艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十六話 踏み出すため

 

 二月のはじめ、朝の空気はまだ針のようにとがっていた。路地の霜柱は細かく鳴り、踏みしめるたびに白い声をあげる。居間のストーブが小さく唸っているのを背に、司令は腕時計を見てから、湯呑みを空にした。

 

 「そろそろ行くか。制服の採寸と、学校の下見」

 

 「……はい、司令」

 

 返事は少し硬かった。吹雪はマフラーの端を指先でもてあそび、こくりと一度うなずくと、玄関で手袋をはめる。司令は左肩の空の袖を軽く払ってから、上腕に義手のソケットを差し込み、固定の具合を確かめる。指を一度開閉し、掌で玄関戸の取っ手を握る力加減を、いつもの癖で確かめてみせた。

 

 外へ出ると、ひやりとした風が襟元に入り込んだ。吐く息は白く、街路樹の影は細長い。二人はバス停まで並んで歩いた。交差点で信号が青へ変わる瞬間、人波がふくらむ。司令は無言で吹雪の背に軽く手を添え、はぐれぬように押す。吹雪は一度だけ彼を見上げ、また正面に顔を戻した。

 

 商店街の角のガラス戸には、金文字で「学生衣料」とあった。引き戸を開けると、ストーブの暖気とウールの匂い、それから奥でアイロンの蒸気がシュウと鳴る音が押し寄せてきた。吊り下げられた冬服のジャケットが整然と並び、壁にはベルトやソックス、名札の白い札が整っている。

 

 「いらっしゃいませ。お約束の――吹雪さんと、保護者の方で」

 

 店の奥から、首に布メジャーをかけた店主が表へ出てきた。白髪まじりだが身のこなしは軽く、眼鏡の奥の目がやわらかい。手には紙の台帳。ページの縁は何度も捲られたのか、柔らかく丸まっていた。

 

 「保護者です」

 

 司令が短く答える。店主は会釈し、台帳に視線を落としてから顔を上げた。

 

 「では、上から順に測ってまいります。靴はそのままで大丈夫。姿勢は楽にして」

 

 「はい」

 

 吹雪は鏡の前に立つ。肩をやや引き、あごをすっと引いた。メジャーがそっと鎖骨の上を滑り、背中へ回る。店主の手つきは迷いがなく、数値を口にする声は一定の速さだった。

 

 「肩幅――。胸囲は……ふむ。ウエスト、少し余裕見ましょうか。背は……春までにまだ伸びそうですね」

 

 「伸びますか?」

 

 吹雪が小さく問い返す。店主は目元を細めてうなずいた。

 

 「三年生はここから一気に伸びる子もいますから。縫い代を多めにとっておきます。袖と裾は出せるように仕立てますよ」

 

 「助かります」

 

 司令が椅子に腰かけ、義手の指先で伝票の角を「トントン」と揃える。吹雪がちらと視線を送ると、司令は口を開かずに、顎を一つ上げた。それだけで、胸の奥のこわばりが少しほどける。

 

 「スカート丈ですが、校則では膝にかかる程度です。どうなさいます?」

 

 「校則どおりでお願いします」

 

 「承知しました。中間丈で。――では仮縫いを一着」

 

 店主がラックから仮縫いの上衣を取り、袖口をさっとまくって持ってくる。吹雪は袖を通す。ウールの重みが肩に、硬めの襟が喉元に落ちた。生地のひやりとした感触が、やがて体温で温もりに変わる。鏡の中の自分が、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

 

 「肩、苦しくないですか?」

 

 「……大丈夫です」

 

 「胸は――このくらいで。ボタンを留めていただいて。はい……いいですね」

 

 店主の指が襟を整え、肩線を軽くつまんでピンを打つ。袖口を一度折り、印をつける。脇下の余裕を確かめながら、台帳にすばやく数字が記入されていく。

 

 「似合ってる」

 

