艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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十九話 再始

 

三月。

春の光がまだ冷たく、街のあちこちに残る冬の名残が、提督の足取りをいっそう重くしていた。

 

職業安定所の前に立つ。

背筋を伸ばし、胸ポケットに差した履歴書の端を指先でなぞる。

この歳になって、ここに並ぶとは思っていなかった。

――誰のせいでもない。ただ、そういう時代になっただけだ。

 

「元・横須賀基地の提督なら、天下り先のひとつやふたつあるはずだ」

「……何かやらかしたんじゃないのか」

 

そんな声が背中越しに聞こえてくる気がする。

左手の義手が、コートの袖の中で重たく感じた。

事実がどうであれ、人は勝手に物語を作り、勝手に納得する。

そう見られても仕方のない材料は、揃っていた。

 

――加賀の父が言った言葉が、耳に残っていた。

 

父親としてそれはどうかな。

 

責める調子ではなかった。

ただ、まっすぐに見つめて、そう言った。

その眼差しの奥に、「働く者として」「家族を守る者として」

当然の覚悟を問う父親の思いが見えた。

 

提督は、無言の行間にそのすべてを読み取っていた。

だからこそ、今日ここにいる。

誰に見られようと、どんな噂をされようと――

彼は、また歩き出さなければならなかった。

 

 

はぁ……やれやれ。

 

小さく息を吐きながら、提督は玄関の引き戸を開けた。

靴を脱ぎ、義手で上着を引っかけるように壁のフックへ掛ける。

外はまだ肌寒いが、家の中には味噌汁の香りが漂っていた。

 

「おかえりなさい」

 

台所の方から、加賀の声が聞こえた。

落ち着いた声色に、どこか安心を覚える。

 

続いて、足音を立てながら吹雪が顔を出した。

 

「おかえりなさい、司令!」

 

「ただいま」

 

提督は穏やかに答える。

スリッパに履き替えながら、ふたりの顔を見た。

加賀はエプロン姿で鍋の火を見ており、吹雪は学校の制服のまま、湯気の向こうで笑っている。

 

何でもない光景――だが、その何でもなさが胸に沁みる。

外の冷たい空気を吸ってきた後では、余計に。

 

「面接、どうでした?」

 

加賀が静かに尋ねた。

 

提督は少し間を置き、苦笑を浮かべる。

 

「まぁ……見事に門前払いだ」

 

「……そうですか」

 

言葉のあとに続く沈黙は、決して重くはなかった。

吹雪が、少し間を見てから明るく声を上げる。

 

「ご飯、できました! 今日は豚汁ですよ、司令!」

 

提督は義手をそっと袖に戻し、椅子に腰を下ろした。

 

「はは、失業者の帰還だ。飯を食わせてくれる女神が二人もいて助かるな」

 

加賀が呆れたように、けれど微かに笑った。

 

「冗談を言えるうちは大丈夫ですね」

 

吹雪もつられて笑い、湯気の立つ味噌汁をお椀に注ぐ。

その香りが、また一段と濃くなった。

外のざらついた空気が、少しずつ心の底から溶けていく。

 

湯気が立ちのぼる食卓。

味噌汁と焼き魚、煮物――どこか懐かしい匂いが広がっていた。

 

提督は箸を動かしながら、ふと吹雪の方を見た。

 

「そういえば……学校、もうすぐだったな」

 

吹雪は少し驚いたように顔を上げる。

 

「はい。……四月からです、司令」

 

「楽しみか?」

 

吹雪は少し考えてから、控えめに笑った。

 

「……はい。でも、ちょっと緊張します」

 

提督は小さく頷く。

 

「無理に頑張らなくていい。ゆっくりでいいんだ」

 

「はい。……でも、ちゃんと勉強して、司令に褒めてもらいたいです」

 

その素直な言葉に、加賀が小さく笑みを漏らした。

 

「吹雪、司令はそういうのに弱いですよ」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

「……おい、やめてくれ」

 

提督は頭をかきながら、苦笑いを浮かべる。

 

加賀はお椀を並べ直しながら、どこか柔らかい目で二人を見ていた。

戦争が終わり、肩書きも制服も失って――それでも、こうして並ぶ夕食の光景が確かにあった。

 

湯気の向こうに、かすかな笑顔が重なる。

義手の袖の中で、提督の指先がわずかに動く。

その小さなぬくもりが、胸の奥に静かに灯っていた。

 

 

夕食を終え、食器を片づける音が台所に小さく響く。

加賀が洗い物をしている間、吹雪は湯を張った風呂へと向かった。

 

