艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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五話 懺悔と後悔

 

加賀は走っていた。

 

どこへ行くのか、自分でも分からなかった。

ただ、夜風が冷たく頬を打ち、視界を歪ませていくのに任せて、足だけが止まらなかった。

 

 

 

「……ごめんなさい……」

 

 

 

声にはならなかった。

けれど、胸の奥で何度も、何度も繰り返される言葉は止まらない。

 

 

 

「ごめんなさい……っ……」

 

 

 

逃げていた。

街灯の下も、駅前の人混みも、すれ違う誰かの視線すらも怖かった。

 

でも何より――

 

 

 

あの優しげな笑みを、あの浮いた袖を、

何も責めず見つめてくれていたその眼差しを、

どうしても、直視できなかった。

 

 

 

(あの日、私は――)

 

 

 

脳裏に焼きついたのは、あの指令室の硝煙。

血のにじんだ袖。倒れ伏す男と、自分の手からすり抜けた時間。

 

たった一機。

たった一瞬。

 

それだけのことが、全てを変えてしまった。

 

 

 

「……っ……」

 

 

 

足が、止まる。

 

人気のない路地の片隅で、加賀はその場に立ち尽くした。

 

涙が頬を伝うのを、自分で拭おうともしなかった。

 

 

 

そして、あの日の記憶が――静かに、確かに、胸の内へと広がっていく。

 

 

――南方の前線基地。

湿った熱気が地面から立ち上り、風が吹いても涼しさのかけらもない。

真夏の陽射しが、白く塗られた壁や艦載機の機体を眩しく照らしていた。

 

 

 

セミのように張りついた熱気の中、基地の中はどこか浮ついた空気があった。

それも無理はない。

長い戦争の果て、深海棲艦の本拠地はすでに壊滅に近く、残るは小規模な掃討戦と補足作戦。

“終わり”が、目に見える場所にあった。

 

 

 

その中で、提督――横須賀の提督は、

わざわざ本部から南の前線に足を運んでいた。

 

 

 

本来なら、その階級と地位なら安全な本部に留まっていて当然だった。

だが、彼はそれを良しとしなかった。

 

 

 

「お偉いさんが前に出てこねぇでどうすんだよ。俺がここにいるってだけで、ちったぁ士気も上がるってもんだろ」

 

 

 

そう言って笑うその姿は、どこかふざけて見えたが――

兵も艦娘も、それが冗談ではないと知っていた。

 

 

 

彼は“どうすれば人のやる気を削がずに済むか”を、本能で理解していた。

同時に、“何かあったら自分が責任を取る”という覚悟も、背中で示していた。

 

 

 

司令室の中は、冷房が壊れていてただの蒸し風呂だったが、

それでも彼は、書類の山に囲まれながら、苦もなく茶をすする。

 

 

 

「……なあ加賀。たまにはこういう前線の空気もいいもんだろ?」

 

 

 

斜め向かいには、加賀がいた。

いつも通りの無表情――に見えたが、その頬は少しだけ汗ばんでいて、顔にはわずかに疲れが見える。

 

 

 

「……風通しが、悪すぎます」

 

 

 

「俺の話か? 部屋の話か?」

 

 

 

「……両方です」

 

 

 

小さな冗談を返しながら、加賀は隣の茶器に手を伸ばした。

それが、この頃のふたりの日常だった。

最終作戦を目前に、束の間の休息――ほんのひとときの、静かな時間。

 

 

 

誰もが、終わりを信じていた。

このまま勝利して、全てが終わると。

 

 

 

加賀は、彼に恋をしていた。

 

それは燃えるような情熱ではなく――

ただ静かに胸の奥で灯る、あたたかな光のような感情だった。

 

 

 

ふたりで交わす会話の一つ一つに意味を持たせるのは、自分の中だけでいい。

その手が届くことはないと分かっていても、それでもいいと思っていた。

けれど――

 

 

 

(それでも、せめて一度だけ……)

 

 

 

加賀は、いつもよりほんの少しだけ、寄り道をした。

 

 

 

準備を怠ったわけではない。

確認すべき整備も、装備も、定時に終えた。

ただ、いつもより少しだけ早くに準備を済ませて、彼のいる司令室に足を運んだのだ。

 

 

 

この作戦が終わったら――

 

そう言って、ただ一緒に食事をする。

たったそれだけの、小さな“予定”を伝えたかった。

 

 

 

それは、誰にも迷惑をかけないささやかな願いだった。

 

ほんの少しだけ、自分の心に正直になっただけだった。

 

 

 

「提督……」

 

 

 

彼は、書類に目を通しながら茶を啜っていた。

いつものように冗談めいた調子で、だが目元には柔らかい光があった。

 

 

 

加賀は、言葉を選んでいた。

言葉にすれば壊れてしまいそうな、不器用な想いをどう届けるか――

 

そうやって一歩、ほんの一歩だけ彼の席に近づいた、その時だった。

 

 

 

――キィィィィィンッ!