 少し離れた椅子から、司令がぽつりと言った。

 

 「……はい」

 

 吹雪は視線を一瞬だけ落とし、すぐ鏡の中の自分へ戻した。店主がネクタイの箱を持ってきて、一本を喉元へ回す。

 

 「結び目は学校でも指導があるでしょうが、先に一度だけ。こうして――」

 

 指先が器用に布をくぐり、結び目が小さく整う。店主が指で結び目をつまみ、襟元の位置を微調整する。吹雪は鏡越しに喉元を見下ろし、息をひとつ吐いた。

 

 「シャツは襟回り一センチ余裕。カッター二枚、半袖は一枚。体操服は上M、下は――SとMの間ですね。ウエストに紐のあるものを。靴は二十四でよいかと思いますが、厚手の靴下を履くなら二十四・五」

 

 「よく分からんが、とりあえずピッタリなやつを頼む。きつくなったら買い換えればいいしな」

 

 「はい、司令」

 

 吹雪が返事をすると、店主は笑って頷いた。レジ横の什器には名札用の白布、アイロンプリントの名前シール、コの字の安全ピンが並んでいる。司令は必要そうなものを二、三手に取り、籠へ入れた。

 

 「学年章は入荷済み。校章は支給品ですので、入学オリエンテーションの際に学校で受け取ってください。お渡しは約二週間後。――入学式には余裕で間に合います」

 

 「よろしく頼む」

 

 司令は伝票にサインをし、受け取り票を義手ではなく右手で丁寧に財布へ仕舞った。会計を終え、レシートを折りたたむ。義手の指先がわずかに鳴り、握りが一度締まる。習慣で確かめる動きだった。

 

 「……ありがとうございました」

 

 吹雪が深く頭を下げる。店主は「こちらこそ」とお辞儀を返し、鏡越しにもう一度吹雪の襟を目で整えた。

 

 引き戸を出ると、商店街の風がすこしだけ冷たく感じられた。さっきまで室内のウールの匂いに包まれていた鼻が、外気の乾いた匂いを取り戻す。行き交う人のコートの裾が揺れ、買い物袋のビニールが小さく擦れ合う。

 

 「肩、こってないか」

 

 司令が歩き出しながら言う。珍しく、自分も緊張していて、何となくだが肩肘張っていた。それが吹雪にも伝播してないかと気遣うような問だった。

 

 「……大丈夫です。――ありがとうございました」

 

 「俺は隣で座ってただけだ」

 

 「でも……」

 

 言いかけた吹雪の声は、マフラーに吸われて小さくなった。司令は前を向いたまま、右の掌で軽く「行くぞ」と手招いた。制服屋のガラスに、二人の背中が短く映る。鏡の中の新しい襟の形が、冬の陽に白く縁取られていた。

 

 

 店を出て、冷たい風が頬に触れた。ガラスに映った仮縫いの襟の形が、まだ胸の奥に残っている。

 

 「それより……良いのか?」

 

 司令が歩き出しながら、少しだけ間を置いて言った。

 

 「その、なんだ。戦時中の制服に近い感じだが……」

 

 吹雪はマフラーの端を指で整え、ほんの少し笑った。

 

 「むしろ、あれが落ち着くので」

 

 「そうか」

 

 それきり、しばらく言葉はなかった。商店街を抜け、バスを降りてからの坂道を、二人は並んで歩く。靴底が乾いた冬の地面を小さく叩き、吐く息が白く揺れる。校舎の角が遠くにのぞき、風見の言っていた並木道が薄く影を落としていた。

 

 「……学校、怖くないか……?」

 

 司令の声は低く、小さく、前を向いたままだった。

 

 吹雪は一歩だけ歩幅をそろえ、頷く代わりに息を吸った。

 

 「怖くないと言えば嘘になりますけど……」

 

「けど、なんだ?」

 

「司令と一緒なら…平気です」

 

