艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十八話 雪解けは冷たくあたたかく

 

夜が更けていくにつれて、囲炉裏を囲む食卓は賑やかさを増していった。

 

土鍋の中では、グツグツと煮立つ出汁に野菜や肉が次々と投入され、湯気が天井へと立ちのぼってゆく。吹雪の頬は火照り、提督も珍しく何杯目かの日本酒をぐいと煽っていた。

 

「うちの父さん、畑の害獣駆除がてらに肉も取ってくるのよ」

 

香織の母がそう言って笑うと、香織――加賀はほんのりと微笑み、父は黙って猪の肉を鍋に落とした。

 

「害獣……鹿も、ですか?」

 

吹雪が、口に運ぼうとした鹿肉をじっと見つめながら問う。

 

「ああ、奈良の鹿みたいに人間に慣れてれば別だけどな。こっちのは野生のままだから、畑の作物を平気で荒らすんだとよ。同期が昔言ってたぞ」

 

提督が肉を箸でつまみながら言うと、母が少し苦笑して続けた。

 

「白菜も大根もサツマイモも、こっちが手間暇かけて育てたのを、朝起きたら食い荒らしててね。そりゃもう、がっくりよ」

 

吹雪はふと、遠い記憶を思い出していた。

 

――深海棲艦。

 

あの存在を思うとき、吹雪の胸は決まって締め付けられる。

 

人と心を通わせられた個体もいた。少なくともあの島にいた深海棲艦達は少なくともそうだったのだ。共に海を眺めたこともあった。ほんのわずかでも、確かにそういう瞬間はあったのだ。

 

だけど。

 

それでも多くは、人の言葉も届かず、ただ破壊と殺戮に突き進んだ。

 

「……結局、処分するしかないんですよね」

 

吹雪の声は誰にも届かなかったが、彼女の手は、いつの間にか箸を止めていた。

 

その様子を見た提督が、そっと吹雪の頭を撫でる。

 

その手はあたたかく、重く、そして迷いのない手だった。

 

「……数万年、いや、億の年単位の命の流れだ。俺たちが全て理解しようとしても、無理ってもんさ」

 

そう言って、彼は鍋の汁を啜る。

 

味噌と山菜、獣の脂の風味が鼻を抜けるような香ばしい音が、部屋に小さく響いた。

 

「吹雪」

 

「……はい?」

 

「悲しむことは、悪いことじゃない。だけどな、自分を責める必要はない。お前はちゃんと考えてる。それだけで十分だ」

 

そう言われた吹雪は、少しだけ目を潤ませながら小さく頷いた。

 

「司令が、もしもお父さんなら……」

 

「ん?」

 

「なんでもないです」

 

口元を押さえて、吹雪は笑った。

 

その様子を見て、加賀――香織もまた、母の横で静かに笑っていた。

 

父は特に言葉を発することもなく、鍋の中身を確認しながら箸を止めずに食べていたが、その表情は、どこか以前より柔らかくなっていた。

 

夜の静寂の中、囲炉裏の火は静かにゆらめきながら、まるで遠い昔からこの家族を見守っていたかのように――優しく彼らを包み込んでいた。

 

 

真夜中。

 

雪国の静寂がしんしんと家の外に降り積もるなか、囲炉裏の火だけがかすかに明るさとぬくもりを与えていた。客間の布団では吹雪が丸くなって眠っており、その隣で眠っていた提督は、そっと身を起こす。気配を悟らせないように細心の注意を払いながら、彼はそっと障子を開けて部屋を出る。

 

廊下を渡ると、ほのかに冷え切った空気が肌に突き刺さった。

 

「日本海側の寒さは……こたえるなぁ。ったく、舞鶴の所へ演習しに行ったのを思い出すな」

 

思わずつぶやきながら、体を縮めて廊下を歩く。その先、囲炉裏の間からかすかに火の気が漏れているのが見えた。廊下を抜けて襖を開けると、そこには夜中にもかかわらず囲炉裏の火を見守るようにして、加賀の父が一人座っていた。

 

「……起こしちまいましたか」

 

そう言いかけた提督に、父はチラリと視線を寄こした。

 

「夜は囲炉裏の火を絶やすな、ってのがこの家の昔からの習わしでな」

 

そう呟くと、少し湯呑を持ち上げて彼の方に目を向けた。

 

「……どうだ、ひとつ付き合うか。寒い夜には、酒がいちばんあったまる」

 

「いいんですか?」

 

「あぁ、昔はよく母さんとも、こうして火を囲んだもんだ」

 