 

 

 

耳を裂くような、風を引き裂く音。

 

加賀の感覚が、瞬間的に“それ”を捉えた。

 

おかしい。

この基地の上空は、完全な防衛圏のはず。

制空権は取れている。敵影など――

 

 

 

「ッ――!」

 

 

 

空気が震え、外の陽射しが変わった。

 

 

 

(……嘘)

 

 

 

それは、奇跡か、悪魔の悪戯か。

たった一機の、深海棲艦の艦載機が、信じられないルートから基地上空に侵入してきたのだ。

 

 

 

加賀が身体を反転させ、構えようとしたその瞬間。

 

 

 

「――頭!!」

 

 

 

提督が叫んだ。

 

その声は怒号でも悲鳴でもなく、ただ命令のような鋭さを持っていた。

 

次の瞬間――

 

 

 

彼は加賀の前に飛び出し、覆いかぶさった。

 

 

 

そして――

 

 

 

――轟音。

 

 

 

世界が焼けた。

閃光が視界を塗りつぶし、衝撃が身体を弾き飛ばす。

 

 

 

音も、光も、熱も、全てが渦になって加賀を飲み込んだ

 

 

耳鳴り。焼けた空気。

目を開けたとき、視界の半分は土煙と、ゆらめく陽炎に包まれていた。

 

 

 

提督は、崩れた天井の下から身を起こした。

左腕は……見るに堪えない状態だった。

肉が裂け、骨の形が不自然に歪んでいる。力が入らない。感覚すらもう、ほとんどなかった。

 

 

 

それでも、目が探していたのは――

 

「……加賀っ……!」

 

 

 

倒れた机の影、崩れた柱の傍。

彼女は動かず、土埃まみれになっていた。

 

血が滲む。

脇腹に、折れた木片が深く突き刺さっていた。

息はある。が、意識は――ない。

 

 

 

「……チクショウが……」

 

 

 

怒りではなかった。

いや、確かに怒ってはいた。

だがそれ以上に、湧き上がってきたのは、守れなかったことへの悔しさだった。

 

 

 

「やってくれたな……よくも……」

 

 

 

それは遠ざかる艦載機の残骸――

既に落ちて黒煙を上げている、爆撃の残骸に向けた、低くしぼるような声だった。

 

 

 

(……ドックじゃ間に合わねぇ)

 

 

 

提督は判断する。

ここからドックへ運ぶには時間がかかりすぎる。

深い出血。内臓の損傷も疑われる。なら――

 

 

 

「……くそっ……!」

 

 

 

力の入らない左腕を無視し、右腕だけで加賀の身体をかかえる。

それでも不安定だ。瓦礫をよけ、足を取られながら、それでも前へ進む。

 

一歩。

また一歩。

 

誰も命じていない。

だがそれが、自分の責任だと思っていた。

 

 

 

「……生きろ、加賀……」

 

 

 

言葉は届かなくてもいい。

ただ、聞こえていてくれたら。

 

 

 

焼けた空の下、

提督はひとり、血に染まりながら医務室へと向かっていた。

 

 

「て、提督……っ! 腕が……っ!?」

 

 

 

煙の向こうから、聞き慣れた声がした。

視界の瓦礫の先に、明石がいた。

工具を手に、顔は煤だらけで、それでもしっかりと目を見開いていた。

 

 

 

提督は何も言わず、左腕からぶら下がるような血と肉に目もくれず、前へ進む。

その腕では到底抱えられない加賀の身体を、右腕一本で背負うようにして。

 

 

 

「どけ……!」

 

 

 

「で、でもっ、あなたの腕が――!」

 

 

 

「いいからどけッ!!」

 

 

 

怒号に近い声だった。

 

 

 

その瞬間、明石の顔からためらいが消える。

技術者としてではなく、軍属として、彼の“命令”を理解した。

 

 

 

「……はいっ!!」

 

 

 

明石は手早く瓦礫を除けていく。

提督もその隙間から足を入れ、肩で壁を押し、火事場の馬鹿力で崩れた天井の梁を持ち上げた。

 

軋む音がする。

肉が裂けた左腕が、もはや自分のものではないように冷たい。

 

 

 

ようやく抜け出したその瞬間、提督は膝をつきそうになった。

それでも、加賀を明石の前へと抱き渡す。

 