「ッ!……そうか……」

 

少し驚きながらも、嬉しそうに笑う提督。

 

 

 校門へ続く並木道の手前で、司令は歩みを少しだけ緩めた。昼の授業はまだ続いていて、校舎の窓はどこも静かだ。遠くでチャイムの試し鳴らしが一度だけ鳴り、冬の空気に薄く溶けた。

 

 「まあ、今日は下見と言っても見せてもらうのは放課後だけだからな」

 

 司令は前を見たまま言い、口の端だけで息を吐いた。

 

 「特にビビる必要は無いさ」

 

 その調子は、吹雪に向けた言葉でありながら、半分は自分へ言い聞かせているようでもあった。彼の左袖は空のまま、上腕で止まる義手の金具が陽を淡く弾く。吹雪はマフラーを指先で整え、小さく頷く。

 

 「はい、司令」

 

 「変な時期に入るより、新学年からってことだ。入学は四月。――でも、早めに顔だけ出しておく」

 

 「……そのほうが、わたしも落ち着きます」

 

 門衛の小屋に立札が出ている。来校者は放課後に事務室へ、と。二人は校門をいったん背にし、通り向かいの喫茶店へ入った。丸いランプの下、湯気の向こうに冬の日差しが斜めに差している。コーヒーの香りが深く、ガラス越しに見える校庭の隅では、枯れた芝が風に伏せては立った。

 

 「風見の口利きは通ってる。書類は事務で話が通ってるはずだ」

 

 司令はメニューを閉じ、短く続けた。

 

 「……だが、あいつは軍の人間だ。今日は来ない」

 

 「はい」

 

 吹雪は湯気越しに頷く。カップの縁は熱く、指先にはささやかな温かさが残った。壁時計の秒針が静かに進み、客の少ない店内の音が、かえって時刻の進みをはっきりと刻む。

 

 放課後のチャイムが長く鳴り終えたころ、二人は会計を済ませて外へ出た。日差しはもう低く、校舎の陰が道まで伸びている。門衛に会釈し、来校者札を受け取り、渡り廊下の寒さを抜けて事務へ向かう。廊下のガラスに、二人の影が並んで揺れる。

 

 「大丈夫だ」

 

 司令は小さく、今度ははっきりと吹雪に言った。

 

 「見るだけ見て帰る。――それで今日は十分だ」

 

 「はい」

 

 吹雪は胸の奥で呼吸を一度深く整え、扉の前で姿勢を正した。彼女の「司令」という呼び名に、ここでは誰も眉をひそめない。二人のあいだにだけ通じる距離と、これから入っていく日常の匂いが、扉の向こうからゆっくりと流れてくるようだった。

 

 

 昇降口脇の小さなパネルに「来校の方はこちら」と矢印が出ている。司令はそこで足を止め、掲示どおりのインターホンを押した。スピーカーから微かなノイズがして、やわらかい女性の声が返ってくる。

 

 「はい、〇〇中学校です。ご用件をどうぞ」

 

 「本日、事前の下見と施設の見学で伺いました。風見先生から事務に話が通っていると聞いています。吹雪と、その保護者です」

 

 「承っております。いま教頭が参りますので、そのままお待ちください」

 

 短いやりとりのあと、廊下の向こうから革靴の音が近づいてきた。姿を見せたのは五十代半ばほどだろうか、落ち着いた色のスーツに薄いグレーのカーディガンを重ねた女性。小柄だが足取りは軽く、眼鏡の縁の奥の目に、応対の場数を踏んだ明るさが宿っている。

 

 「お待たせしました。教頭の真壁(まかべ)です。――吹雪さんと、保護者の方ですね」

 

 「はい、司令……いえ、保護者の者です。お手数をおかけします」

 

 司令はいつものぶっきらぼうを少し和らげ、胸ポケットから受け取り票と身分証の写しを出した。真壁は一瞥して頷くと、吹雪に向き直って穏やかに微笑む。

 

