艦これ 砲声なき日々に 作:ダッフル
朝の光が、障子の隙間から静かに差し込んでいた。
春の匂いが混じる風が、家の中まで入り込み、柔らかくカーテンを揺らしている。
玄関先では、吹雪が鏡の前でぎこちなく制服の襟を整えていた。
深呼吸をひとつして、手のひらでスカートの皺を直す。
白いブラウスに紺の上着――新しい制服はまだ肩に馴染んでいない。
「う、うわぁ……緊張する……」
呟く声がかすかに震えていた。
それでも目はまっすぐ前を見ている。
加賀がそっと近づき、肩のあたりを直してやった。
「はい。これで大丈夫。よく似合っていますよ」
「……ほんとに?」
「ええ、立派な中学生です」
吹雪は照れたように笑い、靴を履く。
玄関の外には、淡く霞んだ青空と、早咲きの桜が揺れていた。
その少し後ろ、廊下の柱に寄りかかるようにして提督が立っていた。
今日は義手を外したまま、左袖を折り込んでいる。
無骨な姿のまま、どこか優しい目をしていた。
「……い、行ってきます!」
吹雪は少し声を張って言った。
緊張と期待が入り混じった、そのまっすぐな声。
提督は口の端をゆるく上げ、短く頷く。
「行ってこい」
加賀も静かに微笑んで言葉を添える。
「気をつけて。帰りは寄り道しないようにね」
「は、はいっ!」
吹雪は勢いよく頭を下げると、鞄を抱えて駆け出した。
春の朝の風を切って、坂の向こうへと走っていく。
提督と加賀は並んで、その背を見送った。
小さくなっていく吹雪が、時々振り返っては笑いながら手を振る。
そのたびに、提督は右手を上げて応えた。
「……中学三年、かぁ」
しみじみと呟く声。
加賀はそっと頷き、隣で微笑んだ。
「最初に会った頃のあの子を思うと、信じられないですね」
「……ああ、ほんとにな」
提督は袖口を軽く押さえ、視線を遠くに送った。
あの頃、泣きながら「ふぶきでしゅ」と名乗った小さな少女が、
今はもう、自分の足で未来へ歩き出している。
春風が吹き抜け、桜の花びらが庭先を渡る。
その柔らかな光景の中で、提督は小さく呟いた。
「……立派になったな」
吹雪の背中はもう見えない。見えなくなった背中の代わりに、蜃気楼のようにかつての吹雪との出会いを思い出していた。
吹雪が艦娘として就役した当時――
戦局は、表面上こそ優勢に転じつつあったが、決して安定してはいなかった。
深海棲艦は殲滅しても殲滅しても、まるで底のない海の奥から湧き出すように現れ、前線の報告書には連日「再出現」「新型確認」「損耗補充不能」の文字が並んでいた。
補充のための艦娘候補は全国から徴集され、適性があれば、年齢も経歴も問われることはなかった。
「国家のために」「海を守るために」――その名のもとに、選別は淡々と行われた。
特に駆逐艦や海防艦といった小型艦種は、艤装が軽く、肉体への負担が比較的少ないとされた。
そのため、適性検査にかかった少女たちの中でも、幼い者ほど優先的に配属されていった。
まだランドセルすら背負ったことのない年齢の子供が、
次の日には「艦娘」として基地に立たされる――そんなことが珍しくなかった。
吹雪も、そんな時代の中の一人だった。
孤児院で生活していた彼女は、ある日突然「適性あり」と判断され、
あれよあれよという間に軍服を与えられ、
まだ十にも満たない身体に、艤装を背負わされた。
就役初日の彼女は、震える声で名を名乗った。
制服はぶかぶかで、艤装のベルトが肩からずり落ちていた。
「ふぶきでしゅ!」――そう噛みながら必死に言ったあの姿は、
提督の脳裏に今も鮮やかに残っている。
無数の子供たちが、海へ出て、そして帰らなかった時代。
それでも、吹雪は生き残った。
そして――戦後を迎えた今、ようやく“少女”として生きられる日が来たのだ。
提督は、彼女の背中を見送りながら、
あの頃の小さな声を思い出していた。
「本当に……よく、ここまで来たな」
春の風が吹き、庭の花が静かに揺れた。
玄関の戸が閉まって、吹雪の足音が遠のいても――
提督はしばらくその場に立ち尽くしていた。
小さくなっていく背中を見送った後の静けさが、
思っていたよりも胸に響いている。
家の中に戻っても、どうにも落ち着かない。
廊下を行ったり来たりし、湯飲みを持っては置き、
時計を見てはため息をつく。
加賀が大学へ出る支度を整えて廊下に姿を現した。
黒いカバンを肩にかけ、襟元を整えながらふと提督を見やる。
「……心配だからって、学校を見に行ったりしたらダメですよ」
ピタリ、と提督の動きが止まった。
「えっ!? あ、ああ……もちろん、するはずないだろう、ははは」
笑いながら言ったものの、目線がやや泳いでいる。
図星を突かれた子供のような反応に、加賀は呆れ半分のため息をついた。
「本当に、貴方は……」
そう言いながらも、声の調子はやわらかい。
口元には、わずかに優しげな笑みが浮かんでいた。
提督は気まずそうに咳払いをひとつして、
居間に腰を下ろした。
「……いや、ただな。初日だから、どうしてるかなって思っただけで……」
「ええ、そうでしょうね」
加賀はそう言って髪を耳にかけ、
玄関に向かう途中で少しだけ振り返る。
「吹雪は大丈夫です。あの子、もう強いですよ」
「……ああ」
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
提督はその場に残された湯飲みを手に取り、
ひと口だけぬるくなった茶をすすった。
春の光が障子越しに差し込み、
さっきまで吹雪の声が響いていた空気を、
やわらかく照らしていた。
そして思わず、ぽつりと呟く。
「……ちょっと、門のあたりまでなら……いや、やめとくか」
独り言に、自分で苦笑した。
穏やかな朝――家の中には、まだ吹雪の気配が少しだけ残っていた。
