艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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四話 親と子、そして嘘

 

冷たい風が家屋の隙間から忍び込むようになったのは、ここ数日のことだった。

初冬の気配が本格的に空気を染め、朝晩の冷え込みは布団の中でも足先をきゅっと縮こませるほどだ。

 

 

 

「そろそろ衣替えの時期だな……」

 

 

 

「……と言っても、私も司令も、あんまり服……ないですよね」

 

 

 

部屋着に、予備の外出用、寝巻き。

それに、ほんの少しの古びた制服やTシャツ。

 

互いの生活用品の中でも「衣類」は明らかに後回しにされてきた存在だった。

 

 

 

「……よし、買いに行くか。街まで」

 

 

 

 

 

――そして休日、デパートの衣料品売り場。

 

 

 

売り場の空気は、年末商戦を目前に少し賑やかで、暖房の効いた館内にセーターとコートがずらりと並んでいる。

 

 

 

「俺もオシャレはよくわからん。好きなもん買ってけ」

 

 

 

提督はそう言ってカートを押すが、服選びに迷う吹雪の様子をちらちらと見守っている。

 

 

 

「……これ、暖かそうですね」

 

 

 

吹雪が手に取ったのは、淡い青のニットとチェックのスカート。

手に取って、そっと値札をめくる。

 

 

 

「……っ」

 

 

 

その瞬間、吹雪の顔が明らかに青ざめた。

 

 

 

「ん? そんなに変か?」

 

 

 

「……い、いえっ……その、お値段が……」

 

 

 

「服ごときで何を――」

 

と、提督も自分の手にしていたジャケットのタグをめくる。

 

 

 

「…………っ!?」

 

 

 

青ざめた。

 

 

 

「……服……高いな……っ!!」

 

 

 

どちらも庶民価格の少し上くらいの、いわゆる“デパート価格”。

だが、これまで配給品と支給品で生きてきたふたりにとって、それは“未知の世界”だった。

 

 

 

「これで……この生地の面積と糸の量で……? 軽っ……!!」

 

 

 

「私のこのニット……ワンポイントの刺繍でこの価格……?」

 

 

 

しばらく、ふたりして値札を見比べては、同時に溜め息をつく光景が続いた。

 

 

 

それでも――

 

「ま、寒さには勝てんしな。買ってやる」

 

「……司令も、自分のを選んでくださいね。ちゃんと温かいの」

 

 

 

ふたりで無言のうちに「なるべく安くて暖かそうな服」を手に取る。

その姿は、まるで兄と妹のようでもあり、父と娘のようでもあった。

 

 

 

買い物袋を手にして帰る道すがら、ふと吹雪がつぶやく。

 

 

 

「……でも、ちょっと楽しかったです。買い物って」

 

 

 

「そうか?」

 

 

 

「はい。誰かと一緒に選ぶのって、こんな感じなんだなぁって」

 

 

 

初冬の風はまだ冷たいが、その言葉にどこか心はあたたかかった。

 

 

 

 

必要な防寒具を買い揃えたあと――

提督は、まだ服を見て回っていた吹雪の背中をちらと見た。

 

(……どうせなら、オシャレな服も一着ぐらい持っててもいいんじゃねぇか)

 

そう思った瞬間、吹雪の背中に声をかける。

 

 

 

「おい吹雪、防寒具だけじゃなくて……その、なんだ。オシャレなやつもひとつぐらい買っておけ」

 

「え、えっ!? わ、私、そういうのは……!」

 

 

 

わたわたと手を振って遠慮する吹雪。

だが、彼女がオシャレを知らないのも事実。

そして、自分もまったく分からない。

 

 

 

となれば――

 

 

 

「すみません」

 

と、近くの販売員に声をかけた。

 

「“冬コーデ”ってやつを頼む。こいつに似合いそうなやつ、いろいろ見繕ってくれ」

 

 

 

「あっ、かしこまりました!」

 

 

 

若い女性店員は笑顔で応じ、すぐさま吹雪に声をかけ、あれよあれよと数点の服を持って試着室へと導いていった。

 

 

 

ぽつんと残された提督は、試着室の前のソファに腰を下ろす。

隣に立つ店員がふと、優しげに言った。

 

 

 

「娘さん、お似合いですよ」

 

 

 

「……そ、そうかよか――……え?」

 

 

 

耳にひっかかった単語に、提督は目をぱちくりさせる。

 

 

 

「む、娘?」

 

 

 

「あっ……申し訳ありません、妹様でしたか?」

 

 

 

「あー……いや、あの、ちょっと訳ありで……」

 

 

 

言いかけたところで、店員がふっと微笑みを浮かべて、そっと目線を伏せた。

 

提督の袖の中にある“何もない左腕”と、表に出さぬ吹雪の佇まいを見て――

言葉の先を問わなかった。

 

 

 

「……素敵な方ですね。きっと、大切な人なんですね」

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

それだけ言って、提督は黙った。

 

気まずさも、重苦しさもない。

 

ただ、ほんのりとした人のぬくもりがそこにあった。

 

 

 

「おまたせしましたっ」

 

 

 

カーテンの奥から、少し照れくさそうに吹雪が顔を出す。

 

 

 

「……どうでしょうか」

 

 

 

淡い白のセーターに、グレーのロングスカート。

あたたかく、そしてどこか女の子らしさを纏った、控えめながらも柔らかなコーディネートだった。

 

提督は少し言葉を失い――そして、ふっと笑った。

 

 

 

「……いいじゃねぇか。よく似合ってる」

 