 「吹雪さん、よろしくね。まずは外の施設から見ましょう。寒いですから、足早に」

 

 「よろしくお願いします」

 

 吹雪の返事は小さかったが、声の芯ははっきりしていた。司令は一歩下がり、二人の少し後ろを歩く。左腕の義手は革のカバーで覆われ、指先を一度開閉すると、金具が空気を噛むように小さく鳴った。

 

 渡り廊下を抜ければ、冬の光にさらされたグラウンドが広がっている。風で起伏を作った土の面には、サッカーのゴールが二基、野球のバックネットがひとつ、そして赤いトラックのレーンが三本、半ば眠ったように並んでいた。端には防球ネット越しにバスケットのゴール。フェンスの外では枯れ芝が風に伏せては立つ。

 

 「ここが主運動場です。球技の授業はここで。陸上部は外周とこのトラックで基礎をつくります。春になると、線を引き直して一気に明るくなるんですよ」

 

 真壁は指先でトラックのカーブを示し、そのままフェンス沿いに歩き出す。吹雪は自然に小走りで二、三歩前へ出て、レーンの数字を数えた。

 

 「いち、に、さん……」

 

 「三レーンしかないから、陸上はペアを組んでね」

 

 「はい」

 

 ほんの短いやりとりに、吹雪の子どもらしさがふ、と顔を出す。司令はその横顔を見て、軽く喉の奥で息を鳴らした。真壁は歩調を崩さず、次の施設へ視線を送る。

 

 「プールはこちら。今は冬季閉鎖中ですけれど、温水ではありませんので、授業は五月から九月の前半まで。放課後は水泳部が使います。監視員は教員二名とボランティア一名で常時配置。安全第一です」

 

 フェンス越しに見える水面は、覆いの下で眠っている。スタート台の銀色が冬の日をはね返し、看板には「飛び込み禁止 プールカードを必ず提出」の文字。吹雪は鼻先だけをマフラーからのぞかせ、静かな水面をじっと見た。

 

 「泳ぎは、得意?」

 

 真壁が問うと、吹雪は少しだけ考えてから、正直に答えた。

 

 「……あまり」

 

 「大丈夫。最初は苦手な子のほうが多いんですよ。顔をつけるところから、ちゃんとやります」

 

 言い切る声に、叱咤ではない温度がある。吹雪は小さく頷いた。司令は寒風で手袋の上から指をこすり合わせ、少し間を置いて口を開く。

 

 「……義務教育でもないですし、野暮かもしれませんが。何か、学校として力を入れていることは」

 

 口調は柔らかいが、その裏に「こいつを預ける場所として」という慎重さが透ける。真壁はふっと表情を緩ませ、うなずいた。

 

 「ええ、いくつかありますが――近年は特に、女子でもスポーツを積極的にできる環境づくりに力を入れています」

 

 「具体的には?」

 

 司令の問いは角が立たないよう、言葉の端を丸めていた。真壁は歩きながら指を折る。

 

 「まず、更衣室やシャワーの整備は当然として、女性の体育教員を複数配置して相談しやすくしています。部活動も、男子中心になりがちな競技に女子枠をきちんと設けて、指導者側も研修を重ねています」

 

 「研修」

 

 「ハラスメントや、体調との付き合い方、用具のサイズ選び、栄養と休養の取り方。――“頑張る”だけじゃ続きませんから。朝練は希望制、夜も暗くなる前に切り上げる。安全のために照明もグラウンドの端まで増やしました」

 

 穏やかな口調だが、一つひとつ、現場で積み重ねた手当の具体がある。吹雪はそれを聞きながら、手袋の指先でもそもそとマフラーの端をいじり、やがて気になっていたことを小さく口にした。

 

 「合唱部……って、ありますか」

 

