艦これ 砲声なき日々に 作:ダッフル
冷たい風が家屋の隙間から忍び込むようになったのは、ここ数日のことだった。
初冬の気配が本格的に空気を染め、朝晩の冷え込みは布団の中でも足先をきゅっと縮こませるほどだ。
「そろそろ衣替えの時期だな……」
「……と言っても、私も司令も、あんまり服……ないですよね」
部屋着に、予備の外出用、寝巻き。
それに、ほんの少しの古びた制服やTシャツ。
互いの生活用品の中でも「衣類」は明らかに後回しにされてきた存在だった。
「……よし、買いに行くか。街まで」
――そして休日、デパートの衣料品売り場。
売り場の空気は、年末商戦を目前に少し賑やかで、暖房の効いた館内にセーターとコートがずらりと並んでいる。
「俺もオシャレはよくわからん。好きなもん買ってけ」
提督はそう言ってカートを押すが、服選びに迷う吹雪の様子をちらちらと見守っている。
「……これ、暖かそうですね」
吹雪が手に取ったのは、淡い青のニットとチェックのスカート。
手に取って、そっと値札をめくる。
「……っ」
その瞬間、吹雪の顔が明らかに青ざめた。
「ん? そんなに変か?」
「……い、いえっ……その、お値段が……」
「服ごときで何を――」
と、提督も自分の手にしていたジャケットのタグをめくる。
「…………っ!?」
青ざめた。
「……服……高いな……っ!!」
どちらも庶民価格の少し上くらいの、いわゆる“デパート価格”。
だが、これまで配給品と支給品で生きてきたふたりにとって、それは“未知の世界”だった。
「これで……この生地の面積と糸の量で……? 軽っ……!!」
「私のこのニット……ワンポイントの刺繍でこの価格……?」
しばらく、ふたりして値札を見比べては、同時に溜め息をつく光景が続いた。
それでも――
「ま、寒さには勝てんしな。買ってやる」
「……司令も、自分のを選んでくださいね。ちゃんと温かいの」
ふたりで無言のうちに「なるべく安くて暖かそうな服」を手に取る。
その姿は、まるで兄と妹のようでもあり、父と娘のようでもあった。
買い物袋を手にして帰る道すがら、ふと吹雪がつぶやく。
「……でも、ちょっと楽しかったです。買い物って」
「そうか?」
「はい。誰かと一緒に選ぶのって、こんな感じなんだなぁって」
初冬の風はまだ冷たいが、その言葉にどこか心はあたたかかった。
必要な防寒具を買い揃えたあと――
提督は、まだ服を見て回っていた吹雪の背中をちらと見た。
(……どうせなら、オシャレな服も一着ぐらい持っててもいいんじゃねぇか)
そう思った瞬間、吹雪の背中に声をかける。
「おい吹雪、防寒具だけじゃなくて……その、なんだ。オシャレなやつもひとつぐらい買っておけ」
「え、えっ!? わ、私、そういうのは……!」
わたわたと手を振って遠慮する吹雪。
だが、彼女がオシャレを知らないのも事実。
そして、自分もまったく分からない。
となれば――
「すみません」
と、近くの販売員に声をかけた。
「“冬コーデ”ってやつを頼む。こいつに似合いそうなやつ、いろいろ見繕ってくれ」
「あっ、かしこまりました!」
若い女性店員は笑顔で応じ、すぐさま吹雪に声をかけ、あれよあれよと数点の服を持って試着室へと導いていった。
ぽつんと残された提督は、試着室の前のソファに腰を下ろす。
隣に立つ店員がふと、優しげに言った。
「娘さん、お似合いですよ」
「……そ、そうかよか――……え?」
耳にひっかかった単語に、提督は目をぱちくりさせる。
「む、娘?」
「あっ……申し訳ありません、妹様でしたか?」
「あー……いや、あの、ちょっと訳ありで……」
言いかけたところで、店員がふっと微笑みを浮かべて、そっと目線を伏せた。
提督の袖の中にある“何もない左腕”と、表に出さぬ吹雪の佇まいを見て――
言葉の先を問わなかった。
「……素敵な方ですね。きっと、大切な人なんですね」
「……ああ」
それだけ言って、提督は黙った。
気まずさも、重苦しさもない。
ただ、ほんのりとした人のぬくもりがそこにあった。
「おまたせしましたっ」
カーテンの奥から、少し照れくさそうに吹雪が顔を出す。
「……どうでしょうか」
淡い白のセーターに、グレーのロングスカート。
あたたかく、そしてどこか女の子らしさを纏った、控えめながらも柔らかなコーディネートだった。
提督は少し言葉を失い――そして、ふっと笑った。