 

 

「ほ、ほんとですか……?」

 

 

 

頬を染める吹雪は、どこか年頃の少女そのもので。

 

提督は、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。

 

 

買ったばかりの服を身につけた吹雪は、少しそわそわしながら提督の隣を歩いていた。

 

「……こういう場所、実はあまり来たことなかったんです」

 

「デパートか?」

 

「はい。艦隊勤務のときは基地と訓練と演習と……遊びに出るって感覚、あんまりなくて」

 

 

 

「まぁ、俺もだな。基地から出るのなんてたまにだったし、“街に繰り出して遊ぶぜ~”みたいなタイプじゃなかった」

 

 

 

「……ですよね」

 

 

 

「ん?」

 

 

 

「いえ。なんとなく、です」

 

 

 

互いに笑って、エスカレーターを降りながらフロアを見て回る。

生活用品、カバン、時計、玩具、食品サンプルのディスプレイまで、色とりどりの世界がそこには広がっていた。

 

吹雪はそれを興味深そうに見て回り、提督はそれに合わせて歩く。

 

 

 

ふと、提督が思い出したように口を開いた。

 

 

 

「他所の基地じゃな……街に遊びに出て、色々あって艦娘と“ケッコンカッコカリ”したあとに、調子に乗って遊びまくってたバカがおってな」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

「まぁ案の定、バレて――ボッコボコだった」

 

 

 

「えぇっ……」

 

 

 

「最終的には、磔にされた上で“気が済むまで一本ずつ木の棒で折檻する”っていう処刑式が行われてた」

 

 

 

「処刑式ぃ!?!?」

 

 

 

吹雪が足を止め、目を見開く。

 

「……で、その人、どうなったんですか?」

 

 

 

提督は一拍おいて、真顔で言った。

 

 

 

「二階級特進だ」

 

 

 

「えっ!? 亡くなったんですか!?」

 

 

 

「冗談だよ」

 

 

 

ぽん、と吹雪の頭を軽く叩く。

 

その軽さに、吹雪は口をとがらせる。

 

 

 

「もーっ、びっくりするじゃないですか!」

 

 

 

「……悪い悪い」

 

 

 

思わず出たような笑いが、ふたりの間にあったかい空気を作る。

 

夕方の館内には人が増えてきたが、ふたりだけの小さな世界はどこまでも穏やかだった。

 

 

 

「……さ、もう少し見て回るか」

 

 

 

「はいっ」

 

 

 

吹雪の新しいコートが、ふわりと揺れた。

 

その姿は、もうかつての“艦娘”というより――

どこにでもいる、年頃の女の子だった。

 

 

デパートの通りを歩いていると、ふと吹雪の足取りが少しだけ緩やかになった。

 

明らかに“止まる”ほどではないが、視線はショーウィンドウに釘付けになっている。

並んだパフェや、カップの上にふわりと盛られた生クリーム。

背後にはガラス張りの店内で、同年代の少女たちが笑顔で写真を撮りながらスイーツを楽しんでいる姿。

 

 

 

それをちらりと目で追う吹雪を見て、提督が口を開いた。

 

 

 

「入るか?」

 

 

 

「えっ!? い、いいですっ! こ、こんな高そうなお店、私……っ」

 

 

 

「いいからいいから。オシャレしたんだからな。たまにはこういうのも体験しとかんと。……なんちゃらフラペチーノ、ってやつを食おうぜ」

 

 

 

「ふ、ふら……ふらぺ……?」

 

 

 

「俺もよく知らんけどな。なんか流行ってるらしいから、試してみようや」

 

 

 

あれよあれよという間に、提督は吹雪の背中をぽんと押して店の扉を開けた。

 

カラン、と上品なベルの音。

 

吹雪はおそるおそる一歩を踏み出す。

 

 

 

「あ、いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらのテーブルへどうぞ」

 

 

 

店員の柔らかい笑顔に、吹雪はどぎまぎしながらも頭を下げ、案内された席に腰を下ろした。

 

 

 

「……わぁ」

 

 

 

天井は高く、照明は暖色で、席ごとの仕切りもあり、どこか“落ち着いた特別な場所”という雰囲気が漂っていた。

 

 

 

「な、なんか、緊張しますね……」

 

 

 

「だな……。でも、こういうのも悪くねぇだろ?」

 

 

 

「……はい。ちょっと、憧れてたかも、です」

 

 

 

メニューを開くと、聞いたこともないカタカナの連続。

 

“マロンチョコレートラテ”“トリプルキャラメルフラペチーノ”“ピスタチオとナッツのタルト”――

どこから攻めるべきか分からないまま、二人はしばし沈黙する。

 

 

 

「……えーと、これ、飲み物ですよね?」

 

 

 

「たぶん……ああ、これ“季節限定”って書いてあるぞ。じゃあこれ頼んどくか」

 

 

 

「えっ、なんとなくで選んで大丈夫なんですか……?」

 

 

 

「そういうもんだろ、初めての場所ってのは」

 

 

 

注文を終えると、二人はホッとしたように小さく息を吐いた。

 

そして、ほどなくして運ばれてきたフラペチーノは――

 

ふわふわのホイップに、たっぷりかかったソース、トッピングのナッツとチョコ片。

見た目だけでも十分に“非日常”。

 

 

テーブルの上には、見慣れぬ器に盛られた“フラペチーノ”。

 

ドリンクというよりは氷菓子、デザートというよりは芸術品。

ふわふわのホイップにキラキラのトッピング、カップの側面には洒落たロゴ。

 