手慣れた動きで、土間の奥から徳利を取り出す父。中身を火のそばで少し温めると、小さな盃を二つ並べる。湯気とともに、米と水の芳醇な香りが漂ってきた。

 

「いける口か?」

 

「いただきます」

 

盃を受け取り、提督は軽く礼をして酒を口に含む。まろやかな甘みと、わずかな苦味が舌の上に広がってゆく。

 

「……こりゃあ、うまい」

 

「石川の米と水で作った地の酒だ。地味だが、なかなかに奥深い」

 

くい、と提督が盃を傾けたとき、不意に父の視線が彼の左袖に落ちる。風呂上がりに羽織った寝間着の袖は空っぽで、左腕が無いことが目に映った。

 

「……戦地で、か?」

 

その声音は、鋭さよりも静かな問いだった。

 

提督は一拍おいて、頷く。

 

「はい。……娘さんを庇った時に、失いました」

 

その言葉に、父の目が大きく見開かれた。

 

しばらく口を開けたまま固まっていたが、すぐに気まずそうに目を伏せ、重たい沈黙の中、ぽつりと絞り出すように言葉を吐いた。

 

「……すまん」

 

「……いえ」

 

「だが、うちの娘のせいで」

 

「結果的にそうなりますが、自分は少なくともそのせいで恨んだことはありません。むしろ1人の女の子の未来を守れたと考えれば安い投資ですし、うちの基地では殉職者を出したことがないのが売りなもんで」

 

と笑いながら提督は言った。

 

「それから……ありがとうな。あいつは……香織は、昔から意地っ張りで、危なっかしいとこがあった。お前さんが、あいつを守ってくれたこと……本当に感謝してる」

 

提督は、盃を静かに畳に置いた。

 

「礼には及びません。むしろ、彼女が守る価値のある人間だったから、私は迷わず動けた。それだけのことです」

 

囲炉裏の火がぱちりと音を立てる。

 

父はうつむき、盃を手にしたまましばし黙っていた。

 

「……あいつが、どうしてお前と一緒にいるのか、今なら少しわかる気がするよ」

 

「そうですか」

 

「……ああ」

 

二人の間にある沈黙は、気まずさや緊張ではなく、静かで穏やかな、そしてどこか心をゆるませるような温度を帯びていた。

 

囲炉裏の火の揺らぎだけが、夜の静けさに寄り添っていた。

 

囲炉裏の火がぱちりと音を立て、酒の香りと微かな木の匂いが混ざる中。深夜の空気に馴染むようにして、二人の男の会話は続いていた。

 

提督が盃を置き、しばし黙してから父に向き直る。

 

「……君はどうして、あの子を?」

 

加賀の父がそう問いかけたのは、静けさに紛れたような穏やかな声だったが、その奥底には娘を想う父親としての確かな熱がこもっていた。

 

提督は少し間を置いて、正直に言葉を探す。

 

「元を辿れば……彼女から告白されました。好きではなかったと言うのは、もちろん嘘になりますが……最初から、恋仲になろうとしたわけではありませんでした」

 

父は、興味深げに唸るように「ほぅ?」とだけ返す。

 

提督はゆっくりと続けた。

 

「私自身……かつて故郷を戦火に焼かれ、青春も、人生も、その大半を復讐のために費やしてきました。誰かを愛し、誰かに愛されるという実感も、縁もありませんでした」

 

「……」

 

「だから、彼女の真っ直ぐな想いを受け止めるだけの余白が、自分にはないと――そう思い込んでいました。答えを出せず、気持ちに応えることもできず……」

 

盃の酒を少しだけ口に含む。父もまた、黙して耳を傾けていた。

 

「けれど、彼女はそんな私を責めなかった。理解しようとしてくれたんです。『少しずつでいい』と、そう言って……」

 

そう言いながら、少しだけ照れたように、しかし誇らしげに笑う。

 

「今では……その、手を繋ごうかと、どう誘えばいいか……そればかり考えるようになりました」

 

盃の酒が減る音の中、しばし沈黙――。

 

その沈黙を破ったのは、父の驚愕の声だった。

 

「……同棲しておるのに、手も繋いだことがないのか!?」

 

それまでの静かな空気を吹き飛ばすような驚きの声だった。

 

提督は面食らいながらも、うろたえたように苦笑いを浮かべる。

 

「い、いや……その、こういうのは……全くないという訳では無いのですが、誘い方もよく分からないですし、タイミングというか、心の準備というか……あの、彼女も艦娘ですし、その……」

 

「こら!」

 

ぱし、と父の盃の底が畳を打った。

 