 「ありますよ。春に定期の校内発表、秋は市の音楽祭に出ます。顧問は国語の先生で、とても楽しそうにやってます」

 

 「……見に行きたいです」

 

 そっと漏れた願いに、真壁は「のちほど」と笑って、校舎の角を曲がった。そこには小さな柵で囲われた一画――ビオトープがあった。冬枯れの浅い水面に薄氷が張り、枯れた葦の間を風がわずかに通り抜ける。木札には「勝手に生き物を持ち出さないで」の文字。脇のパネルには、春から秋にかけて見られる生き物の写真が並んでいる。ヤゴ、アメンボ、アオイトトンボ、ニホンアカガエル。

 

 「ここは理科部と、生活科の授業で使います。春先はカエルの卵が見られますよ。トンボは夏」

 

 「カエル……」

 

 吹雪は柵の近くに寄って、木札の写真を覗き込んだ。目がふっと丸くなり、次の瞬間、子どものように顔が綻ぶ。

 

 「卵……見たこと、ないです」

 

 「なら、四月に楽しみができますね」

 

 真壁がそう言うと、吹雪はマフラーの奥でそれを噛み締めるように小さく頷いた。司令は横目でその横顔を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

 「建物の中に戻りましょう。冷えますから」

 

 真壁が手を差し出すように促す。昇降口に入ると、ワックスの匂いと暖気が身体を包む。床の端に黄色いライン、スリッパの棚は学年ごとに色分けされ、掲示板には部活動のポスターが整然と貼られていた。吹雪の視線が、理科部の「春の観察会」と、合唱部の「新入部員募集中」を行き来する。

 

 「バリアフリーについても少し。エレベーターはありませんが、主要な階段には手すりを増やしました。保健室は一階で、処置ベッドは三台。養護教諭は午前午後で交代、常時一名はいます」

 

 真壁は自然な調子で付け加え、司令の左袖にちらりと視線を送ってから、すぐに戻す。見て、見ない。余計な詮索に踏み込まない距離の取り方だった。

 

 「ありがたいです」

 

 司令は短く言って、手すりに義手の掌を軽く触れた。ゴムのカバー越しに、金属と木の温度がわずかに伝わる。その感触を確かめるように一度だけ握り、すぐに手を離した。

 

 「この先が図書室。向こうが保健室。教室は、三年一組がこの階段を上がってすぐ左です」

 

 階段の踊り場では、放課後の生徒たちがところどころで立ち話をしている。笑い声が混じり、バスケットのボールが遠くで弾む音が響く。吹雪はその音の方へ首を傾け、司令は「行くぞ」と目だけで促した。

 

 「……あの」

 

 吹雪が小さく声をあげる。真壁が足を止める。

 

 「はい」

 

 「――わたし、怖くないと言えば嘘になりますけど。ここ、ちょっと楽しみです」

 

 言葉を絞り出すような、でも確かな声。真壁は微笑んで頷いた。司令は、その短い一言で十分だ、とでも言うように、何も言わずに唇の端だけを上げた。

 

 「それがいちばん。怖さをなくすのではなく、上から少しだけ楽しみの重さを足していくのが、学校の役目です」

 

 真壁の言葉は、説明というよりも約束のように響いた。

 

 「では、最後に今後について少しお話して、今日はおしまいにしましょう。――寒いから、長居はしません」

 

 「はい」

 

 吹雪の返事は先ほどより少しだけ明るい。その背を、司令は半歩うしろから見守りながら、静かに歩を合わせた。窓越しの空は高く、冬の青の底に、ごく薄い春の色がにじみはじめている。

 

 職員室の脇にある来客用の小部屋は、石油ストーブの低い唸りでじんわりと温まっていた。窓際には厚手のカーテンが垂れ、外気の冷たさを柔らかく遮っている。壁時計の秒針がやや大きめの音で時を刻み、遠く廊下の向こうからは、部活動へ向かう生徒たちの笑い声が布越しにくぐもって届いた。