春の朝の光はやわらかく、街の屋根を金色に染めていた。
吹雪は新しい制服の袖をぎこちなく直しながら、緩やかな坂道を歩いていた。
手に持つ鞄が、やけに重い。
重いのは中身よりも、きっと気持ちの方だ。
通りの向こうから、同じ制服を着た生徒たちが次々と現れはじめた。
笑い声、話し声、弾む足取り。
その輪の中に入りきれず、吹雪はそっと歩幅を狭めた。
(わ……すごい……人がいっぱい……)
戦後にようやく開かれた学校。
机を並べて誰かと勉強するなんて、これまでの人生では一度もなかった。
海の音よりも、砲声よりも、
“人の声”という音が、こんなに賑やかだとは知らなかった。
胸の奥がどきどきと脈を打つ。
緊張で喉が乾き、息が少しだけ浅くなる。
(確か……新入生は最初、職員室に行くんだった……)
そう思い出しながら、ぎこちない足取りで校門をくぐる。
掲げられた校章が、春風に揺れている。
校舎の中は、想像していたよりも明るくて広かった。
木の床は新しく、ワックスの香りがかすかに漂う。
何人もの生徒が廊下を行き来していて、その一人一人が
「おはよう」と挨拶を交わし合っている。
吹雪は廊下の隅を歩きながら、
(ここ……で、いいのかな……)
と心の中で呟き、緊張した指で扉の札を確認した。
――職員室。
小さく息を吸って、ノックをする。
「し、失礼します……!」
中から「どうぞ」と声がした。
扉を開けると、書類の山とコーヒーの香り。
机を並べた職員たちの中から、一人の女性が顔を上げた。
「ああ……あなたが、吹雪さんね?」
まだ若く、やや慣れない笑顔。
白いブラウスにネイビーのカーディガンを羽織ったその人は、
少しおどおどしながらも、優しい目をしていた。
「えっと……はい! 吹雪です!」
吹雪が緊張で背筋を伸ばすと、
女性は微笑みながら手を差し出した。
「私は担任の桜井です。今日からよろしくね、吹雪さん」
「よ、よろしくお願いしますっ!」
思わず大きな声になってしまい、
職員室のあちこちで小さな笑いが起きた。
けれど――その笑いは、温かかった。
吹雪は頬を赤くしながらも、胸の中でそっと呟く。
(……学校って、こんなに優しい場所なんだ)
「ちょっと始業の時間になるまで待っててくれる?」
桜井先生がそう言って、お茶を差し出してくれた。
湯呑の中では湯気がふわりと立ちのぼり、ほのかに香る緑茶の匂いが心を落ち着かせてくれる。
「は、はい……ありがとうございます!」
吹雪は両手で湯呑を包み込むように持ちながら、職員室の隅に腰を下ろした。
窓から差し込む朝の光が、カーテン越しに柔らかく机の上を照らしている。
周囲の先生たちは書類を整えたり、今日の授業の準備をしたりしていて、
その何気ない動きが吹雪には新鮮だった。
(……ここが、“学校”なんだな)
戦火の中で聞いていた怒号や命令の声とはまるで違う。
そこにあるのは、静かで穏やかな空気――命令ではなく、日常の会話。
その優しさに包まれているうちに、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
そんな時、職員室の扉が音を立てて開いた。
「おはようございます、皆さん」
柔らかな声とともに入ってきたのは、一人の女性だった。
スーツ姿がよく似合い、髪をきちんとまとめたその女性の歩き方には、
どこか静かな自信と品があった。
桜井先生が顔を上げ、すぐに微笑む。
「おはようございます、教頭先生」
「おはよう。朝の見回りがようやく終わりました」
そう言って軽く頷きながら、教頭は職員室を見回した。
そして――吹雪の姿を見つけると、優しく目を細めた。
「やぁ……おはよう。久しぶりですね」
吹雪ははっとして立ち上がる。
「お、おはようございます! 教頭先生!」
教頭――真壁先生。
下見で一度校舎を案内してもらったとき以来の再会だった。
あの時と同じ、柔らかく落ち着いた声。
誰に対しても敬語を使い、けれど決して距離を感じさせない。
厳しさと優しさを同居させるその人柄は、まるで教職者の鑑のようだった。
「もうすぐ始業式です。少し緊張しているみたいですね」
「は、はい……ちょっと、ドキドキしてて……」
「それでいいんですよ。初めての場所で緊張できるのは、誠実な証拠です」
そう言って、真壁教頭は微笑んだ。
その微笑みは、海のように穏やかで、どこか懐かしい。
吹雪は湯呑を両手で握りしめたまま、
胸の奥がすこしだけ温かくなるのを感じていた。
「わざわざ……私のためにありがとうございます」
吹雪が頭を下げると、真壁教頭は一瞬、きょとんとした表情を見せた。
だが、すぐにその意図を理解したように、口元をやわらかく緩めた。
「ふふっ、それは違いますよ」
「え……?」
「新学期からやってくる子たちはね、大体、始業式の日に職員室で顔合わせをして、
そのあとにクラスで紹介されるんです。貴女だけが特別というわけではありません」
吹雪は思わず息を呑んだ。
その声音には、まったく見下すような響きがなかった。
ただ当たり前のことを、優しく教えるような調子。
「つまり……何も特別扱いではありません」
真壁教頭はゆっくりと言葉を続ける。
「貴女が艦娘だったから、ではなく――
“ひとりの我が校の生徒”として、ここにいるんですよ」
静かに、けれど確かに届く言葉だった。
吹雪は何か言い返そうとして、けれど喉の奥で言葉が止まった。
胸の奥が熱くなり、目の奥が少しだけ滲む。
「……生徒として、ですか」
「ええ。ここでは、そうです」
真壁教頭の笑みは、春の日差しのように柔らかかった。
その穏やかさに、吹雪は胸の中でそっと息を吸い込む。
――家族以外の大人に、“居場所”を与えられる。
それは、初めての経験だった。
軍でも、施設でも、いつも“艦娘”という枠の中にいた。
