艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十七話 おとうさん

 

夜の高速道路を、タクシーがひた走っていた。

 

窓の外には街の灯が点々と続き、少しずつ山がちになっていく景色に、都市の喧騒が遠ざかってゆくのを感じる。後部座席には加賀と吹雪、そしてその隣に静かに座る提督の姿があった。車内はしばしの沈黙に包まれていたが、加賀がぽつりと、まるで吐き出すように口を開いた。

 

「……父は、頑固な人でした」

 

声は低く、遠くを見つめるような目で窓の外を見たままだった。

 

「口数が少なく、感情を表に出すこともない。でも……だからこそぶつかることが多かったんです。私もあの頃は若くて、正しさで人を押し切ろうとするようなところがありました」

 

提督は何も言わなかった。ただ静かに耳を傾けていた。吹雪もまた、膝の上に手を組んで小さく頷いている。

 

「艦娘として軍に出ると決めた時……父は最後まで反対しました。私の意志を理解しようともせず、あの人の価値観では”女が戦に出る”というのは、到底受け入れられるものではなかったんだと思います」

 

微かに揺れる車内。加賀の横顔には、凛とした光と同時に、どこか影を落とした柔らかさがあった。

 

「“家の名に泥を塗る気か”、“家業を継ぐ者がそんな道を選んでどうする”、そう言われました。――まるで、私の人生が私のものではないような言い方でした」

 

ゆっくりと、加賀は手を膝の上で組み直す。

 

「結局、最後は口論になって……私は家を出て、そのまま、戻ることも連絡を取ることもなく、艦隊へと配属されました。あれが……最後の会話です」

 

車のエンジン音だけが静かに響く中で、その言葉はとても重く感じられた。だが、加賀の顔に涙はなかった。ただ、どこか諦念にも似た表情で、前を見据えていた。

 

「不義理をしているのは、分かっています。でも、正直……戻る顔が、なかった。言い訳ですが、あの人が許してくれるとも思えなかった」

 

「……それでも、今回倒れたと聞いて、気持ちが……どうしようもなくなってしまって」

 

しばし沈黙。

 

提督は少し首を傾けて、運転席を越しにルームミラーを見た。だが、あえて言葉にはしない。そうすることで、加賀が続きを語れるよう、余白を残していた。

 

加賀は一度息を吸って、そして小さく、呟いた。

 

「本当は……謝りたかった。心のどこかでは、ずっと。家を出たあの日から、ずっと」

 

外の街灯が彼女の顔をわずかに照らし、また闇に沈んだ。

 

「……だけど、どうしても素直になれなかった。父の前に立つと、どうしても、突っぱねたくなってしまうんです。あの人の……あの圧に、正面からぶつかってしまう」

 

言葉の奥に、幼い頃から積み重ねた複雑な想いが滲んでいた。尊敬と反発、憧れと距離、それらが渾然一体となって胸の奥に積もっている。

 

吹雪が小さく手を伸ばし、加賀の袖を掴んだ。

 

「……加賀さん、大丈夫です」

 

その一言が、どれだけの重さを持って加賀の心に響いたのか、吹雪自身は気づいていないだろう。

 

やがて、加賀は少しだけ目を伏せ、吐き出すように呟いた。

 

「……怖いんです。謝ることも、赦されることも、怖い。私が何を言っても、父はまた突き放すかもしれない。それでも、向き合わなきゃいけないのに……怖いんです」

 

沈黙。

 

提督は、少しだけ姿勢を正して言った。

 

「いいじゃねぇか、怖くても。行くだけで、もう立派だよ」

 

その言葉は温かく、何かを許してくれるような響きがあった。

 

「……」

 

加賀は、視線を落としたまま、わずかに頷いた。

 

車窓には、やがて都市の明かりが遠のき、山間の闇が深くなってきていた。

 

どこか懐かしい、湿った空気の匂い。

 

加賀の言葉も、提督の言葉も、その空気に吸い込まれるように静かに響いていた。

 

 

この先、彼女の父とどう向き合うのか――

 

答えはまだ出ていない。

 

だが、この夜の高速道路を走る時間だけは、少なくとも彼女が過去と未来の狭間で、自分を見つめ直す大切な旅路であることに、誰も異論はなかった。

 

 

タクシーのエンジン音が静かに響く中、フロントガラス越しの街灯が流れては遠ざかっていく。高速道路の風景はすっかり夜の帳に包まれ、山間の冷気がじわじわと車内にも伝わってくるようだった。

 

提督はシートに身体を預け、窓の外をぼんやりと眺めながらぽつりと呟いた。

 

「――しかし、あれだな」

 

加賀が隣で顔を向ける。

 

「話だけだが……加賀の親父さんってのは、伝わるなって思った」

 

「そう……でしょうか?」

 

加賀の問いにはどこか戸惑いが混じっていた。提督はそれに頷きつつ、半ば笑うように言葉を継ぐ。

 

「ああ。頑固で、あんまり表情に出さない。不器用で、意地っ張りで……なんつーか、ほぼお前と一緒だ」

 

「……私が、ですか」

 

「そうだよ」

 

提督は膝に置いた手を一度叩き、真っ直ぐに加賀の横顔を見た。

 

「瑞鶴とお前の関係、あれに似てるよな。瑞鶴がどうしてもお前に認められたくて必死だった時期があったろ? どんなに頑張っても冷たくあしらわれて、悔しくて泣いてた。でも、それを見てるお前は、ちゃんと見てて……でも、認めてやる言葉を出すのが下手くそで、結局ぶっきらぼうな態度しかとれないっていう」

 

「……それは……」

 

加賀は言葉を詰まらせ、目を伏せた。自覚があったのか、それとも痛いところを突かれたのか――どちらにしても、その横顔は少しばかり赤くなっていた。

 

「お前の親父さんも、同じなんじゃないかって思ったんだ」

 

提督の声は、どこか優しく、少しだけ遠くを見るような響きを持っていた。

 

「きっと加賀、お前が立派になって帰ってくるのを……口にこそ出さなくても、どこかで誇りに思ってた。けどそれを認めたら、自分が折れたことになるような気がして……きっと、素直になれなかっただけだ」

 

加賀はしばし黙っていた。運転手は気を利かせてなのか、ラジオも音楽も流さず、ただ淡々と道を走っている。

 

「……それって」

 

「ん?」

 

「私も……同じ、なんでしょうか」

 

「さあな。本人がどう思ってるかまでは俺には分からんよ。でも少なくとも、俺から見たらお前は、お前の親父さんによく似てる。表情には出さなくても、情が深くて、誰かのために真っ直ぐに動けるとこも」

 

「……」

 

加賀はふっと細く息をついて、窓の外へ視線を移した。

 

「私は、あの人みたいにはなりたくなかったんです。……でも、そうか。似ているのかもしれませんね」

 

