすみがまったくなくて、タイル目地まで真っ白。

 

 試しに浴槽のふちに顔を近づけてみたら――本当に、自分の顔が映った。

 まるで新築かホテルみたいで、ここが普段私が使ってるお風呂だなんて信じられない。

 

 (……嘘でしょ……)

 

 せっかく「ここなら勝てる!」って思ったのに、完敗もいいところだ。

 私が何かする隙間なんて、どこにもなかった。

 

 浴槽のつややかな表面を指先でなぞりながら、私はため息をついた。

 

 (……どうしよう。本当に、この家で私の居場所……)

 

 

 

 「昼食は私がやりますから、吹雪さんは座っていてください」

 

 加賀さんは、そう言って笑顔を見せると、さっさとエプロンを身につけてキッチンへ向かった。

 

 ……え? 私、何もしなくていいの?

 

 本当は「手伝います!」って言いたかった。

 でも、その言い方があまりに自然で、押しのけるような雰囲気でもなくて――ただ、私を気遣って言ってくれたんだって分かるから、断ることもできなかった。

 

 気づけば私は、司令と並んでこたつに座っていた。

 目の前のテレビでは、新年特番のお笑い番組が流れている。

 

 「だははは!」

 

 司令が、腹の底から笑い声をあげた。

 その声がやけに大きくて、耳に残る。

 

 (……いや、笑ってる場合じゃない)

 

 私は笑えなかった。

 だって、キッチンからは加賀さんが包丁を軽快に動かす音が聞こえてくるし、油のはねる音もして、もう昼ご飯の支度は着々と進んでいる。

 

 それなのに私は、ただこうして座っているだけ。

 ……まるで、何もできない子どもみたいだ。

 

 司令の笑い声がまた響いた。

 画面では芸人さんがこけて、会場が大爆笑している。

 

 (あぁ……なんだろう、この居心地の悪さ)

 

 手をこたつの中でぎゅっと握りしめながら、私はテレビに視線を向けているふりをした。

 本当は、番組の内容なんて一つも頭に入っていなかった。

 

 

 

(……せめて、配膳くらいは!)

 

 そう心に決めた私は、加賀さんが「できましたよ」と声をかけてくれた瞬間、椅子から跳ねるように立ち上がった。

 

 「私が運びます!」

 

 勢いそのままに盆を手に取り、食卓へ向かう。

 汁物、主菜、副菜――加賀さんらしい、彩りも栄養もきちんと考えられた昼食だ。

 それをちゃんと運べたら……少しは存在感を見せられるはず――

 

 ――ガタンッ!

 

 次の瞬間、私の足元がもつれて、盆が宙を舞った。

 

 「あっ……!」

 

 汁物、主菜、副菜――全部まとめて、司令めがけて一直線。

 

 「あちゃちゃちゃーっ!!!」

 

 味噌汁が、主菜の煮物が、副菜の和え物までもが、爆撃のように司令へ降り注いだ。

 

 「うおおっ!? 熱っ、熱ぅぅぅ!!!」

 

 司令が椅子から半分立ち上がり、体をくねらせて悶えている。

 どうやら、熱々のじゃがいもが背中と服の間に入り込んでしまったらしい。

 

 「芋! 芋が! 芋が背中で……ッ!」

 

 司令の声が妙に切実で、申し訳なさと同時に、笑いがこみ上げそうになるのを必死でこらえる。

 

 「す、すみません! 今、取ります! あっ、動かないでくださ――熱っ!」

 

 慌てて背中に手を入れようとしたけれど、司令があまりに暴れるから、逆にじゃがいもが背中を転がり回るという悲劇。

 

 加賀さんはそんな私たちを見て、一瞬だけ目を細め――それから静かに台拭きを持ってきた。

 

 (……穴があったら入りたい……)

 

 結局、お昼は出前をとることになった。

 あの惨状のあとにもう一度作り直すのは、さすがに時間も手間もかかるし……何より、司令の背中からさっきのじゃがいも事件の余韻がまだ消えてなかった。

 

 届いたのは、特上の天丼と蕎麦のセット。

 海老天に穴子、野菜天まで豪勢に盛られていて、ふたを開けた瞬間、湯気と一緒に香ばしい匂いがふわっと広がる。

 

 私は控えめに、並の天丼に手を伸ばした。

 それくらいが私にはちょうどいいし、特上はきっと司令か加賀さんが食べるだろうと思ったからだ。

 

 ――その瞬間。

 

 「あー、お前はこっちこっち」

 

 司令がスッと私の前に手を伸ばし、私が取ろうとした並天丼と自分の特上天丼を、何のためらいもなく入れ替えた。

 

 「え、でも……」

 

 「オッサンはな、揚げ物そんな量食えないのー」

 

 そう言って、ふっと笑う。

 その笑顔がなんだか悪戯っぽくて、でも優しくて――私は小さく「……ありがとうございます」と返した。

 