だが今、目の前のこの人は、“吹雪”というひとりの少女として見てくれている。
ほんの一瞬の沈黙のあと、吹雪は小さく微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます、教頭先生」
「どういたしまして。これから、学校を好きになってくれると嬉しいです」
その声は、まるで春風のように優しく、
吹雪の心に、静かに灯をともした。
湯呑を持つ手を膝の上に置き、吹雪はそわそわと落ち着かないまま座っていた。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
(もうすぐ……かな)
そのときだった。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
始業のチャイムが校舎に響き渡る。
胸がきゅっと縮み、吹雪は思わず背筋を伸ばした。
「じゃあ、行きましょうか」
桜井先生が優しく声をかけ、立ち上がる。
吹雪は慌てて鞄を持ち、こくりと頷いた。
廊下を歩くたび、教室の扉の向こうから声が漏れてくる。
笑い声、椅子を引く音、朝のざわめき。
そのすべてが、これから自分が入っていく“世界”なのだと思うと、心臓が早鐘を打った。
(大丈夫……大丈夫……)
何度もそう自分に言い聞かせる。
戦場より怖い、とは思わない。
けれど、知らない人の中に一人で入っていくこの感覚は、まったく別の緊張だった。
「ここが、あなたの教室ですよ」
桜井先生が立ち止まり、扉に手をかける。
吹雪は小さく息を吸った。
がらり。
扉が開く。
「みなさん、おはようございます」
先生の声と同時に、教室の中のざわめきが続いていた――が。
吹雪が一歩、教室の中に足を踏み入れた瞬間。
しん。
まるで誰かが音を切ったかのように、喧騒が消えた。
数十の視線が、一斉にこちらを向く。
吹雪は思わず固まった。
足先が床に貼りついたように動かない。
教室の空気が静まり返る中、吹雪は立ち尽くしていた。
けれど、いつまでも黙っているわけにはいかないと、自分に言い聞かせる。
すぅ――と息を深く吸い込む。
足の震えを抑えるように、一歩、前へ。
「えっと……」
声が自然と大きくなっていた。
「新しくこの学校に転入してきました、吹雪です」
教室の空気が少しだけ揺れる。
けれど、彼女は続けた。
「もともと、艦娘をやっていました。……よろしくお願いします」
緊張にぎこちない動きながら、手にしたチョークで黒板に「吹雪」と書く。
しっかりとした字ではなかったが、どこか優しい筆跡だった。
すると、教室のあちこちから声が上がった。
「えー! 艦娘やってたのー!?」
「マジ!? 本物!? 本当に!?」
「戦ってたってこと!?」
一気に騒がしくなる教室。
目を輝かせて身を乗り出す生徒たちに、吹雪は戸惑いつつも思わず照れ笑いを浮かべた。
「はい……一応……」
「はーい、落ち着いて、落ち着いてー!」
桜井先生が両手をパチパチと叩いて、生徒たちをなだめた。
「質問はあとでね、はい、それじゃあ吹雪さん、こちらへ」
案内されて、吹雪は小さく頭を下げながら席へと向かう。
「……えへへっ……」
緊張から思わず少し照れた笑みを浮かべながら、自分の席にそっと腰を下ろす。まだ緊張は消えなかったけれど、その笑顔は、たしかに“新しい日常”のはじまりを感じさせていた。
吹雪が席に着くと、隣の席の男の子がそわそわと体を揺らした。
短く整えた髪に、背筋の伸びた姿勢。
眼鏡の奥の目は少し泳いでいて、いかにも“真面目”と書いてあるような少年だった。
少し迷ってから、意を決したようにこちらを向く。
「よ、よろしくね……吹雪さん」
声はやや裏返り、緊張が隠せていない。
それでも、逃げずにちゃんと挨拶してくれた。
吹雪は一瞬きょとんとしたあと、ふわっと表情を緩めた。
「よ、よろしくお願いします。吉見さん」
名札を見てそう呼ぶと、吉見はほっとしたように小さく息を吐いた。
それを見て、吹雪の胸の奥も少しだけ軽くなる。
――この瞬間だった。
吹雪にとって、はっきりと「友達」と呼べる存在ができたのは。
基地にいた頃、夕立や睦月とは確かに仲が良かった。
笑い合い、じゃれ合い、背中を預け合った。
友情も、信頼も、親愛も、確かにそこにあった。
けれどそれは、常に“戦場”と隣り合わせだった。
同じ命令を受け、同じ海へ出て、同じ死を見つめる――
友達というよりも、どうしても「戦友」という言葉が先に浮かぶ関係だった。
それは大切で、誇りでもあった。
だが同時に、軍人としての立場と切り離すことはできなかった。
それに比べて今はどうだろう。
同じ制服を着て、同じ教室に座り、
ただ「よろしくね」と言葉を交わしただけ。
戦果も、階級も、命令もない。
――ただの、同じ学校に通う男の子。
その事実が、吹雪の胸をじんわりと温めた。
少し照れくさくて、少し不安で、でも確かに嬉しい。
(……これが、“普通の友達”なんだ)
黒板の前では先生が出席を取り始め、
教室にはまた、朝のざわめきが戻ってきていた。
吹雪は前を向きながら、そっと微笑んだ。
新しい世界での、最初の一歩が、確かにそこにあった。
その後の自由時間――
それは、吹雪にとって想像以上に“嵐”だった。
「ねえねえ! 深海棲艦ってやっぱ怖かった?」
「砲撃とか、ほんとにドーン!ってなるの?」
「キルスコアってどれくらい? やっぱ二桁?」
「沈めた数、覚えてる!?」
四方八方から飛んでくる声。
身を乗り出す生徒、机を叩く音、興奮したざわめき。
「えっ、えっと……その……」
吹雪は視線を右へ左へとさまよわせ、完全に混乱していた。
質問が終わる前に次の質問が重なり、
どれに答えればいいのか分からない。
(ま、待って……そんな一気に……!)