「……いいじゃねぇか。よく似合ってる」
「ほ、ほんとですか……?」
頬を染める吹雪は、どこか年頃の少女そのもので。
提督は、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。
買ったばかりの服を身につけた吹雪は、少しそわそわしながら提督の隣を歩いていた。
「……こういう場所、実はあまり来たことなかったんです」
「デパートか?」
「はい。艦隊勤務のときは基地と訓練と演習と……遊びに出るって感覚、あんまりなくて」
「まぁ、俺もだな。基地から出るのなんてたまにだったし、“街に繰り出して遊ぶぜ~”みたいなタイプじゃなかった」
「……ですよね」
「ん?」
「いえ。なんとなく、です」
互いに笑って、エスカレーターを降りながらフロアを見て回る。
生活用品、カバン、時計、玩具、食品サンプルのディスプレイまで、色とりどりの世界がそこには広がっていた。
吹雪はそれを興味深そうに見て回り、提督はそれに合わせて歩く。
ふと、提督が思い出したように口を開いた。
「他所の基地じゃな……街に遊びに出て、色々あって艦娘と“ケッコンカッコカリ”したあとに、調子に乗って遊びまくってたバカがおってな」
「……はい」
「まぁ案の定、バレて――ボッコボコだった」
「えぇっ……」
「最終的には、磔にされた上で“気が済むまで一本ずつ木の棒で折檻する”っていう処刑式が行われてた」
「処刑式ぃ!?!?」
吹雪が足を止め、目を見開く。
「……で、その人、どうなったんですか?」
提督は一拍おいて、真顔で言った。
「二階級特進だ」
「えっ!? 亡くなったんですか!?」
「冗談だよ」
ぽん、と吹雪の頭を軽く叩く。
その軽さに、吹雪は口をとがらせる。
「もーっ、びっくりするじゃないですか!」
「……悪い悪い」
思わず出たような笑いが、ふたりの間にあったかい空気を作る。
夕方の館内には人が増えてきたが、ふたりだけの小さな世界はどこまでも穏やかだった。
「……さ、もう少し見て回るか」
「はいっ」
吹雪の新しいコートが、ふわりと揺れた。
その姿は、もうかつての“艦娘”というより――
どこにでもいる、年頃の女の子だった。
デパートの通りを歩いていると、ふと吹雪の足取りが少しだけ緩やかになった。
明らかに“止まる”ほどではないが、視線はショーウィンドウに釘付けになっている。
並んだパフェや、カップの上にふわりと盛られた生クリーム。
背後にはガラス張りの店内で、同年代の少女たちが笑顔で写真を撮りながらスイーツを楽しんでいる姿。
それをちらりと目で追う吹雪を見て、提督が口を開いた。
「入るか?」
「えっ!? い、いいですっ! こ、こんな高そうなお店、私……っ」
「いいからいいから。オシャレしたんだからな。たまにはこういうのも体験しとかんと。……なんちゃらフラペチーノ、ってやつを食おうぜ」
「ふ、ふら……ふらぺ……?」
「俺もよく知らんけどな。なんか流行ってるらしいから、試してみようや」
あれよあれよという間に、提督は吹雪の背中をぽんと押して店の扉を開けた。
カラン、と上品なベルの音。
吹雪はおそるおそる一歩を踏み出す。
「あ、いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらのテーブルへどうぞ」
店員の柔らかい笑顔に、吹雪はどぎまぎしながらも頭を下げ、案内された席に腰を下ろした。
「……わぁ」
天井は高く、照明は暖色で、席ごとの仕切りもあり、どこか“落ち着いた特別な場所”という雰囲気が漂っていた。
「な、なんか、緊張しますね……」
「だな……。でも、こういうのも悪くねぇだろ?」
「……はい。ちょっと、憧れてたかも、です」
メニューを開くと、聞いたこともないカタカナの連続。
“マロンチョコレートラテ”“トリプルキャラメルフラペチーノ”“ピスタチオとナッツのタルト”――
どこから攻めるべきか分からないまま、二人はしばし沈黙する。
「……えーと、これ、飲み物ですよね?」
「たぶん……ああ、これ“季節限定”って書いてあるぞ。じゃあこれ頼んどくか」
「えっ、なんとなくで選んで大丈夫なんですか……?」
「そういうもんだろ、初めての場所ってのは」
注文を終えると、二人はホッとしたように小さく息を吐いた。