湯気の立つ音、廊下を行き来する足音。

平屋の家は小さいが、その分だけ人の気配が近い。

 

やがて、風呂から上がった吹雪が、髪を拭きながら顔を出した。

 

「お先に失礼します、司令。おやすみなさい」

 

「おう。早く寝ろよ」

 

「はい。おやすみなさい、加賀さんも」

 

「おやすみなさい、吹雪」

 

襖が静かに閉まる音がして、廊下の灯りがひとつ落ちた。

自室はすぐ隣、布団を敷いて寝るには十分な広さだ。

彼女の足音が遠のくにつれ、家の中が静けさに包まれていく。

 

提督はちゃぶ台の前で湯飲みを手に取り、息をついた。

 

「……ふぅー」

 

茶の香りが冷めかけていた。

ぽつりと、独り言のように呟く。

 

「ああ言われちゃあなぁ……」

 

自嘲とも、照れともつかない声音だった。

あの“褒めてもらいたい”という吹雪の言葉が、思いのほか胸に残っていたのだ。窓の外では、まだ冷たい夜風が、軒先の風鈴をかすかに揺らしていた。

 

その後も、提督はちゃぶ台の上に広げた新聞や雑誌を何度も読み返していた。

求人欄から民間の再就職案内、果ては古い業界紙まで。

ページをめくるたびにため息が漏れる。

 

「うーん……これは違うな……」

 

義手の指で紙面を押さえながら、眉間に皺を寄せる。

傍らには湯飲みと、書き込みの跡が残るメモ帳。

時計の針が0時を回った頃だった。

 

そのとき、廊下から足音が近づいてくる。

振り返ると、加賀が湯呑みと小さな徳利を手にしていた。

 

「……隣、いいかしら?」

 

そう言いながら、すでに提督の横に腰を下ろしている。

 

「もう座ってるじゃないか」

 

提督は苦笑しながら、手近の座布団を一枚引き寄せ、彼女の方へ滑らせた。

 

「どうぞ、正式に」

 

加賀は小さく笑みを浮かべ、徳利を置いた。

瓶口から注がれる酒の音が、静かな部屋に小さく響く。

 

「ずいぶん真剣に見てましたね」

 

「まぁな……どこも“経験者歓迎”って書いてあるが、俺の経験は歓迎されそうにない」

 

加賀は盃を差し出しながら、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

外はすっかり冷え込んでいるが、部屋の中だけは穏やかな温もりがあった。

 

 

「どーにも片手じゃ作業系の仕事は難しくてなー」

 

提督は新聞をたたみ、湯飲みの代わりに盃を手に取った。

酒をひと口あおって、わずかに肩をすくめる。

 

「艦娘の装備の技術を転用してるから、ふつーに動くしパワーもあるんだが……一般人にそれを理解しろって押し付けるのも酷だよな」

 

義手の関節を軽く動かしてみせながら、苦笑いを浮かべる。

金属の節がわずかに鳴る音が、静かな部屋に響いた。

 

「いくら高性能な義手とはいえ、リスクを負うのは雇う側だし……俺ならお断りするしな」

 

そう言って、また小さく笑う。

その笑みには、諦めとも達観ともつかない陰があった。

 

加賀は盃を持ち直し、少しだけ唇を噛んだ。

 

「……世の中、理屈よりも見た目と印象ですか。まったく、浅はかですね」

 

彼女はそう吐き捨てるように言いながら、提督の盃に酒を注いだ。

徳利の口からこぼれる音が、やけに静かに響く。

 

「加賀」

 

提督は柔らかい声で呼びかけ、少し身を乗り出した。

 

「そう言うなよ」

 

そして、そっと彼女の髪を撫でた。

 

一瞬、加賀の肩がわずかに揺れたが、すぐにその手の温もりを受け入れるように動かずにいた。長い黒髪が指先をすり抜け、ほのかに湯気のような香りが立つ。

 

「……理不尽なのは分かってる。でも、世間が変わるのを待ってる暇もないからな」

 

提督はそう言いながら、空になった盃を机に戻した。

加賀はその横顔を見つめ、静かに徳利を置いた。

 

「……本当に、あなたって人は」

 

言葉の続きは飲み込み、代わりにもう一度、盃に酒を満たした。

 

外では風が吹き、障子の隙間がわずかに鳴った。

その音だけが、ふたりの沈黙を包んでいた。

 

「それより俺なんかよりもな、退役後の艦娘の扱いの方がよっぽどだ」

 