 

 

吹雪は慎重にその姿を見つめながら、手元のストローとスプーンを交互に見ている。

 

 

 

「こ、これ……食べるんですか? それとも、飲む……?」

 

 

 

「スプーンいるのか? それとも要らんのか……いや、案外お箸とかかもしれん」

 

 

 

「お、お箸!? え、ここってそういう文化圏……!?」

 

 

 

二人の声は小さいながらも、どこか本気で困惑していた。

 

 

 

「わからん……情報不足だ……敵の動向も不明……」

 

 

 

「潜伏型スイーツ……!」

 

 

 

と、そこで提督が小さく咳払いを一つ。

 

 

 

「吹雪、命令だ。――強行偵察してこい」

 

 

 

「えっ、わ、私ですか!?」

 

 

 

「お前は駆逐艦、索敵と初動行動が得意分野だろ。頼むぞ」

 

 

 

「えぇ~……そ、それじゃあ……」

 

 

 

ごくりと息を呑んで、吹雪はストローを手に取り、恐る恐る一口――

 

 

 

「……あ、甘っ! けど……おいしい、です!」

 

 

 

「おっ……よし、突撃完了か。よし俺も……」

 

 

 

提督もストローを咥え、慎重に吸い上げてみる。

 

 

 

「……おお……こりゃ……」

 

 

 

「あまいですよね!」

 

 

 

「冷たいし、甘いし……なんだこの感覚……脳にクるな」

 

 

 

「“敵性スイーツ、戦意高し”って感じですね……!」

 

 

 

ふたりは思わず見つめ合い、ぷっと笑った。

 

不慣れな場所、不慣れな味、不慣れな時間。

けれど、こうして少しずつ――“普通の時間”を知っていくのだ。

 

 

 

窓の外には、街の夕焼けと、人々のざわめき。

戦いのない日常が、そこにあった。

 

 

カフェを出てしばらく、吹雪と並んでデパート前の広場を歩いていたときのことだった。

 

夕暮れの雑踏のなか、小さな声が耳に届いた。

 

 

 

「うぇっ……うっ、ママぁ……ママぁ……」

 

 

 

小さな男の子がひとり、赤い顔で泣いている。

傍には彼の手をそっと引く若い女性――だが、様子を見るに困っているようで、周囲を見回しては所在なげに立ち止まっていた。

 

 

 

「……ちょっと行ってくる」

 

 

 

提督は吹雪に小さく声をかけ、足を向けた。

 

 

 

「おーい、坊主。泣くな泣くな、母ちゃんとはぐれちまったか」

 

 

 

しゃがみ込み、子どもと目線を合わせてにこりと笑う。

 

 

 

「ほーれ、なくな坊主。ガム食うか? 飴ちゃんがいいか?」

 

 

 

ポケットをごそごそと探り、常備していたミントタブレットと駄菓子の飴玉を取り出す。

 

子どもは不安げな目を潤ませながらも、その気遣いに戸惑いが和らぎ、手を伸ばした。

 

 

 

「……ありがとうございます、助かり――」

 

 

 

女性が言いかけた、そのときだった。

 

 

 

「……提督、ですか?」

 

 

 

提督はふと顔を上げた。

 

そこに立っていたのは――かつて鎮守府の母のような存在であった、鳳翔。

 

 

 

普段の落ち着いた和装ではなく、優しい色のニットにロングスカート。

髪もいつものように結い上げておらず、肩にかかる長さでふわりとおろされていた。

 

 

 

「……あ? お、お前……鳳翔か……?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

一瞬だけ、お互いに言葉が止まる。

私服姿に見慣れなかったのか、提督も最初は気づかなかった。

 

だが、こうして困っている子どもをあやしている姿は、やはり彼女らしかった。

 

 

 

「……迷子の子守りってのは、お前らしいな」

 

 

 

「ふふ……たまたま近くにいただけですよ」

 

 

 

くすりと笑う鳳翔の声は、変わらず穏やかだった。

 

 

 

そこに、遠くから駆け寄ってくる母親の声。

 

「たっくん!? ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 

 

子どもは、母親に抱きつき、ようやく安心したように泣き止んだ。

 

鳳翔は、安心したようにその様子を見送る。

 

 

 

「……無事でよかったですね」

 

 

 

「おう」

 

 

 

「こうしてまた、お会いできたのも……不思議ですね」

 

 

 

吹雪がそっと提督の横に戻ってくると、鳳翔は柔らかく微笑んで、小さく頭を下げた。

 

 

 

「……お元気そうで、なによりです」

 

 

 

「――あれ!? 鳳翔さんっ!」

 

 

 

吹雪が目を丸くし、次の瞬間には駆け寄っていた。

 

迷いも、遠慮もなく、まっすぐにその胸へ飛び込む。

 

 

 

「わわっ……!」

 

 

 

「お久しぶりですっ!」

 

 

 

ふわりと抱きしめた吹雪に、鳳翔は優しく腕をまわし、静かに目を細めた。

 

 

 

「まぁ……吹雪ちゃん。少し……いえ、ずいぶん大きくなりましたね」

 

 

 

「えへへ……。髪、下ろしてるの、初めて見ました」

 

 

 

「私服姿も、ね?」

 

 

 

二人の笑顔は、まるで本当の親子のようだった。

 

提督は、そんな様子を少し離れた場所から見守っていた。

腕は一つ分、無いままだが、その表情には欠けたものなど何もなかった。

 

 

 

――だが、いつまでも広場に立ち話というわけにもいかない。

 

 

 