そして、ほどなくして運ばれてきたフラペチーノは――
ふわふわのホイップに、たっぷりかかったソース、トッピングのナッツとチョコ片。
見た目だけでも十分に“非日常”。
テーブルの上には、見慣れぬ器に盛られた“フラペチーノ”。
ドリンクというよりは氷菓子、デザートというよりは芸術品。
ふわふわのホイップにキラキラのトッピング、カップの側面には洒落たロゴ。
吹雪は慎重にその姿を見つめながら、手元のストローとスプーンを交互に見ている。
「こ、これ……食べるんですか? それとも、飲む……?」
「スプーンいるのか? それとも要らんのか……いや、案外お箸とかかもしれん」
「お、お箸!? え、ここってそういう文化圏……!?」
二人の声は小さいながらも、どこか本気で困惑していた。
「わからん……情報不足だ……敵の動向も不明……」
「潜伏型スイーツ……!」
と、そこで提督が小さく咳払いを一つ。
「吹雪、命令だ。――強行偵察してこい」
「えっ、わ、私ですか!?」
「お前は駆逐艦、索敵と初動行動が得意分野だろ。頼むぞ」
「えぇ~……そ、それじゃあ……」
ごくりと息を呑んで、吹雪はストローを手に取り、恐る恐る一口――
「……あ、甘っ! けど……おいしい、です!」
「おっ……よし、突撃完了か。よし俺も……」
提督もストローを咥え、慎重に吸い上げてみる。
「……おお……こりゃ……」
「あまいですよね!」
「冷たいし、甘いし……なんだこの感覚……脳にクるな」
「“敵性スイーツ、戦意高し”って感じですね……!」
ふたりは思わず見つめ合い、ぷっと笑った。
不慣れな場所、不慣れな味、不慣れな時間。
けれど、こうして少しずつ――“普通の時間”を知っていくのだ。
窓の外には、街の夕焼けと、人々のざわめき。
戦いのない日常が、そこにあった。
カフェを出てしばらく、吹雪と並んでデパート前の広場を歩いていたときのことだった。
夕暮れの雑踏のなか、小さな声が耳に届いた。
「うぇっ……うっ、ママぁ……ママぁ……」
小さな男の子がひとり、赤い顔で泣いている。
傍には彼の手をそっと引く若い女性――だが、様子を見るに困っているようで、周囲を見回しては所在なげに立ち止まっていた。
「……ちょっと行ってくる」
提督は吹雪に小さく声をかけ、足を向けた。
「おーい、坊主。泣くな泣くな、母ちゃんとはぐれちまったか」
しゃがみ込み、子どもと目線を合わせてにこりと笑う。
「ほーれ、なくな坊主。ガム食うか? 飴ちゃんがいいか?」
ポケットをごそごそと探り、常備していたミントタブレットと駄菓子の飴玉を取り出す。
子どもは不安げな目を潤ませながらも、その気遣いに戸惑いが和らぎ、手を伸ばした。
「……ありがとうございます、助かり――」
女性が言いかけた、そのときだった。
「……提督、ですか?」
提督はふと顔を上げた。
そこに立っていたのは――かつて鎮守府の母のような存在であった、鳳翔。
普段の落ち着いた和装ではなく、優しい色のニットにロングスカート。
髪もいつものように結い上げておらず、肩にかかる長さでふわりとおろされていた。
「……あ? お、お前……鳳翔か……?」
「はい」
一瞬だけ、お互いに言葉が止まる。
私服姿に見慣れなかったのか、提督も最初は気づかなかった。
だが、こうして困っている子どもをあやしている姿は、やはり彼女らしかった。
「……迷子の子守りってのは、お前らしいな」
「ふふ……たまたま近くにいただけですよ」
くすりと笑う鳳翔の声は、変わらず穏やかだった。
そこに、遠くから駆け寄ってくる母親の声。
「たっくん!? ごめんなさい、ごめんなさい……!」
子どもは、母親に抱きつき、ようやく安心したように泣き止んだ。
鳳翔は、安心したようにその様子を見送る。
「……無事でよかったですね」
「おう」
「こうしてまた、お会いできたのも……不思議ですね」
吹雪がそっと提督の横に戻ってくると、鳳翔は柔らかく微笑んで、小さく頭を下げた。
「……お元気そうで、なによりです」
「――あれ!? 鳳翔さんっ!」
吹雪が目を丸くし、次の瞬間には駆け寄っていた。
迷いも、遠慮もなく、まっすぐにその胸へ飛び込む。
「わわっ……!」
「お久しぶりですっ!」
ふわりと抱きしめた吹雪に、鳳翔は優しく腕をまわし、静かに目を細めた。
「まぁ……吹雪ちゃん。少し……いえ、ずいぶん大きくなりましたね」