提督は盃を置き、新聞の束の中から一枚を取り出した。

 

「後輩の風見に頼んだから少しは緩和されたものの……やはり問題は山積みだ」

 

「ほれ」

 

新聞の切り抜きを加賀の方へ差し出す。

そこには“退役艦娘への支援制度、失業保険給付に遅れ”という見出しが太く印刷されていた。

 

加賀は紙面を目で追いながら、静かに息をつく。

 

「……あまり良い噂は聞かない人ですが」

 

「あぁ、小憎たらしいやつだ」

 

提督は短く笑い、盃を傾けて一気に飲み干した。

喉を鳴らしながら、思い出すように呟く。

 

「出世、出世、出世しか頭にないやつだ。それに最近は太っちまって……いや、昔から少しは腹が出てたな」

 

加賀は苦笑を浮かべた。

 

「戦争初期の頃なんか、まだ若かったくせに“自分は佐官の息子だ”って偉そうにしてな。こっちは重いもん抱えて走り回ってるってのに、後輩のくせにいちいち口出してきやがる」

 

そう言いながら、提督は愚痴の調子で語り続けた。

だが、その声の端にはどこか楽しげな響きが混じっていた。

 

加賀はその表情を見て、小さく目を細める。

戦時の話をする提督の顔は、いつもどこか懐かしげで――同時に、少しだけ寂しそうだった。

 

「でもな」

 

提督は盃を置き、真面目な声に戻る。

 

「艦娘に不義理を働くやつじゃない。あいつはあいつなりに、筋は通してる」

 

加賀は静かに頷き、盃に酒を注いだ。

 

「そういうところ、司令はちゃんと見ておられるのですね」

 

「人を見捨てないやつは、どんなに嫌味でも憎めんよ」

 

提督は少し笑いながら、盃を受け取った。

障子の向こうでは、春先の風が庭の木々をわずかに揺らしている。

外は静かで、二人の声だけが部屋に溶けていった。

 

提督は盃の底を見つめ、ふぅと息を吐いた。

 

「……明日も職探しだしな」

 

そう言って立ち上がろうとしたところで、加賀がすぐに口を開いた。

 

「ダメよ」

 

「ん? なんでだ?」

 

「ここ最近、根を詰めてばっかりじゃない。少しは休みなさい」

 

加賀の声は穏やかだが、逆らいがたい芯の強さを帯びていた。

 

「吹雪も言ってたわよ。司令、ずっと疲れた顔してるって」

 

提督は頭をかきながら、苦笑を浮かべる。

 

「しかしなぁ……働いてもないのに“休む”ってのは、どうにも性に合わん」

 

「数打ちゃ当たる、ってものでもないでしょう」

 

加賀はそう言って、静かに酒を注いだ。

盃の中に映る灯りが、揺らめいている。

 

「大きく飛ぶには、一度屈まないと飛べないわよ」

 

その言葉に、提督は少しだけ黙った。

盃を口に運び、酒をひと口。

 

「……うまいこと言うな」

 

「本気で心配してるのよ」

 

「知ってる」

 

提督はそう言って笑い、わずかに首を傾けた。

加賀も目を細め、その笑みを受け止めるように見つめ返す。

 

静かな夜の空気の中、二人の間に流れる沈黙はやさしく、穏やかだった。

 

 

提督は盃を置き、ふと思い出したように加賀の方を見た。

 

「ん? お前、いつから吹雪を呼び捨てにしてる?」

 

加賀は少し驚いたように瞬きをした。

 

「いつから……と言われると難しいけれど」

 

盃を指先で回しながら、少しだけ考える仕草を見せる。

 

「家族なのに“さん”付けも変でしょ?」

 

「……まぁ、そう言われりゃそうだが」

 

「まあ、あの子はまだ私のことを“さん”付けで呼ぶけれど。無理強いは良くないから、彼女のペースに合わせるわ」

 

提督はくすりと笑った。

 

「優しいじゃないか」

 

「あなたに比べれば、まだまだよ」

 

「そりゃどうも」

 

軽口を交わすうちに、さっきまで漂っていた重苦しい空気が少しだけ和らいだ。盃の中で揺れる酒の光が、二人の表情を静かに照らしている。

 

加賀はそのまま少しだけ顔をほころばせ、ぽつりと呟いた。

 

「……あの子にとっても、今の生活が穏やかであればいいわね」

 

「そうだな」

 

提督は頷き、静かに障子の向こうへ視線を向けた。

外では風が止み、虫の声すら聞こえない夜だった。

小さな家の中に残るのは、茶と酒と、わずかなぬくもりだけ。

 