戦場では砲声の中でも冷静でいられたはずなのに、
この距離、この熱量、この“純粋な好奇心”には、
まったく別の種類の圧を感じていた。
「あ、あの……こ、怖かった、です……けど……」
「キ、キルスコア……? えっと……その……」
しどろもどろになるたび、
「おおー!」
「やっぱすげー!」
と勝手に盛り上がっていく。
吉見も心配そうにこちらを見ていたが、
この流れに割って入る勇気はなさそうだった。
吹雪は完全に目を回しそうになりながら、
助けを求めるように桜井先生の方を見る。
ちょうどその時、教室の前方から声が上がった。
「はいはい、みなさんそこまで!」
ぱん、と手を叩く音。
「今日は始業式です。質問大会はまた今度にしましょう」
その一言に、教室は少しだけ不満そうな空気を残しつつも静まった。
「すぐに体育館へ移動します。整列してください」
椅子を引く音が一斉に響く。
吹雪はようやく解放され、ほっと息をついた。
「……た、助かりました……」
小さく呟くと、吉見が控えめに声をかけてくる。
「だ、大丈夫? ちょっと……すごかったね」
「……はい……ちょっと、目が回りました……」
そう言って苦笑すると、吉見も少し安心したように笑った。
廊下へ向かう列に並びながら、吹雪は思う。
(……戦場より、教室のほうが大変かも……)
けれど、その胸の奥には、確かな温もりがあった。
こうして話題にされ、囲まれ、驚かれる――
それは“艦娘”としてではなく、“同級生”として見られている証だったから。
体育館へ向かう足取りは、まだ少しぎこちない。
それでも、吹雪は前を向いて歩いていた。
今日という日が、
新しい日常の始まりであることを、ちゃんと感じながら。
在校生と新入生を合わせても、人数は決して多くはない。
それでも体育館には、独特のざわめきが満ちていた。
やがて校長先生が壇上に立ち、マイクに向かって咳払いをひとつ。
「――えー、本日は新学期の始まりにあたり……」
始まったのは、いわゆる“これといって意味のない長い話”だった。
教育とは何か、学びの大切さ、伝統と未来――
言葉は丁寧で、悪くはないのだが、どうしても長い。
吹雪は背筋を伸ばし、きちんと両手を膝に置いて話を聞いていた。
聞いては、いた。
けれど――
言葉の端々が、いつの間にか別の記憶を引き寄せていた。
(……春だったな……あの時も)
ふと、脳裏に浮かぶのはソロモン諸島。
自分が参加した、初めての大規模作戦。
あれも、ちょうど今頃の季節だった。
湿った風、まだ冷たさの残る朝の空気。
作戦開始前の、張りつめた静寂。
周囲には、数えきれないほどの艦娘たちがいた。
皆、同じ方向を向き、同じ海を見つめていた。
そして、その先頭に――
司令が立っていた。
地図を前に、淡々と、しかし一切の迷いなく作戦を読み上げる声。
誰一人として無駄口を叩かず、
ただその声に耳を傾けていた。
(……あの背中、大きく見えたな)
不思議と怖さはなかった。
ただ、“ついていけば大丈夫だ”という確信だけがあった。
今、目の前で校長先生が話している内容は、
戦果でも、生死でも、命令でもない。
それなのに――
胸の奥に去来する感覚は、どこか似ていた。
大勢に囲まれ、
何かの「始まり」に立ち会っているという感覚。
吹雪は、そっと瞬きをして現実に意識を戻す。
体育館の天井、並ぶ生徒たち、静かな話し声。
(……もう、戦場じゃないんだよね)
そう思うと、少しだけ不思議で、少しだけ安心した。
姿勢を正したまま、吹雪は前を向く。
過去を思い出しながらも、
今は――この場所にいる。
春の体育館に響く校長先生の声は、
ゆっくりと、穏やかに時間を進めていた。
始業式を終えて教室へ戻ると、状況はすぐに分かった。
席に着く間もなく、吹雪の周りに人だかりができていた。
「ねえねえ、制服どう? 着慣れてる?」
「艦娘の時って、髪どうしてたの?」
「寮生活だったの? それとも基地?」
女子たちは女子たちで、同性ならではの距離感で、次々と話しかけてくる。
服装のこと、髪のこと、生活のこと――
どれも戦場では一度も聞かれなかった類いの質問だった。
一方で、少し離れたところから、あるいは勇気を振り絞って近づいてくる男子たち。
「その……戦う時って、やっぱ強かったの?」
「深海棲艦って、ほんとにテレビみたいなの?」
「……えっと、今はもう、普通の人……だよね?」
異性としての興味と、少しの憧れと、ほんのわずかな緊張。
視線や声色の違いに、吹雪は内心どぎまぎしながらも、
ひとつひとつ、できるだけ丁寧に答えていた。
「えっと……はい、今は……学生です」
その言葉を言うたび、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
――年頃の子供たちというのは、本当に無邪気だ。
好奇心が旺盛で、遠慮がなくて、裏表もない。
それは時に、圧倒されるほどの熱量だったが、
同時に、吹雪にはとても眩しく感じられた。
戦場では、誰もが距離を測り、言葉を選び、
命の重さを背負った視線で相手を見ていた。
けれどここでは違う。
ただ「気になるから聞く」という、それだけの理由で集まってくる。
吹雪は、少し照れたように笑いながら、
胸の中でそっと思った。
(……学校って、やっぱりすごいところだな)
ざわめきに包まれた教室の中で、
吹雪は確かに“普通の時間”の真ん中に立っていた。
「吹雪ちゃーん!」
教室のざわめきの向こうから、
人混みをかき分けるようにして、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「あー! やっぱりー!」
ひょこっと顔を出したその少女を見た瞬間、