「えへへ……。髪、下ろしてるの、初めて見ました」
「私服姿も、ね?」
二人の笑顔は、まるで本当の親子のようだった。
提督は、そんな様子を少し離れた場所から見守っていた。
腕は一つ分、無いままだが、その表情には欠けたものなど何もなかった。
――だが、いつまでも広場に立ち話というわけにもいかない。
「人目もあるし、場所を変えるか。飯、奢るぞ」
ふいに提督が口を開いた。
「せっかくの再会だしな。たまにはゆっくり話でもしようや」
すると鳳翔は、少し驚いたように微笑んで――
「では、私の店へいらしてください」
「ん? お前、店なんてもったのか?」
「ええ。小さな居酒屋割烹ですが……こぢんまりと、海の近くで」
「……ほぉ。そりゃまた、鳳翔らしいっていうか……」
「ふふっ。お口に合えばいいんですが」
新しい生活、新しい顔ぶれ――けれど、こうしてまた、縁が結びなおされていく。
三人は、夕暮れの中を歩きはじめた。
「どうぞ、後ろに乗ってくださいね、吹雪ちゃん。提督は助手席をどうぞ」
鳳翔の運転する白い軽自動車に、三人は乗り込んだ。
少し古びた車内には、ほんのりと落ち着いた香りが漂っている。
香水でも芳香剤でもない、鳳翔らしい“清潔さ”そのもののような空気。
車がゆっくりと走り出し、交差点での信号待ち。
そこで、提督がぼそりと話しかけた。
「なんだよお前……店開いたんなら言ってくれりゃあいいのに。水臭いな」
「ふふっ」
鳳翔はシート越しに笑みを浮かべて、小さく首を振った。
「言ってしまうと、提督は経営のことを気にして、頻繁に通ってくださるでしょう?」
「そりゃまぁ……通うさ。鳳翔の飯なら毎晩でも食いたいしな」
「だから、軌道に乗るまでは……内緒にしておきたかったんです」
「……それに、あの頃は提督もお忙しかったですし」
「……書類業務のご褒美なしスタンプラリーな」
「……ふふっ」
鳳翔が静かに笑い、提督もそれにつられるように肩をすくめて苦笑した。
その会話は、まるで古い知人同士の穏やかな手紙のようだった。
照れ隠しのような言葉の端々に、長年の信頼と敬意が滲んでいる。
その様子を、後部座席から吹雪は静かに見守っていた。
司令が誰かに甘えるような姿を見るのは、どこか新鮮で――それでいて、安心できた。
ふふっと、小さく笑みがこぼれる。
その瞬間、ルームミラー越しに鳳翔と目が合った。
鳳翔もまた、やわらかな眼差しを吹雪に向けて、ふっと微笑みを返した。
言葉はなくても、そこには確かな暖かさが流れていた。
車はゆるやかに、夕暮れの町を進んでいく
車は緩やかに坂を下り、やがて海の香りが窓越しに濃くなっていく。
夕暮れの色がにじみはじめる空の下、白い軽自動車は住宅街の外れに差しかかり、ふと細い道へと入っていった。
「もうすぐですよ」
鳳翔の言葉に、吹雪は身を乗り出して車窓の外を覗き込む。
そして、間もなく――
見えてきたのは、瓦屋根に木の格子戸、古いけれど丁寧に手入れされた一軒の古民家だった。
建物の正面には、手彫りの木札に柔らかな筆文字で書かれた店名。
その下に、控えめな白い暖簾が揺れている。
「……ここが?」
「はい。海沿いの古民家を少しずつ改装して、今は自宅兼お店にしています」
「思ったより小ぢんまりしてるな」
「ええ。でも、駅も住宅街も近くて、常連さんもほどよく来てくれます」
店の脇には数台分の駐車スペースがあり、波の音がほんのり聞こえる静かな立地。
騒がしくはないが、決して不便でもない――まさに“隠れ家”のような場所だった。
「……いいな、こういうの」
提督がぽつりと呟くと、鳳翔は嬉しそうに小さく頷いた。
「どうぞ、中へ。今夜は、腕によりをかけますから」
吹雪も、提督の隣で目を輝かせていた。
初めて来るのに、どこか懐かしい。
潮の香りと木の匂いが混じる玄関先で、三人は靴を脱ぎ、暖簾をくぐった。
店の奥では、灯りがやわらかくともっていた。
提督は玄関先で店の外観を見回し、ふと目を細めた。
木造の柱に、年季の入った引き戸。
それでいて、手入れの行き届いた佇まいには不思議と落ち着きがある。
「……隠れ家的な感じだな。落ち着くし、いい場所だ」
玄関の上に吊るされた行灯が、やさしい橙色の光を落とす。
「……軍のじいさん達が、表じゃ言えねぇ話をするには最適――」
「――提督?」
やわらかな声。
けれど、その響きには確かな意図があった。