「人目もあるし、場所を変えるか。飯、奢るぞ」

 

 

 

ふいに提督が口を開いた。

 

 

 

「せっかくの再会だしな。たまにはゆっくり話でもしようや」

 

 

 

すると鳳翔は、少し驚いたように微笑んで――

 

 

 

「では、私の店へいらしてください」

 

 

 

「ん? お前、店なんてもったのか?」

 

 

 

「ええ。小さな居酒屋割烹ですが……こぢんまりと、海の近くで」

 

 

 

「……ほぉ。そりゃまた、鳳翔らしいっていうか……」

 

 

 

「ふふっ。お口に合えばいいんですが」

 

 

 

新しい生活、新しい顔ぶれ――けれど、こうしてまた、縁が結びなおされていく。

 

 

 

三人は、夕暮れの中を歩きはじめた。

 

 

「どうぞ、後ろに乗ってくださいね、吹雪ちゃん。提督は助手席をどうぞ」

 

 

 

鳳翔の運転する白い軽自動車に、三人は乗り込んだ。

 

少し古びた車内には、ほんのりと落ち着いた香りが漂っている。

香水でも芳香剤でもない、鳳翔らしい“清潔さ”そのもののような空気。

 

 

 

車がゆっくりと走り出し、交差点での信号待ち。

そこで、提督がぼそりと話しかけた。

 

 

 

「なんだよお前……店開いたんなら言ってくれりゃあいいのに。水臭いな」

 

 

 

「ふふっ」

 

 

 

鳳翔はシート越しに笑みを浮かべて、小さく首を振った。

 

 

 

「言ってしまうと、提督は経営のことを気にして、頻繁に通ってくださるでしょう?」

 

 

 

「そりゃまぁ……通うさ。鳳翔の飯なら毎晩でも食いたいしな」

 

 

 

「だから、軌道に乗るまでは……内緒にしておきたかったんです」

 

 

 

「……それに、あの頃は提督もお忙しかったですし」

 

 

 

「……書類業務のご褒美なしスタンプラリーな」

 

 

 

「……ふふっ」

 

 

 

鳳翔が静かに笑い、提督もそれにつられるように肩をすくめて苦笑した。

 

その会話は、まるで古い知人同士の穏やかな手紙のようだった。

照れ隠しのような言葉の端々に、長年の信頼と敬意が滲んでいる。

 

 

 

その様子を、後部座席から吹雪は静かに見守っていた。

司令が誰かに甘えるような姿を見るのは、どこか新鮮で――それでいて、安心できた。

 

ふふっと、小さく笑みがこぼれる。

 

 

 

その瞬間、ルームミラー越しに鳳翔と目が合った。

 

鳳翔もまた、やわらかな眼差しを吹雪に向けて、ふっと微笑みを返した。

 

 

 

言葉はなくても、そこには確かな暖かさが流れていた。

 

車はゆるやかに、夕暮れの町を進んでいく

 

 

車は緩やかに坂を下り、やがて海の香りが窓越しに濃くなっていく。

 

夕暮れの色がにじみはじめる空の下、白い軽自動車は住宅街の外れに差しかかり、ふと細い道へと入っていった。

 

 

 

「もうすぐですよ」

 

 

 

鳳翔の言葉に、吹雪は身を乗り出して車窓の外を覗き込む。

 

そして、間もなく――

 

 

 

見えてきたのは、瓦屋根に木の格子戸、古いけれど丁寧に手入れされた一軒の古民家だった。

 

建物の正面には、手彫りの木札に柔らかな筆文字で書かれた店名。

その下に、控えめな白い暖簾が揺れている。

 

 

 

「……ここが?」

 

 

 

「はい。海沿いの古民家を少しずつ改装して、今は自宅兼お店にしています」

 

 

 

「思ったより小ぢんまりしてるな」

 

 

 

「ええ。でも、駅も住宅街も近くて、常連さんもほどよく来てくれます」

 

 

 

店の脇には数台分の駐車スペースがあり、波の音がほんのり聞こえる静かな立地。

騒がしくはないが、決して不便でもない――まさに“隠れ家”のような場所だった。

 

 

 

「……いいな、こういうの」

 

 

 

提督がぽつりと呟くと、鳳翔は嬉しそうに小さく頷いた。

 

 

 

「どうぞ、中へ。今夜は、腕によりをかけますから」

 

 

 

吹雪も、提督の隣で目を輝かせていた。

 

初めて来るのに、どこか懐かしい。

 

潮の香りと木の匂いが混じる玄関先で、三人は靴を脱ぎ、暖簾をくぐった。

 

 

 

店の奥では、灯りがやわらかくともっていた。

 

 

 

提督は玄関先で店の外観を見回し、ふと目を細めた。

 

木造の柱に、年季の入った引き戸。

それでいて、手入れの行き届いた佇まいには不思議と落ち着きがある。

 

 

 

「……隠れ家的な感じだな。落ち着くし、いい場所だ」

 

 

 

玄関の上に吊るされた行灯が、やさしい橙色の光を落とす。

 

 

 

「……軍のじいさん達が、表じゃ言えねぇ話をするには最適――」

 

 

 

「――提督?」

 

 

 

やわらかな声。

 

けれど、その響きには確かな意図があった。

 

 

 

視線を向けると、鳳翔が軽く目線を逸らすようにして、横へ――

その先には、玄関で靴を揃えていた吹雪の姿があった。

 

 

 

「……あぁ」

 

 

 

提督はすぐに理解した。

 