 

翌朝は特にやることもなく、提督はゆっくりと身支度を整えると家を出た。街は三月の柔らかな陽射しに包まれていて、まだ風が冷たく、日陰には冬の名残があった。

ぶらぶらと足を動かすだけで、行き先は定まらない。

 

吹雪は加賀に付き添って大学へ出かけていった。

図書館を見て回るとか、キャンパスを少し探検するとか、友達と会う約束でもしてるかのように、楽しげに出かける背中を見送ったあと、提督は一人、時間の潰し方を考える必要があった。

 

以前にも顔を出したことのある、鈴谷がバイトをしている喫茶店の前をなんとなく通りかかる。

入り口のガラス越しに見えるのは、木のテーブルとゆったりしたソファ、窓際に並ぶ観葉植物。

コーヒーの香りが通りまでふわりと流れてきて、提督は足を止めた。

 

ふらりと扉を押して店内へ入ると、鈴谷はカウンター越しにいつもの元気な顔で客をさばいていた。

 

「ちぃーっす、提督〜!」

 

店内に響くその声に、常連客たちもにっこりして視線を向ける。

鈴谷は大きく手を振りながら、注文を受けつつも明るく近づいてきた。

 

「こんな時間に来るってことは、無職?」

 

彼女はいたずらっぽく首をかしげる。

余計なことを言うのは昔からのお約束で、提督も顔に少し苦笑を浮かべた。

 

「大正解だ〜。景品は俺のグリグリを食らわせてやる」

 

言いながらふと手を上げ、こめかみを拳でぐりぐりと押す動作をとる。

冗談めかした仕草に、鈴谷は一瞬びくりとした顔をしたが、すぐに舌を出してふざけ返した。

 

「やめてよそれ、お客さんの前で暴力はダメ〜」

 

「お、そうか? なら景品はコーヒー一杯で手を打とう」

 

提督はカウンターに座り、メニューを眺めるふりをした。

窓際の席では学生らしき二人が教科書を広げ、静かに話し合っている。

店の奥では古いラジオがジャズを静かに流していた。

人の声と食器の音、湯気の匂いが混じり合って、外の冷たい空気とは別の、居心地のよい時間が流れている。

 

鈴谷は手際よくコーヒーを淹れながら、ふと真面目な顔をして提督を見た。

 

「でもさ、無理しないでよ。いつも頑張ってるじゃん、提督」

 

提督はその言葉に軽く肩をすくめて笑った。

 

「そう言われると現実に戻るな」

 

「まあまあ。今日は一日ぶらぶらして、気分転換したら?」

 

「お前に言われると楽に聞こえるな」

 

鈴谷は小さくため息をついてから、湯気の上がったカップを差し出した。

コーヒーの深い香りが、ゆっくりと鼻腔を満たす。

提督はカップを受け取り、少しだけ微笑んだ。

 

「ありがとう、鈴谷」

 

「へへ、どういたしまして。提督、顔に“疲れてます”って書いてあるよ」

 

「まいったな、それでも一応、現役の男のつもりなんだが」

 

「はいはい、もう少し自覚して。じゃないと加賀さんに怒られるよ?」

 

「……その通りだな」

 

提督は苦笑を浮かべ、カップの縁に口を寄せた。

熱い液体が喉を通り、少しだけ心が落ち着いていく。

 

しばらくして、鈴谷はカウンターの奥へ戻り、他の客の対応をしながらも、ときどき提督の方をちらりと見て笑みを向けた。

提督は新聞の切り抜きを取り出し、ゆっくりとページをめくる。

 

外の陽射しは少しずつ傾きはじめ、喫茶店の中に淡い午後の光が流れ込んでいた。穏やかで、少しだけ寂しい昼下がり――そんな時間が、ゆっくりと過ぎていった。

 

 

店内は昼を過ぎて客の数も少なく、ジャズの旋律が低く流れていた。

カウンターの向こうでカップを拭く鈴谷が、退屈そうに提督の方へ顔を向ける。

 

「ねぇ提督、とりあえず今どんな感じなの?」

 

「んー……まぁ、職探し続行中だな。履歴書は何通か出したが、返事が来る気配はない」

 

「そっかー」

 

鈴谷は手を止めて、ため息まじりに言った。

「なんかさ、こうやって話してると、ほんとに時代変わっちゃったよね」

 

提督は苦笑を浮かべる。

「そうだな。気がついたら、戦場のことを覚えてるやつも少なくなった」

 