視線を向けると、鳳翔が軽く目線を逸らすようにして、横へ――
その先には、玄関で靴を揃えていた吹雪の姿があった。
「……あぁ」
提督はすぐに理解した。
もう、そういう話を“自然に聞かせていい相手”ではない。
吹雪は、かつての艦娘である前に、今はただの一人の年頃の少女なのだ。
「悪い、悪い……」
照れくさそうに頭をかきながら、提督は話を打ち切った。
「さ、入ろう。腹も減ったしな」
「はいっ」
吹雪がぱっと笑顔になり、先に暖簾をくぐっていく。
その後ろ姿を見送ってから、提督も鳳翔と並んで暖簾をくぐる。
古木のカウンターと、奥の厨房から立ちのぼる湯気。
鼻をくすぐる出汁の香りが、ゆっくりと三人を包み込んだ。
「お通しです」
鳳翔が静かに置いたのは、小鉢に盛られたほうれん草の胡麻和えだった。
一見すると、よくある“おひたし”かと思わせるが、箸を入れた瞬間にふわりと香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「……ごま油?」
「はい。少しだけ隠し味に使っています」
口に含んだ吹雪の目がまんまるになった。
「……っ、おいしい……!」
みるみるうちに箸が進み、気がつけばあっという間に空になっていた。
「おいおい……早ぇな」
提督が笑いながら自分の小鉢を差し出そうとすると――
「どうぞ」と鳳翔が、別に用意していた山盛りの皿をカウンター越しに差し出した。
「え? いいのか、他の客の分は」
「今日は――貸し切りですよ」
「お?」
「さっき、決めました」
ふふっとお茶目に笑う鳳翔に、提督は肩をすくめて笑い返した。
「勝手にやるなぁ、おい」
「……でも、たまにはそういう夜があっても、いいでしょう?」
「……ま、そうだな」
吹雪はそんな二人のやり取りを見ながら、山盛りの胡麻和えにおそるおそる箸をのばし、
「……じゃあ、いただきます!」
と嬉しそうに一口。
古民家のカウンターには、出汁とごま油の香りと、ゆったりした笑い声が静かに満ちていた。
胡麻和えをつまみながら、小鉢をもう一度傾けて満足げに微笑む吹雪の隣で、提督は湯呑みに注がれた冷酒を一口、喉に流し込んだ。
鳳翔が、そっと問いかける。
「……そういえば、後任が決まられたから、基地を離れられたのですよね?」
「……あぁ。俺の直接の部下じゃないがな。担当教官が同じで、同期のちょっと下だ」
軽く盃を回しながら、提督の口調がわずかに重くなる。
「風見ってやつだ。昔はバカみたいに毎晩のように飲みに行ってたんだがな……」
ふっと、どこか遠くを見るような目になる。
「権力闘争に巻き込まれて、今じゃ腰巾着だよ。あいつの上にいる奴らの顔色を伺って、命令を綺麗にこなすだけの人形みてぇになっちまった」
鳳翔は何も言わず、ただそっと酒を継ぎ足した。
「損得勘定でそろばん弾いて、金勘定ばっか上手くなるやつになった……なぁ」
盃の縁を見つめながら、提督は寂しそうに酒を煽る。
「ここを……長く見てたやつだったのにな。吹雪たちのことも、基地のことも。わかってると思ってたんだがな」
静かに、盃がカウンターに置かれた音が響く。
「ま、人には人の事情ってやつがあるか……」
気づけば、吹雪も手を止め、じっと提督の横顔を見ていた。
そこには、軍人としての厳しさではなく、ただのひとりの“大人”の表情があった。
鳳翔は、にこりと微笑んだ。
「……お疲れさまでした。提督」
「……ありがとうよ」
酒の香りと、出汁の香りと、静かな夜風。
どれもが胸にしみる、そんな夜だった。
カウンターの向こうで、香ばしく焼かれた手羽先が運ばれてくる。
カリッと音を立ててかぶりついた吹雪が、ふと思い出したように顔を上げた。
「……風見って、あの人ですか? 何度か、演習したことありましたよね?」
「おぉ、覚えてたか」
提督は嬉しそうに頷く。
「南方の基地で指揮官やってたんだよ。横須賀ほどの規模じゃなかったが、あそこも相当の激戦区でな。まあ、しっかりしたやつだったよ」
吹雪は、少し苦笑いしながら手羽先を手にしたまま続けた。
「練度は高かったですから……私、被弾ばっかりで。演習終わったあとに、わざわざ嫌味まで言われて」
「……しばく……」
提督の眉間に皺が寄り、盃の酒を一気にあおった。
「え、あ、いえっ……! そんなつもりじゃ……っ!」
