艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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二話 歩み

 

 

――あれから、少し時が経った。

 

 

 

吹雪との共同生活は、始まった。

 

海沿いにある古びた官舎を改装した一軒家。玄関の戸は少し軋み、風呂の配管も少し怪しかったが、陽当たりだけは妙に良い。

軍から払い下げられた家だ。簡素ではあるが、住めばきっと、愛着が湧くと信じた。

 

 

 

朝、台所から包丁の音が響く。

トントン、トントン。几帳面なリズム。吹雪の足取りも無駄がなく、まるで訓練された衛兵のように動きが整っている。

 

 

 

だが――その整いすぎた空気が、どこかぎこちなかった。

 

 

 

「……吹雪、そんなに畏まらんでもいいんだぞ」

 

 

 

「はいっ……」

 

 

 

彼女はきちんと返事をする。背筋を伸ばし、敬語で、礼儀正しく。

 

だが、まるで“司令官との寮生活”でもしているかのような距離感だった。

共同生活ではなく、あくまで“滞在”という空気。

 

 

 

『家だと思ってくれていいんだぞ』

 

そう言ったのは、最初の夜だった。

吹雪は少しだけ目を伏せて、「はい」と返した。

けれどその「はい」に、実感はこもっていなかった。

 

 

 

家庭を知らない吹雪にとって、“家”という概念そのものが抽象的すぎたのかもしれない。

彼女が育ったのは、記録も曖昧な軍の育成施設。

艦娘としての技術と規律を叩き込まれた場所であり、親のぬくもりや家族の団欒とは無縁だった。

 

 

 

だが、提督自身もまた、家庭というものを知らずに育った。

幼い日に、家族は戦火に呑まれた。親という言葉の感触すら、もう曖昧だった。

 

 

 

教えてやりたくても、その“正解”を自分が知らない――

それが、提督にとっての苦しさだった。

 

 

 

「……ん」

 

提督はジャージの袖をぐっとまくり上げ、食器棚の上から茶碗を取り出そうとする。だが、バランスを崩して危うく落としかけ――

 

 

 

「司令官っ!」

 

吹雪が咄嗟に駆け寄って、両手で茶碗をキャッチする。

 

「……すみません、私がやります」

 

「いや、別に、これくらいは――」

 

「いえ。私が」

 

 

 

そう言って、にこりと笑った吹雪の表情はやはり、どこか“任務”に似ていた。

 

 

 

食事を終えた食卓の上には、湯気の消えかけた味噌汁の椀と、空になった小鉢がいくつか並んでいた。

吹雪が律儀に箸をそろえ、食器を下げようとしていたとき――提督がふと思い出したように口を開いた。

 

 

 

「……すまんな」

 

 

 

吹雪が手を止めて、顔を上げる。

 

 

 

「義手の話だ。明石には頼んではいるんだが……」

 

 

 

提督は自分の左袖をちらと見下ろし、静かに続けた。

 

 

 

「艤装の技術を転用してるとはいえ、人間用に調整するとなると時間がかかるらしい。艦娘と違って、神経の接続も違うしな」

 

 

 

吹雪は黙って頷いている。

彼女もまた、かつて艤装を通して“砲”と一体だった存在だ。その原理は少しは理解している。

 

 

 

「妖精たちの補助込みで、あの艤装は“意思”で動かせる。砲塔を回して、射角を合わせて、発射する……そういう一連の動作を、自分の身体みたいに扱えるようになってる」

 

 

 

提督は言葉を選びながら話していた。

 

 

 

「明石の話じゃ、それと同じ理屈を使えば、義手や義足も理論上は“自分の手足みたいに”動かせるようになるらしい」

 

 

 

「……人間にも、艤装と同じ技術を……?」

 

 

 

「そう。戦争が終わっても、怪我で不自由になった奴は山ほどいる。その人たちにとっても、意味のある技術だって、明石は言ってた」

 

 

 

一度、言葉を切って、ふっと微笑む。

 

 

 

「まあ、今は吹雪が何でもやってくれるしな。俺としては、ついつい甘えちまう」

 

 

 

冗談めかして、軽く肩をすくめる提督。

 

 

 

そのときだった。

 

 

 