「うーん……あ、そういえばさ!」

 

ふと思い出したように鈴谷が身を乗り出した。

 

「長門さんも、たまーに来るんだよねー」

 

「長門が?」

 

提督は意外そうに眉を上げた。

横須賀にいたのは短い期間だったが、長門の名はよく覚えている。

別の基地を主力として動き、時に連合艦隊の旗艦を務めたこともある――堂々たる女傑。

提督の記憶の中でも、その姿は常に背筋を伸ばしたままだった。

 

「ああ、そうだよ。黒い帽子かぶってて、たまに分厚い資料みたいなの読んでる。最初見たときびっくりしたもん」

 

「……あいつも、ここに来るのか」

 

「うん。ていうか、長門さんも今、仕事ないみたいでさ」

 

鈴谷は声を少し落とした。

「聞いた話だと、事務の仕事も断られたとかで。なんか、体の方もちょっと悪いって」

 

提督は盃の代わりにカップを手に取り、黙って軽く息をついた。

カップの縁に残った湯気が、わずかに揺れる。

 

「……長門がなぁ」

 

鈴谷は続ける。

「たまに来て、コーヒー一杯だけ頼んで、窓の外ずーっと見てるんだよ。こっちが話しかけても『気にするな』って感じでさ」

 

「らしいな」

 

提督はわずかに笑みを浮かべた。

「昔から、不器用な女だった」

 

「うん。そうだね」

 

鈴谷はカウンター越しに肘をつき、顎を支えた。

「でも、なんか見てて思った。艦娘ってみんな、どっか置いてけぼりになってる気がするんだよね」

 

提督は言葉を返せず、ただ静かに頷いた。

外の光が傾き、窓の外の影がゆっくりと伸びていく。

ラジオのジャズが少しだけ音を大きくし、店の中をやわらかく包み込んでいた。

 

 

「お、噂をすればなんとやらだー」

 

鈴谷がカウンターの奥から声を上げた。

提督が顔を上げると、入口のベルが軽く鳴り、黒いコートを羽織った女性が静かに入ってきた。

帽子の影に隠れた表情はわずかに疲れて見えるが、その立ち姿には今もかつての威厳が残っている。

 

「……貴方は確か、横須賀の……」

 

低く落ち着いた声が、提督の方へ向けられた。

 

「おぅ、久しいな」

 

提督は軽く手を上げて応じた。

「艦隊決戦の日以来か?」

 

「そうだな……」

 

長門は小さく息を吐き、ゆっくりと席に腰を下ろした。

鈴谷がすぐに近づき、「いつものですね」と声をかけると、長門は無言で頷いた。

やがて湯気を立てるカップが彼女の前に置かれる。

 

提督は彼女の姿を横目で見ながら、軽く頭を掻いた。

面識こそあったが、特別親しい間柄というわけではない。

戦中、顔を合わせたのは作戦会議や視察の折ぐらいで、言葉を交わしたのも数えるほどだ。

だが、旗艦として艦隊を率いた姿は今も印象に残っていた。

 

長門はカップを両手で包み込み、静かに口をつけた。

しばしの沈黙ののち、かすかな笑みが浮かぶ。

 

「……この街も、随分と変わったな」

 

「そうだな。俺も、ここでこうしてコーヒー飲むとは思わなかった」

 

「ふっ……お互い、平和なものだ」

 

その言葉にはどこか安堵と、少しの寂しさが混じっていた。

鈴谷はそんな二人のやり取りを見て、ニヤリと笑う。

 

「いやぁ、いいねぇ。戦場の再会ってやつ? ドラマチック〜」

 

「鈴谷、静かに」

 

長門の低い声にたしなめられ、鈴谷は肩をすくめた。

 

「へいへい、じゃあ私はおとなしくしてまーす」

 

彼女がカウンターへ戻ると、店の中は再び静かな時間を取り戻した。

窓の外では午後の光が傾き、街路樹の影が店内の床に長く伸びている。

 

提督はコーヒーをひと口すすって長門の横顔を見た。

そこには、かつての旗艦としての誇りと、それを今も抱え続ける者の孤独が確かにあった。

 

 

長門はリクルートスーツ姿だった。

黒いジャケットに地味なスカート、肩口のあたりが少しよれていて、いかにも面接帰りという雰囲気を漂わせている。

帽子を外すと、疲れの色がそのまま表情に浮かんでいた。

 

「面接か?」

 

提督がそう尋ねると、長門は軽く頷いた。

 

「朝イチで行ってきた。だが……どうにも感触は厳しそうだ」

 