 

 

「――頼む……」

 

 

 

その一言だけを残して、膝をつく。

 

 

 

視界が滲む。

何かが熱い。何かが冷たい。

 

それでも意識だけは、ぎりぎりのところで残っていた。

 

 

 

「提督!? しっかりして――!」

 

 

 

明石の叫びが遠のいていく。

提督の意識もまた、暗闇に沈むように崩れていった。

 

 

 

最後に見たのは、加賀の顔だった。

血に濡れ、表情のないその横顔を――ただ、守りたかった

 

 

静かな呼吸音と、薬の匂い。

目を開けた瞬間、白い天井が加賀の視界に広がっていた。

 

――医務室。

 

一瞬、どこにいるのか理解できなかった。

だが、次の瞬間には鋭い痛みが脇腹を走り、全ての記憶がよみがえる。

 

爆撃。閃光。提督の背中。

 

 

 

「……!」

 

 

 

「加賀さんっ!」

 

 

 

駆け寄る声に視線を向けると、赤城がいた。

泣きそうな顔で、すがりつくように手を握ってくる。

 

「良かった……ほんとに……目を覚ましてくれて……!」

 

 

 

その手のぬくもりは、確かに現実のものだった。

 

だが、加賀の唇から出たのは――

 

 

 

「……提督は?」

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間。

周囲の空気が、固まった。

 

さっきまでいた整備兵たちも、医療スタッフも、誰もが一瞬にして口を閉ざした。

 

 

 

「……どうして、黙るのですか?」

 

 

 

赤城の表情が苦しげに歪んだ。

口を開きかけて、しかし言葉が続かない。

 

加賀の中に、冷たい予感が広がっていく。

 

 

 

(いや……)

 

 

 

全身の力を込めて、ベッドの柵を掴み――跳ねるように身体を起こす。

 

 

 

「――加賀さん、待って! まだ身体が――! あなた、もう2日も寝たきりだったのよ!」

 

 

 

赤城の声も聞こえていた。

それでも、足は床に降りた。

 

踏み出すたびに、脇腹が焼けるように痛んだ。

だが、止まらなかった。

 

 

 

「赤城さんは……っ、離してください!」

 

 

 

手を振り払う。

赤城の手が離れる。

 

慌てて支えようとした誰かの腕を、静かに、しかし強く拒むように払い除ける。

 

 

 

目の奥が熱い。

 

ただ、彼が倒れているその姿が、どうしても頭から離れなかった。

 

 

 

加賀は、揺れる視界を押し殺して、医務室を飛び出した。

 

 

 

(提督――あなたが……!)

 

 

 

その足取りはふらついていたが、

彼の名を、胸の奥で何度も叫びながら、止まることはなかった。

 

 

病棟の最奥、ひときわ冷たいガラスの扉の向こう。

密閉された治療室の中、心電図の規則的な電子音だけが、静かに空間を支配していた。

 

 

 

ベッドの上、彼は眠っていた。

いや、眠っているというより――戦っている、というべきか。

 

 

 

顔には酸素マスク、

左腕は肩から先が包帯で覆われ、血が滲んでいた。

 

無数の点滴チューブとモニター、

胸のあたりには強く巻かれた包帯と、それを押さえるような医療器具。

 

 

 

(――こんなになるまで……)

 

 

 

加賀は震える脚を引きずり、

ガラス窓に片手を添えるように立ち尽くした。

 

 

 

その姿は、壊れてしまいそうなくらい痛々しく、

そしてなによりも――“静か”すぎた。

 

 

 

彼が、しゃべらない。

 

彼が、笑わない。

 

冗談も、軽口も、口調すら聞こえてこない。

 

 

 

代わりに、加賀の脳裏に焼きついていたのは――

 

 

 

――「ちくしょう……」

――「やってくれたな……」

――「くそやろうが……」

――「よくも……」

 

 

 

あの日、意識が薄れていく中で、確かに聞こえた声。

 

彼の、怒りに震えた声。

 

 

 

(あれは、私に……?)