吹雪が、ふとぽつりと呟いた。

 

 

 

「……それくらいしか……役に立ちませんから……」

 

 

 

ぽそりと落ちたその言葉に、提督の表情がわずかに動く。

 

 

 

「……ん?」

 

 

 

吹雪はすぐには気づかず、自分でも何を言ったかに気づいたときには、すでに取り返しがつかないような気がして、慌てて立ち上がった。

 

 

 

「あっ……あっ……! ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ、なくて……!」

 

 

 

そう言って、逃げるように食器をまとめ、台所へと足早に向かう。

スリッパの音がばたばたと台所に消えていく。

 

 

 

提督はその背をただ見送っていた。

 

一言、声をかけようとしたが――

それが何か、すぐには見つからなかった。

 

 

 

窓の外では、朝の光がまだやさしく差し込んでいた。

だけどその光の中で、二人の影は、わずかにすれ違ったままだった。

 

 

 

風が、カーテンの隙間からやわらかく吹き込んでいた。

夏の余韻を残しつつも、肌をなぞる空気には確かに秋の気配が混じっていた。

遠くからはかすかに焚き火の匂いも漂ってくる。

 

提督は座卓に肘をつき、新聞の片隅をぼんやりと眺めながら、ふとぽつりとつぶやいた。

 

 

 

「芋が美味い季節だなぁ……」

 

 

 

独り言としては少し大きく、誰かに話しかけるには、少しだけ小さな声だった。

 

その直後、ちょうどタイミングを合わせたように、茶托の音が“コトン”と卓に響いた。

 

 

 

「お芋ですか?」

 

 

 

湯気の立つ湯呑みを差し出しながら、吹雪が微笑む。

 

提督は茶を手に取りながら、ふっと息を吐く。

 

 

 

「毎年この季節は、鎮守府じゃあ駆逐艦たちによる“焼き芋大会”が開かれてる頃だったな」

 

 

 

「ですね。みんなで落ち葉を集めて……」

 

 

 

「……掃除させるのがメインの目的だったんだがな」

 

 

 

提督が、懐かしさを滲ませて笑った。

 

「“任務”に名を借りてな。普段掃除をサボる連中も、このときばかりは目の色変えて葉っぱ拾ってたよ。芋のために」

 

「ふふっ」

 

吹雪の笑いが、風の音に混じって揺れる。

 

 

 

「……最終的に赤城が全部食っちまったこともあったな。焼くそばから消えてって、結局駆逐艦たちは、殆ど食べられなかったな」

 

 あははと吹雪は笑う。

 

「途中から隠れて焼いてました」

 

 

 

提督は茶をすすりながら、遠くを見るような目をした。

 

「今は、あいつら……何してるんだろうなぁ」

 

 

風がカーテンを揺らす。

季節の香りと共に、遠い日の喧騒と笑い声だけがふっと脳裏をよぎった。

 

 

 

吹雪は湯呑みを両手で包み込みながら、少し首をかしげて口を開いた。

 

 

 

「……司令は、お会いになられないのですか?」

 

 

 

提督は、少しだけ目を細めた。

 

 

 

「……だから、“司令”って呼ばなくていいぞって、前に言っただろ」

 

 

 

「でも……」

 

 

 

吹雪は少し困ったように視線を伏せる。

 

「名前で呼ぶには距離が近すぎて……“お父さん”は変ですし、“おじさん”は……もっと変ですし」

 

 

 

提督がふっと吹き出した。

 

 

 

「それは……そうかもな」

 

 

 

「なので、えっと……良い呼び方が見つかるまでは、“司令”で……」

 

 

 

湯呑みを持つ手が少しぎこちない。

 

提督は一度だけ天井を見上げ、それから、湯呑みに視線を落とす。

 

 

 

「……会いたいな、とは思うよ」

 

 

 

ぽつりと、茶の湯気に混じるような声で呟いた。

 

 

 

「でも……会わないようにしてる」

 

 

 

吹雪は静かに提督の言葉を待った。

それが大切な言葉であると、察していたから。

 

 

 

「なんて言うか……あいつらは、今、普通の女の子になろうとしてる。制服も脱いで、武装も解いて……自分の人生を歩こうとしてる。

でも、俺が目の前にいたらさ。……否が応でも思い出すだろ?」

 