慌てて手を振って宥める吹雪。
そこに鳳翔が、ふわりと落ち着いた声で一言。
「ダメですよ?」
提督はコクンと頷いて、大人しく盃を置いた。
その姿を見て、吹雪は思った。
(……なんだか、お母さんみたいなんだな)
提督は軍での上官。鳳翔はその“補佐”でありながら、時に彼のブレーキ役でもあった。
今でも、その関係性は変わらないらしい。
「そういえば……鳳翔さんの言うことって、ほいほい聞きますよね?」
吹雪が首を傾げながら尋ねると、鳳翔は軽く微笑みながら手羽先の皿を揃えていた。
「んー? そりゃあもう、付き合いが長いからな」
提督は少し照れくさそうに、焼酎を一口。
「……もう、20年近いか?」
「に、20年……?」
吹雪の表情が一瞬固まる。
(ということは、鳳翔さんの年齢って……)
「あ、そういえば鳳翔さん、おいく――」
言いかけた瞬間、自分の言葉が危険だと気づいた吹雪は、慌てて手羽先を口に押し込みながら、
「なんでもないですっ、もぐもぐもぐ……」
その様子に、提督はにやりと口角を上げた。
「ん? 鳳翔の歳ならもう“おばちゃん”って言ってもおかしくないようなねんれ――」
時が止まったかのような、ほんの一瞬の隙をついての一手だった。
「いだだだだっ!!」
鳳翔の指がするりと伸びて、提督の頬をつねりあげた。
絶妙な力加減ながら、痛みより“気配”の方が怖い。
「……何か、言いましたか?」
笑顔は変わらず、声音も優しい。
けれど、そこに含まれた圧に提督はすぐに察する。
「……い、いや……なにも……」
そのままそっと口をつぐむ提督。
横で吹雪が箸を持ったまま、肩を震わせて笑いを堪えていた。
香ばしい手羽先と、心地よい笑い声。
静かな夜の中で、家族のようなぬくもりが、小さな店に静かに灯っていた。
「……おなかいっぱいになったか」
提督が言葉をこぼす頃には、吹雪はすっかり船を漕ぎはじめていた。
買い物にカフェ、そして久々の賑やかな食事。
張りつめていた気がほどけたのか、瞼がもう重くて仕方がないらしい。
「よく頑張ってましたからね。少し、奥で休ませてあげてください」
鳳翔の案内で、提督は吹雪をそっと抱え、奥の座敷へと運ぶ。
布団まではないが、座布団を重ねて簡易な寝床にし、鳳翔が優しい手つきで毛布をかけた。
「……こいつ、眠ってる時だけはまだ子どもなんだな」
微笑みながら、そっとその場を離れる。
提督がカウンターへ戻ると、鳳翔が酒を注いで待っていた。
「――鳳翔よ」
「はい」
「……いろいろ、あったなぁ」
酒を受け取りながら、提督はぽつりとこぼす。
今の静けさが信じられないほど、血と油にまみれた日々。
命令、出撃、戦果、そして喪失。
その全てを共に見てきた鳳翔が目の前にいることが、なんとも不思議なことのように思えた。
ふたりの間に静かな時間が流れ――
そのとき、入口の引き戸がからん、と軽い音を立てて開いた。
「……あっ、すみません、こんばんは~……って、あら?」
鳳翔が掲げた「貸し切り」の立て札に気づかず入ってきたのは、どこかふんわりとした雰囲気の――赤城だった。
「あら、提督に……鳳翔さん?」
「赤城……お前……」
「えへへ、ちょっとお腹すいて……って、あれ? もしかして、ご迷惑でした?」
少し申し訳なさそうにしながらも、どこかおっとりした空気は昔と変わらない――いや、あの戦時中の硬さがすっかり取れて、今は穏やかで優しげな“普通の女性”の顔になっていた。
「いえ、ちょうど一段落ついたところです。どうぞ、奥へ」
鳳翔が笑って手を差し伸べると、赤城はほっと安堵したように席に着いた。
提督は赤城の顔をしばらく見つめて――ぽつりと、呟いた。
「……お前、丸くなったな」
「体型のことなら……一応、節制してますよ?」
「そういう意味じゃねえよ……」
思わずふっと笑って、また一杯、酒をあおる。
店の静寂が破られたわけではなかった。
むしろ、また一つ懐かしいぬくもりが加わったような気がして、提督の胸は少しだけ軽くなった。
赤城は席につくなり、目の前に置かれた手羽先に目を輝かせた。
「わぁ……久しぶりに、手羽先……!」
両手を合わせて「いただきます」と小さく呟いたかと思えば、
次の瞬間――
「……んっ」
丸呑みかと見紛うほどに勢いよく口へ放り込み、もぐもぐと数回咀嚼した後、
「――ふぅ」
と口をすぼめて、綺麗に骨だけを“スッ”と取り出した。