「うん。似てる。だからこそ、きっとあの人もお前にちゃんと向き合えるはずだ。時間はかかってもな」

 

タクシーは緩やかにカーブを曲がり、再び直線の道へ入っていく。前方には街灯のない暗闇がぽっかりと口を開け、続く道が夜の深さへと誘っていた。

 

「……それにさ、親子ってのは不思議なもんでな」

 

提督は言葉を探すように、少しだけ間を置いて言った。

 

「いくら距離ができても、どこかでちゃんと通じ合えると思うんだ。時間が止まってるようでもな、何かの拍子にまた動き出すもんさ」

 

「……それが、今回だといいんですが」

 

加賀の声は少しだけ、和らいでいた。

 

「うん。いいきっかけにしようぜ。お前が勇気出して来たんだ。きっと、無駄にはならないよ」

 

それに、と小さく付け足す。

 

「お前の親父さん、俺の顔見た時、たぶん殴るぞ」

 

「……殴られないように、祈っています」

 

「俺はもう覚悟してるから、せめてお前は気楽にしてろ」

 

「ふふ……分かりました」

 

加賀が小さく笑ったその瞬間、車内の空気が少しだけ柔らかくなったような気がした。

 

彼女はまだ、父と向き合うことを恐れている。

 

 

タクシーが夜を駆け、途中いくつかのサービスエリアでタクシーを乗り継いだ彼らは、朝方になるころには、加賀の故郷――雪の舞う、山間の田舎町へと辿り着いていた。

 

夜明け前の空はうっすらと青みを帯び、薄明かりが白銀の世界をやさしく照らしている。空から舞い降りる雪はさらさらと細かく、路肩の田畑や古い屋根の上には静かに降り積もっていた。

 

タクシーは細い坂道をゆっくりと走りながら、左右の風景を通り過ぎていく。

 

車内にしんと静けさが流れるなか、前を見据えていた提督がふと窓の外に目を向け、ぽつりと呟いた。

 

「……のどかだなぁ」

 

その言葉に、吹雪も顔を上げて、助手席越しに窓の外へ視線を移した。

 

「ええ……時間が止まったみたいです」

 

吹雪の言葉にはどこか懐かしさの混じった響きがあった。それもそのはずだった。ここは彼女にとって初めて訪れる土地でありながら、どこか懐かしさを覚えるような、素朴で、穏やかな気配に包まれていた。

 

山肌を縫うようにして点在する民家。田畑を囲む雪の畦道。屋根の上で小鳥が羽を休め、白く曇る煙突の煙が真っ直ぐに空へ昇っていく。

 

「いい所じゃないか。……俺も昔は田舎に住んでたんだ」

 

提督はそう言って、少し笑った。彼の表情には懐かしむような優しさが滲んでいて、どこか遠い日々を思い出しているようだった。

 

「雪が積もると学校まで長靴で行ってさ、道中で雪合戦が始まって、結局ずぶ濡れで先生に怒られるんだよ。だけどそれが妙に楽しかったんだ、不思議とな」

 

吹雪はその様子を後部座席から見守りながら、そっと言葉を添える。

 

「……司令も、そういう子どもだったんですね」

 

「ま、多少はな」

 

笑う提督に、吹雪も小さく微笑んだ。窓の外を眺めるその目が、どこか柔らかく、まるでこの雪景色の中に、彼の子供時代を重ねて見ているようだった。

 

後部座席の加賀は、会話には加わらず、静かに膝の上に手を重ねていた。けれどその視線はしっかりと故郷の景色に向いていて、時折、懐かしむように目を細めていた。

 

幼い頃、何度も通った道。雪の降るたび、父と一緒にスコップで雪かきをした庭。家の前を流れる小川の水音。――すべてが今も変わらず、そこにあった。

 

変わったのは、きっと自分の方なのだ。

 

提督の何気ない言葉が、その思いをより深く、加賀の胸へと染み込ませていた。

 

タクシーは最後の坂を登りきり、ゆっくりとブレーキを踏む。朝日が差し込むその先には、雪を冠した大きな屋根の平屋が、昔のままの姿で彼女たちを待っていた。白く染まった縁側、薪を積んだ軒下、そして、今にも開きそうな障子の扉。

 

ふるさとは、何も言わず、ただそこに在り続けていた。

 

車が止まると、提督は軽く肩を伸ばしながら言う。

 

「さて……行くか。長旅、おつかれさん」

 

「はい」と吹雪が元気よく答え、加賀も静かに頷いた。

 

そして三人は、静かに雪を踏みしめながら、懐かしき家の玄関へと向かっていった。

 

 

雪が静かに舞い落ちるなか、加賀は古びた木製の門を見上げて、ひとつ小さく呼吸を整えていた。

 

すぐ目の前にある、かつての我が家。

艦娘として名を変え、過去を背負い、それでもここへ帰ってきた。

しかし、目の前の小さなチャイムに指を伸ばすことが、これほど難しいとは思わなかった。

 

傍らに立つ提督は声をかけることもせず、ただ彼女の様子を見守っていた。

吹雪もまた、その場の空気を読むかのように、静かに背後で立っている。

 

加賀はふと、木の柱に手をついて、チャイムを見つめた。

指先が数センチの距離で止まっている。

 

まるで、それを押すことによって過去のしがらみが音を立てて崩れるようで。

 

だが——。

 

その沈黙を破ったのは、不意に響いた音だった。

 

ガラガラ……!

 

木製の引き戸が音を立てて開いた。

 

「か、香織……っ?」

 

その声に、加賀ははっとして目を見開いた。

呼ばれた名、それは今の「加賀」ではない。

かつて、この家で暮らしていた少女だった頃の名。

軍によって艦娘として徴用される以前、親に名付けられた、本当の名前だった。

 

戸口に現れたのは、小柄な女性。年齢のわりには若々しさを保ちつつも、白髪が混じった髪を後ろで結い、割烹着を着た母親だった。

 

加賀が固まったまま何も言えずにいると、母親はその姿をじっと見つめ、口元を手で覆いながら、ゆっくりと彼女に近づく。

 

「香織……、ほんとうに、香織なの……?」

 

その問いかけは確かめるようなものであったが、同時に確信のこもった、母としての直感が滲み出た言葉だった。

 

加賀はわずかに頷く。

たったそれだけの動作で、母親の目元には涙がにじむ。

 

「……おかえり」

 

その言葉は、穏やかで、あたたかく、何年も積み重なってきた想いを溶かすようだった。

 

加賀は唇を震わせながら、「ただいま」と、ようやく声にした。

 

提督はその光景を背後から見つめていた。

吹雪も静かに、頬に浮かんだ涙を指でぬぐいながら、小さく笑みを浮かべる。

 

静かに舞う雪が、時の流れと再会の奇跡を祝福するかのように、白く、静かに降り積もっていった。

 