「……若いもんは、もっと……こう、勢いというもんがだな……!」

 

少し頬を赤らめながら呆れるように怒る姿は、まるで“頑固な親父”そのものだった。

 

提督は思わず噴き出す。

 

「……いや、怒られてるのか、励まされてるのか……わかりませんが」

 

「どっちもじゃ」

 

酒をまた注ぎ足し、父はふぅと溜め息をついた。

 

「だがまぁ……お前の言葉には嘘がないな。少しずつでも、ちゃんと向き合ってる」

 

「ええ。できるならば、この命尽きるまで、彼女の手を取り続けていたいと思っています」

 

「……ならば、あとは本人にちゃんと伝えてやれ」

 

「はい」

 

それは、祝福と叱咤と、そして不器用な信頼を込めた父親からの言葉だった。

 

提督は改めて深く一礼し、また盃を口に運んだ。

 

遠く、雪の屋根に静かに風の音が触れる――そんな夜の深さに包まれながら、囲炉裏の火は優しく二人を照らしていた。

 

囲炉裏の火は深夜の静けさに包まれながら、ゆっくりとゆらめいていた。灰を弄る棒の先がかすかに鳴り、提督と加賀の父の間に、また一杯の酒が注がれる。

 

ふと、父が盃を置き、口を開いた。

 

「……それから、あの……吹雪ちゃん、だったか。あの子は……連れ子、ではないよな?」

 

問いは遠回しながらも、娘を想う父親の目だった。提督はゆっくりと首を横に振る。

 

「いいえ。血縁関係はありません。あの子は……幼い頃から軍の施設で育った艦娘です。特に適性が高くて……ですが、養護施設出身とされてはいるものの、正直、出処が非常に不明瞭でして」

 

「……ほう」父は眉をひそめた。「軍人のくせにけしからんな。子供一人の素性すら満足に掴めんとは」

 

その言葉に、提督は苦笑しながら頷いた。

 

「まったくです。私が司令官として任官してから、彼女の記録を遡ってみたこともありますが、途中から情報の繋がりがぷつりと切れていまして。どこをどう辿っても、それ以上が辿れなかったんです」

 

盃の酒をひと口含み、提督は火を見つめながら続ける。

 

「戦争が終わった後も、彼女には引き取り手も、就職先もありませんでした。軍に残る道すら、ほとんどの艦娘には閉ざされていたんです」

 

「なぜじゃ。国を救った英雄だろうに」

 

「表向きには“平和になったから”という理由で軍縮の波が押し寄せました。しかし、敵は人間じゃなかった――そのため、戦勝国としての賠償もなければ、戦争の見返りもない。疲弊した国内外の経済の中で、国民の声は“戦争をした者”への批判へと変わっていきました。艦娘たちは“無用の長物”と呼ばれ……維持すらできなくなった。そうして、多くが居場所を失ったんです」

 

言葉の一つ一つは冷静ながらも、その裏にある痛みは明確だった。

 

「でも――それでも、あの子を見捨てることはできませんでした。どこか……私に似ていたんです。戦争しか知らず、生き残ってしまったという意味でも、誰にも必要とされないと感じていたところも。……だから、引き取ることを決めました」

 

提督は少し恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐに父を見つめた。

 

「父として接しているつもりではありますが……なにぶん、初心者なものでして」

 

酒を含んでいた父は、一瞬むせそうになりながらも、静かに笑った。

 

「……わしもな、よくできた父ではなかった。娘にも、女房にも苦労をかけた。不器用で、口下手で……威圧ばかりしてきた。だがな」

 

囲炉裏の火がぱち、と音を立てる中で、父は酒器を置いた。

 

「父親としての先人として、一つ言わせてもらおうか」

 

その言葉に、思わず提督は背筋を正し、息を呑む。

 

「……良い親子だと思うぞ、きみたちは」

 

その言葉は、胸に深く沈み込んだ。

 

それは叱咤でも諫言でもない。男として、父親として、ひとりの人生を歩んできた者から、若い父への確かな承認と、温かな評価だった。

 

「……ありがとうございます」

 

提督は一礼し、そして盃を干した。

 

遠くから、吹雪の小さな寝息が聞こえるような気がした。

 

囲炉裏の火は、ふたりの間に灯りを落としながら、なおも静かに燃えていた。

 

囲炉裏の火は、まだ静かに燃えていた。二人分の盃に、月明かりがちらちらと反射して、酒の表面がかすかに揺れている。外の静寂と、室内の温もりが絶妙な対比を成し、夜の深さが余計に際立っていた。