 横で加賀さんが、静かに蕎麦をすすっている。

 その表情は変わらないけれど、ほんのわずかに口元がやわらいでいるように見えた。

 

 (……やっぱり、この家は温かいな)

 

 そう思いながら、私は特上の天丼に箸を伸ばした。

 

 

 温かい。

 そのやり取りひとつひとつに、胸の奥がじんわりと温まっていく。

 

 ……だからこそ、歯がゆかった。

 

 司令も加賀さんも、私を気遣ってくれる。

 何もできなくても、笑って受け入れてくれる。

 でも、それじゃだめだ。――私は、この家の一員としてちゃんと役に立ちたい。

 

 (せめて、洗い物くらいは私が!)

 

 そう決意すると、私は特上天丼を勢いよくかき込んだ。

 ……が、慌てすぎたせいで、エビ天のしっぽが喉に引っかかりかけた。

 

 「……っ、ごほっ……んくっ!」

 

 無理やりお茶で流し込み、何事もなかった顔を装う。

 司令も加賀さんも気づいていない……はず。

 

 食べ終わるやいなや、私は立ち上がった。

 

 「洗い物は私がやります!」

 

 そう言って、丼や蕎麦の器をどんどん重ね、台所へ持っていく。

 シンクに器を置くと、蛇口をひねって、勢いよくお湯を出した。

 

 (これくらいなら……私でも……!)

 

 スポンジを握りしめ、油のついた器をゴシゴシ洗う。

 水面に油の虹色の膜が広がっていくのを見ながら、私は少しだけ胸を張った。

 

 

 洗い物を終えても――いや、終えたからこそ、胸の奥の物足りなさは消えなかった。

 

 (もっと……もっと役に立ちたい)

 

 司令は片腕だ。

 生活の中で、何が一番大変だろうと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは……風呂だった。

 

 浴槽に浸かるまではいいとしても、背中を流すのは、きっと不便なはずだ。

 それなら――私がやればいい。

 

 生真面目が服を着て歩いているような自分としては、それくらい当然の役目だと思った。

 

 夜。

 家の中はしんと静まり返っていた。

 加賀さんは自室で勉強をしていて、司令は「風呂に入るか」と立ち上がるところだった。

 

 私は自分の部屋で服を脱ぎ、タオルを肩に掛ける。

 いざという時にすぐ入れるように、髪もまとめ、半裸のまま風呂場へ向かう。

 

 (よし……ここで、私の出番……!)

 

 浴室の引き戸の前で深呼吸をひとつ。

 緊張で心臓がバクバクしている。

 でも、このくらいで怖気づいてはいけない。

 

 私は、意を決して戸を開けた。

 

 

 引き戸を開けると、湯気がふわっと顔にかかった。

 

 「おー……まだ入ってんだな。待たせるようで悪いが、もう少し……」

 

 司令がそう言いかけて、私と目が合った。

 湯船の縁に腰かけ、右手だけでシャカシャカと頭を洗っている。

 

 数秒の沈黙。

 私も、司令も、動けなかった。

 

 ――そして、次の瞬間。

 

 「……って、おま……ッ!? 何してんだお前ッ!?」

 

 司令が飛び上がるように驚き、シャンプーの泡が飛び散った。

 

 「あ、あのっ! 背中を……!」

 

 口走った瞬間、自分でも顔が熱くなるのが分かった。

 タオルを握る手に汗がにじむ。

 

 「背中ぁ!? いやいや、そんな半裸で突っ込んでくる奴があるか!」

 

 司令は湯気の向こうで半ば呆れ顔、半ば本気で動揺している。

 私は必死で言い訳を探したけれど、頭の中は真っ白だった。

 

 ……ただ、湯気の中で、司令の肩越しに見えた背中はやっぱり少し洗いづらそうで――

 私は、この機会を逃すものかと、タオルをぎゅっと握りしめた。

 

 

 「ぬあー! バカバカ! 歳頃の娘っ子がそんな格好でやめろバカ! わー! くんなー!」

 

 司令が頭から泡を垂らしながら、湯船の中をバシャバシャ逃げ回る。

 私はタオルを構えて、その背中を狙って追い詰めていく。

 

 「逃げないでくださいー! お背中流しますからー!」

 

 湯気の向こうで、司令は文字通り――全裸、生まれたままの姿。

 その姿で必死に風呂の四隅へと逃げ込むけれど、私はじりじりと距離を詰める。

 

 (ここまで来たら……絶対に背中を流す!)