 

 丸テーブルの上には、湯気の立つ紙コップが二つ。教頭の真壁は、来客用の書類フォルダを整えながら、穏やかに切り出した。

 

 「――どうでしょう? 我が校は」

 

 司令はコップを両手で包むように持ち、縁に軽く口をつけた。苦味は浅く、後味は短い。温度だけが舌の緊張をほどく。

 

 「軍人しかやってこなかったので、私も専門的な目線からではなく、あくまでも素人目線からになりますが……」

 

 彼は一拍置いて、目を上げる。

 

 「よく考えられていると思います。あとは――うちの吹雪が馴染めるか、それだけですね」

 

 ことさら大げさに褒めるでも、欠点を探すでもなく、事実だけを置く口ぶりだった。真壁は短く頷き、手元のメモに何かを一行だけ記した。

 

 「担任には、新人の者をつけさせましょう」

 

 静かな提案に、司令は少し首を傾げる。

 

 「ベテランの方が良いのでは?」

 

 問いは角張らず、しかし気持ちはまっすぐだった。真壁は「もし、気分を悪くさせたらすみません」と前置きし、言葉を選ぶように視線を落とす。

 

 「ただ、ひとつの事実として――吹雪さんと貴方の関係は、特殊です」

 

 「……まあ、確かに」

 

 司令はあっさり頷いた。否定の余地はない。保護者であり、元・司令官であり、家族のようで、家族そのものとも違う。言葉にすればするほど形を失う距離感を、自分がいちばんよく分かっている。

 

 真壁は続けた。

 

 「それ故に、ベテランと言えど――いえ、むしろ経験豊富であるが故に、“型”にはめ込もうとしてしまうかもしれません」

 

 窓ガラスが、ストーブの熱で微かに歪む。司令は視線をそこへ投げ、薄く笑った。

 

 「ほぉ。それで新人の人に、ですか」

 

 「はい。経験の浅さは、こちらで支えます。学年主任と教科の先輩が二人体制で伴走しますし、計画や評価は校として統一しています。――何より、先入観が少ないぶん、吹雪さんの“いま”を見て調整できるはずです」

 

 言い切る声に、現場の重みが滲む。司令は紙コップを持ち直し、表面の湯気を目で追った。

 

 「なるほど。……分かりました。お願いします」

 

 「ありがとうございます」

 

 真壁は安堵をひと呼吸だけ挟み、紙をめくる。カレンダーには職員会議と入試関連の予定が赤で埋まり、四月の欄には「始業式/着任式」「学力テスト」「身体計測」と並んで書かれている。

 

 「生活面についても、少し。保健室は一階で、養護教諭は午前・午後で交代、常時一名はいます。相談があれば、学年室・保健室・私ども管理職のいずれでも受けます。連絡は――」

 

 「まず学校へ。こちらからは日誌か連絡帳、必要なら電話、ですね」

 

 司令が先に言うと、真壁は目だけ細くして頷いた。噛み合いの良さは、互いの“現場”の癖が近いからかもしれない。

 

 「放課後の部活動は強制ではありません。ただ、ここでの生活を“自分のもの”にしていくには、どこかに居場所があると良い。――さきほど合唱部に興味があると伺いました」

 

 「ええ。声を出すのは好きみたいで」

 

 ふと、初詣の帰りに歌を口ずさんでいた吹雪の横顔が蘇る。音程よりも、声に宿る安堵が印象に残っている。

 

 「顧問は若い先生ですが、声出しの指導は丁寧です。発表の場も、負荷が大きくなり過ぎないように調整しています」

 

 「助かります」

 

 司令は素直に言った。ストーブの灯がわずかに揺れ、油の匂いが一瞬だけ濃くなる。廊下の向こうで、誰かが軽くバスケットボールをドリブルする音が続いた。

 

 「――それと、もう一点だけ」

 