そう言って、わずかに口角を上げる。

「“お祈りメール”というやつも、もう見飽きてきた」

 

提督は苦笑しながら盃――ではなくカップを指先で回した。

 

「俺も似たようなもんだ」

 

「貴方は何をしているんだ?」

 

「ま、お前の仲間だな。職探しだ」

 

そう言って笑うと、長門は少し目を細めた。

 

「……何か問題でも起こしたのか?」

 

「失礼だな。ふつーに辞めて、しばらくのんびりしてただけだよ。いい加減働こうと思っただけさ」

 

長門はコーヒーをひと口飲み、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「てっきり天下り先で何かしでかしたものかと……横須賀の提督だし」

 

「どーいう意味だ、それ」

 

すかさず、鈴谷がぷっと吹き出した。

 

「ぷっ! いや〜、実際提督、結構ヤンチャしてたもんねー」

 

「おい鈴谷、余計なことを……」

 

「だって事実でしょ。気に入らない命令は無視するし、上官にもずかずか物怖じせず言うし。そりゃ他所から見たら問題児扱いにもなるよ〜」

 

提督は頭をかきながら、苦笑した。

 

「そりゃあの頃は、若かったんだよ」

 

「若いって言葉で済ませるの、ずるいと思うけど?」

 

「……鈴谷、お前な」

 

「はいはい、反省してるって〜」

 

鈴谷は笑いながら手を振り、長門に目を向ける。

 

「でもね、長門さん。提督、ああ見えて結構部下思いだったんだよ? 艦娘たちが困ってる時、真っ先に口出してくるし」

 

長門は目を伏せ、湯気の向こうでわずかに表情を和らげた。

 

「……そうか」

 

その声は小さく、どこか懐かしむようでもあった。

 

店内の時計がカチリと音を立て、午後の陽光が窓辺のカップを照らす。

三人の間に、少しの沈黙と、あの戦場の日々の影が静かに流れた。

 

 

 

店に入って、最初に目に入ったのは鈴谷の明るい笑顔――そして、その隣に座る彼の姿だった。

まさか、あの横須賀の提督がこんな場所にいるとは思わなかった。

 

驚きは隠せなかった。

何より、あの男が喫茶店のカウンターで若い娘と軽口を交わしているなど、想像もしなかったのだ。

 

かつての彼は――鋭く尖ったナイフのような存在だった。

呉鎮守府にいた頃、私の上官だった提督が彼の同期であり、何度となくその名を口にしていた。

 

「横須賀の提督は狂犬だ」と。

 

敵に対して容赦がなく、命乞いの声すら雑音にしか聞こえないまま、次々と敵を葬る。

そういう噂だった。

その戦果と気迫で、部下からは絶対的な信頼を得ながらも、上層部からは扱いに困る存在とされていた。

 

その人物が、今はこんな柔らかな表情をしている。

義手の袖口を気にしながらも、若い娘の冗談に照れたように笑い、肩をすくめる。

まるで、別人だ。

 

――戦争というのは、人を削るのだろうか。

あるいは、戦いが終わって初めて、人は“人”に戻るのか。

 

私はカップの縁を指先でなぞりながら、その笑顔を静かに見つめていた。

不思議な感情だった。懐かしさとも、羨望ともつかない、胸の奥を掠めるような感覚。

 

「……変わったな」

 

思わず、声にならない呟きが漏れる。

彼がこちらに視線を向けて小さく笑う。

 

その笑みを見て、私は少しだけ目を細めた。

あの頃の狂気にも似た光はもうなく、代わりに、柔らかな陽だまりのような光が宿っていた。

 

 

「はー……それにしても、選り好みしてる訳じゃないのに仕事先がないのは困るね」

 

提督が、半ばため息まじりにぼやいた。

その声は冗談めかしてはいたが、どこか本音が滲んでいるように聞こえた。

 

鈴谷は無言のまま、カウンターからサンドイッチの皿を持ってきて、彼の前に置いた。

 

「おお、悪いな」

 

そう言いながらも、提督は手をつけずにいた。

すると、鈴谷はため息をついたかと思うと、当然のように皿を引き寄せてサンドイッチをひとつ掴む。

 

「……ってお前が食うんかい」

 

「食べないなら、もったいないでしょ〜」

 

二人の軽いやり取りに、私は思わず目を瞬かせた。

冗談とも本気ともつかないやりとり。

だが、それは戦場にいた頃の彼からは想像もできない光景だった。

 

――こんな柔らかい顔をするようになったのか。

 