もう、そういう話を“自然に聞かせていい相手”ではない。

吹雪は、かつての艦娘である前に、今はただの一人の年頃の少女なのだ。

 

 

 

「悪い、悪い……」

 

 

 

照れくさそうに頭をかきながら、提督は話を打ち切った。

 

 

 

「さ、入ろう。腹も減ったしな」

 

 

 

「はいっ」

 

 

 

吹雪がぱっと笑顔になり、先に暖簾をくぐっていく。

 

その後ろ姿を見送ってから、提督も鳳翔と並んで暖簾をくぐる。

 

 

 

古木のカウンターと、奥の厨房から立ちのぼる湯気。

鼻をくすぐる出汁の香りが、ゆっくりと三人を包み込んだ。

 

 

「お通しです」

 

 

 

鳳翔が静かに置いたのは、小鉢に盛られたほうれん草の胡麻和えだった。

 

一見すると、よくある“おひたし”かと思わせるが、箸を入れた瞬間にふわりと香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 

 

 

「……ごま油?」

 

 

 

「はい。少しだけ隠し味に使っています」

 

 

 

口に含んだ吹雪の目がまんまるになった。

 

 

 

「……っ、おいしい……!」

 

 

 

みるみるうちに箸が進み、気がつけばあっという間に空になっていた。

 

 

 

「おいおい……早ぇな」

 

 

 

提督が笑いながら自分の小鉢を差し出そうとすると――

 

 

 

「どうぞ」と鳳翔が、別に用意していた山盛りの皿をカウンター越しに差し出した。

 

 

 

「え? いいのか、他の客の分は」

 

 

 

「今日は――貸し切りですよ」

 

 

 

「お?」

 

 

 

「さっき、決めました」

 

 

 

ふふっとお茶目に笑う鳳翔に、提督は肩をすくめて笑い返した。

 

 

 

「勝手にやるなぁ、おい」

 

 

 

「……でも、たまにはそういう夜があっても、いいでしょう?」

 

 

 

「……ま、そうだな」

 

 

 

吹雪はそんな二人のやり取りを見ながら、山盛りの胡麻和えにおそるおそる箸をのばし、

 

 

 

「……じゃあ、いただきます!」

 

 

 

と嬉しそうに一口。

 

 

 

古民家のカウンターには、出汁とごま油の香りと、ゆったりした笑い声が静かに満ちていた。

 

 

胡麻和えをつまみながら、小鉢をもう一度傾けて満足げに微笑む吹雪の隣で、提督は湯呑みに注がれた冷酒を一口、喉に流し込んだ。

 

 

 

鳳翔が、そっと問いかける。

 

 

 

「……そういえば、後任が決まられたから、基地を離れられたのですよね?」

 

 

 

「……あぁ。俺の直接の部下じゃないがな。担当教官が同じで、同期のちょっと下だ」

 

 

 

軽く盃を回しながら、提督の口調がわずかに重くなる。

 

 

 

「風見ってやつだ。昔はバカみたいに毎晩のように飲みに行ってたんだがな……」

 

 

 

ふっと、どこか遠くを見るような目になる。

 

 

 

「権力闘争に巻き込まれて、今じゃ腰巾着だよ。あいつの上にいる奴らの顔色を伺って、命令を綺麗にこなすだけの人形みてぇになっちまった」

 

 

 

鳳翔は何も言わず、ただそっと酒を継ぎ足した。

 

 

 

「損得勘定でそろばん弾いて、金勘定ばっか上手くなるやつになった……なぁ」

 

 

 

盃の縁を見つめながら、提督は寂しそうに酒を煽る。

 

 

 

「ここを……長く見てたやつだったのにな。吹雪たちのことも、基地のことも。わかってると思ってたんだがな」

 

 

 

静かに、盃がカウンターに置かれた音が響く。

 

 

 

「ま、人には人の事情ってやつがあるか……」

 

 

 

気づけば、吹雪も手を止め、じっと提督の横顔を見ていた。

そこには、軍人としての厳しさではなく、ただのひとりの“大人”の表情があった。

 

 

 

鳳翔は、にこりと微笑んだ。

 

 

 

「……お疲れさまでした。提督」

 

 

 

「……ありがとうよ」

 

 

 

酒の香りと、出汁の香りと、静かな夜風。

どれもが胸にしみる、そんな夜だった。

 

 

カウンターの向こうで、香ばしく焼かれた手羽先が運ばれてくる。

 

カリッと音を立ててかぶりついた吹雪が、ふと思い出したように顔を上げた。

 

 

 

「……風見って、あの人ですか? 何度か、演習したことありましたよね?」

 

 

 

「おぉ、覚えてたか」

 

 

 

提督は嬉しそうに頷く。

 

「南方の基地で指揮官やってたんだよ。横須賀ほどの規模じゃなかったが、あそこも相当の激戦区でな。まあ、しっかりしたやつだったよ」

 

 

 

吹雪は、少し苦笑いしながら手羽先を手にしたまま続けた。

 

 

 

「練度は高かったですから……私、被弾ばっかりで。演習終わったあとに、わざわざ嫌味まで言われて」

 

 

 

「……しばく……」

 

 

 

提督の眉間に皺が寄り、盃の酒を一気にあおった。

 

 

 

「え、あ、いえっ……! そんなつもりじゃ……っ!」

 

 

 

慌てて手を振って宥める吹雪。

 

そこに鳳翔が、ふわりと落ち着いた声で一言。

 

 

 

「ダメですよ?」

 

 

 

提督はコクンと頷いて、大人しく盃を置いた。

 