「……おまっ、それ……骨……どうやって……」
提督が目を剥いて言いかけるが、赤城は何食わぬ顔でお茶をすする。
「え? 普通ですよ?」
「手品か……」
思わずつぶやく提督。
対艦戦闘、夜戦、指揮経験。どれだけ重ねても、**“赤城の手羽先処理”**は未知の技だった。
「……よし、俺もやるか」
少し身を乗り出し、同じように手羽先をつまむ。
勢いよく口に入れる。赤城の所作を思い出しながら、顎を動かす――
「……むぐっ」
うまくいかない。
骨がぐにゃりと口の中で暴れ、うまく抜けない。
「……これ、手品だったか……」
しぶしぶ骨を引き出し、残った肉をしゃぶりながら呟く提督。
「……なにやってるんですか、もう」
と鳳翔は呆れたように笑いながら、そっと新しい手拭きを差し出した。
「昔から変わりませんね、司令官は」
「……どっちかっていうと、お前の方が変わってねぇんじゃねぇのか?」
「えへへ、それは……どうでしょう?」
ふたりの笑い声に、奥の座敷で眠る吹雪がわずかに身じろぎする。
それでも、彼女が目を覚ますことはなかった。
穏やかな夜は、まだしばらく続きそうだった。
提督は盃を片手に、ふと赤城の方を見やった。
「なぁ赤城――あのミッド沖での夜戦、覚えてるか? お前、あのとき――」
話し出したところで、目の前の光景に思わず言葉を止める。
赤城は、黙々と食べていた。
いや、“黙々”では足りない。
箸が迷いなく次の皿へ、次の皿へと渡っていく。焼き魚、煮付け、揚げ出し豆腐、酢の物。すべて等しく彼女の胃袋へと吸い込まれていく。
「……まるで、フードファイターだな」
思わずこぼれた声に、赤城は少しだけ顔を上げた。
「えっ、何か?」
「いや……なんでもねぇよ」
今この瞬間、彼女の戦場は皿の上にあるらしい。
「……まぁー、俺の奢りだ。食え食え」
提督は苦笑いを浮かべながら酒をあおる。
「ほんとですか!? じゃあ遠慮なくっ!」
笑顔と共に手を伸ばしたのは、すでにラスト一品となっただし巻き卵。
目にも止まらぬ速度で取り分けられたそれを見届けて、提督はぽつりと。
「……思い出語りながら飲む予定だったんだけどなぁ」
誰に言うでもなくつぶやいたそれに、鳳翔がくすりと笑ってそっと注ぎ足す。
「――赤城さんは、変わりませんね」
「……いいことなんだろうな、きっと」
その爆食の姿が、今ではどこか微笑ましくさえ思える。
死と隣り合わせの任務に就いていた彼女が、今はこうして目の前で飯を頬張っている。
それだけで、十分だ。
提督は黙ってその姿を見ながら、ゆっくりと盃を口に運んだ。
夜はゆるやかに、心地よい酔いと共に流れていく。
「……ったく、幾つだよお前は……」
ふと顔を上げた赤城の頬に、白く小さな米粒が一粒、くっついていた。
本人は気づいていない。というか、気にしていない。
提督は軽く息をついて、手元のナプキンを取り上げると、
顔を寄せてその米粒をそっと拭い取った。
「ほら、ついてんぞ。米」
「……え? あ、すみません、えへへ」
全く悪びれた様子もなく、赤城は笑う。
昔なら――出撃直前なら、こんな隙を見せることなど絶対にあり得なかった。
提督は、そんな彼女の“今”を見つめながら、酒をひとくちあおる。
戦場で怒鳴り、指揮を執り、仲間を送り出し、自らも命を懸けていた日々。
その最前線に立っていた赤城が、今こうして、米粒をつけて笑っている。
(……これが、平和か)
どんな勝利宣言よりも――
この無防備な笑顔と、無意味に拭った米粒の方が、はるかに尊く思えた。
「戦争してた頃には……見られなかった顔だな、お前」
「んー? なんですか?」
「……いや、なんでもねぇよ」
赤城はまたひと口、何かを頬張り、
鳳翔は静かに微笑みながら、湯呑みにお茶を継ぎ足した。
――吹雪の静かな寝息だけが、奥座敷から微かに聞こえていた。
湯呑みに注がれたお茶の湯気が、ゆるやかに立ち上っていた。
赤城がまだ箸を動かし、提督は肩肘をついてそれを眺め、鳳翔が静かに後片づけの準備を始めた、そんな折。
――カラカラカラ、と。
引き戸の音が、静かな夜の店内に小さく響いた。
「あの……」
おそるおそるくぐってきた声は、低く、抑えた調子だったが、どこかに柔らかさと気遣いがにじんでいた。
現れたのは――加賀だった。
「あ、加賀さん!」
赤城が手羽先を一旦置いて手を挙げる。