思わず、そんな言葉が心の中に浮かぶ。

どこか遠い世界を見ているような気がした。

 

私は湯気の向こうから、彼に問いかけた。

 

「……なんて言って断られたのだ?」

 

彼はカップを手に取り、少しだけ考えるように視線を落とした。

「理由はいろいろだよ。経験が軍一筋で民間には合わないとか、年齢とか、あと……義手のこともあるな」

 

淡々と語る声の中に、わずかな苦みがあった。

それを聞きながら、私は無意識に拳を握っていた。

 

――この国は、勝者も敗者も、同じように置いていくのか。

 

彼のような人間が、道端の石のように扱われる。

そんな現実を、どう受け止めればいいのか分からなかった。

 

提督はそれ以上、愚痴をこぼすこともなく、鈴谷の食べ残したサンドイッチをひとつ手に取った。

 

「……まあ、腹が減ってる時に食い物の話はするもんじゃないな」

 

苦笑を浮かべてそう言うと、鈴谷が小さく笑い、

店の中にはほんの一瞬だけ、温かい空気が流れた。

 

――不思議な人だ。

 

私はコーヒーを口に含みながら、その笑顔を見つめていた。

戦場では一度も見たことのない、穏やかな笑み。

それは、どこか取り戻してはならないはずの“日常”のようで――

けれど、その光景に、少しだけ救われる自分がいた。

 

 

「お前はどうなんだ?」

 

提督の声は柔らかかった。

押しつけがましくもなく、ただ興味の延長で尋ねるような調子だった。

けれど、その問いが胸の奥に沈んでいた何かを掘り起こす。

 

「……斡旋を受けて、民間に行った」

 

そう言いながら、自分でも驚くほど冷静な声が出た。

「だが、上手くはいかなかった。どうしても“馴染め”なかったんだ」

 

カップの中のコーヒーを見つめる。

黒く、深く、底の見えない液面に、自分の影がゆらりと揺れる。

 

「艦娘として十五年。青春も、何もかも、あの海に置いてきた。戦うことだけが、生きる理由だった」

 

そこまで言って、ふっと息が漏れた。

どこか遠い記憶の中で、波音が耳に蘇る。

あの甲板の熱、砲火の光、艦橋の冷たい空気。

 

――あの頃の私は、それしか知らなかった。

勝つこと、守ること、立ち続けること。

それが“普通”だと信じていた。

 

「……でもな」

 

言葉を区切り、唇を噛む。

 

「軍の中での“普通”は、世間の“普通”じゃなかったんだ」

 

思わず、苦笑がこぼれた。

あれほど誇りを持っていたものが、外に出ればただの異物になる。

敬礼も、規律も、命令も――そこには何の意味もなかった。

 

「人の前で大きな声を出せば怖がられる。姿勢を正しても『緊張してるのか』と笑われる。部下を気遣えば『上から目線』だと言われる。……何一つ、通じなかった」

 

視界の端で、鈴谷が何も言わずに静かに布巾を動かしている。

店の中は穏やかで、外からは風の音と車輪のきしむ音がかすかに届いていた。

 

提督は、そんな私の言葉に相槌を打つだけだった。

一言も挟まず、ただ、黙って聞いてくれていた。

 

「……笑ってしまうよな。戦時中、あれほど“強くなれ”と教えられて、その結果がこれだ」

 

指先でカップの縁をなぞる。

冷めかけたコーヒーが、唇を湿らせる。

 

「十五年も、海と戦火にいた。外の世界を知らなかった。だから……普通の人間としての十五年を、私はまだ生きていないのかもしれない」

 

提督はその言葉にも何も言わず、ただ頷いた。

その静かな相槌が、なぜだろう。

誰に慰められるよりも、心の奥に沁みた。

 

――この人もまた、似たような場所を歩いてきたのだろう。

戦争の中で何かを失い、今もなお、自分を探している。

 

そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。

同情ではなく、理解――ただそれだけが、今の私には救いだった。

 

コーヒーを飲み干す。

底にわずかに残った苦みが、妙に現実的だった。

 

空虚な独白だった。

 

口にすればするほど、言葉の重みが自分に跳ね返ってくる。

十五年という歳月を犠牲にして、ようやく掴んだはずの“勝利”――

その立役者が、今は職もなく、誰からも必要とされない。

 

それが現実だ。

誰のせいでもない。

だが、理屈では分かっていても、心が納得するわけではなかった。

 

――戦った意味とは何だったのか。

守ったこの国に、自分たちの居場所はないのか。

 