 

 

 

加賀の胸に、ひやりと冷たいものが落ちる。

 

 

 

違う――違うとわかっている。

 

あれはきっと、深海棲艦に向けられた言葉。

彼があんな言い方を、仲間に向けるはずがないと、頭では理解している。

 

 

 

けれど――

 

 

 

確認できない。

訂正も、否定もしてくれない。

 

 

 

何も語らない彼の姿は、加賀にとってそれを否定する材料にはならず、

ただ「心の中で言われた」と錯覚するには、十分だった。

 

 

 

(……私が、もっと早ければ……)

 

 

 

加賀は歯を噛み締める。

 

 

 

いつもなら、真っ先に装備を整えていた。

いつもなら、即応できていた。

この程度の艦載機――むしろ、基地に辿り着く前に、空で叩き落としていたはずなのに。

 

 

 

その“いつも”を変えたのは、自分だった。

 

ほんの少しの、寄り道。

 

ただ、彼に食事に誘いたいというだけの、ささやかな願いだった。

 

 

 

――それだけで、すべてを壊したのだ。

 

 

 

加賀の視界が、にじんだ。

 

言葉もなく、音もなく。

ただ、ガラス越しに眠り続ける彼に、手を添えたまま。

 

 

 

(ごめんなさい……)

 

 

 

そう呟いた唇は、誰にも届かない。

ただその想いだけが、痛みとなって胸を締めつけていた。

 

南方の臨時基地では、提督の治療には限界があった。

緊急処置こそ施せたものの、昏睡状態に陥った彼を救うには、より整った設備と人材が必要だった。

 

 

 

数日後、彼は本土の医療施設へ移送された。

だが――

 

 

 

加賀は、その日から一日たりとも欠かすことなく、病院へ通った。

 

 

 

艦載機も艤装もない日常服のまま、

髪を結い、制服の代わりに薄いカーディガンを羽織って。

 

 

 

面会受付に名前を書くのはもう習慣だった。

警備員にも看護師にも顔を覚えられ、通い詰めていることを悟られていても、彼女は気にしなかった。

 

 

 

ただ――ただ一つ。

 

「彼が目を覚ましてくれたら」

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

病室の前のベンチ。

ガラス越しの面会窓。

清潔な白のカーテンがわずかに揺れる病室。

 

 

 

何も変わらない彼の姿。

変わらない心電図の音。

 

 

 

けれど、加賀はそこに座り続けた。

 

本を読むでもなく、スマホをいじるでもなく、

ただ静かに、椅子に腰掛け、彼の眠る姿を見つめていた。

 

 

 

何度も、何度も――

 

「……おはようございます」

「……今日も、お変わりはないようですね」

「……そろそろ起きませんか?」

 

 

 

声をかけてみた。

もちろん返事はない。

それでも、毎日同じ言葉を、加賀は欠かさなかった。

 

 

 

面会時間が終わると、看護師がやってくる。

 

「加賀さん……今日はもう、これで……」

 

「……はい、すぐに」

 

 

 

そう答えても、なかなか席を立たない日も多かった。

追い出されるように帰ることもあった。

 

だが、翌日になればまた来ていた。

 

 

 

彼が眠り続ける限り、

自分の中で時が止まったままなのだと、加賀は知っていた。

 

 

 

許されたいわけじゃない。

責めて欲しいわけでもない。

 

 

 

ただ、――目を覚ましてほしかった。

それだけだった。

 

 

 

季節は、夏から秋へ。

窓の外には、色づいた街路樹。

外套を羽織った人々の姿が増えていく。

 

 

 

それでも加賀は、毎日、変わらずそこにいた。

 

眠り続ける彼のそばに。

 

 

それは、いつもと変わらない朝だった。

 

 

 

加賀は、いつものようにガラス越しの病室に座り、

何も言わず、ただ彼の眠る姿を見ていた。

 

 

 

――その瞬間。

 

 

 

彼の右手が、ふわりと浮いた。

 

 

 

加賀の瞳が大きく見開かれる。

 

目を疑った。

けれど、次の瞬間、彼の瞼がわずかに開き、

うっすらとした焦点が、白い天井を彷徨った。

 

 

 

「……っ」

 

 

 

声にならない声が喉をついた。

思わず立ち上がって、ガラス越しに身を寄せる。

 

 

 

右手が宙を泳いでいた。

左腕――彼が失ったその場所には何もない。

 

それに気づいて、彼の呼吸が乱れ始めた。

 

 

 

混乱している。

 

自分がどこにいるのか、何が起きたのか、わかっていない。

 

それでも――

 

 

 

彼は、生きていた。

 

意識を取り戻した。

息をしていた。

目を、開けた。

 

 

 

(……生きてる……)

 

 

 

喜びと、安堵が一気に胸を満たす。

 

喉が詰まり、目頭が熱くなった。

 

 

 

だけど――その感情は、すぐに別のものに塗り替えられた。

 

 

 

(私が……私が、あのとき、ほんの少し早ければ……)

 

 

 

彼の左腕は、もう、どこにもなかった。

 

 

 

その現実を、彼がどう受け止めるのか――

 

それが、怖かった。

 

 

 