吹雪の胸が一気に跳ね上がる。
「……夕立ちゃん!」
次の瞬間、二人は周りも気にせず抱き合っていた。
「ほんとに来てたっぽい!」
「夕立ちゃんも……!」
久しぶりのぬくもり。
戦場で背中を預け合った、間違いなく“戦友”だった存在。
その体温は、今も変わらず、確かだった。
教室のあちこちから、
「知り合い!?」「誰!?」
とざわつく声が上がる。
その時――
「夕立さん! 隣のクラスですよー! 戻ってきなさーい!」
廊下の向こうから、少し慌てた担任の先生の声が飛んできた。
「はーい!」
夕立はぺろっと舌を出し、名残惜しそうに一歩下がる。
「えへへ、もう戻らなきゃ」
そして、満面の笑みで言った。
「吹雪ちゃん! また今度!」
「うん……!」
「次はお昼、一緒に食べるっぽい〜!」
そう叫びながら、夕立は廊下を走っていった。
ぱたぱたと遠ざかる足音。
吹雪は、その背中が見えなくなるまで、
少し呆然と立ち尽くしていた。
胸の奥に残る、懐かしさと嬉しさが入り混じった感覚。
(……夕立ちゃんも、ここにいるんだ)
戦場での“戦友”と、
学校での“同級生”。
二つの世界が、今この場所で静かにつながった気がした。
吹雪は小さく息を吐き、
改めて、今いる教室を見回す。
――ここが、自分の居場所なんだ。
そう思えた瞬間だった。
今日は始業式だけで、授業は明日から。
教室の空気もどこか気が抜けたようになり、担任の桜井先生が教卓から一枚の紙を配り始めた。
「はい、これが入部届です。もし入りたい部活があったら、気軽に出してくださいね」
紙が前から後ろへと回ってくる。
「あと、去年入ってた子も、もう一回出してねー」
そんな一言に、教室が少しざわついた。
すると間髪入れず、あちこちから声が飛んでくる。
「合唱部おいでよ!」
「手芸部も楽しいよー!」
「美術なんてどう? 絵、描けそうじゃない?」
次々と向けられる勧誘に、吹雪は目を瞬かせた。
「え、えっと……」
一瞬どう返していいか分からず、困ったように笑う。
「……ちょっと、家でゆっくり考えます」
そう言って入部届を大事そうに鞄へしまった。
急いで決める必要はない――そう思えたのは、ここが“戦場”ではないからだ。
席に戻ってから、吹雪はふと過去を振り返る。
基地にいた頃、
定期的にあったのは、司令が企画する球技大会くらいだった。
バレーボールやドッジボールで、
皆が無理やり笑って、無理やり息を抜く時間。
それ以外は、ほとんどが訓練と出撃の日々。
(……あ)
不意に、別の光景が頭に浮かんで、
吹雪は思わず小さく苦笑した。
秋雲が、司令のえっちな本を勝手に描いて、
いつの間にか基地のどこかで売りさばいて、
ちゃっかり儲けていたこと。というかそれをごっちゃにしたら流石に頑張ってる人達に失礼かと思いつつも。
(……あれ、怒られてたけど……)
それでもどこか、皆が黙認していた、あの不思議な空気。
今思えば、それもまた、
必死な日々の中での、歪だけれど確かな“日常”だったのかもしれない。
吹雪は鞄の中の入部届に、そっと指先を触れた。
(部活……かぁ……)
まだ想像はつかない。
でも、選べるということ自体が、少し嬉しかった。
下校の時間になり、教室を出るために廊下へ足を踏み出した時だった。
人の流れの向こうから、見覚えのある銀色の髪が見えた。
――夕立ちゃん。
吹雪は思わず足を止める。
声をかけようとして、口を開きかけて……そのまま、言葉を飲み込んだ。
夕立は、たくさんの友達に囲まれていた。
笑い声の中心で、身振り手振りを交えながら楽しそうに話している。
その輪はとても自然で、今の夕立の“居場所”そのものに見えた。
(……もう、声かけなくても大丈夫、かな)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと小さく痛んだ。
拒絶されたわけでも、避けられたわけでもない。
ただ――タイミングを逃しただけ。
それなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
吹雪は小さく息を吐き、
その場で手を振ることもできず、そっと視線を伏せた。
肩を少し落としたまま、昇降口へ向かう。
靴を履き替え、校舎を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。
(……また、お昼一緒って言ってたし……)
自分にそう言い聞かせながら、帰路につく。
背中に感じる校舎の気配が、少しだけ遠くなっていく。
そんな吹雪の様子を、見ていたのだろうか。
昇降口を出て、ひとり歩き出そうとしたところで、
控えめな声が背中からかかった。
「……あの、吹雪さん」
振り返ると、吉見が少しだけ緊張した顔で立っていた。
「よかったら……一緒に帰らない? 方向、同じみたいだし」
一瞬、驚いて目を見開く。
けれどすぐに、吹雪は小さく笑って頷いた。
「う、うん。お願いします」
たまたま帰る方向も同じで、
二人は並んで歩き始めた。
春の昼前の道は静かで、
風も柔らかく、制服の袖を軽く揺らす。
最初は、どちらもあまり言葉を発さなかった。
沈黙が気まずいわけではない。
ただ、何を話せばいいのか分からないだけだった。
しばらく歩いてから、
吉見が意を決したように口を開く。
「……部活って、何か決めたの?」
その一言を境に、
不思議と空気がほどけた。
「まだ、全然……合唱部とか手芸部とか、いろいろ言われて……」
「そっか。迷うよね」
吉見は少し照れたように笑ってから、続ける。
「俺は、陸上部なんだ。長距離だけど」
「陸上……すごいですね」
「いや、全然。走るのが好きなだけだよ」
そう言いながら、少しだけ誇らしそうだった。