その姿を見て、吹雪は思った。

 

(……なんだか、お母さんみたいなんだな)

 

 

 

提督は軍での上官。鳳翔はその“補佐”でありながら、時に彼のブレーキ役でもあった。

今でも、その関係性は変わらないらしい。

 

 

 

「そういえば……鳳翔さんの言うことって、ほいほい聞きますよね?」

 

 

 

吹雪が首を傾げながら尋ねると、鳳翔は軽く微笑みながら手羽先の皿を揃えていた。

 

 

 

「んー? そりゃあもう、付き合いが長いからな」

 

 

 

提督は少し照れくさそうに、焼酎を一口。

 

 

 

「……もう、20年近いか?」

 

 

 

「に、20年……?」

 

 

 

吹雪の表情が一瞬固まる。

 

(ということは、鳳翔さんの年齢って……)

 

 

 

「あ、そういえば鳳翔さん、おいく――」

 

 

 

言いかけた瞬間、自分の言葉が危険だと気づいた吹雪は、慌てて手羽先を口に押し込みながら、

 

 

 

「なんでもないですっ、もぐもぐもぐ……」

 

 

 

その様子に、提督はにやりと口角を上げた。

 

 

 

「ん? 鳳翔の歳ならもう“おばちゃん”って言ってもおかしくないようなねんれ――」

 

 

時が止まったかのような、ほんの一瞬の隙をついての一手だった。

 

 

 

「いだだだだっ!!」

 

 

 

鳳翔の指がするりと伸びて、提督の頬をつねりあげた。

 

絶妙な力加減ながら、痛みより“気配”の方が怖い。

 

 

 

「……何か、言いましたか?」

 

 

 

笑顔は変わらず、声音も優しい。

けれど、そこに含まれた圧に提督はすぐに察する。

 

 

 

「……い、いや……なにも……」

 

 

 

そのままそっと口をつぐむ提督。

 

横で吹雪が箸を持ったまま、肩を震わせて笑いを堪えていた。

 

 

 

香ばしい手羽先と、心地よい笑い声。

静かな夜の中で、家族のようなぬくもりが、小さな店に静かに灯っていた。

 

 

「……おなかいっぱいになったか」

 

 

 

提督が言葉をこぼす頃には、吹雪はすっかり船を漕ぎはじめていた。

 

買い物にカフェ、そして久々の賑やかな食事。

張りつめていた気がほどけたのか、瞼がもう重くて仕方がないらしい。

 

 

 

「よく頑張ってましたからね。少し、奥で休ませてあげてください」

 

 

 

鳳翔の案内で、提督は吹雪をそっと抱え、奥の座敷へと運ぶ。

布団まではないが、座布団を重ねて簡易な寝床にし、鳳翔が優しい手つきで毛布をかけた。

 

 

 

「……こいつ、眠ってる時だけはまだ子どもなんだな」

 

 

 

微笑みながら、そっとその場を離れる。

 

 

 

提督がカウンターへ戻ると、鳳翔が酒を注いで待っていた。

 

 

 

「――鳳翔よ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「……いろいろ、あったなぁ」

 

 

 

酒を受け取りながら、提督はぽつりとこぼす。

 

今の静けさが信じられないほど、血と油にまみれた日々。

命令、出撃、戦果、そして喪失。

その全てを共に見てきた鳳翔が目の前にいることが、なんとも不思議なことのように思えた。

 

 

 

ふたりの間に静かな時間が流れ――

 

 

 

そのとき、入口の引き戸がからん、と軽い音を立てて開いた。

 

 

 

「……あっ、すみません、こんばんは~……って、あら?」

 

 

 

鳳翔が掲げた「貸し切り」の立て札に気づかず入ってきたのは、どこかふんわりとした雰囲気の――赤城だった。

 

 

 

「あら、提督に……鳳翔さん?」

 

 

 

「赤城……お前……」

 

 

 

「えへへ、ちょっとお腹すいて……って、あれ? もしかして、ご迷惑でした?」

 

 

 

少し申し訳なさそうにしながらも、どこかおっとりした空気は昔と変わらない――いや、あの戦時中の硬さがすっかり取れて、今は穏やかで優しげな“普通の女性”の顔になっていた。

 

 

 

「いえ、ちょうど一段落ついたところです。どうぞ、奥へ」

 

 

 

鳳翔が笑って手を差し伸べると、赤城はほっと安堵したように席に着いた。

 

 

 

提督は赤城の顔をしばらく見つめて――ぽつりと、呟いた。

 

 

 

「……お前、丸くなったな」

 

 

 

「体型のことなら……一応、節制してますよ?」

 

 

 

「そういう意味じゃねえよ……」

 

 

 

思わずふっと笑って、また一杯、酒をあおる。

 

店の静寂が破られたわけではなかった。

むしろ、また一つ懐かしいぬくもりが加わったような気がして、提督の胸は少しだけ軽くなった。

 

 

赤城は席につくなり、目の前に置かれた手羽先に目を輝かせた。

 

 

 

「わぁ……久しぶりに、手羽先……!」

 

 

 

両手を合わせて「いただきます」と小さく呟いたかと思えば、

 

次の瞬間――

 

 

 

「……んっ」

 

 

 

丸呑みかと見紛うほどに勢いよく口へ放り込み、もぐもぐと数回咀嚼した後、

 

 

 

「――ふぅ」

 

 

 

と口をすぼめて、綺麗に骨だけを“スッ”と取り出した。

 

 

 

「……おまっ、それ……骨……どうやって……」

 