 

提督がふと、目を伏せるように視線を落としたとき――

 

「ただひとつ、気になったことがある」と、父が言った。

 

「……君も、あの子も、気を遣いすぎだ」

 

その言葉に提督はわずかに目を細めた。

 

「……気を遣いすぎ、ですか?」

 

「ああ。真面目すぎる。礼儀正しく、言葉も丁寧だ。それ自体は悪くない……がな」

 

父はゆっくりと盃を揺らし、琥珀色の液体が盃の内側で小さく渦を巻いた。

 

「堅物すぎるんじゃ。……香織も昔からそうだった。小学校の頃、たった一度の遅刻でも泣きそうになって帰ってきたもんだ。俺の顔を見るのが怖かったらしい」

 

その顔には苦笑が浮かんでいた。懐かしさと、申し訳なさと、微かな愛しさが混ざった、なんとも言えない表情だった。

 

「……経験者は語りますな」

 

提督が盃を持ち上げながら、にやりと笑ってそう言うと――

 

「こいつめ」と、父はくすりと笑いながら、軽く肘でつついてきた。

 

その動作に、提督は驚く。あれほど頑固で、あれほど拒絶していた男が……今はこうして、夜更けに酒を酌み交わし、冗談を交わせる仲になっている。その事実に、少しの感慨と、大きな安心があった。

 

そして、二人の盃が「カチン」と小さな音を立てて触れ合った。

 

それはまるで、氷が解けるような瞬間だった。わだかまりも、すれ違いも、すべてをひととき置き去りにしてくれるような音。

 

月明かりが、囲炉裏の上に差し込み、二人の背を照らす。

 

火のゆらぎに合わせて揺れるその光が、まるで新たな絆を祝福するようにも見えた。

 

遠くで寝息を立てる吹雪の寝室の襖の向こうでは、誰もその光景を知らない。

 

だが、そこには確かに「家族になろうとする男」と「娘を持つ父」が存在し――

 

静かに、けれども確実に、互いを認め合い始めていた。

 

 

 

囲炉裏の温もりと酒の香りを背に、提督はそっと襖を開けて客間へと戻った。照明はすでに落とされていて、障子越しに差し込む月明かりだけが、薄ぼんやりと部屋の輪郭を照らしている。静寂が満ちていた。耳を澄ませば、木造の古い家屋ならではの軋む音が、ときおり風と共に聞こえてくる。

 

布団に戻ろうとすると、そこにいるはずの吹雪の姿が、自分の敷いた場所ではなく、ややずれた位置にあるのに気がついた。彼女は寝返りを繰り返した末に、いつの間にか提督の布団に半分入っていたのだった。

 

「……おいおい……」

 

苦笑しながらそっと膝をつく。吹雪はぐっすりと眠っている。両手を前に投げ出し、まるで子供のように無防備な寝相だ。額にはうっすらと汗、少し開いた口からは静かな寝息。寒さのせいか、頬がほんのり赤く染まっている。

 

「寝相、すさまじいな……若いからか?」

 

小さくそう呟きながら、吹雪のずり落ちていた布団を持ち上げて、肩のあたりまで丁寧にかけ直してやる。彼女は小さく身じろぎをしながら、ふにゃ、とした表情で眠り続けた。

 

しかし、布団だけではなかった。寝巻き――おそらく母親が貸してくれたであろう和柄の寝巻きの胸元が緩んで、片方の肩が覗いていた。

 

「……風邪引くぞ、全く……」

 

軽くため息をつきながら、彼女の肩を覆うようにしてそっと寝巻きを整える。指先は彼女の体温を感じ取りながらも慎重に動いた。あくまで冷静に、慎重に、決して不埒な気持ちを抱かぬようにと。

 

(……まったく、軍の施設育ちのくせに警戒心がないんだからな)

 

そう思いながらも、どこかでほんの少し安堵している自分がいた。こうして一緒に夜を越す日常があるということに。自分の隣で無防備に眠る存在がいるということに。

 

布団をかけ終え、寝巻きの襟元を直し終えた提督は、もう一度彼女の寝顔を確認した。吹雪はまるで子犬のような寝相で、軽く寝言を呟きながら、小さく笑っていた。

 

「……お父さん」

 

ぽつりと、小さな声で。

 

その一言に、提督は動きを止める。どうやら夢の中で誰かと会話しているらしい。

 

「……っ!」

 

提督は幼い頃の自分を思い出していた。

 