胸の奥がじんわりと熱を持つ。

コーヒーの苦味が、やけに現実的に舌に残っていた。

 

そんな時、沈黙を破ったのは提督の声だった。

 

「……どーせ誰も雇ってくれないなら、いっそ俺たちで作っちまうか? 会社」

 

その口調は、冗談のように軽かった。

けれど、ほんの一瞬、そこに確かな意志の色が混じっていた。

 

提督はにっと笑った。

いつもの、どこか飄々とした笑み。

けれど今は、それが妙にまぶしく見えた。

 

「会社……だと?」

 

長門は思わず問い返す。

提督は肩をすくめて笑った。

 

「まぁ、思いつきだよ。でも、雇われねぇなら雇う側になりゃいい。なあ、そうだろ?」

 

軽口のようで、どこか真っ直ぐなその言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。

何かを思い出すような――あるいは、何かを取り戻すような感覚。

 

鈴谷がカウンターの向こうから目を丸くして言う。

 

「え、なにそれ。提督、まさか本気?」

 

「さあな。けど、こうしてるよりは建設的だろ?」

 

そう言って、また笑う。

その笑顔に、久しく忘れていた“熱”があった。

 

長門は、静かにコーヒーを飲み干した。

カップを置いた指先が、わずかに震えている。

 

――この人は、まだ前を見ている。

 

そのことに、なぜか救われた気がした。

 

外では春の風が吹き、看板の鎖がかすかに鳴っていた。

鈴谷が肩をすくめながら笑い、提督は「もう一杯頼む」と声をかける。

 

その穏やかな笑い声が、空虚な午後に、少しだけ色を取り戻していった。

 

 

 

「おぉ、大淀か。実はなー」

 

提督がポケットからスマホを取り出し、軽い調子で通話を始めた。

受話口の向こうから、鋭い声が響く。

 

『――ちょっと提督! 何を言ってるんですか!?』

 

「そう言うなよー、まぁ聞けって。俺とな、長門と、それに鈴谷で――」

 

『素人が会社なんていきなり作ってどうする気ですか!? 資金は? 計画は? 許認可は!?』

 

怒号に近い声が店内にまで漏れ、鈴谷が肩をすくめて笑った。

 

「うわぁ、大淀さんブチギレじゃん……」

 

「だから落ち着けって、話は聞け。うん、まぁ、なんとかなる」

 

『なんとかならないです!!』

 

それでも提督はどこ吹く風。

まるで昔の作戦会議で上官をあしらっていた頃のように、軽く相槌を打ちながら受け流している。

 

「だいたい! 法人設立には手続きが――」

 

「お、じゃあそのへんは大淀、お前に頼んだ」

 

『頼まないでください!!』

 

鈴谷が吹き出した。

「ははっ! 強引すぎ〜!」

 

私は呆気にとられていた。

つい先ほどまでの静けさが嘘のように、目の前で話が転がっていく。

まるで風に背中を押されるように、状況が勝手に前へ進んでいくのだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 話はまだ――!」

 

私が思わず口を挟んだ時には、すでに提督は電話を切っていた。

スマホを胸ポケットへ仕舞い、満足そうに頷く。

 

「……どうだ長門、お前も来るか?」

 

にぃ、と口角を上げる。

どこか少年のような、いたずらっぽい笑み。

 

不意に胸の奥がじんと熱くなった。

長い間、何をしても満たされなかった心の奥に、小さな灯がともる。

何かを取り戻せる気がした。

 

「……勝手な人だ」

 

そう呟きながらも、頬の筋肉が自然と緩んでいく。

その笑顔を、提督は静かに見ていた。

 

「じゃ、これで三人確定だな」

 

鈴谷がすかさず手を挙げた。

 

「はいはーい! あたし大学出たら入社するから! 上場企業に育てといてね。重役の席もあけといて!」

 

提督はにやりと笑い返す。

 

「お茶くみ窓拭き部の部長なら空けとくぞ」

 

「ちょっ、それナメてるでしょ!」

 

「出世コースだぞ?」

 

鈴谷が両手を腰に当て、むくれた顔で言い返す。

 

「もう!提督!」

 

三人の笑い声が、午後の喫茶店に響いた。

外では柔らかな春風が吹き、窓の外の光がゆっくりと傾いていく。

 

長門はその光を見つめながら、静かに息を吐いた。

――この人たちとなら、もう一度歩けるかもしれない。

 

冷めかけたコーヒーを飲み干し、心の底にわずかに残る苦みを確かめるように、長門は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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