 

 

提督が目を剥いて言いかけるが、赤城は何食わぬ顔でお茶をすする。

 

 

 

「え? 普通ですよ?」

 

 

 

「手品か……」

 

 

 

思わずつぶやく提督。

 

対艦戦闘、夜戦、指揮経験。どれだけ重ねても、**“赤城の手羽先処理”**は未知の技だった。

 

 

 

「……よし、俺もやるか」

 

 

 

少し身を乗り出し、同じように手羽先をつまむ。

 

勢いよく口に入れる。赤城の所作を思い出しながら、顎を動かす――

 

 

 

「……むぐっ」

 

 

 

うまくいかない。

 

骨がぐにゃりと口の中で暴れ、うまく抜けない。

 

 

 

「……これ、手品だったか……」

 

 

 

しぶしぶ骨を引き出し、残った肉をしゃぶりながら呟く提督。

 

 

 

「……なにやってるんですか、もう」

 

 

 

と鳳翔は呆れたように笑いながら、そっと新しい手拭きを差し出した。

 

 

 

「昔から変わりませんね、司令官は」

 

 

 

「……どっちかっていうと、お前の方が変わってねぇんじゃねぇのか?」

 

 

 

「えへへ、それは……どうでしょう?」

 

 

 

ふたりの笑い声に、奥の座敷で眠る吹雪がわずかに身じろぎする。

 

それでも、彼女が目を覚ますことはなかった。

 

穏やかな夜は、まだしばらく続きそうだった。

 

 

提督は盃を片手に、ふと赤城の方を見やった。

 

「なぁ赤城――あのミッド沖での夜戦、覚えてるか? お前、あのとき――」

 

 

 

話し出したところで、目の前の光景に思わず言葉を止める。

 

 

 

赤城は、黙々と食べていた。

 

いや、“黙々”では足りない。

箸が迷いなく次の皿へ、次の皿へと渡っていく。焼き魚、煮付け、揚げ出し豆腐、酢の物。すべて等しく彼女の胃袋へと吸い込まれていく。

 

 

 

「……まるで、フードファイターだな」

 

 

 

思わずこぼれた声に、赤城は少しだけ顔を上げた。

 

「えっ、何か?」

 

 

 

「いや……なんでもねぇよ」

 

 

 

今この瞬間、彼女の戦場は皿の上にあるらしい。

 

 

 

「……まぁー、俺の奢りだ。食え食え」

 

 

 

提督は苦笑いを浮かべながら酒をあおる。

 

 

 

「ほんとですか!? じゃあ遠慮なくっ!」

 

 

 

笑顔と共に手を伸ばしたのは、すでにラスト一品となっただし巻き卵。

 

目にも止まらぬ速度で取り分けられたそれを見届けて、提督はぽつりと。

 

 

 

「……思い出語りながら飲む予定だったんだけどなぁ」

 

 

 

誰に言うでもなくつぶやいたそれに、鳳翔がくすりと笑ってそっと注ぎ足す。

 

 

 

「――赤城さんは、変わりませんね」

 

 

 

「……いいことなんだろうな、きっと」

 

 

 

その爆食の姿が、今ではどこか微笑ましくさえ思える。

 

死と隣り合わせの任務に就いていた彼女が、今はこうして目の前で飯を頬張っている。

 

それだけで、十分だ。

 

 

 

提督は黙ってその姿を見ながら、ゆっくりと盃を口に運んだ。

 

夜はゆるやかに、心地よい酔いと共に流れていく。

 

「……ったく、幾つだよお前は……」

 

 

 

ふと顔を上げた赤城の頬に、白く小さな米粒が一粒、くっついていた。

本人は気づいていない。というか、気にしていない。

 

 

 

提督は軽く息をついて、手元のナプキンを取り上げると、

顔を寄せてその米粒をそっと拭い取った。

 

 

 

「ほら、ついてんぞ。米」

 

 

 

「……え? あ、すみません、えへへ」

 

 

 

全く悪びれた様子もなく、赤城は笑う。

昔なら――出撃直前なら、こんな隙を見せることなど絶対にあり得なかった。

 

 

 

提督は、そんな彼女の“今”を見つめながら、酒をひとくちあおる。

 

 

 

戦場で怒鳴り、指揮を執り、仲間を送り出し、自らも命を懸けていた日々。

その最前線に立っていた赤城が、今こうして、米粒をつけて笑っている。

 

 

 

(……これが、平和か)

 

 

 

どんな勝利宣言よりも――

この無防備な笑顔と、無意味に拭った米粒の方が、はるかに尊く思えた。

 

 

 

「戦争してた頃には……見られなかった顔だな、お前」

 

 

 

「んー? なんですか?」

 

 

 

「……いや、なんでもねぇよ」

 

 

 

赤城はまたひと口、何かを頬張り、

鳳翔は静かに微笑みながら、湯呑みにお茶を継ぎ足した。

 

 

 

――吹雪の静かな寝息だけが、奥座敷から微かに聞こえていた。

 

 

湯呑みに注がれたお茶の湯気が、ゆるやかに立ち上っていた。

赤城がまだ箸を動かし、提督は肩肘をついてそれを眺め、鳳翔が静かに後片づけの準備を始めた、そんな折。

 

 

 

――カラカラカラ、と。

 

引き戸の音が、静かな夜の店内に小さく響いた。

 

 

 

「あの……」

 

 

 

おそるおそるくぐってきた声は、低く、抑えた調子だったが、どこかに柔らかさと気遣いがにじんでいた。

 