夜は寂しくて誰かと寝ていた事。いつもは父と母に挟まれて眠りたかったこと。寝る時に母の温もりと、父の大きさが自分を包んでくれていたことが、幼いながらにも安堵していたこと。それを見て笑う姉がいた事を。

 

吹雪の隣に寝転がり、そっと顔を撫でた。もそっと動いたが目が覚めることはないらしい。

 

「お父さん……か……」

 

ため息のような、困惑のような、安堵のような。複雑な気持ちを抱えながらも、吹雪の寝顔を見ていた。

 

「俺はお前のお父さんでいいのかな」

 

独り言と言うには少し大きくて、誰かに問い掛けるには小さな一言だった。いくら考えても答えが出ないと判断したのか。

 

「ま考えてもしょーがねーや、寝よ寝よ」

 

と開きおって寝る事にした提督。

 

月は高く、夜は静かだった。風の音も止み、ただ畳の上に寝そべる二つの影が、寄り添うように穏やかに眠っていた。

 

囲炉裏の残り火がかすかに灯り、静けさに包まれた古い日本家屋の客間。畳の軋む音さえも今は止み、世界はまるで一枚の絵のように凍りついた静寂に支配されていた。

 

隣の布団では、提督がゆっくりと深い眠りに落ちていた。その顔は、昼間の緊張や、夜に交わした酒の余韻を静かに沈殿させていた。吹雪は、彼のすぐ隣で布団にくるまり、身を丸めて眠っている……ふりをしていた。

 

本当は、ほんの少し前に目を覚ましていたのだった。

 

直接的なきっかけは、乱れた寝巻きを直され、布団をかけ直された時。体にかかるやさしい手の温もりで、眠りの深層から引き戻された。しかし、吹雪は目を開けることも、声をかけることもできなかった。

 

なぜなら――その直後、提督が囁いた独白が、あまりにも重く、深く、そして静かに胸に迫ってきたから。

 

彼の言葉の一つひとつは、表面では平静を装っていても、その奥底にどれほどの痛みと哀しみがあるかが透けて見えた。故郷を戦火に焼かれ、家族を失い、感情を封じて軍務に身を投じ、そしていつの間にか人を愛することを忘れた男。

 

彼の背中に宿る過去が、あまりにも重かった。

 

吹雪は、司令としての彼を尊敬していた。いや、それだけではない。その人柄、厳しくも優しく、決して声高に語らないが確かな思いやりをもって接してくれるその姿に、いつしか心の底から信頼し、深く慕うようになっていた。

 

でも、今夜――はじめて、彼の「過去」の一端を垣間見た。

 

(……司令も、ずっと……独りだったんだ)

 

息を殺しながら、吹雪はしばらくじっと横たわっていた。心が何かに震えるような、そんな感覚に包まれていた。やがて、提督の寝息が穏やかになり、完全に眠ったとわかった頃、吹雪はそっと布団から半身を起こした。

 

ゆっくりと彼のほうに体を向け、眠っている提督の胸元に顔をうずめた。彼の匂いと、体温がすぐそこにあった。冬の夜の寒さが嘘のように、温かかった。

 

そのぬくもりの中で、小さく、恥ずかしそうに、でも確かに声に出した。

 

「……お父さん……」

 

それは、誰にも聞こえない小さな声だった。

 

自分だけにしか届かない、心からの、つぶやきだった。

 

思えば、自分には父と呼べる存在はいなかった。軍の施設で育ち、規律と任務と戦いだけを教えられてきた。愛情というものに飢えていたわけではないが、知らなかった。それがどれほど温かく、どれほど切実で、どれほど尊いものかを。

 

司令は、違った。

 

叱ることもある。厳しいこともある。でも、どんな時でも吹雪のことを考えてくれていた。名前を呼ぶその声はやわらかく、隣にいてくれるその背中は大きかった。

 

それはきっと「父親」という存在の温もりなのだと、吹雪は感じていた。

 

(……司令、ありがとう)

 

眠る彼の胸に顔を埋めたまま、そっと目を閉じる。

 

冬の夜はまだ続く。でも、吹雪の心の中にはもう、寒さはなかった。

 

月が障子の向こうから差し込み、二人の眠る部屋を静かに照らしていた。空気は凛として澄み渡り、どこか遠くで、雪がさらりと舞う音が聞こえた気がした。

 

 

囲炉裏の上で小さく火が揺れていた。灰のなかに沈んだ炭が静かに赤く光を灯し、その周囲に広がるわずかな熱は、まだ寒さが残る山の朝をそっと押し返していた。

 