喜びよりも早く、恐怖が彼女を包み込む。

 

 

 

何かを言われるのが怖い。

自分が見られるのが怖い。

あの時のことを――責められるのが怖い。

 

 

 

加賀は、逃げた。

 

無意識に手が伸びて、ナースコールを押す。

駆け込んでくる看護師の姿が見えた瞬間、

彼女は踵を返して、廊下を走った。

 

 

 

(合わせる顔が、ない――)

 

 

 

制服の裾がなびき、足音が病棟に響く。

背後で誰かが呼ぶ声がしたような気がしたが、それを振り返る余裕はなかった。

 

 

 

ただ、涙が頬を伝っていた。

安堵の涙と、罪の涙が混ざって。

 

 

 

加賀は――逃げるように、病院を去った。

 

 

あの日、病室から逃げるように姿を消した加賀は――

そのまま、戻らなかった。

 

 

 

正式な辞令は、後日発令された。

 

“健康上の理由”という名目と、

“戦後復興における軍縮計画”の影響を受け、加賀は退役を申し出た。

 

 

 

それを止める者はいなかった。

 

否――

 

止められなかった、のかもしれない。

 

 

 

静かに、加賀は艤装を返上し、

軍服を脱ぎ、ただの一人の女性として新たな道を選んだ。

 

 

 

大学進学。

 

当時、戦後復興に伴い多くの艦娘たちに進学の道が開かれていた。

 

加賀もまたその流れに乗り、赤城、そして数人の旧知の艦娘たちと同じキャンパスに籍を置いた。

 

 

 

――再び始まった、普通の生活。

 

けれど、彼女の胸の内で「普通」は、常に軋みを上げていた。

 

 

 

日々の授業、友人との会話、昼食のひととき。

 

笑顔を見せることも、頷くことも、少しずつ慣れてきた。

 

けれど――ふとした瞬間に、思い出す。

 

 

 

あのガラス越しの病室。

 

宙を泳いでいた右手。

 

もう、無いはずの左腕。

 

そして、自分だけが――逃げた。

 

 

 

「……あの事故のこと、気にしてる?」

 

ある日、赤城が問いかけてきた。

 

加賀は一瞬、呼吸が止まった。

 

 

 

「提督……あのあと、会ってないの?」

 

 

 

その問いに、加賀は嘘をついた。

 

 

 

「……偶然、街で会いました。向こうも……もう気にしていないみたいです」

 

「本当?」

 

「ええ。ちゃんと話しました。全部、吹っ切れました」

 

 

 

嘘だった。

 

一度たりとも、再会していない。

 

彼が目を覚ましたあと、加賀は二度と病院に近づいていない。

 

 

 

けれど、赤城はそれ以上追及しなかった。

 

ほんの少しだけ、表情を曇らせただけで――

「そう……なら、よかった」と、小さく笑って見せた。

 

 

 

(あの人は、優しいから)

 

 

 

加賀は思った。

 

そして、自分のついた嘘にすがるように、静かに生きた。

 

 

 

彼のことを口に出す者はいなかった。

ただの一人として静かに学び、暮らす日々。

 

 

 

“戦火の象徴”である自分と、

“戦の記憶”そのものでもある彼と。

 

互いに連絡が取れないのも、無理はないと思った。

 

 

 

だから、自分のこの嘘は、誰も確かめようとしない。

 

突き通してしまえば――それで済む話だった。

 

 

 

本当は、ただ一つだけ望んでいた。

 

 

 

――彼が、自分を責めていないなら、それでいい。

 

 

 

そう信じていれば、

罪悪感も、後悔も、少しは――和らぐ気がした。

 

 

 

けれど、心の奥底に巣食うのは――

 

未だ終わらぬ、「逃げた自分」への嫌悪だった。

 

 

 

夜、眠りにつくたび――

それは、悪夢のように蘇る。

 

 

 

提督の顔。

自分を見て笑う口元。

時折、不意に伸ばしてくれた手。

頭に乗せてくれた、大きくて温かな手のひら。

 

 

 

(……思い出せない……)

 

 

 

その笑みが、声が、

どんなだったのか、徐々に輪郭が霞んでいく。

 

忘れたくないのに。

心に刻み込まれているはずなのに。

 

 

 

ただひとつ、忘れられないのは――

あのガラス越しに見た、白い包帯と浮いた右手。

 

そして、自分が――逃げたという事実だけ。

 

 

 

それを、罰として受け入れていた。

思い出せないのも、笑えないのも、心から眠れないのも、

全部、自分が背負うべき“罪”なのだと。

 

 

 