 

古びた玄関口に立ち尽くしていた加賀──香織は、母親に呼び止められたあの瞬間から、何かがほどけていくのを感じていた。

 

かつて、彼女が艦娘として軍に就いたとき、ここにいた両親との繋がりは音を立てて断ち切れたように思えていた。だが今、母が差し出す手が、その結び目をもう一度ゆっくりと、温かく縫い直してくれているように感じる。

 

玄関の外で雪を払いながら立っていた提督が、一歩前へ進む。

 

「失礼いたします」

 

そして深く頭を下げた。

 

「かつて、彼女の司令官をしておりました者です。今はお付き合いさせて頂いてまして……このような形でご挨拶に伺うことになってしまい、大変申し訳ありません」

 

しっかりとした言葉と頭の下げ方に、母親は目を丸くし、一歩後ずさった。

 

「えっ!?おつきあい……?」

 

顔がみるみる紅潮し、困惑と驚きと動揺が綯い交ぜになって表情に浮かんだ。

 

加賀は一歩引いて気まずそうに目を伏せる。提督も、「まあ、このタイミングで言うのは爆弾すぎたか……」と内心で頭を抱える。

 

その場に流れる沈黙が、雪とともにしんしんと降り積もっていくかのようだったが——。

 

「……実はね」

 

ぽつり、と母がつぶやいた。

 

「お父さんが倒れたっていうのは……嘘なの」

 

「……え?」

 

加賀が瞬時に顔を上げる。提督も、吹雪も、きょとんとしたまま母親を見つめる。

 

「だって、こうでもしないと……香織、帰ってこないでしょう? ずっと、ずっと戻ってこなかったから……電話しても手紙を出しても、返事がないこともあったし」

 

ぽろぽろと語られる真実に、加賀は呆然としたまま動けずにいた。

 

「だから……お母さん、ズルしたの。ごめんね」

 

その言葉と同時に、母親の目には涙が浮かんでいた。

 

加賀は言葉を失っていた。

だが、その瞳は怒りでも呆れでもなく、ただ深い驚きと、胸を衝かれるような温かさで震えていた。

 

「……母さん、そんなこと……」

 

「どうしても、会いたかったの」

 

その一言で、彼女の背筋はふっと緩み、張りつめていた心がほぐれていく。

 

提督はただ、そっと視線を落として微笑む。

やれやれ、まるでどこぞの指揮官も似たような手を使ったことがある気がするなと内心で苦笑しながら。

 

吹雪は何も言わず、少しだけほっとした顔で彼らを見ていた。

 

そして、静かに雪がまた一枚、玄関の軒先に落ちて溶けた。

 

──けしてドラマチックではない、けれど確かに心を揺さぶる、ひとつの“帰郷”が、こうして始まったのだった。

 

 

 

加賀の母に導かれ、一行は古き良き日本家屋の中へと足を踏み入れた。土間の名残を感じる玄関、軋む板の間、そして風が通り抜けるように静かな廊下の先——そこには、囲炉裏の煙がほのかに漂う居間があった。

 

低い天井の梁には歳月の煤が溜まり、囲炉裏の上には鉄瓶が吊るされて湯気を立てている。畳の香りと混ざったその空気は、どこか懐かしさすら感じさせる温もりをたたえていた。

 

母は軽く笑いながら言った。

 

「と、とりあえず中へ。寒かったでしょう」

 

加賀は黙って頷き、吹雪と提督もそれに続く。

 

居間の隅に座布団が敷かれ、そこに腰を下ろすと、母がにこやかに吹雪に声をかけた。

 

「お嬢ちゃんは何を飲みたい?」

 

吹雪は少し驚いたように顔を上げ、遠慮がちに口を開く。

 

「あ、私は……なんでも大丈夫です」

 

その言葉にかぶせるように加賀が続ける。

 

「吹雪さんは、ココアが好きなんです」

 

「まぁ、ココアが好きなの? 香織と同じねぇ……」

 

柔らかく笑う母は、懐かしい娘の影を見ているのか、台所の方へとそそくさと動き始めた。

 

やがて湯の音と共に香ばしい匂いが立ちのぼり、囲炉裏の煙と溶け合って室内にゆるやかな香りを運んでくる。

 

そして家族がそろったその時——

 

母はふいに険しい表情へと変わった。

 

「困ったわね……まさかあの香織が、男の人を連れてくるなんて……」

 

その一言に、囲炉裏を囲んでいた空気がピリリと張る。

 

だが加賀はあえて淡々と、まるで用意していたかのように答えた。

 

「お父さん、昔から私の交際関係にはうるさかったですから」

 

その言葉に母はふっと目を細め、

 

「しかも……いい男……」

 

と、ぽつりと言いながら顔をあからめた。

 

提督は目を丸くして加賀の方を見る。

 

加賀も一瞬驚いたが、母の様子に呆れたように、小声でぽつり。

 

「……ああ見えて、結構ド天然ですから……」

 

それを聞いて、提督も小声で返す。

 

「お母さん、けっこーお茶目な人だな……」

 

母親の意外な一面に二人して目を見合わせ、笑いをこらえる。

 

その横で、吹雪は何事も気にしていないように、ふうふうとココアを冷ましながら一口すすっては、ホッとした顔をしている。

その様子に、まるで戦中戦後の時代の影が、薄れていくような錯覚すら抱く。

 

提督は、その姿を見つめながら、こうして新しい「家族の時間」が少しずつ形になっていくのを感じていた。

 

木枠の窓の外では、粉雪がしんしんと降り続いていた。

静かな音だけが、囲炉裏の火の音とともに、やわらかく時間を包み込んでいた。

 

囲炉裏の火が静かに燃える中、ココアの甘い香りとともに、居間に和やかな空気が流れていた。

 

しかし、提督の一言がその空気を軽く揺らした。

 

「でもさ……ラブレターもらったって話だけで倒れたってのに……男連れてきて、しかも同棲してるって言ったら……」

 

彼は囲炉裏越しにそっと加賀の母を横目で見やる。

 

「……死ぬかも?」

 

まるで不謹慎な冗談を口にした子どものような、少し不安げな顔で。

 

その言葉に一拍おいて、母親は肩を震わせ、表情一つ変えずに淡々と、しかしどこか可笑しげに口を開いた。

 

「爆裂四散ね」

 

「ぶっ――!!」

 

提督は噴き出した。

 

「げほっ……げほっ、ぶ……ぶぶっ……!!」

 

堪えきれず、お茶を盛大に吹き出してしまい、口元を手で押さえながら咳き込み始める。思わぬ返しの破壊力に、肺の奥まで笑いとお茶が同時に入り込んだようだった。

 

「おっ、お母さん!? げほっ……げほっ……」

 

加賀は呆れたようにため息をつき、吹雪は心配そうにティッシュを差し出す。

 