 

 

現れたのは――加賀だった。

 

 

 

「あ、加賀さん!」

 

 

 

赤城が手羽先を一旦置いて手を挙げる。

加賀はぺこりと頭を下げたが、すぐに周囲を見回し、ふと店内奥に視線を留めた。

 

 

 

そこにいたのは――提督。

 

 

 

その姿を目にした瞬間、加賀の表情が強張った。

 

 

 

「あ……」

 

 

 

ほんのひと呼吸。

 

その短い間に、加賀の頬から血の気が引いていくのが目に見えるほどだった。

動悸が早まったのだろう。胸元にそっと手を当てる。

 

 

 

立っていられるのが不思議なほどに、彼女の身体は小刻みに震えていた。

 

 

 

目の前の男は、かつて自分が守れなかった人だった。

 

最後の作戦直前、前線の臨時指令所に襲撃があった。

本来なら完全に安全であるはずだった空間に、たった一機の敵艦載機が入り込み――

そのとき、司令室にいたのは提督と、加賀。

 

 

 

左腕を失ったのはその時だった。

 

 

 

あの瞬間、もし自分がほんの少しでも早く気づいていれば。

あの一発が放たれる前に、撃墜できていれば。

 

 

 

提督は一ヶ月の昏睡状態に陥った。

戦後、彼が目覚めたと聞いたときの安堵と同時に押し寄せたのは、どうしようもない自責の念だった。

 

 

 

「加賀?」

 

 

 

赤城が怪訝そうに声をかけるが、加賀は答えない。

 

提督の左袖が、浮いたままであるのを、見てしまったから。

 

 

 

(……わたしが、あの時……)

 

 

 

言葉にできない後悔が喉元で絡み、息すらうまく吸えない。

鳳翔が一歩前に出ようとしたが、それを制したのは、提督だった。

 

 

 

彼は、ただ静かに、加賀を見つめていた。

 

 

 

その視線に責めも憎しみもなく、ただ静かに時を待つような、深い色が宿っていた。

 

 

「っ……!」

 

 

 

加賀は一瞬、息を止めるように肩を震わせ――

そのまま、戸口へと駆け出していった。

 

 

 

カラカラカラ、と再び引き戸が開いて、夜の風が店内にひと吹き入り込む。

 

 

 

「か、加賀さん……!」

 

 

 

思わず立ち上がった赤城だったが、その背を追うことはできなかった。

あまりに突然で、何がどうしてそうなったのか、頭が追いついていない。

 

 

 

「……だって……加賀さん、“もう大丈夫”だって……」

 

 

 

小さく呟くその声には、困惑と後悔が混ざっていた。

彼女の視線は、加賀の去った戸口と、黙って酒を口に運ぶ提督の間を何度も行き来する。

 

 

 

「だって……街で提督に偶然会って……その時、“全部もう終わった話だ”って……加賀さん、そう言ってたんです」

 

 

 

あの加賀が、嘘をついた?

 

そう思いたくなかった。

加賀は不器用で言葉足らずでも、決して誤魔化したりしない人間だった。

だからこそ――赤城は、そこに踏み込まずにいた。

 

 

 

だが、目の前の提督の表情を見たとき、赤城はようやく理解する。

 

 

 

加賀は――あの一件が、終わってなどいなかったのだ。

 

彼女が、誰よりもその“傷”を忘れていなかった。

そして、その“嘘”を信じきっていた自分は、加賀の痛みに気づけなかったのだと。

 

 

 

赤城は静かに唇を噛み締め、

そっと提督に向き直り、震える声で問いかけた。

 

 

 

「……提督は、どう……お考えですか?」

 

 

 

恐る恐る、けれど真っ直ぐに。

逃げずに知ろうとするその問いに、提督は少しだけ沈黙を置いた。

 

 

 

そして――

 

 

 

「……追撃戦は、俺の得意分野だからな」

 

 

 

にやり、と口の端を吊り上げて笑う。

 

 

 

その瞬間、赤城の目に涙が滲んだ。

 

変わらない。

傷を受けても、片腕を失っても、何ひとつ変わらない。

この人は、誰も責めたりしない。誰かを見捨てたりしない。

 

 

 

「……っ!」

 

 

 

提督は立ち上がり、軍靴ではない街の靴音を響かせながら、夜の街へと走っていった。

 

加賀の背中を、追って。

 

 

「まてーい! ルパーン!」

 

 

 

そんな言葉を最後に、提督の背中は夜の街へと消えていった。

風が一瞬、戸の隙間から入り込み、店内の暖かな空気をひと撫でしていく。

 

 

 

「……変わらないですね……」

 

 

 

赤城は小さく、けれど確かな笑みを浮かべながらぽつりと呟いた。

呆れ半分、安堵半分――それ以上に、どこか誇らしげにも見える。

 

 

 

そしてそのまま、すとんとカウンター席に腰を下ろす。

 

肩から、何かがふっと抜けたような、そんな表情だった。

 

 

 

鳳翔が湯呑みにあたたかいお茶を注ぎながら静かに言う。

 

 

 

「……あの人は、いつだって……“誰か”のために走っていきますからね」

 

 

 

赤城は湯呑みを手に取り、そっと湯気を見つめた。

その奥には、今まさに誰かを追って走る、頼りなくも頼もしい背中が見えた気がした。

 

 

 

戦争が終わっても、人の想いは簡単には終わらない。

だけど――それでも、こうして生きていくのだと。

 

 

 

温かいお茶の香りが、静かに店内に広がっていった。

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