「もしよかったらさ、今度、練習見に来なよ」
唐突な誘いに、吹雪は目を瞬かせる。
「……いいんですか?」
「うん。見学なら誰でも歓迎だから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
気がつけば、学校を出てからもう随分歩いている。
昼前の陽射しは暖かく、影は短く、道は穏やかだった。
分かれ道に差しかかり、吉見が足を止めた。
「じゃあ……僕はここで」
そう言って、少し照れたように頭を下げる。
「また、明日ね」
「うん……また明日」
吹雪は小さく手を振り、彼の背中を見送った。
吉見は一度だけ振り返り、軽く手を上げてから、
自分の家へ続く道を歩いていく。
その背中が角を曲がって見えなくなってから、
吹雪はゆっくりと歩き出した。
「……また明日、か」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
それは当たり前のようで、
これまでの人生では、あまり口にすることのなかった言葉。
明日も、同じ場所で会える。
それが、最初から約束されている日常。
春の風が頬を撫で、
昼の名残のあたたかさが道に残っていた。
吹雪はその中を、一人で家へと戻っていく。
胸の奥には、今日という一日が、確かに“始まり”として残っていた。
玄関の戸を開けた瞬間だった。
どたどた、と慌ただしい足音が響き、
次の瞬間には提督が勢いよく姿を現した。
「お、おかえり! どうだった!?」
前のめりで、やけに真剣な表情。
吹雪は少し驚きつつも、鞄を下ろして答える。
「ただいまです。えっと……大丈夫でした。友達もできました」
「おおっ! そうかそうか!」
提督はぱっと顔を明るくし、何度も頷く。
「隣の席の男の子で――」
「――ああ、早速友達もできたんだな、良かった良か……」
そこで一拍。
「……男ぉ!?」
声を裏返した次の瞬間、
提督は白目をむいて、そのまま後ろへ倒れた。
どさっ。
「し、司令!?」
慌てて駆け寄る吹雪。
その様子を見て、奥からちょうど帰宅した加賀がため息をついた。
「……はぁ。学校なんですから、男も女もいますよ、そりゃあ」
呆れたように言いながら、
慣れた手つきで提督の腕を掴み、居間へと引きずっていく。
「全く……心配性にも程があります」
「す、すみません……」
吹雪が申し訳なさそうに言うと、
加賀は振り返って、くすっと小さく笑った。
「いいんですよ。貴女のことが大切なだけですから」
居間に寝かされた提督は、
まだ意識が戻らないまま、うっすらとうなされている。
「……男……だと……?」
その様子に、吹雪は少し困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。
しばらくして、居間で倒れていた提督が小さく唸り声を上げた。
「……ん、あぁ……俺は……」
目を開けると、天井と見慣れた照明。
ゆっくりと上体を起こすと、ちゃぶ台の向こうに吹雪の姿があった。
制服はもう脱いで、私服に着替えている。
その手元では、入部届けが広げられ、視線が行ったり来たりしていた。
「司令、起きましたか」
「ああ……悪いな、取り乱した」
吹雪は少し間を置いてから、遠慮がちに口を開いた。
「……司令は、どんな部活をしていたんですか?」
提督は一瞬きょとんとしたが、すぐに頭を掻いて答える。
「んー。当時はな、俺はとっとと軍に入って復讐したい気持ちが先行してたからな。部活という部活は……あ」
言い終わる前に、吹雪の肩がぴくりと揺れた。
「……」
視線が落ち、表情が曇る。
まるで自分の言葉を噛みしめるように、ずうぅんと項垂れた。
(……やぶ蛇だった……)
吹雪は唇を噛んだ。
聞いてしまった自分が悪かった。
司令が聞かれたから答えただけなのも分かっている。
それでも――
悲しい記憶を呼び起こしてしまったのではないか、
そう思うと胸がきゅっと痛んだ。
提督もその様子に気づき、表情を曇らせる。
「……吹雪、いや、今のは――」
その瞬間、横から小さな衝撃。
「っ……!?」
加賀が無言のまま、肘で提督の脇腹をぐりぐりと押していた。
笑顔だが、目はまったく笑っていない。
小声で、低く。
「無駄に不安にさせてどうするんですか」
「い、いや、だから俺は……」
「言い方というものがあるでしょう」
吹雪はそのやり取りを見て、はっと顔を上げた。
「……司令、すみません。変なこと聞いちゃって……」
提督は慌てて首を振る。
「違う、違う。聞かれたのが嫌だったわけじゃない。ただ……そうだな、今思うと、あの頃は余裕がなかっただけだ」
そう言って、少しだけ苦笑した。
「だから、気にするな。今のお前が、部活を選んで悩んでるのを見てる方が、よっぽど嬉しい」
その言葉に、吹雪の表情が少しだけ和らぐ。
入部届けを見つめながら、彼女はもう一度、ゆっくりと考え始めた。
場の空気を切り替えるように、加賀が静かに口を開いた。
「私は中学から部活ではありませんでしたが、外部の道場に通っていました。弓道、薙刀、それから基礎的な武術を少々」
淡々とした言い方だったが、内容はさらりと物騒だ。
吹雪は目を丸くして、少し身を乗り出す。
「そうなんですね……!」
加賀は頷き、吹雪の手元の入部届に目を向けた。
「ですから、必ずしも“学校の部活”にこだわらなくてもいいと思いますよ。大切なのは、自分が続けられることです」
吹雪はしばらく考え込むように紙を見つめてから、ぽつりと呟いた。
「……体を使う系の方が、いいんですかね」
提督と加賀の視線が、同時に吹雪へ向く。
「私、今でも結構……鍛えてますし」
そう言って、少し照れたように笑う。
戦後とはいえ、艦娘としての習慣は簡単には抜けない。