「冗談でも……そういうのは、ええと……ほら、タイミングってのが……」

 

提督は咳き込みながらも、何とか言葉を紡ぐ。

 

だが、母親はくすくすと笑いながら、台所の方に戻っていった。

 

「ごめんなさいねぇ。でも、あの人、本当に香織のことになると過敏だから……そろそろ本番だと思って、覚悟しておいてちょうだい」

 

提督はようやく咳を落ち着けると、ぐったりと座布団にもたれかかる。

 

「……いや、マジで死ぬかと思ったわ。色んな意味で」

 

加賀は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、ぽつりと漏らす。

 

「それでも……ありがとう」

 

その短い言葉に、彼は照れたように視線を外しながら、うんとだけ頷いた。

 

そして――

 

吹雪は何も知らぬように、フーフーとココアを冷ましながら、ゆっくりと口に含んだ。

 

静かで暖かな囲炉裏の部屋に、再び笑いと温もりが戻り始めていた。

 

 

囲炉裏の火がぱちぱちと木を焦がす音だけが、しばし居間に残された静けさを埋めていた。和やかな笑いの余韻はまだ薄く残っていたが、母親の一言が、その空気をピンと張り詰めたものへと変えていく。

 

「……お父さん、もうすぐ帰ってくるわよ」

 

その一言に、提督の身体は――いや、表情の筋肉が、まるで銃声にでも反応したように一瞬で硬直した。

 

「……ッ!」

 

――バリバリッ。

 

まるで劇画調の登場人物のように、顔中の線が強調されるかのように凍りついた表情。額には縦線、瞳孔はきゅっと絞られ、視線は宙をさまよい、口元は引き攣る。

 

「司令……?何してるんですか」

 

加賀が小さく眉をひそめ、すぐ隣で低く尋ねると、提督は顔の筋肉を引きつらせながら、囁くような声で返す。

 

「男は度胸だ……ここでビビったら全て終わりだ……牽制して、押し切って、逃げる……そう、歴戦の軍人の威厳ってやつを、ここで使う……っ!」

 

「……」

 

加賀は呆れたように一瞥をくれるが、特に何も言わず、ただ小さくため息をついた。

 

そのとき――。

 

「ガラララッ!」

 

玄関の戸が大きな音を立てて開いた。

 

母親が「おかえりなさい」と声をかける前に、玄関から現れたのは――

 

頑丈な体つきの、まさに“THE・農家の男”といった風貌の老人。

 

しかも、その右手には――艶のある木製の銃床、つまり猟銃を抱え、

 

左手には、まるで雑草や竹藪と真っ向勝負していたかのような鎌を持っていた。

 

二丁武器。まさかの“両手持ち”。

 

「……」

 

その姿を見た瞬間、提督の顔はさらに数段階劇画調に寄せていき、ついに唇の端から音が漏れた。

 

「……きゅうん」

 

情けない、なんとも情けない脱力音だった。

 

全身から戦意が抜けたかのように、背筋が僅かに折れ、鎧のように固まっていた肩がストンと落ちる。

 

加賀はちらりと横目で彼を見る。

 

「……歴戦の軍人の威厳、とは」

 

「……戦場は、な……武器の種類と方向性が、予想と違うと、だな……っ」

 

顔を引きつらせながら、何とか威厳を取り戻そうとするも、明らかに手遅れである。

 

それにしても、玄関から入ってきた父親は、まるで戦に出て帰ってきた武将のような風格を持ち、無言のまま家の中を見渡すと、重々しい足音で囲炉裏の間へと入ってきた。

 

そのまなざしは、まるで獲物を見定めるかのような鋭さで、真正面に座っている提督をじっと睨み据える。

 

「……おまえは、誰だ?」

 

瞬間、提督の内心はもう一度「きゅうん」と音を立てて崩れそうだった。

 

――果たして、ここからどう切り抜けるのか。

 

再び始まる“戦場”を前に、提督は覚悟を決めた。覚悟だけは、していた――。

 

囲炉裏の火がぱち、と木を弾く音を立てた瞬間、それまでなんとか平静を装っていた提督の内心は、静かに崩壊していた。

 

「香織とお付き合いしてる方よ。あの横須賀の元司令官さん」

 

と、母親が何のためらいもなく、にこやかに――まるで天気の話でもするような軽さで言い放った。

 

「(お、お母さんッ……!)」

 

提督は叫び声を飲み込んだ。心の中ではもう、己の名前が出た瞬間に心拍数が跳ね上がり、胃の底が冷たくなるのを感じていた。自分で言うべき言葉、自分で差し出すべき頭、それらすべてを母親に軽々と持っていかれた気がした。

 

――数秒の静寂。

 

それは短く、しかし永遠にも感じられる時間だった。

 

父は、顔をわずかに斜めに向ける。そして、目を細め、鋭く一言。

 

「……出ていけ」

 

その言葉は、まるで木刀で腹を突かれたかのような重さを伴って、部屋の空気を一瞬で凍らせた。

 

提督は一瞬息を止め、それでも口を開こうとした。

 

「お話だけでも――」

 

しかし、再びかぶせるように父が言う。

 

「出ていけ」

 

その言葉に、提督の喉がつかえたようになり、返す言葉が出てこなかった。

 

そのとき、バンッ、と音を立てて加賀が立ち上がった。

 

「お父さん!」

 

その声には、これまで抑え込んできた感情の全てが詰まっていた。いつもの加賀ではない、どこか幼い頃の“香織”の声音が、そこにあった。

 

「どうしていつもそうなの!? 人の話を、頭ごなしに否定して……いつも、いつも! 私の話も、お母さんの話も、聞こうともしない……!」

 

拳を強く握り締めていた。まるで、怒りを持って自分の弱さを覆い隠すように。

 

「私が何を考えて、どうしてこの人を連れてきたのか、どうして――それを伝える前に、追い出すなんて……っ!」

 

加賀の瞳には、怒りと、哀しみと、そして――ずっと言えずにいた“本音”が浮かんでいた。

 

父親は、少しだけ視線を逸らし、それでも不器用に唇を噛むだけだった。反論はない。しかし、認めるでもない。

 

提督はそんな二人の間で、今は言葉を慎むべきだと悟り、何も言わず立ち尽くしていた。

 

囲炉裏の火が、再びぱちり、と音を立てた。

 

その音はまるで、誰かの心の奥で、何かが崩れていく音のようでもあり――同時に、ずっと昔から積み上げられていた堤防が、少しずつほころび始めた音のようでもあった。

 

 

囲炉裏の火が再び静かに、そしてどこか焦れたように揺れていた。

 

「たまに帰ってきて、言うことがそれか」

 

加賀の父の低い、押し殺すような声が室内を震わせた。

 

加賀は歯を食いしばったまま、涙が浮かびそうになるのを必死で堪えていた。

 