提督は音を立てぬように布団から抜け出すと、そっと襖を開けて廊下へ出た。隣では吹雪が丸まったまま、まだ眠っている。昨夜、布団に潜り込んできていた彼女を見てギョッとしたのは本当だったが、布団の中で小さく呼吸を繰り返すその姿は、どこにでもいる「年頃の娘」のようにも思えて、つい微笑みそうになっていた。

 

(まあ……甘えたい年頃なんだろうな)

 

提督はそう小さく呟きながら、足音を忍ばせて台所の方へと向かった。

 

囲炉裏の前では加賀が静かに火の世話をしていた。火箸で炭をつつき、灰の中に埋もれた熱源を掘り起こして空気を送り込む。その手つきは丁寧で、そして、どこか懐かしさの漂う仕草だった。

 

その奥、台所では母親――加賀の母が、朝食の支度に追われていた。鉄鍋の中からは味噌汁の湯気が立ちのぼり、煮干しの出汁の香りが家中に広がっている。釜戸の火がパチパチと音を立て、味噌の香りが鼻腔をくすぐる。

 

「親父さんとは……どうだ?」

 

囲炉裏の前に腰を下ろしながら、提督が加賀に問いかける。

 

加賀は少しの間、火箸の先を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「……あの後、夜中に目を覚ましてしまって……父と、月見酒でした」

 

「そうか」

 

提督はそれ以上は言わなかった。ただ、短く返し、そのまま囲炉裏の火を見つめる。赤く揺れる炭火の光が、加賀の横顔をほんのりと照らしていた。

 

言葉は多くないが、すべてを語る必要もなかった。夜、父と月を眺めながら酒を交わした――その一言の中に、互いのわだかまりが少しずつ溶けていく時間があったのだと、提督は感じていた。

 

やがて母が、湯気をたっぷり纏った味噌汁の椀を運んできて「朝ご飯できたわよ」と微笑む。田舎の朝の静けさと、家族の息づかいが重なるような、そんな穏やかな時間が流れていた。

 

 

朝の柔らかな光が障子の向こうから差し込み、田舎の家の台所はじんわりと温かい空気に包まれていた。囲炉裏の火は朝食の準備に合わせるようにちろちろと燃え、香ばしい味噌と焼き魚の匂いが広がっていた。

 

囲炉裏の前で火の番をしていた提督と加賀の二人に、ふわりと布団の匂いを纏ったまま吹雪が現れる。

 

「おはようございます……」

 

眠そうな声で、だがどこか照れくさそうに頭を下げる。

 

「おう、おはよう」と提督が笑いながら答え、「まだ寝てていいぞ」と言いかけるが、吹雪は首を横に振る。

 

「もう、目が覚めちゃいましたから……」

 

昨夜、提督の布団に潜り込んでいたことが少し気まずかったのか、吹雪はもじもじしながら囲炉裏の端に座り、そっと火に手をかざす。冷えた指先がゆっくりと温められていく。

 

その頃、玄関の戸が開き、加賀の父が防寒着姿で戻ってきた。まだ仕事に出かけるには早いが、朝の冷たい空気を切り裂いて、裏山の見回りにでも行っていたのだろう。

 

「……戻ったぞ」

 

「お父さん、おかえりなさい」と加賀が立ち上がって声をかける。

 

提督も軽く会釈をし、吹雪も「おはようございます」と挨拶した。

 

「ああ、おはようさん」

 

父は一言だけ返して囲炉裏の隅に腰を下ろすと、ストーブではなくこの囲炉裏の火が落ち着くのだと言わんばかりに黙って手をかざす。その頬にはまだ夜の冷気が残っており、鼻先がわずかに赤く染まっていた。

 

そして、そこへ現れたのが加賀の母だった。

 

「あらあら、まあまあ……今日はずいぶん賑やかな朝ごはんねぇ〜」

 

手には湯気の立つ味噌汁の鍋、もう片方には炊き立ての米を入れた木のおひつ。母の顔には、家族が揃った朝の嬉しさがにじんでいた。静かな日々の中に、急に現れた提督や吹雪の存在が、どれだけこの家に新鮮な風を吹き込んだか、それは言葉にしなくとも明らかだった。

 

「はいはい、皆さん、座って座って。お味噌汁冷めちゃうからねぇ」

 

母がそう言いながらテーブル代わりのちゃぶ台に茶碗を並べていく。焼き鮭に漬物、ほうれん草のおひたし、そして卵焼きと、すべてがどこか懐かしい「日本の朝ごはん」。それを見た吹雪は目を輝かせていた。

 

「わぁ……なんか、こういうの初めてです……」

 