朝の柔軟、体幹、軽いランニング。
誰に言われたわけでもなく、自然と体が動いてしまうのだ。
提督は腕を組み、うんうんと頷いた。
「まあ、吹雪らしいと言えばらしいな」
加賀も小さく微笑む。
「でも、体を動かすからといって、戦う必要はありません。陸上でも、水泳でも、何でもありますから」
「……そっか」
吹雪は入部届をもう一度見つめる。
迷いはまだ残っているが、不安ではなかった。
戦うためではなく、
誰かと並んで、同じ時間を過ごすために選ぶ場所。
その意味を、吹雪は少しずつ理解し始めていた。
提督はぽりぽりと頭を掻きながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そーいや……俺の学校は、吹奏楽がめちゃくちゃ力入ってたな」
吹雪と加賀の視線が向く。
「コンクールも常連だったし、全国だか地方だかは忘れたが、毎年名前は出てた。中にはそのまま軍隊の音楽隊に入ったやつも何人かいたはずだ」
懐かしむような、少し遠い目。
先ほどまでの重たい空気はなく、ただ昔話として語っている様子だった。
「音楽隊……」
吹雪は小さくその言葉を繰り返す。
砲声や警報の音しか知らなかった日々とは、正反対の響き。
「音楽も、立派な“体を使う部活”ですよ」
加賀が静かに補足する。
「息の使い方、姿勢、集中力。鍛えられるものは多いです」
提督も頷く。
「そうそう。体育会系とは違うが、意外と根性いるらしいぞ。俺は縁なかったがな」
「……吹奏楽、ですか」
吹雪は入部届の余白を指でなぞりながら、想像してみる。
音を合わせること、誰かと同じ旋律を奏でること。
戦うためではなく、聴いてくれる誰かのために音を出す。
(……それも、いいかもしれない)
心の中で、選択肢がまた一つ増えた。
提督は少し肩の力を抜くように息を吐き、穏やかな声で続けた。
「ま、即断即決がうちのモットーではあったものの……そんな急がなくてもいいんだ。のんびりいこう」
吹雪は顔を上げる。
「それに、“帰宅部”なんて言葉もあるくらいだ。必ず部活や習い事をしてるから偉いって訳でもない」
ちゃぶ台に肘をつき、柔らかな目で吹雪を見る。
「選ばないって選択も、悪くないんじゃないか?」
加賀も小さく頷いた。
「ええ。今までが、常に“選ばされる側”だったのですから。今度は、自分の気持ちを優先していいと思います」
吹雪は入部届を両手で持ち、しばらく考えたあと、
ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……はい」
すぐに決めなくていい。
迷ってもいい。
何もしない時間があってもいい。
それは、戦場では決して許されなかったこと。
吹雪は入部届を鞄にしまい、
静かに、でも確かに思った。
(……今は、ゆっくりでいいんだ)
夕方の光が居間に差し込み、
その時間の流れが、とても穏やかに感じられた。
しばらくして、提督がぱんと手を打った。
「さてと。今日は吹雪の入学祝いだ。寿司でも焼肉でもステーキでも、なんでもござれだぞ」
胸を張ってそう言うと、吹雪は少しだけ視線を伏せ、遠慮がちに口を開いた。
「……じゃあ、鳳翔さんのお店で……」
提督は一瞬きょとんとしてから、首を傾げる。
「まぁ、いいにはいいが……別に今日じゃなくても行けるんだぞ?」
すると吹雪は、はっきりと顔を上げた。
「今日だからです」
その一言に、提督は言葉を失い、すぐに苦笑する。
「……そっか。じゃあ連絡入れとくか」
「私も入れておきますね」
横からさらりと加賀が言う。
「ん? なんでお前まで」
「特別な日じゃなくても行ける店らしい、って提督が言ってましたので」
にこやかに告げ口。
「……あっ!」
提督は指をさして声を上げる。
「てめぇ、ずるいぞ!」
「何がずるいんですか。事実でしょう」
「ぐぬぬ……!」
そんなやり取りを見て、吹雪はくすっと小さく笑った。
居間には、わちゃわちゃとした声と、春の夕方のやわらかな空気が満ちていた。
連絡を済ませると、三人は家を出た。
運転席には加賀、助手席に提督、そして後部座席に吹雪。
「ちゃんとシートベルト締めたか?」
「はい」
カチリと音がして、車は静かに走り出す。
住宅街を抜け、やがて視界が開けると、海沿いの道に出た。
夕暮れが近づき、水平線が橙色に染まっている。
波は穏やかで、ガラス越しに反射する光がゆっくりと揺れていた。
「……きれいですね」
吹雪がぽつりと呟く。
「そうだな。昼間の海もいいが、夕方はまた別だ」
提督はそう言いながら、どこか懐かしそうに外を眺めていた。
他愛もない話をしながらの道中は、思ったよりもあっという間だった。
やがて、見慣れた看板が見えてくる。
鳳翔の店。
車を停めて中へ入ると、鈴の音が静かに響いた。
どうやら一番乗りらしい。
店内にはまだ誰もおらず、灯りも落ち着いたまま。
木のカウンターと整えられた座敷が、静かに迎えてくれた。
「あら……」
奥から姿を現した鳳翔は、少し驚いた顔をしたあと、
すぐに頬をふくらませた。
「もっと早くから言ってくれたら、もっと良いおもてなしができましたのに……」
むくれたその様子に、提督は苦笑する。
「いやいや、急に決めたもんでな。これで十分だ」
「そういう問題じゃありません」
鳳翔はそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
吹雪は店内を見回し、少しだけ背筋を伸ばす。
ここもまた、自分にとって大切な場所だ。
席に落ち着くなり、提督は一度手を打った。
「とりあえずゲン担ぎだ。めでたい席には鯛を頼む」
鳳翔が小さく目を丸くする。
「まあ……相変わらずですね」