「今それは関係ないでしょう! お父さんが彼に、失礼なことばっかりするから……っ!」

 

感情は膨れ上がり、もう誰にも止められない勢いでぶつかり合う。

 

「昔から、そうだったじゃない! 私がどんな想いで……どんな覚悟で艦娘になったか、知ろうともしてくれなかった……!」

 

「……あの時もそうだ。徴兵なんて……あんな紙一枚で、軍の命令で……!」

 

「ワシは反対だった!」

 

父の声が大きくなった。机の上の茶碗がカタリと揺れる。

 

「ずっと、反対だった……! 娘に、そんな、命を削るような仕事をさせるなんて……っ!」

 

「じゃあ、どうして……どうして黙ってたの!?」

 

「黙っていれば、思いとどまってくれると……香織が、本当は分かってくれると思ったからじゃ……!」

 

父の声が震える。怒りとも、悲しみともつかない感情が混ざり合っていた。

 

「こんな娘で……恥ずかしいよ……」

 

その一言が、場の空気を凍らせた。

 

加賀は、一瞬何かを言いかけた。しかし、何も言えなかった。

 

唇を噛みしめ、ただぽつりと――

 

「……わかりました」

 

そう言って、加賀は踵を返す。

 

「香織……待ちなさい!」

 

「もういいです!」

 

感情を押し殺すように、強い口調でそう言い残して加賀は玄関へ向かい、靴も乱暴に履いたまま飛び出していった。

 

「香織!」

 

父は立ち上がり、追いかけようとする。

 

だが――

 

「う……ッ!」

 

突然、胸を押さえてその場に蹲る。荒く、苦しげな息を吐きながら、背中が丸まり、膝が床をついた。

 

「お、お父さん!?」

 

母が慌てて駆け寄り、吹雪も驚いて提督の方を見た。

 

提督は立ち上がると、迷わず父に駆け寄り肩を支えた。

 

「大丈夫ですか、しっかりしてください……! 奥さん、薬は!?」

 

「いつも使ってるの、仏間の棚に! 小さな白い瓶よ!」

 

吹雪は頷き、すぐさま廊下を走っていく。

 

その間、提督は父の胸に手を当てながら、鼓動の速さと乱れを感じ取っていた。

 

「……過呼吸じゃない、狭心症か、それとも……っ」

 

冷静でいながら、明らかに焦りが滲む提督の顔。

 

「無理はしないで、落ち着いて……深く、ゆっくり呼吸して。目を閉じてください」

 

「か、香織は……っ」

 

「彼女なら、大丈夫です。俺が、必ず連れて戻ってきます」

 

父の荒れた息が、徐々に落ち着きはじめる。

 

吹雪が白い瓶を手に戻ってくる。

 

「これですか?」

 

「ありがとうございます。これを……」

 

母が震える手で薬を飲ませる。ようやく、父の呼吸がゆっくりと整い始めた。

 

部屋の空気は重く沈黙していた。

 

けれど、提督の表情には、一切の諦めはなかった。

 

囲炉裏の火は先ほどの騒動が嘘のように穏やかに揺れていた。夜の帳がすっかり落ちた外とは対照的に、古びた木の香りと湯気を含んだ暖かな空気が部屋を包んでいた。

 

加賀の父は、先ほどの発作も収まり、今は二階の布団で横になって静かに休んでいる。

 

囲炉裏のそばでは、提督と吹雪、それに加賀の母が湯気の立つ湯呑をそれぞれ手にして、静かに話を交わしていた。

 

吹雪が、おずおずと口を開く。

 

「……あの、お父さんが倒れたって……嘘だったんじゃ、ないんですか?」

 

湯飲みを口に運んでいた母が、ふっと目を細めて微笑んだ。けれどその瞳の奥には、どこか影のような色があった。

 

「そうね……嘘、だったんだけど……本当でもあるのよ」

 

「……え?」

 

湯飲みを置いて、母は火のゆらぎを見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「実はね、最近病院で検査を受けたの。あの人……血圧も心臓も、あまりいい数値じゃなかった。お医者様も、しばらくは無理をさせるなって」

 

提督は黙って頷いた。先ほどの様子から、それが決して大げさではないことを身をもって理解していた。

 

「でも……それでもね、あの人は強がるのよ。『まだ畑仕事もできる』って、耳も貸さない。香織がいなくなってから、余計に意地になってしまって……」

 

母の指先が、湯飲みの縁をそっとなぞる。

 

「だから……思ったの。どうしても香織を帰らせる理由が欲しいって。……こんなやり方しか思いつかなかったのよ」

 

母の声には、罪悪感とも後悔ともつかない、複雑な想いが滲んでいた。

 

吹雪は湯気越しにその姿を見て、きゅっと口を結ぶ。

 

「でもまさか……あの子が、男の人を連れて帰ってくるなんてねぇ……」

 

思わず母がぽつりとそう言うと、提督は少し肩をすくめて、苦笑いを浮かべた。

 

「……驚かせてしまって、すみません」

 

「いえいえ、あなたに怒っているわけじゃないのよ。ただ、ね……」

 

母はふと、吹雪の顔を見た。

 

その頬にはわずかに陰が差し、瞳がどこか気まずげに揺れていた。

 

「あっ……ごめんなさいね。あなた達が悪いって言いたいわけじゃないのよ」

 

慌てて母は手を振って、笑ってみせた。

 

「驚いただけ。びっくりしたけど、でも……香織が、こんな風に人を連れてきて、自分の口で話そうとしている。……それだけで、私は嬉しいの」

 

提督も吹雪も、その言葉に胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 

火のはぜる音が再び空気を満たし、誰もが少しだけ穏やかになったようだった。

 

そして母は、小さくため息をつきながら、ふとつぶやいた。

 

「……でも本当に、あの人がこんなに頑固でなければ、もっと早く会えてたのにね」

 

提督は湯飲みを口に運びながら、静かに呟いた。

 

「でも……頑固な人ってのは、それだけ真っ直ぐってことでもありますからね」

 

母は驚いたように、少し目を見開いて提督を見た。

 

「……ふふ、あなた、香織の言う通りだわ。本当に、不思議な人ね」

 

そうしてまた、少し火の粉が舞った。

 

古い家の囲炉裏を囲んだ夜は、少しずつ、少しずつ、氷のようなわだかまりを溶かしていくかのように進んでいった。

 

……ただ、まだ話は終わっていない。

 

加賀は――いや、「香織」は、まだ戻ってきていなかった。

 

囲炉裏の火は小さく、けれど確かに静かに燃えていた。湯呑から上がる湯気とともに、時間もゆっくりと流れているかのようだった。

 

提督は、火の揺らぎをぼんやりと見つめながら、お茶をひとくち啜った。ほろ苦く、どこか懐かしい味だった。

 

吹雪が、おずおずと口を開く。

 