「おかわりもあるから、たくさん食べていってね。香織も、あなたも、吹雪ちゃんも、いっぱいお腹空いてるでしょ」

 

母の気遣いが、まるで子供のように照れた吹雪の背中をそっと押す。加賀も「いただきます」と静かに手を合わせ、父も何も言わず黙って続いた。提督も一緒に頭を下げ、家族のような輪がそこで出来上がる。

 

ちゃぶ台の上には湯気が立ち、会話の端々には笑い声が混じる。箸を持つ音、ご飯を噛む音、湯呑にお茶を注ぐ音……それらがすべて、長く失われていた家族の時間のように、暖かく、穏やかに流れていた。

 

そして、そんな中でふと提督が目をやると、加賀の父が少しだけ口角を緩めていた。

 

その笑顔は、ほんの僅かだが、家族に許しと理解が戻ってきた証でもあった。

 

 

囲炉裏の炎が静かに揺れ、朝食の湯気とともにゆったりとした時間が流れていた。焼き魚の脂がぱちぱちと音を立て、味噌汁の湯気が茶碗から立ち上る。ちゃぶ台の周りには、提督、加賀、吹雪、そして加賀の両親が揃い、それぞれの箸が動く音が心地よく響いていた。

 

「……で、おまえらは今日には帰るのか?」

 

父の問いに、誰からともなく箸が止まる。

 

「ええ……急に来たもので、大学のほうもありますし……」

 

と加賀が答えたあと、ふと何かを思い出したように提督の方を見やった。

 

「提督は……あ、そういえば……仕事、してなかったわね」

 

茶碗を持ち上げながら何気なく言ったその一言に、提督はむせかけた。

 

「おい、その言い方やめろ……」

 

口を拭いながら苦笑しつつ、提督は手を挙げて続ける。

 

「い、一応、蓄えはありますし、定期収入も……投資関係で……まあ、なんとかなってますから」

 

焦り気味に弁明するその様子に、加賀の母はくすりと笑い、吹雪は箸を止めたまま目をぱちくりとさせていた。

 

父は特に驚いた様子も見せず、しばらく黙ったまま味噌汁を啜っていたが、やがてぽつりと言った。

 

「そこは……心配しておらんよ。君ならなんとでもするだろう」

 

その言葉に、提督の表情が少し緩む。

 

ああ、この人もまた、見ているところは見ているのだな、と。

 

だが父は続けた。

 

「……しかしな。お節介を承知で言わせてもらうが」

 

言葉に重みが増す。皆の視線が自然と父に集まる中、彼は真っ直ぐに提督を見て言った。

 

「父親として、それはどうかな?」

 

提督は一瞬言葉を失った。吹雪が、加賀が、彼を見ている。ちゃぶ台の向こうで火がぱち、ぱちと音を立てる。本来なら嫌味のひとつでもあるような言い回しだが、加賀の父だ。不器用な言い方になってしまったが、それは先達として、男として家庭を持ち父として加賀を育て上げた男としての言葉だった。

 

静寂が流れた後――

 

「……仕事、探すか」

 

と呟くように言った提督の声が、部屋の中に落ちた。

 

決して大きな声ではなかった。だが、それは確かな覚悟を含んでいた。

 

加賀はその横顔をじっと見つめ、吹雪はどこか誇らしげに笑っていた。

 

父は何も言わず、味噌汁を一口啜った。だがそのわずかな目元の緩みが、全てを物語っていた。

 

ちゃぶ台の上の料理は冷めず、家族の朝は、ゆっくりとした、けれど確かな一歩を刻んでいた。

 

 

時刻は昼下がり。澄んだ冬の空に雲一つなく、遠くの山々には白く雪が積もり、冷たい風が木々の枝を揺らしていた。小さな山間の集落の一角にあるバス停に、二人と一人と、そして母が立っていた。

 

吹雪は荷物を背負い、そわそわと周囲を見回しながら、たまに提督の顔をちらちらと見ていた。提督は静かに腕を組み、加賀はというと、父の家を背にしてまっすぐ前を見ていた。田舎の時刻表に従い、バスは日に数本しか来ない。この時刻を逃せば、次は何時間も後になる。

 

エンジンの音が、谷間に響くように遠くから近づいてくる。舗装された細道を小型の路線バスがゆっくりと上がってきて、停留所に停まった。ドアがプシューと音を立てて開き、冷気と共に車内の空気が漏れ出す。

 

その時だった。

 

「……香織」

 