そんなある日の午後、

加賀がいつものように静かに課題をまとめていたとき。

 

 

 

「ねえ、加賀さん」

 

 

 

ふと、赤城が隣に座った。

 

いつも穏やかで、けれど時折、どこか寂しげな目をする彼女。

 

今日も、その声には少しだけ、迷いが混じっていた。

 

 

 

「最近……元気ないですよね。いえ、ずっと、かもですけど」

 

「……そうですか?」

 

「そうですよ? ちょっと前から見てましたし。友達ですから」

 

 

 

どこか砕けたような敬語と、

旧友に語りかけるような親しみが交じった言葉遣い。

 

赤城らしい口調だった。

 

 

 

「それでですね……今日はちょっと、一緒に出かけませんか?」

 

「どこへ?」

 

「鳳翔さんのお店ですよ。知ってますよね?」

 

 

 

その名前に、加賀の指がぴたりと止まる。

 

 

 

「……ええ、もちろん」

 

「最近は前よりも人も増えてて、予約しないと難しいくらいですけど、

今日は運良く……ね? 席、空いてるって」

 

 

 

赤城は笑った。

無理にでも加賀を誘いたい、そんな優しさを隠そうともしない。

 

 

 

「……行きます」

 

加賀は、短く答えた。

 

本当は気が進まなかった。

誰かと会うのも、外に出るのも億劫だった。

 

けれど――赤城のその微笑みに、ほんの少しだけ心が揺れた。

 

それに、鳳翔という人にだけは、

今でもどこか“母のような”安心感を感じていた。

 

 

 

(たまには……いいかもしれない)

 

 

 

そんな、ほんの小さな気の緩みだった。

 

 

 

だが――

 

それは運命のいたずらだった。

 

 

 

今夜、あの店で。

 

失ったと思っていたものが、

終わったと思っていた物語が――

 

再び、交錯しようとしていた。

 

 

彼女は――罪から逃れようとしたわけではなかった。

ましてや、それを誰かに許してもらおうなどとも思わなかった。

 

 

 

あの日、逃げた自分を恥じ、

その罪を“背負う”ことを選んだのではない。

ただ、“そこに在り続けること”を自分に課しただけだった。

 

 

 

忘れたわけではない。

 

けれど、癒えたわけでもない。

 

それでも、彼女は歩いた。

 

 

 

罪の痛みは、日ごとに慣れるものではなかった。

まるで擦り傷のように、ふとした拍子にまた沁みて、また滲んだ。

 

それでも、彼女は日常の中に身を置いていた。

 

 

 

赤城の優しさに甘えたわけではない。

 

けれど、あの人のあたたかな笑顔を、無下にする気にもなれなかった。

 

 

 

あの日からずっと、彼女は“嘘”をついていた。

けれど、赤城のその笑顔にだけは、どこか正直でいたいと願っていた。

 

 

 

そして――

 

鳳翔。

 

かつての仲間であり、時に師であり、

静かに背中を見守ってくれる“母”のような存在だった。

 

戦火のなか、言葉少なくとも確かに自分たちを導いてくれた彼女に、

自分はまだ何一つ返せていないままだった。

 

 

 

(……久しぶりに、会いたい)

 

 

 

その気持ちが、ふいに胸の奥から浮かび上がった。

 

 

 

だから、この誘いに応じることは――

贖罪のためでもなければ、許しを得るためでもなかった。

 

 

 

ただ、誰かの優しさを素直に受け取ってみたくなっただけ。

 

 

 

そんな、ほんの小さな変化。

けれど、その一歩は、加賀にとって何よりも大きな意味を持つものだった。

 

 

 

「じゃあ、行きましょうか」

と微笑む赤城の隣で、加賀は静かに頷いた。

 

 

 

もうすぐ日が沈む。

空が橙から群青に変わっていく黄昏時。

 

 

 

かつて戦火をくぐった二人の艦娘が、

静かにその道を歩み始めた。

 

 

 

その先に何が待っているのか――

 

彼女は、まだ知らなかった。

 

 

 

 

その日は、あいにくのトラブル続きだった。

 

 

 

待ち合わせの時間に間に合うように、少し早めに家を出たはずだった。

 

けれど、乗っていたバスが思わぬ人身事故で停車。

車内には不穏な空気が満ち、乗客たちの間にも戸惑いが広がっていた。

 

 

 

(……間に合わない)

 

 

 

そう判断した加賀は、迷いなく席を立ち、運転手に声をかけると

静かに非常口から外へ出た。

 

 

 

走り出す。

 

 

 

秋の夜気を切り裂くように、足を鳴らして駆けていく。

 

未だ衰えぬ、かつての艦娘としての身体能力とスタミナが火を吹くように。

 

 

 

(赤城さん……お待たせしました)

 

 

 

見知った街並みを抜け、小さな坂を上がる。

 

そこにあるのは、古い海沿いの住宅を改装した静かな居酒屋。

 

あたたかな灯りが、障子越しに滲んでいた。

 

 

 

(……貸し切り?)