「……あの、加賀さん……探さなくても、いいんですか?」

 

その声音には、心配と気遣いが等分に混ざっていた。提督は視線を湯呑の中に落としたまま、少しだけ首を横に振った。

 

「……今は、そっとしておくのがいい」

 

穏やかだが、どこか寂しげな声音だった。窓の外をちらりと見れば、雪は静かに舞っているだけで、積もるほどの様子はない。

 

「雪も、そんなに降ってないしな。あいつのことだ、簡単にどこかで転けたりするようなタマじゃないさ」

 

「……はい」

 

吹雪もそれ以上何も言わず、提督の隣でまたココアを両手で包むように持ち、湯気に鼻先をあてていた。

 

そのときだった。

 

「――すぱん!」

 

襖が勢いよく開き、木の枠が壁に叩きつけられる音が鳴り響く。

 

「まだ……居たのかッ……!」

 

低く、荒れた声だった。囲炉裏のそばにいた三人が一斉に視線を向けると、そこには父――加賀の父が立っていた。

 

まだ顔色は優れないが、目だけは鋭く光を宿していた。片手で襖の端を握りしめ、肩で呼吸を整えながら睨みつけてくる。

 

「早く……出ていけ」

 

「……!」

 

誰もすぐには言葉を返せなかった。

 

「ワシは……軍人は嫌いなんだ……」

 

呻くような低い声で言うその姿は、まるで過去の影と向き合っているかのようだった。

 

「昔の戦争の時だってそうだ……うちの蔵からは、刀も、甲冑も、全部持っていかれた。じい様の代から守ってきたものを……軍の名の下に、全部……!」

 

それにだ!と続け

 

「わしらが丹精込めて作った野菜も、米も、必要だからととんでもない値段で持っていった時期もあった!国の為、確実に買い上げてやるからと言ってな!」

 

怒りと、悔しさと、どこか悲しさと――それらが一緒くたになったような声音だった。

 

「それに……前の戦争では……うちの娘まで……!」

 

娘を、「国」に、「軍」に」奪われた――父の心の底には、今なお言葉にできない傷が残っていたのだろう。

 

「だから……嫌いなんだ……軍人は……!」

 

荒い息を吐きながら、父は視線を逸らさず、言い切った。

 

「話すことは、ない!」

 

その言葉に、提督の肩がぴくりと揺れた。

 

茶を啜る手を静かに置き、立ち上がると、その瞳には静かな炎が灯っていた。

 

「――いい加減にしろッ!」

 

思わず、囲炉裏の火が一瞬揺らぐほど、声を張り上げた。

 

吹雪は驚きに目を見開き、母は小さく息を呑んだ。

 

けれど提督は、目を逸らさなかった。彼の瞳は、まっすぐ父を捉えていた。怖れや怒りではない。そこには、ただ「覚悟」と「真実」があった。

 

「……!」

 

父も、言葉を失ったようにその場で凍りついた。

 

そして、次の言葉を待つように、囲炉裏の火が再び小さく揺れた。

 

――彼の言葉が、加賀の父の心にどう響くのか。

 

この場にいる誰もが、静かに、そして固唾を呑んで見守っていた。

 

 

 

囲炉裏の炎が、今やわずかに小さくゆらりと揺れていた。沈黙が続く室内の空気は重く、鉛のように落ちていた。誰もが言葉を探していた。だが、ようやく口を開いたのは、提督だった。先ほどの怒声とは異なり、今の彼の声には冷静さと、それ以上の強い「想い」がこもっていた。

 

「……今のお話を聞いて、私は確信しました。あなたは、あの子を思っていた」

 

父が、ピクリと眉を動かす。

 

「たしかに不器用な方かもしれません。けれど、その奥にある想いまでは、偽れない。艦娘としての適性が見つかったあとも、きっとずっと、彼女のことを案じていた。……ただ、不器用を言い訳に、それを口に出して伝えることができなかった。それが……今の衝突に、繋がってしまっているんじゃないでしょうか」

 

提督は静かに敬語へと切り替え、真っ直ぐ父の目を見据えて続ける。

 

「お前……っ!何が……!」

 

父がまたも反射的に怒鳴ろうとするが、その勢いに提督は微塵も怯まず、静かに語り続けた。

 

「――私の家族は、もう20年以上前に亡くなりました」

 

その瞬間、空気が変わった。母も、吹雪も、ハッと息を呑み、父すらも動きを止める。

 

「その日、私は家族と些細なことで喧嘩して……勢いで家を飛び出してしまったんです。あのとき、謝るべきだった、話すべきだったと……でも、そのまま深海棲艦の襲撃を受けて、彼らは……帰らぬ人となりました」

 

火の爆ぜる音すら、今は痛いほどに響いた。

 

「だから、私はもう、伝えたくても伝えられないんです。言葉は、いま目の前にいる相手にしか、届けられません。だからこそ、伝えるべき時に、伝えておくべきだったと……今も、後悔しています」

 

彼の声が震えているわけではなかった。しかし、そこに宿る真実の重みが、すべてを貫いた。

 

「……あなたは、どうですか?」

 

父は、目を見開いたまま動けなかった。

 

「まだ、伝えられるんです。目の前に、会える相手がいる。その気になれば、今すぐにでも――」

 

「……わしは……わしは……」

 

ようやく父の口から絞り出された言葉は、かすれていた。それは、ずっと張っていた意地が、軋みを上げながら崩れ始めている音のようでもあった。

 

「意地を張るなら……その意地も通して、迎えに行ってあげてください」

 

提督はそう言いながら、ゆっくりと頭を下げる。

 

「どうか……今だけは、父親として、娘の心を受け止めてやってください」

 

囲炉裏の火が、ぽっと優しく燃え上がる。その火が、今度こそ、加賀と父との心のすれ違いを溶かしてくれる炎となることを、願いながら。

 

父はしばし目を閉じ、まるで自らの胸の奥底を覗き込むように沈黙する。

 

――あの父が、今、何を思い、何を決めようとしているのか。

 

すべてが静けさに包まれていたが、その沈黙の向こうには、確かな変化の兆しがあった。

 

 

囲炉裏の炎のゆらぎが、まるで人の心の揺れを映すかのように、静かに、優しく、明滅していた。

 

その炎をじっと見つめていた父が、絞り出すように声を漏らした。

 

「……わ、わしは……」

 

それは、まるで錆びついた戸を開くような、長年閉ざしていた心の奥を、少しだけこじ開けるような、ひどく痛ましい声だった。

 

「昔から……口下手での……上手く言えんのじゃ……」

 

言葉のひとつひとつが、父自身の中でも崩れていきそうだった。誰にも見せたことのないその姿は、強面な顔をした男が、ついにその鎧を脱ぎ捨て、真の姿をさらけ出そうとしている瞬間だった。

 