 

 

「戦争の記憶をさ」

 

 

 

そう言って、提督はお茶をひとすすり。

少し冷めかけた味が舌に広がる。

 

 

 

 

 

吹雪は口を開きかけたが、やめた。

その想いを受け止めるには、自分の言葉がまだ足りないと感じたから。

 

 

 

秋の午後は、静かだった。

その静けさだけが、今の二人をやさしく包んでいた。

 

 

 

沈黙が、ふと訪れた。

 

お互いに何も言わず、それでも気まずさではなく、静かな思考の余韻のような沈黙だった。

 

風の音だけが、障子の隙間を抜けて部屋を撫でていく。

 

 

 

やがて、提督が茶をすすり終え、ふと天井を見上げたまま口を開いた。

 

 

 

「……たまには、散歩でも行くか。二人で」

 

 

 

吹雪は少し驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。

 

 

 

「……そうですね」

 

 

 

そうして立ち上がり、そっと自分のカーディガンを羽織る。

麦わら帽子はもう季節外れになっていた。代わりに、淡いベージュの帽子を手に取る。

 

 

 

***

 

 

 

午後の川沿いは、人影もまばらで、風が木々をさらさらと鳴らしていた。

 

提督は川岸の遊歩道をゆっくりと歩く。

その三歩ほど後ろを、吹雪が少しだけ距離をあけて歩いていた。

 

 

 

無言が続くわけではない。

だが、吹雪は常に半歩後ろに下がり、足音も小さく、決して先を越えようとはしなかった。

 

 

 

(……気になるな)

 

 

 

提督はふと足を止め、振り返るふりをして吹雪を盗み見る。

吹雪は何も気づかぬ様子で、澄んだ川の流れを見ていた。

 

 

 

言うべきか、言わざるべきか――いや、そういう話でもない。

 

それでも、何か“間”が気になって、提督はふいに切り出していた。

 

 

 

「……そ、そうだ」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「……小遣いは、足りてるか?」

 

 

 

吹雪はきょとんと目を丸くした。

 

提督自身も、言ってすぐに「話題が唐突すぎたな」と少し後悔した。

 

 

「お、お小遣いですか……?」

 

吹雪が一歩遅れて問い返す。

提督の問いかけは、彼女にとっても唐突だったらしい。

 

「えっと……足りていると思います」

 

「“思います”ってなんだ、“思います”って」

 

提督は苦笑交じりに言う。

だが吹雪は、少し困ったように首を傾げる。

 

「……あまり使わないので、過不足が分からなくて」

 

「……む、むぅ」

 

提督も思わず、妙な唸り声をあげてしまう。

 

若い子の金銭感覚というものが、どうにも分からない。

自分がその年頃だった頃のことも思い出そうとしたが、既に戦火の中にいた。

 

吹雪もまた、戦時の価値観で育っている。

必要なものは支給される。節制は美徳、贅沢は戒め――そういう世界だ。

 

 

 

「……欲しいもんは、ないのか?」

 

 

 

何気なく聞いたつもりだったが、吹雪はまた少し考え込んだ。

 

「必要なものは……洗剤とか、ストッキングとか……あとは……」

 

「いや、そういうのじゃなくてな。こう……“欲しいもの”だ。趣味とか……楽しみとか、そういう類の」

 

「あっ……ええと……」

 

 

 

吹雪は帽子のつばをいじる。

その仕草が、彼女が「困っている」ときの癖だと、提督は少し前に気づいていた。

 

「……アクセサリーとか……」

 

「お、いいじゃないか」

 

「いえ……そういうのも、別に“おしゃれ”ってわけではなくて……その……」

 

言いづらそうに口元を押さえて、吹雪は視線を逸らす。

 

「……“女の子らしく”って、よく言われるので……最低限だけ、持ってます……」

 

 

 

まるで、アクセサリーが“女子である証明書”のように。

誰かに「あなたは女の子だ」と思ってもらうために、ぎりぎりで選んだ小物たち。

 

華美なものではなかった。

色も形も、控えめすぎるほどに控えめで、本人の個性より“記号”のような印象のものばかり。

 

 

 