父は声を出さなかった。ただじっと、娘の後ろ姿を見つめていた。その視線には、深い想いと、言葉にならなかった何かが込められていた。

 

加賀はそれに気づいた様子だったが、振り返らなかった。ただ、荷物を背負い直し、バスへ一歩足を踏み出そうとした瞬間――

 

「……メシは、食えよ」

 

その声は、相変わらずぶっきらぼうで、愛想も何もなかった。けれど、どこか温かかった。ぎこちなくて、不器用で、それでも確かに――父の想いが滲んでいた。

 

加賀の肩が、わずかに震えた。

 

彼女はバスのステップに足をかけたまま、わずかに振り返る。表情は見えなかったが、吹雪はその背中から、かすかな微笑みがこぼれたのを感じ取った。

 

「……うん、わかってる」

 

その返事が返ってきたとき、父はもう何も言わなかった。加賀はバスの中に入り、吹雪も続いて乗り込む。提督は最後にもう一度、加賀の父の方を見やって深く頭を下げた。

 

バスのドアが閉まり、エンジン音が再び谷に響く。母はハンカチで目元を押さえながら、手を振っていた。父は、ただ黙って帽子を軽く持ち上げ、それを返すようにしていた。

 

バスがゆっくりと走り出し、集落の出口へと向かっていく。

 

車内の加賀は、窓の外を見ながらほんのりと頬を緩めた。

 

「……あの人らしいわね」

 

その一言が、すべてを物語っていた。

 

不器用でも、ぶっきらぼうでも、伝わる想いがある。

 

そして、加賀の中に、それはしっかりと根を張っていた。

 

バスの窓を伝って外の景色がゆっくりと流れていく。冬の光はどこか柔らかく、雪をかぶった田舎の道に静かに降り注いでいた。加賀は座席に体を沈め、両手で膝の上の小さな手提げ袋をぎゅっと握っていた。

 

提督と吹雪は少し離れた席に座り、加賀の方を静かに見守っていた。

 

――と、その時だった。

 

「加賀」と低く声をかけながら、提督が肘でつん、と小さく彼女の腕を突いた。

 

はっとして顔を向けた加賀の視線の先、後方の窓の向こうに――父の姿があった。

 

雪に足をとられそうになりながらも、しっかりと踏みしめて立ち尽くすその姿は、遠ざかるバスの後ろにずっと佇んでいた。そして、両手を大きく振っていた。思い切り、何度も、まるで今までの年月を埋めるように、激しく振られていたその腕は、まっすぐに加賀に向けられていた。

 

耳を澄ませば、かすかにだが確かに聞こえる――

 

「香織――!」

 

雪を割くように、父の声が届いた。

 

加賀の目が一瞬大きく開かれた。その瞬間、彼女の胸に張り詰めていたものが音を立てて崩れ落ちる。

 

「……加賀」

 

提督は、静かに言葉を続けた。

 

「今、俺たちしか客はいないんだ。もう、我慢しなくていい」

 

その一言に、加賀の唇がわなわなと震えた。

 

そして、次の瞬間だった。

 

「っ……う……っ、ううぅ……っ!」

 

堰を切ったように、加賀は肩を震わせ、顔を手で覆って泣き始めた。言葉にならない嗚咽が喉の奥から漏れ、泣き声が小さな車内に広がっていく。車内には他の乗客はおらず、運転手も静かに目線を外していた。

 

吹雪は驚いたように振り返ったが、すぐに事情を察して、膝の上に手を置き、そっと加賀の背に触れた。

 

「加賀さん……」

 

加賀は首を振りながら、なおも涙をこらえようとするが、それはもう止まらなかった。

 

「……ひどいのよ……あの人……」

 

「知ってるさ」

 

「……でも、ずるい……あんな……ずるいわよ……っ」

 

「だろうな」

 

提督は、笑いもせず、ただ少しだけ加賀の肩に手を置いた。

 

「でも、あれがお前の親父さんだ」

 

「……うん……知ってる……わかってるのよ……っ」

 

言葉にならない想いが、涙とともに零れていく。愛しさも、悔しさも、嬉しさも、ぜんぶまるごと、心の奥底から湧き上がっていた。

 

その姿を見て、吹雪も思わず鼻をすすりながら目を拭った。

 

バスは緩やかなカーブを描きながら山道を降りていく。窓の外、父の姿はもう見えなくなっていたが――加賀の中には、あの大きく振られた両手が、しっかりと残っていた。

 

冬の空は、やがて春を呼ぶだろう。

 

そして、加賀の心にも、父との関係にも――また新たな季節が訪れようとしていた。

 

 

 

 

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