「若いころは……それでも周りに友人や知人もおった……だが、ワシのこの不器用さのせいで……どいつもこいつも、みんな離れていってしもうた」

 

唇がかすかに震え、うつむいた顔には、後悔と寂しさ、そして孤独が、にじみ出ていた。

 

「……それでも……香織と、母さんだけは……」

 

言葉が詰まり、ぐっと喉の奥で押し殺すようにして、息を吸う。

 

「……2人は……ワシを、受け入れてくれたんじゃ」

 

その言葉には、嘘偽りのない、本心だけが宿っていた。

 

「……ワシが頑固で、どうしようもなくて、不器用で、口下手でで……それでも、あの子は……わしを、許してくれるじゃろうか……」

 

まるで誰かに懺悔するかのように、問いかけるように、父は囲炉裏の向こうへ目をやった。だがそこに娘の姿はない。あるのは、年老いた男の胸の奥に積もり積もった、数十年の後悔だけだった。

 

提督はその様子を見つめながら、静かに息を吸い、そっと声をかけた。

 

「きっと、許してくれます」

 

「……」

 

「あなたは言葉にするのが下手かもしれない。怒りにすり替えてしまうこともあったでしょう。けれど……その奥にある“愛情”は、きっと彼女に伝わっていると思います」

 

父はゆっくりと提督に視線を向けた。その瞳の奥には、かすかな、だが確かな揺れがあった。

 

「香織さんも……あなたと同じです。不器用だけれど、まっすぐで、そして――誰よりも家族を想っている」

 

その言葉に、父の目が潤む。

 

「娘さんは、ずっとあなたを見ていた。あなたの背を、あなたの生き様を、ずっと。だから……許してくれるか、なんて……そんなことを心配するよりも」

 

提督はそっと笑って続けた。

 

「“ごめん”と、“ありがとう”を言ってあげてください」

 

「……“ごめん”と、“ありがとう”……」

 

その言葉を、まるで初めて口にするように、父は繰り返した。重い沈黙があたりを包み、囲炉裏の火だけが、再び静かに揺れていた。

 

ふと、襖の向こうで雪を踏む音が聞こえた。

 

誰かが帰ってきた――。そう、香織が。

 

父はまだ言葉を紡げないまま、その音の方へ目を向け、唇を噛んだ。

 

だが、それでもいい。すぐに言えなくても、今、ようやく――心を開こうとしている。

 

娘と父、すれ違い続けた二人の時間が、ようやく動き出そうとしていた。

 

囲炉裏の火がパチパチと音を立て、静まり返った部屋の中に、僅かながらの温もりと時間の流れを知らせていた。

 

提督はゆっくりと立ち上がると、2人の間へ一歩踏み出す。その手には少し大きめの段ボール箱――先ほど玄関から持ち込んだ荷物の一つだった。何も語らず、ただ無言のままその箱を「ドン」と畳の上へ置くと、座り込んでいた香織――加賀と、彼女の父親の間にその箱が静かに鎮座した。

 

その音に、2人はようやく顔を上げる。

 

「加賀。……お前に話をしたいそうだ」

 

提督の声は、静かで、しかし芯があった。

 

「……親父さんからな」

 

だが、娘と父は、向かい合ったまま30分近くも、まるで時が止まったように、微動だにしない。

 

互いに何かを言いたそうでいて、しかし言葉にならない――否、言葉にできない――その空気が、部屋の温度を妙に低くしていた。囲炉裏の火がなければ、この場は完全に凍りついていたかもしれない。

 

「……鏡か、お前たちは」

 

ぽつりと提督が呟く。頑固で、真っ直ぐで、不器用で、愛情深い――そんな似た者同士だからこそ、真正面から衝突し、そして言葉に詰まる。言葉よりも沈黙が多くなってしまう。

 

そんな空気に、提督はしびれを切らしたかのように、ダンボール箱の中に手を伸ばす。

 

「……仕方ねぇな、こっちから燃料投下してやるよ」

 

ガサリ、と音を立てて箱から引っ張り出したのは――色褪せた封筒の束。

 

便箋に包まれたそれは、見覚えのある手触り、見覚えのある文字。見た瞬間に、加賀は目を見開いた。

 

「あ……っ」

 

何かに気づいたように息を呑む彼女。しかし提督は構わず、封筒の束を取り出して、無造作に畳の上に置いた。

 

「これ、彼女が送ろうとしていた手紙です」

 

そう言って、1通の封筒を開き、中の便箋を抜き出す。

 

「……宛先は、あなたですよ」

 

父親は目を細め、封筒の山をゆっくりと見下ろす。手が、無意識のうちに震えた。

 

「引っ越しの時、処分しようとしてたんだ。だけど、……勿体なかったからな。俺が取っておいた」

 

提督の口調は、淡々としていた。

 

加賀は黙っている。ただ、その手は膝の上でぎゅっと握り締められている。目元は揺れ、唇は噛みしめられ、その視線は封筒の束から逸らせずにいた。

 

封を開けた便箋には、丁寧な文字で綴られた言葉があった。

 

 お父さんへ。

 

 元気にしていますか? 私は今、艦隊に所属し――

 

父親は、ゆっくりとそれを受け取り、読み始めた。声は出さない。ただ、目が文字を追い、頬がかすかに震えている。

 

何通も、何通もあった。

 

どれも封がされており、宛名はすべて、彼の名前だった。

 

季節ごとの報告、訓練の辛さ、艦娘としての悩み、任務の誇り、そして――

 

 あなたに認めてほしいという気持ち。

 

 あなたに、ただ、一言、よくやったと言ってもらいたい。

 

 たったそれだけのために、私は、私は――

 

父は唇を固く結んだまま、それでも、手紙の束から目を離せなかった。

 

提督は言葉を足さなかった。今、言葉は必要なかった。手紙が、彼女の心のすべてを語っていたからだ。

 

母親が部屋の隅から静かに寄ってきて、そっと膝をついた。

 

「……本当に、似た者親子ね」

 

そのひと言に、加賀が驚いたように顔を上げる。

 

母はそっと、もうひとつの箱を持ってきて、提督の隣に置いた。

 

「あなたに、見せるべきだと思ってた」

 

その中にも、やはり封筒の束があった。

 

だが、そちらには――父から娘へ宛てた手紙が、同じように幾十も重ねられていた。

 

「……投函できなかったのよ。喧嘩した手前、出せなかった。……でも、毎年毎年、あの人も書いていたの。あなたへの手紙を」

 

加賀は一歩、父へと滲み寄った。父も、娘も、もはや言葉にならない。

 

互いに言えなかった言葉が、便箋に記されて、今ようやく交差したのだ。

 

それは、長い年月の中で止まっていた時間が、ようやく静かに、動き出した瞬間だった。

 

時を超えて交わされた、2人の無言の「ごめん」と「ありがとう」が、囲炉裏の火に照らされて、ひそやかに、優しく、包まれていた。

 