 

 

 

入口の横に立てられた札に、少しだけ眉をひそめる。

 

だが、それよりも先に――

 

 

 

「……え?赤城さんの声?」

 

 

 

ふいに、障子の向こうから聞こえてきた。

 

笑い声。談笑する声。そして、その中に――

 

間違いなく、赤城の声があった。

 

 

 

(中に……いる?)

 

 

 

ほんの一瞬、心の奥がざわついた。

 

けれど、今日は赤城に誘われた日だ。

 

もしかしたら、時間の伝達ミスかもしれないし、

なにより今さら引き返す理由もなかった。

 

 

 

手をかけ、戸を引く。

 

 

 

かしゃ、と木枠の擦れる音が耳を打ち――

 

 

 

最初に見えたのは、やわらかな灯りに包まれた店内。

そして、カウンター席で微笑む鳳翔の姿。

 

 

 

その隣には、どこか気まずげに箸を動かす赤城。

 

 

 

そこまで見えた瞬間――

 

 

 

視界の奥に、もうひとつの影が飛び込んできた。

 

 

 

――提督。

 

 

 

それは、現実感を伴わない、夢のような光景だった。

 

加賀の足が、止まる。

 

 

 

目の前の男がこちらに顔を向けた、その瞬間――

心臓が強く跳ねた。

 

息が詰まり、手が震える。

 

鼓動の音が、まるで耳の中で反響するかのように響いてくる。

 

 

 

その顔を、忘れたことなどなかった。

 

何度も何度も、夜の闇の中で見てきた。

 

 

 

しかし今、そこにあるのは――

 

紛れもなく、生きた彼だった。

 

 

 

次の瞬間、加賀は――

 

動けなかった。

 

 

 

 

 

そして現在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まてーい! ルパーン!」

 

 

 

ふざけたような声が、海風に乗って響いた。

 

あの頃と変わらぬ――

いや、変わってしまったはずなのに、まるで何も変わっていないような。

 

そんな声だった。

 

 

 

加賀は、振り返らなかった。

振り返ることが、怖かった。

 

 

 

駆ける足は、海浜公園の遊歩道をたどり、

冷たい海風が肌をなぞる。

 

息が上がっても、胸が痛んでも、

足を止める理由にはならなかった。

 

 

 

(違う……私は、謝る資格も、会う資格もない……)

 

 

 

赤城の言葉も、鳳翔の微笑みも、

すべて、自分には優しすぎた。

 

そして――あの声。

 

 

 

彼の声だけは、特別だった。

 

聞けば聞くほど、胸が苦しくなる。

 

 

 

“あのとき、こうしていれば”

 

そんな“たられば”が、走るたび、脈打つたびに突き刺さる。

 

 

 

足音。

背後から、まだ遠くはあるが、追ってくる音が聞こえる。

 

 

 

「加賀ー! こらー! もうちょっとゆっくり逃げろー!」

 

 

 

(なんで……そんな声なんですか……)

 

ふざけているようで、どこか必死で。

 

あの頃と同じ、冗談めいた声の奥に、

わずかに混ざる“本気”が、加賀の胸を締めつける。

 

 

 

逃げる理由はある。

 

でも、立ち止まる勇気がない。

 

 

 

波の音が、護岸の向こうで鳴っている。

 

海は、あの日のように静かだった。

 

 

 

(逃げなければ……でも……)

 

 

 

加賀は、歯を食いしばる。

 

もう、泣く資格さえないと――そう思っていた。

 

 

 

なのに。

 

 

 

胸の奥が、熱くて仕方なかった。

 

 

「ぜぇっ……ぜぇっ……よる……とし……なみっ……!」

 

 

 

息も絶え絶えに走ってきた提督が、加賀の数メートル後方で、盛大に「どてっ」と音を立てて倒れ込んだ。

 

 

 

加賀は一瞬、何が起こったか分からなかった。

 

 

 

だが、その次の瞬間。

 

 

 

(まさか……また……!?)

 

 

 

全身から、嫌な汗が噴き出した。

あの日の記憶が、滲むように蘇る。

 

 

 

崩れ落ちた提督の姿と、あの日、白い光に包まれた司令室の情景が重なった。

 

 

 

「……て、提督……っ!?」

 

 

 

叫ぶように声を上げ、踵を返して駆け寄る。

 

腕も、脚も、動きはじめたときには勝手に走っていた。

 

 

 

(違う、違う、違う……!)