 真壁は声の温度をほんの少し落とした。

 

 「吹雪さんは“頑張り”が効くお子さんだと思います。見学の間の立ち姿や、返事の仕方でそれが伝わりました。でも、頑張りは時に“無理”と見分けがつかなくなります。ですから、最初の三か月は、こちらからも“緩める”声掛けをします」

 

 司令は眉をわずかに上げ、同意の色を深める。

 

 「家でも、似たような声は掛けます。……“頑張らなくていいところは、頑張らなくていい”。あいつには、そこがいちばん難しい」

 

 「ええ。ですから、同じ言葉を、別の場所からも届くように」

 

 真壁の言葉に、司令は小さく笑った。戦場では、重なる指示は混乱のもとだった。けれど、ここは戦場ではない。同じ意味を、別の温度で何度も伝えることが、誰かを守ることに繋がる場所だ。

 

 「担任の候補は、国語科の穂積です。新人ですが、観察が丁寧で、声が静かに通る。型に頼らず、ルールを“説明できる”子です」

 

 「いいですね」

 

 即答に近い返事だった。司令は立ち上がり、椅子の背もたれへ軽く触れる。義手のカバーが布に当たって、鈍い音がひとつだけ鳴る。

 

 「今日は、見るだけ見せてもらえれば十分です。……吹雪が、“ここを自分の場所にしていい”と思えたら、それで」

 

 「ええ。最初の一歩は大きくなくて良い。小さくても、本人の足で踏み出せれば」

 

 真壁が立ち上がり、コートの襟を直す。窓の外、渡り廊下の突き当たりに吹雪の姿がちらりと見え、こちらへ向かって小走りに手を振った。頬は外気で赤く、目だけが少し高揚している。

 

 司令は軽く手を上げ、真壁に会釈した。

 

 「では、四月に向けて。――よろしくお願いします」

 

 「こちらこそ、どうぞよろしく」

 

 ドアを開けると、廊下の冷気が頬に触れた。さっきまでの温度差がかえって心地よい。司令は吹雪の歩幅に合わせ、半歩遅れて並ぶ。新しい場所の匂いの中で、彼の足取りは、いつも通りの、少しだけ軽い歩き方だった。

 

 帰り道。前を行く吹雪は、機嫌よく小石を靴先で転がしながら歩いていた。

 (流石、教育のプロだな)と提督は思う。少し話しただけで、吹雪がどういう子かをもう掴んでいた。案外、自分でも――いや、客観的に見ていたつもりでも、他人じゃなきゃ見えない部分ってあるんだな、と白い息をひとつ吐く。

 

 「なあ、吹雪」

 

 「はい、司令」

 

 「今日はよくやった。……ちょっと楽しみになったろ?」

 

 「……正直、少しだけですけど。はい、楽しみです」

 

 「それで充分だ。腹減ったか?」

 

 「はい。帰ったら、当番表どおりにやりますね」

 

 「おう。失敗しても上出来だ。家だしな」

 

 「……ふふ。ありがとうございます、司令」

 

 家に戻ると、提督は外套も脱がずに受話器を取った。短く番号を押す。二呼吸ほどで繋がる。

 

 「もしもし。――風見か。今日は世話になった。礼を言う」

 

 受話器の向こう、わずかに鼻で笑う音。

 

 「へえ。あの貴方が“礼を言う”とは。雪でも降りますかね」

 

 「もう降ってるさ。……嫌味は後で聞く。助かったのは事実だ」

 

 「分かりましたよ。じゃあ、素直に受け取っておきます。吹雪さんの件は、学校側とも共有済みです。四月までの細かい調整は、こちらで」

 

 「頼む」

 

 「はい、横須賀鎮守府――現提督の仕事ですから」

 

 軽く刺す調子。かつての後輩で、いまは後任。今の二人の関係は、真っすぐとは言いがたい。

 