 

 「さぁ! 背中! 流させてください!」

 

 「ばかおまえー! なんちゅーかっこしてんだ! やるにしてもそれ違う風呂になるだろー!」

 

 司令が慌てて指さした先――風呂場の壁にある、長い全身鏡。

 

 そこには、肩までタオルを掛けただけの、私の姿がくっきり映っていた。

 濡れた髪、上気した頬、裸に近い格好……。

 

 「……あ」

 

 ようやく、頭に血が上っていた自分の理性が戻ってくる。

 顔から一気に熱が引いて、代わりに羞恥で耳まで真っ赤になった。

 

 

 「み、見ないでください〜〜っ!」

 

 私は顔を真っ赤にして、鏡から視線を逸らしながら脱衣所へ逃げようとした。

 背後からは司令の呆れた声が飛んでくる。

 

 「自分で見せといて無茶言うなー!」

 

 その声にさらに恥ずかしくなり、足早に湯船の縁を回って出口へ向かった――その時だった。

 

 ツルッ。

 

 「――わっ!」

 

 石けんの泡が床に残っていたのか、足を滑らせて体が大きく傾いた。

 咄嗟に司令が片腕で私を支えようと手を伸ばす。

 

 「お、おい!」

 

 しかし勢いは止まらなかった。

 次の瞬間、私たちは一緒に浴槽の縁を超えて、湯気の中に崩れ落ちる。

 

 ドシャーンッ!

 

 私の視界いっぱいに司令の顔。

 しかも――完全に覆いかぶさる形で、私は床に仰向けになっていた。

 

 「……っ!」

 

 距離が近すぎて、湯気の熱とは別の汗が背中を伝う。

 司令の息が、頬にかかるたびに心臓が跳ねた。

 

 お互い、一瞬動けなかった。

 浴室の静けさの中、湯のはねる音だけが耳に残る。

 

 「いってて……おい、怪我ないか?」

 

 司令が覆いかぶさったまま、心配そうに私の顔を覗き込む。

 「は、はいぃ……」

 声が裏返ってしまうのを、自分でもどうすることもできなかった。

 

 その時――。

 

 ガラッ、と浴室の引き戸が開く音。

 「どうされました?」と加賀さんの声が響いた。

 

 振り向いた瞬間、彼女の視線が私たちを射抜いた。

 

 ――大の男が、少女を押し倒している構図。

 

 事実は違う。全力で違う。

 でも、どう見てもそうとしか思えない状況だった。

 

 加賀さんの目は、まるでゴミを見るような……いや、それじゃ足りない。

 私の知る限りの罵倒や悪口を総動員しても、到底表現できないほど冷たく鋭かった。

 

 「お、おい加賀? これは誤解だ! お前もなんか言え、吹雪!」

 

 司令の必死の声に、私はパニックのまま口を開いた。

 

 「そ、そうなんです! 私が――」

 

 (背中を流そうかと……)と言おうとした瞬間、脳みそが混乱して、余計な部分だけが口から飛び出した。

 

 「……誘ったらこうなってしまって!」

 

 「おまっ!!」

 

 司令の絶叫が湯気の中に響き渡る。

 でも、もう遅かった。

 加賀さんの瞳の温度は、氷点下どころか絶対零度まで下がっていた。

 

 私は思わず、背筋を正して正座しそうになる。

 ……いや、このまま正座しても許される気がしない。

 

 

 「吹雪さん?」

 

 加賀さんの声は、静かだった。

 でも、その静けさの奥に、何か底知れないものが渦巻いているのを肌で感じた。

 

 「貴女は一度、このままお風呂に入ってしまいなさい。……考えをまとめる時間も必要ですしね」

 

 ――ひいっ。

 逆らえない。何も言えない。

 私は小さくうなずいて、タオルを握りしめた。

 

 「……は、はい」

 

 「提督は、早くこちらへ」

 

 低く、短く、命令する声。

 司令は一瞬だけこちらを見てから、苦笑いを浮かべた。

 

 「お、おぅ。吹雪は先に風呂入ってろ。俺は用事済ませてくるから……」

 そして、振り返りながら必死に言葉を繋げる。

 「いや、聞いてくれよ、あれは誤解――」

 

 その瞬間だった。

 

 「ぐあああああああっ!!」

 

 浴室の外から響く、司令の悲鳴。

 その声は、戦場でも聞いたことがないくらいの迫力で――私は湯気の中で固まった。

 

 外から響く司令の悲鳴は、もはや言葉になっていなかった。

 

 「あべし! ひでぶ! うわらばっ!」

 

 その合間に、ドスッ、バンッ、と何かがぶつかる鈍い音や、床を踏み鳴らす衝撃音まで混じっている。

 

 (な、何が起きてるの……!?)

 

 もう湯船で考えをまとめるとか、そんな余裕は吹き飛んでいた。

 私は湯気の中から慌てて立ち上がり、髪も拭かずにバスタオルを身体に巻きつけただけの格好で引き戸を開ける。

 

 「司令っ――!」

 

 裸足のまま脱衣所を駆け抜け、廊下へ飛び出す。

 髪から滴る水が背中を冷やすのも構わず、ただ音のする方へ走った。

 

 (まさか……本当に命の危険とかじゃないよね!?)