加賀はぺこりと頭を下げたが、すぐに周囲を見回し、ふと店内奥に視線を留めた。
そこにいたのは――提督。
その姿を目にした瞬間、加賀の表情が強張った。
「あ……」
ほんのひと呼吸。
その短い間に、加賀の頬から血の気が引いていくのが目に見えるほどだった。
動悸が早まったのだろう。胸元にそっと手を当てる。
立っていられるのが不思議なほどに、彼女の身体は小刻みに震えていた。
目の前の男は、かつて自分が守れなかった人だった。
最後の作戦直前、前線の臨時指令所に襲撃があった。
本来なら完全に安全であるはずだった空間に、たった一機の敵艦載機が入り込み――
そのとき、司令室にいたのは提督と、加賀。
左腕を失ったのはその時だった。
あの瞬間、もし自分がほんの少しでも早く気づいていれば。
あの一発が放たれる前に、撃墜できていれば。
提督は一ヶ月の昏睡状態に陥った。
戦後、彼が目覚めたと聞いたときの安堵と同時に押し寄せたのは、どうしようもない自責の念だった。
「加賀?」
赤城が怪訝そうに声をかけるが、加賀は答えない。
提督の左袖が、浮いたままであるのを、見てしまったから。
(……わたしが、あの時……)
言葉にできない後悔が喉元で絡み、息すらうまく吸えない。
鳳翔が一歩前に出ようとしたが、それを制したのは、提督だった。
彼は、ただ静かに、加賀を見つめていた。
その視線に責めも憎しみもなく、ただ静かに時を待つような、深い色が宿っていた。
「っ……!」
加賀は一瞬、息を止めるように肩を震わせ――
そのまま、戸口へと駆け出していった。
カラカラカラ、と再び引き戸が開いて、夜の風が店内にひと吹き入り込む。
「か、加賀さん……!」
思わず立ち上がった赤城だったが、その背を追うことはできなかった。
あまりに突然で、何がどうしてそうなったのか、頭が追いついていない。
「……だって……加賀さん、“もう大丈夫”だって……」
小さく呟くその声には、困惑と後悔が混ざっていた。
彼女の視線は、加賀の去った戸口と、黙って酒を口に運ぶ提督の間を何度も行き来する。
「だって……街で提督に偶然会って……その時、“全部もう終わった話だ”って……加賀さん、そう言ってたんです」
あの加賀が、嘘をついた?
そう思いたくなかった。
加賀は不器用で言葉足らずでも、決して誤魔化したりしない人間だった。
だからこそ――赤城は、そこに踏み込まずにいた。
だが、目の前の提督の表情を見たとき、赤城はようやく理解する。
加賀は――あの一件が、終わってなどいなかったのだ。
彼女が、誰よりもその“傷”を忘れていなかった。
そして、その“嘘”を信じきっていた自分は、加賀の痛みに気づけなかったのだと。
赤城は静かに唇を噛み締め、
そっと提督に向き直り、震える声で問いかけた。
「……提督は、どう……お考えですか?」
恐る恐る、けれど真っ直ぐに。
逃げずに知ろうとするその問いに、提督は少しだけ沈黙を置いた。
そして――
「……追撃戦は、俺の得意分野だからな」
にやり、と口の端を吊り上げて笑う。
その瞬間、赤城の目に涙が滲んだ。
変わらない。
傷を受けても、片腕を失っても、何ひとつ変わらない。
この人は、誰も責めたりしない。誰かを見捨てたりしない。
「……っ!」
提督は立ち上がり、軍靴ではない街の靴音を響かせながら、夜の街へと走っていった。
加賀の背中を、追って。
「まてーい! ルパーン!」
そんな言葉を最後に、提督の背中は夜の街へと消えていった。
風が一瞬、戸の隙間から入り込み、店内の暖かな空気をひと撫でしていく。
「……変わらないですね……」
赤城は小さく、けれど確かな笑みを浮かべながらぽつりと呟いた。
呆れ半分、安堵半分――それ以上に、どこか誇らしげにも見える。
そしてそのまま、すとんとカウンター席に腰を下ろす。
肩から、何かがふっと抜けたような、そんな表情だった。
鳳翔が湯呑みにあたたかいお茶を注ぎながら静かに言う。
「……あの人は、いつだって……“誰か”のために走っていきますからね」
赤城は湯呑みを手に取り、そっと湯気を見つめた。
その奥には、今まさに誰かを追って走る、頼りなくも頼もしい背中が見えた気がした。
戦争が終わっても、人の想いは簡単には終わらない。
だけど――それでも、こうして生きていくのだと。
温かいお茶の香りが、静かに店内に広がっていった。