 「お前がそう言うなら安心だ」

 

 「……その言葉、録音しておけばよかった」

 

 「好きにしろ。また連絡する」

 

 通話を切ると、居間の戸口で吹雪が首を傾げた。

 

 「風見、提督でしたか」

 

 「ああ。礼だけな。――どういう事かは分からんが、あいつの根回しでお堅いお役所が動いたのも事実だから、言うことは言っとかんとな」

 

「ツンデレってやつですか?」

 

「うるせー」

 

ぺちん、と軽い音が提督の掌が振り下ろされ、吹雪の頭からなったのだった。

 

 

暫くして、夕食の用意をしていると。

 

 

「加賀さん、遅いですね……?」

 

 台所で湯気の立つ鍋のふたを少し持ち上げながら、吹雪が首を傾げる。

 

 「あぁ、確かにな――」

 

 言い終える前に、玄関がドタドタと開いた。靴の音、息を切らす気配。

 

 「おいおい、ただいまくらい――」

 

 提督が声をかけると同時に、加賀が肩で息をしながら居間へ駆け込んできた。手はコートの胸元を掴んだまま、指先が震えている。

 

 「すみません……その――」

 

 短い沈黙。喉がひとつ上下して、言葉が落ちた。

 

 「父が、倒れたと……」

 

 鍋の湯気が、急に重たくなる。吹雪は玉杓子を持ったまま固まり、提督は椅子を引いて立ち上がった。

 

 

 加賀は、焦るでも泣くでもなく、ただ立ち尽くしていた。肩で浅く呼吸を繰り返し、視線がどこにも定まらない。茫然――その言葉が一番近い。

 

 「吹雪、温かいもん飲ませてやれ。俺は荷物まとめる」

 

 「……はい、司令」

 

 吹雪は台所へ駆け、急須に湯を落とす。提督は印鑑と保険証の写し、現金、充電器、着替えを鞄へ押し込んだ。義手の指でファスナーを引く音が短く部屋に残る。

 

 「よし、行くぞ」

 

 玄関で靴を履きながら、提督はタクシー会社へ次々と電話をかけた。深夜の長距離は渋る運転手も多い。三社目で、低い声が応じた。

 

 『高速代別でよければ行けます。石川まで』

 

 「助かる。――すぐ出る」

 

 受話器を置き、湯呑みを両手で抱える加賀の前に膝をつく。

 

 「加賀、行くぞ。細かい事情は道すがらでいい。今は向かう」

 

 「……はい」

 

 吹雪がマフラーを二重にして加賀の首に回す。加賀はようやく頷いた。その間に、町内からの折り返しで、状況がひとつ入る。

 

 「病院じゃないのか?」

 

 「……田舎の僻地で、救急は遠いそうです。常駐の町医者が来てくれて、今は家で寝ている、と」

 

 「分かった。なら――なおのこと急ごう」

 

 玄関の外気は鋭く、白い息が三つ、同時に立ちのぼる。ほどなくタクシーが家の前に滑りついた。提督が後部ドアを開け、加賀と吹雪を促す。

 

 

「っと、忘れ物ー」

 

そう言って提督は小さなダンボール箱を持って、タクシーのトランクへと入れてもらう。どうしたんですか?と聞かれても

 

「手土産手土産」

 

そう言って車内に加賀と吹雪が乗ったのを確認して、自分も乗り込む。

 

 「大丈夫だ。移動中に全部聞く。とりあえず行こうぜ」

 

 「……はい、提督」

 

 「はい、司令」

 

 ドアが閉まる。運転手が短く会釈し、メーターが鳴る。タクシーはゆっくりと路地を抜け、夜の幹線へと鼻先を向けた。ヘッドライトが冬の舗道を白く切り取り、車体が静かに走り出す。

 

「父は……」

 

と加賀が語り出す。

 

ぽつり、ぽつり、と小さく吐露するように。

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