囲炉裏の赤い火が、まるで時間そのものを温めるかのように、静かに揺らいでいた。

 

長い間、互いにぶつかることしかできなかった父と娘。だが、いまその間に横たわっていた深く冷たい溝が、言葉ではなく、手紙の束――すなわち、積み重ねてきた年月の想いによって、そっと埋められていった。

 

加賀――いや、香織は、父の震える手元を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「……読んでくれて、ありがとう」

 

その声はわずかにかすれていたが、確かに届いていた。

 

父は一瞬、目を伏せ、それからぼそりと、まるで独り言のように呟く。

 

「……その、元気に……してたか」

 

ぽつりと落とされたその言葉に、加賀は目を丸くした。

 

「え?」

 

「飯とか……ちゃんと、食っとるか?」

 

「あのねぇ……こんな時に言うこと、それ?」

 

加賀は肩をすくめながらも、わずかに笑っていた。

 

「……い、いや、ワシは……なにを言えばええかわからんのじゃ」

 

「……でも、お父さんが話してくれて、うれしい」

 

その言葉に、父は小さくうなずくと、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、これまでの頑固さとは違う、どこか弱さと照れが混ざったような、年老いた男の素直な姿があった。

 

「……本当は、行かせたくなかった。お前が艦娘なんぞになると聞いたときは……反対したかった。……そんな危ない戦地に行くな。ずっと、ワシの元におれと……」

 

父の言葉が震える。加賀は言葉を差し挟まず、黙って耳を傾けていた。

 

「けれどな……あのとき、ワシの目を見て言ったじゃろ。お前が『この道を選びたい』って。あのときの目は、……誇らしかった。……国のために、誰かのために立ち上がった、戦士の目じゃった」

 

それを聞いて、加賀の目にも熱いものが浮かんだ。

 

「……でもな……それでも……あのとき、ワシは思ってしもうたんじゃ」

 

父は唇を強く噛みしめながら、苦しそうに、絞り出すように言った。

 

「……なんで……なんで、よりによって、うちの娘なんじゃって……。なんで香織なんじゃって……」

 

彼の肩が震えていた。怒りではない。悲しみと悔しさ、そして愛情――それが長年積もって、言葉にならなかった想いが、ようやく溢れた瞬間だった。

 

「……母さんと、香織だけじゃった。ワシを……受け入れてくれたのは……」

 

「……だから、怖かった。香織まで、戦争に奪われるんじゃないかって、怖かった……。あの子が帰ってこなかったら、ワシは……もう……」

 

父の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。

 

「……ごめんな……香織……」

 

娘の名前を、初めて、素直に、まっすぐに呼んだ。

 

加賀はもう、返す言葉を探す必要すらなかった。ただ、静かに父の手に手を重ねた。その手は、かつて田畑を耕し、家族を守り、そして娘の背中を押して送り出した――大きくて、ざらついた、けれど温かい手だった。

 

「私も、ごめんなさい……お父さん」

 

その言葉で、もう何もかもが許されるわけではない。

 

だが、歩み寄るきっかけには、なった。

 

提督はその様子をそっと見守っていた。囲炉裏の炎が、ゆらりと揺れて、その姿を淡く照らす。

 

「よかったな……」

 

ぽつりと呟いた彼の目元も、心なしか潤んでいた。

 

吹雪はその傍で、そっと手を握っていた。

 

あの日、出せなかった手紙たちが、言えなかった言葉を届けてくれた。

 

時間が巻き戻ることはない。それでも、こうして今、向き合えたことが奇跡だった。

 

父と娘の間にあった深い溝は、静かに、しかし確かに――埋まっていった。

 

 

雪が静かに止み、薄曇りの空の向こうから差し込む柔らかな昼の光が、白く染まった田舎の家々を淡く照らしていた。

 

土間に入り、囲炉裏のある居間へ戻ると、そこには先ほどとはまるで違う空気が流れていた。あのギスギスとした緊張感も、涙と怒鳴り声も、もうどこにもない。ただ、静かで穏やかな、温もりがそこにはあった。

 

囲炉裏の前では、加賀――いや、香織とその父が、照れくさそうにしながらも笑い合っていた。

 

提督と吹雪が戻ってきた頃には、彼らの会話は既に手紙の読み合いに差しかかっていた。

 

香織は、父に渡すはずだったが渡せなかった手紙を一通一通読み上げていた。

 

「……おとうさんへ。今日は提督が、また私のことを叱ってくれました……でもその叱り方は、あの人なりに私を心配してくれているのだと、わかります……」

 

読み上げる香織の声が少し震え、そして恥ずかしそうに口を押さえる。

 

「だっ……だめ、これは読まないでよかった……」

 

「んふふっ、照れてる香織なんて久々に見たわ」と、母が隣で微笑んだ。

 

「うっ……これは私の黒歴史になるわね……」

 

「いやぁ、仲が良くていいなぁ……」と、提督が冗談交じりに言えば、香織は「黙ってて」とそっぽを向いたが、顔は真っ赤だった。

 

そして、父の手に渡された次の手紙。

 

しわくちゃの大きな手が、時間をかけてその封を丁寧に破って開き、中の便箋を広げた。

 

読み進めるうちに、父の顔がややほころび――そして、どこか遠い目になっていく。

 

「……ああ、本当に、本当にお前が好きな人なんだな……」

 

そう呟いたその声には、嫉妬も、納得も、そして父としての複雑な感情が滲んでいた。

 

「途中から……手紙の内容が全部その人の話ばかりでな」

 

少しだけ、苦笑いを浮かべる。

 

「娘の手紙に、他の男のことばかり……まぁ、ちょっとだけ妬けるのう」

 

「お、お父さん……」

 

香織が戸惑いながらも、どこか嬉しそうに視線を落とす。

 

父は、しばらく黙ったあと、深く息をつき――静かに、しかし確かに立ち上がり、提督の方へと身体を向けた。

 

「……娘を、お願いします」

 

そう言って、年季の入ったその腰を、深く、深く折った。

 

「お父さん……!」

 

「おぅ、口下手で意地っ張りなワシが、これ以上どうやって祝福すればええんじゃ……」

 

「ありがとうございます」

 

提督

もまた、真っ直ぐに背筋を伸ばして、一礼を返す。

 

その光景を見ていた香織の目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていた。けれど、それはもう悲しみのものではなく、あたたかな安堵と、心からの嬉しさに満ちたものだった。

 

囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、家の外では鳥の鳴き声が遠く聞こえる。

 

あの時、交わらなかった言葉たちは、書かれたまま置かれた手紙に宿り、それが橋となって、父と娘の長い時間を埋めていった。

 

それはまるで、ずっと止まっていた時間がようやく動き出したような、静かで感動的なひとときだった。

 

 

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