提督は少しだけ息をついた。

 

「……そうか」

 

言葉の続きが、喉元で止まった。

 

この年頃の娘には、もっときらびやかなものを手にして笑っていてほしいと思ってしまうのは、もしかすると“戦争を経験した大人”の勝手な願望かもしれない。

 

でも――

 

(この子にとって、“欲しがる”ってこと自体が、難しいのかもしれんな)

 

 

 

秋の川は、相変わらず静かに流れていた。

 

落ち葉が一枚、川面に落ちて、ふわりと流れていく。

それを見つめながら、提督はもう一度問いかけたくなる衝動を飲み込んだ。

 

代わりに、言葉にならないままの思いを込めて、そっと吹雪の歩調に合わせてみる。

 

それだけで、吹雪がほんの少し、横に並んだような気がした。

 

 

日がすっかり傾き、空が茜に染まる頃。

二人は川沿いから戻り、玄関の引き戸をくぐった。

 

 

 

靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、吹雪は自然な手つきで台所へ向かう。

提督が上着を脱いでいる間に、食卓には温かな味噌汁と炊きたてのご飯、そして秋刀魚の塩焼きが並んでいた。

 

 

 

「今夜は秋刀魚です。ちょっと焦げましたが……」

 

 

 

「いや、これが一番うまいやつだ。焼きすぎくらいがいいんだよ」

 

 

 

提督がそう言うと、吹雪はほっとしたように微笑んだ。

 

箸を持ち、静かに「いただきます」と声を揃える。

 

焼き魚の香ばしい匂いと、味噌汁の湯気が食卓をやさしく包んでいた。

 

 

 

夕食を終え、茶碗を片付けた後。

吹雪はリモコンを手にして居間の座卓に座り込む。

 

ぽん、とテレビの電源を入れ、画面が徐々に明るくなる。

ニュース番組か、ドキュメンタリーか、まだ決めかねた様子でボタンを押しながら――ふと笑みをこぼす。

 

 

 

「……こうしてテレビを好きな時に見られるの、久しぶりです」

 

 

 

「ん?」

 

 

 

「鎮守府の娯楽室、テレビの取り合いがいつも激戦で……。誰がどの時間を使えるかで、一日中揉めてたので」

 

 

 

「ああ、いたな……“今夜だけは絶対譲れない”って言ってた奴。なんの番組か聞いたら、アニメの再放送だった」

 

 

 

「はい、たしか五月雨さんが……」

 

 

 

二人して、少しだけ笑う。

 

その笑いは穏やかで、静かで、どこか懐かしかった。

 

 

 

「……なんか、それだけで“普通の家”って感じがしますね」

 

 

 

吹雪が、そうぽつりと呟いた。

その言葉が何気ないようでいて、どこか切実で、提督の胸に静かに響いた。

 

 

 

「――そうだな」

 

 

 

テレビは、特に大きな音もなくニュースを流している。

外では虫の声が、季節の移ろいを告げていた。

 

 

 

吹雪は、ほんの少しだけ、提督のそばに寄って座った。

 

その距離はまだ“家族”と呼ぶには遠いかもしれない。

けれど、確かに近づいていた。

 

 

チャンネルを何気なく回していると、ある番組で画面が止まった。

明るいスタジオの中、ステージ衣装に身を包んだひとりの少女が、カメラに笑顔を向けていた。

 

 

 

「……那珂、ちゃん……?」

 

 

 

吹雪が、手にしたリモコンを膝の上に置いて、画面をまじまじと見つめる。

 

派手すぎないが洗練された衣装に、堂々としたパフォーマンス。

カメラをまっすぐに見据える視線と、振り切ったアイドルスマイル。

 

間違いない――かつての仲間、那珂だった。

 

 

 

「……おお、那珂か。テレビ出てんのか、今」

 

 

 

提督が、腕を組みながら頷く。

 

「広報担当やってたからな。軍服姿でポスターに載った時は“やりすぎだ”って怒られたもんだが……今じゃ立派なトップアイドルだ」

 

 

 

那珂の元々の夢は“アイドル”だった。

子どもの頃からの憧れ。だけど、艦娘適性の高さからそのまま軍に編入された。

 