「刺身と、鯛しゃぶを頼む。あと細かいのは後で考えるか」
鳳翔は帳面に書き留めながら、にこりと微笑んだ。
「いい選択ですよ。冬の鯛は脂がしっかりのっていて、とても美味しいんです」
そう言ってから、吹雪の方を見る。
「もちろん、吹雪さんの食べたいものが主役ですからね。遠慮しなくていいですよ」
吹雪は少し慌てて、でも素直に頷いた。
「は、はい……ありがとうございます」
「ほらな。鳳翔もそう言ってる」
提督は満足そうに腕を組む。
「祝い事の日に、縁起のいい魚を食う。悪くないだろ?」
「ええ、とても」
加賀も静かに同意し、湯飲みを手に取った。
厨房の奥から、包丁がまな板に当たる心地よい音が聞こえてくる。
店内にはまだ三人だけ。
冬の海の恵みと、ささやかな祝いの席。
吹雪はその空気を胸いっぱいに吸い込みながら、
今日という日が特別なものとして、静かに刻まれていくのを感じていた。
吹雪はメニューを眺めて、少しだけ迷ったあと、顔を上げた。
「……だし巻き、お願いします」
その一言に、鳳翔はぱっと表情を明るくする。
「ふふ、やっぱり。吹雪さんはだし巻きがお好きですものね」
「はい……鳳翔さんの、特に」
鳳翔は嬉しそうに頷きながらも、やんわりと言葉を添えた。
「もっと高いものでも、いいのですよ?」
それにすぐ提督も乗っかる。
「そうだぞ。今日は祝いの席だ。支払い気にして好きな物食えないんじゃ、意味がないからな」
吹雪は一瞬きょとんとしてから、少し照れたように笑った。
「……大丈夫です。これで」
そう言って、追加でいくつか注文を入れる。
煮物、小鉢、焼き魚。
どれも素朴で、値段も決して高くはないものばかりだった。
提督はその様子を横目で見て、
「いいのか?」
と声をかけそうになったが、途中でやめた。
思い返せば、吹雪はそういう子だった。
艦娘として得た給料も、ほとんどを貯蓄に回し、
使うとしても必要なものだけ。
贅沢よりも、無駄のない選択を自然と選ぶ。
――質素倹約。
それは癖でもあり、生き方でもある。
(……これが、吹雪の“一番”なんだろうな)
そう思い、余計なことは言わなかった。
鳳翔の厨房から、だしの香りがふわりと漂ってくる。
甘く、やさしい匂い。
吹雪はそれを感じながら、
自分の選んだ料理を、静かに、でも満足そうに待っていた。
吹雪がメニューを指でなぞりながら、
「えーと……次は何を頼もうかな……」
と悩んでいる、その横で――
もっきゅ。
もっきゅもっきゅ。
加賀が無言で、しかし驚くほどの勢いで焼き鳥を頬張っていた。
串から串へ、間髪入れずに口へ運ばれていく。
「……おーい」
提督がその様子を見て、吹き出す。
「主役より食うなー」
「……?」
加賀は一瞬だけ動きを止め、きょとんとした顔を向けたが、
すぐに何事もなかったかのようにもっきゅもっきゅを再開する。
「俺も同じやつくれ」
提督は笑いながら鳳翔に声をかけ、
「あと適当にツマミも追加で」
と続けた。
「はいはい」
鳳翔は楽しそうに帳面に書き足していく。
吹雪はその光景を見て、目をぱちぱちさせた。
「……加賀さん、すごい量ですね……」
「そうですか?」
口を動かしながら、平然と返す。
加賀としては、私も食べているのだから、貴女も遠慮しなくていい
という、ささやかな気遣いのつもりだったのだろう。
だが――
次々と積まれていく串の皿に、
吹雪は思わず圧倒されていた。
「……えっと……」
「気にするな気にするな」
提督が肩を揺らして笑う。
「こういう日はな、誰かがたくさん食ってるくらいが丁度いい」
加賀はようやく串を置き、
湯飲みで一息ついてから、静かに言った。
「今日は祝いですから」
その一言に、吹雪は小さく笑った。
焼き鳥の香ばしい匂いと、わらい声と、少し騒がしい食卓。
しばらくして
「吹雪さん、学校はどうでしたか?」
鳳翔にそう聞かれて、吹雪は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を明るくした。
「えっとですね……最初に職員室に行って、それから教室に入って……」
そこからは、堰を切ったようだった。
自己紹介のこと、質問攻めにあったこと、夕立と再会したこと、
吉見と一緒に帰ったこと、部活の話――。
気がつけば身振り手振りも交えて、夢中で話している。
「それでですね、みんなすごく興味津々で……あっ」
ふと我に返ったのか、吹雪はぴたりと口を閉じ、
頬を赤くして視線を落とした。
「……す、すみません。なんだか、いっぱい話しちゃって……」
鳳翔はくすりと微笑みながら、ちょうど出来上がった揚げ出し豆腐を置いた。
「ふふっ。我を忘れるほど楽しめた、ということですね」
湯気とともに、だしのいい香りが広がる。
吹雪はほっとしたように笑った。
その横で――
鳳翔は、ぐっと声を落として提督にだけ聞こえるように言った。
「提督。吹雪ちゃんが男の子と仲良くしてるからって、変なことしちゃいけませんよ」
「……してねぇよ」
即答する提督。
さらに反対側から、加賀も小声で加勢する。
「私が止めないと、ですね」
「お前らなぁ〜……」
呆れたように言いかけた、その時だった。
鳳翔が、どこか楽しそうな声色で続ける。
「でも、若い時……街で私がナンパされたと知って、提督がすっ飛んできて……」
「うわー! その話するな! やめろ!」
即座に遮る提督。
「え? なにそれ」
吹雪が興味津々で身を乗り出す。
「なんの話してるんですかー?」
「知らなくていい!」
「えー!」
鳳翔は上品に口元を隠して笑い、
加賀は静かに視線を逸らした。
揚げ出し豆腐の湯気の向こうで、
わいわいとした声が重なる。
今日という日の締めくくりは、
どうやら――まだまだ賑やかになりそうだった