 

 角を曲がった先で見た光景は――

 予想以上に、そして想像以上にカオスだった。

 

 居間に飛び込んだ瞬間、私は言葉を失った。

 

 そこに座っていたのは――パッと見、誰なのか分からないほど顔が腫れ上がった人。

 でも、声を聞けば間違えようがない。

 

 「し、司令……っ!?」

 

 片目は腫れてほとんど閉じかけ、頬は真っ赤に膨らみ、唇も切れている。

 私の知っている司令の面影が、ほとんど見えなかった。

 

 「な、なんで……?」

 

 問いかけると、司令は氷嚢を顔に当てながら、苦笑いを浮かべた。

 

 「……見るからに分かるだろ。加賀に折檻されたあとだ」

 

 (やっぱり……!)

 

 「お前、今日……いや、少し前からだが、なんかソワソワして変だぞ?」

 

 その一言に、胸の奥がズキリとした。

 もう、隠し通せない。

 私は観念して、風呂場でのことから今までの顛末を――包み隠さず、正直に話した。

 

 話し終えた瞬間、司令は数秒の間を置き……

 

 「……ぷっ……ははははははっ!」

 

 腹を抱えて大笑いし始めた。

 氷嚢が転げ落ちてもお構いなしで、涙まで浮かべている。

 

 「いーひひ……っ、腹痛てぇ……!」

 

 司令は氷嚢を握ったまま、息も絶え絶えに笑い続ける。

 

 「役に立とうとした末に……やることが……半裸で俺の背中を流すって……」

 

 そこで一度、笑いを堪えようとしたのか口を押さえた。

 けれど、次の瞬間――

 

 「ぶっ……だぁははははははっ!」

 

 また大爆発した。

 椅子から転げ落ちそうになりながら、涙をぼろぼろこぼして笑っている。

 

 「し、司令っ……! 笑い事じゃないです!」

 

 私が抗議しても、まったく効果なし。

 笑いすぎて呼吸が追いつかないのか、何度も肩で息をしながら机を叩いている。

 

 (……こんな顔になるくらい笑うって、ひどくないですか……)

 

 頬を膨らませてそっぽを向く私を見て、司令は余計に笑いが止まらなくなったようだった。

 

 ひとしきり笑ったあと、司令はようやく呼吸を整えた。

 氷嚢を頬に当てながら、ふっと表情を引き締める。

 

 「あのな、吹雪」

 

 その声色が、急に真剣になったのが分かった。

 私は思わず姿勢を正す。

 

 「俺は……お前を家政婦として雇った覚えは無いんだぞ」

 

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 私が最近ずっと焦って、何か役に立とうと必死になっていたこと――全部見透かされていた気がした。

 

 司令は、少しだけ視線を和らげて続けた。

 

 「子供は子供らしく、大人に甘えるのも大事なんだ」

 

 その言葉は、優しいのに、不思議と胸に響いた。

 私は何も言えず、ただ小さくうなずくことしかできなかった。

 

 (……甘える、か……)

 

 なんだか、自分には一番苦手なことを言われた気がして、胸が少しだけ熱くなる。

 

 「安心しろ。お前は十分働いてる。これ以上“役に立とう”とか考えなくても大丈夫だ」

 

 その一言で、胸の奥の張りつめた糸が、少しだけ緩むのを感じた。

 

 「……でもな、全部加賀に任せっぱなしってのも、あれだろ」

 

 司令はそう言うと、机の上にあったチラシの裏を手繰り寄せ、ペンを走らせ始めた。

 私が首をかしげていると――

 

 「よし、これだ」

 

 しゃしゃっと殴り書きされたそれは、手作りの当番表だった。

 洗い物、掃除、洗濯、ゴミ出し……そして“自由”の欄まである、三人分のローテーション。

 

 「ほら、これでいいだろ」

 

 司令はにかっと笑って、チラシを私の前に滑らせてきた。

 その笑顔があまりにも自然で、思わず私まで笑ってしまう。

 

 当番表を前に、ふと背後から落ち着いた声がした。

 

 「しかし……安心しました。貴方がロリコンじゃなくて」

 

 振り向けば、加賀さんが湯呑を手に立っていた。

 その表情は相変わらず無表情なのに、どこかスッキリしたような空気が漂っている。

 

 「おう、疑いは晴れた訳だなー」

 

 司令はそう言って、にやりと笑おうとした――が、顔が腫れすぎて片方しか笑えていなかった。

 

 「……顔はパンパンに腫れたがな」

 

 自分でそう言って、苦笑する司令。

 氷嚢を当てながら肩をすくめる姿が、なんだか可笑しくて、私は思わず口元を押さえて笑ってしまった。

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