当時は、歌も踊りもすべて“お遊び”扱いだった。

そんな彼女に「せめて夢の形を残してやれ」と提督が始めさせたのが、あの広報名目の“アイドル活動”だった。

 

今、それが本物になっている。

 

 

 

「那珂さん、凄いですよね……」

 

 

 

吹雪がぽつりと呟く。

尊敬と憧れと、ほんの少しの驚きが混ざった声だった。

 

 

 

「夜戦でも、お世話になりました」

 

 

 

提督が視線を向けると、吹雪は懐かしそうに口元をほころばせていた。

 

 

 

「探照灯を前に出してくれて、火力支援までやってくれて……敵の目を引きつけて、私たちはその隙に――」

 

 

 

そこまで言って、少しだけ言葉を止める。

 

 

 

「……私、那珂さんの後ろ姿、何度も見ました。いつも一番前にいて、でも“見て見てー”って手を振ってくれて」

 

 

 

「……それも“アイドル”の仕事なんだと、あの人は言ってましたよね。みんなを前向きにすること」

 

 

 

提督は小さく頷き、画面の中でスポットライトを浴びて手を振る那珂を見つめる。

 

「……今も、前を歩いてるな。あいつは」

 

 

 

テレビの音量を少しだけ上げる。

那珂が笑顔で歌いながら、観客に語りかける。

 

 

 

「“那珂ちゃんはずっとみんなのアイドルでーす!”……か」

 

 

 

「変わらないですね、あの言い回し」

 

 

 

変わったのは立場、そして時代。

けれど、根っこは何も変わっていない。

 

 

 

吹雪はじっと画面を見つめたまま、言った。

 

 

 

「……私も、ああなれるでしょうか」

 

 

 

提督はすぐには答えなかった。

けれどその言葉を、否定する気持ちは微塵もなかった。

 

 

 

夜は、静かに深まっていく。

テレビの中では、変わらぬ笑顔と、新しい未来が、まぶしく輝いていた。

 

 

テレビの中で、那珂が軽快に答えを返す。

「やったー!」と喜ぶ笑顔は、画面越しでもまぶしかった。

 

照明の光、拍手、歓声。

あの戦場で共に夜を越えてきた彼女が、今や人々の前で光を放っている。

 

 

 

吹雪は、それをじっと見つめていた。

 

そして――ふと、思った。

 

 

 

(那珂さんは、夢を叶えたんだ)

 

 

 

アイドルになりたい。

かつてそれを、誰かが笑ったかもしれない。

けれど彼女は笑われることを恐れず、諦めず、ここまで歩いてきた。

 

 

 

(……では、私は?)

 

 

 

自分は、何を叶えたいのだろう。

 

戦いの中にいたときは、ただ「勝つこと」「生き残ること」がすべてだった。

けれど、今――平和になった今、自分の中に“夢”と呼べるものはあるのか。

 

 

 

湯呑みの茶はもう冷えていた。

その向こうで、提督が穏やかな顔でテレビを眺めている。

 

那珂の活躍を、心から喜んでいるような、優しげな笑みだった。

 

ああ、この人は――

本当に、あの頃から変わらない。

 

いつも自分より、他人の歩みを嬉しそうに見つめている。

 

 

 

(この人の夢って、なんだったんだろう……)

 

 

 

吹雪は小さく息を吸い、戸惑いながらも言葉を紡いだ。

 

 

 

「……司令」

 

 

 

提督が、ふとこちらを振り返る。

笑顔の余韻を頬に残したまま、ゆっくりと吹雪を見る。

 

 

 

「……夢、って……あったんですか?」

 

 

 

問うた自分が、少しだけ驚いた。

そんなこと、これまで一度も考えたことがなかったから。

 

でも今は――どうしても聞いてみたくなった。

 

 

 

那珂のように、夢を持ち、それを叶えた人の姿を見て。

 

そして――

傍らにいるこの人が、そのとき何を思っているのかを知りたくて。

 

 

「……夢、か」

 

 

 

提督が、ぽつりと呟いた。

 

声の調子は、どこか遠くを見るような、記憶を手繰るようなものだった。

 

 

 

「俺はな、ガキの頃――ある襲撃で、家族をまるごと失くした」

 

 

 

吹雪が、息をのむ。

 

けれど提督は、感情を押し殺すでもなく、淡々と語った。

 

 

 

「家も、街も……全部焼けた。故郷なんて言える場所も、何もかも。更地だ」

 

 

 

「……夢を追うには、ちと血なまぐさ過ぎてな」

 

 

 

ふ、と小さく笑った。

その笑みは、皮肉でも、自嘲でもなかった。どこか、もうすっかり風化した痛みに触れるような優しさがあった。

 

 

 

「――だが」

 

 

 

そこで言葉を切り、湯呑みに手を伸ばす。

冷めた茶をひとすすりして、ようやく続ける。

 

 

 

「強いて言うならな。野球選手になりたかったんだよ、俺」

 

 

 

吹雪が、驚いたように顔を上げる。

 

 

 

「……バットとグラブ握って、毎日泥だらけで走ってさ。ポジションはピッチャー。球速は……大したことなかったけどな」

 

 

 

懐かしそうに笑ったその横顔は、どこか“夢”をまだ手の中に残しているかのようだった。

 

 

 

「夢は叶わなかった。けど、それで不幸だったかって言われりゃ……そうでもない」

 

 

 

提督はふっと窓の外に目を向ける。

秋の夜風が、障子の隙間をかすかに鳴らしていた。

 

 

 

「もう、そんな血なまぐさい世界は終わった」

 

 

 

「それにな――夢ってのは、あったら偉いってもんでも、なけりゃダメってもんでもない」

 

 

 

吹雪は、静かに彼の言葉を聞いていた。

その目には、ほんの少しの戸惑いと、安堵が混ざっていた。

 

 

 

「今、やりたいことが見つからないって、悪いことじゃねえんだよ。そういうもんだ。……いずれ見つかる」

 

 

 

そして、吹雪の顔を見た。

その瞳の奥に潜む、言葉にならない焦りを――提督は、しっかりと見抜いていた。

 

 

 

「だからな、吹雪。ゆっくりでいいんだ」

 

 

 

「焦んなくていい。夢は、見つけるもんじゃなくて、ふと気づいたらそこにあった、みたいなもんだからさ」

 

 

 

吹雪は、はっとしたように目を見開き――

やがて、ほっと息をついた。

 

 

 

それは、誰かに許されたような、あたたかな安堵の吐息だった。

 

 

 

テレビの中では、那珂の出演した番組が終わり、別の番組に切り替わっていた。

 

けれど、その画面はもう見なくてもよかった。

 

今、この部屋にある言葉と沈黙だけが、吹雪の中にしっかりと残っていたから。

 

 

提督の言葉は、吹雪の胸にゆっくりと染み込んでいった。

 

「夢は、見つけるもんじゃなくて、ふと気づいたらそこにあった、みたいなもんだからさ」

 

 

 

それを聞いたあと――

 

 

 

(……なら、私の夢は)

 

 

 

(まだ見つからないけど)

 

 

 

心の中で、そっと吐き出すように思った。

 

あれほどまでに明確な目標があった日々。

敵を倒す、味方を守る、“司令の命令”を全うする。

 

それらがすべて終わった今、自分はどこへ向かえばいいのか――

吹雪にはまだ、答えがなかった。

 

 

 

けれど。

 

 

 

ふと提督の顔を見つめた。

 

かつて、艦隊を率いていた頃の姿が、瞼の奥に浮かぶ。

遠くから見上げていたその背は、まるで雲の上に立つような存在だった。

 

命令を下す人。戦場の先を読む人。

迷いなく、全員を導く存在。

 

 

 

(近寄りがたかったな……あの頃は)

 

 

 

でも今、目の前にいるのは――

 

優しげな横顔で茶をすすり、冗談を交えて話す、柔らかい雰囲気の男だった。

威厳ある司令官でもあり、時に頼れる兄のようで、どこか父のようでもある。

すべてが混ざった、でもどれにもはっきりとは属さない、不思議な存在。

 

吹雪は、その姿をしばらくじっと見つめていた。

 

 

 

自分の夢は、まだ分からない。

けれど、この人の隣で“なにか”を見つけられるような、そんな気がした。

 

今はまだ、それで十分だった。

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