 

また自分のせいで――

また、取り返しのつかないことになったのではないか。

 

 

 

だがその時。

 

 

 

「かかったなバカめ!」

 

 

 

服の裾を掴まれ、次の瞬間、加賀は軽く地面に押し倒されていた。

 

 

 

「――!」

 

目を見開く。

 

混乱し、息を呑む。

 

提督が、覆いかぶさるようにして彼女を押さえつけていた。

 

 

 

「待てよ。話ぐらい、聞け」

 

 

 

荒い呼吸のまま、けれどその声は――

優しくて、熱を帯びていた。

 

逃げようとする加賀の腕を、そっと押さえて。

 

力ではなく、その温もりで引き留めるように。

 

 

 

「あの日……と、同じ……」

 

加賀の口から、ぽつりと零れた言葉。

 

身体が震えた。

 

まるで、全身が“あの瞬間”に引き戻されるように、心が悲鳴を上げていた。

 

 

 

だが――

 

押さえる手は、熱を持っていて。

 

重なる身体は、しっかりと息をしていた。

 

 

 

「……生きてる……」

 

その一言が、口から漏れた瞬間。

 

加賀は、急に力が抜けたように、両手を提督の胸にあてたまま崩れるように横たわる。

 

 

 

暴れるのをやめ、ゆっくりと、手をほどく。

 

手のひらから伝わる温もりが、確かにそこにあることを教えてくれる。

 

 

 

「……よかった……」

 

彼が、まだ生きている。

 

今、自分の上で息をしている。

 

もう、あの時のように“失う”ことはないのだと。

 

 

 

秋の夜風が、ふたりを包んだ。

 

どこか、少し涙ぐみながらも、加賀は静かに目を閉じる。

 

 

 

「ふひー……こんな歳で全力疾走するとはなぁ……」

 

 

 

提督は、ベンチに腰を下ろしながら、荒い呼吸を整えるように大きく息を吐いた。

吐息は白く、冬の夜気に溶けていく。

 

 

 

「寒い冬にはこれだよなー」

 

片手で器用に缶ココアのプルタブを開け、ひと口。

甘さが口いっぱいに広がって、思わず目を細めた。

 

 

 

隣に立ち尽くす加賀へ、もうひとつの缶を差し出す。

 

「お前も飲めよー。ほら、あったまるぞ」

 

加賀は戸惑いつつも、缶を受け取る。

缶越しに、指先のぬくもりが少しだけ伝わった。

 

 

 

「さて――」

 

ココアを口に含みながら、提督は冗談めかした調子で口を開く。

 

「逃げたルパンを捕まえたわけだが……さて、どうしてくれようか……」

 

両手をわきわきと動かし、悪代官のような顔を作って近づいて――

 

 

 

「……って、そういうノリじゃないか」

 

すぐに手を引っ込め、肩をすくめて、苦笑した。

 

 

 

しばし、風の音が吹き抜ける。

 

ベンチの隣、加賀は俯いたまま、何も言わない。

 

 

 

提督は、静かに言葉を続けた。

 

 

 

「単刀直入に言うとな……俺はお前に対して、恨みがあったりなんかしない」

 

 

 

その言葉に、加賀の指が缶を握る音が小さく鳴った。

 

 

 

「――あの日のことは、俺の慢心でもあった。仕方ないさ」

 

 

 

ぽつりと零したその言葉。

 

だが、それは――

 

 

 

「違うっ!」

 

 

 

突然、加賀が声を上げた。

 

怒鳴るような、けれどどこか泣きそうな、切羽詰まった声。

 

その瞳は、すでに涙に濡れていた。

 

 

 

「違います……っ! 私が、あの時……! 私が……」

 

 

 

声が震える。

 

言葉の続きを押し出そうとして、けれど何も出てこなくて。

 

ただ、涙だけがこぼれ落ちていった。

 

 

 

提督は、それ以上は何も言わなかった。

 

ただ、彼女が落ち着くまで、静かに隣で缶を温め続けていた。

 

 

 

やがて、震えが収まりはじめたころ。

 

提督は、小さく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「じゃあ――俺からも言わせてもらうぞ」

 

 

 

その瞬間、加賀の肩がびくりと跳ねた。

 

思わず身構えてしまう自分が情けなくて、でも止められなくて。

 

提督はそれを見ても、責めるような顔ひとつせずに言葉を選んでいた。

 

 

提督は、空になったココアの缶をベンチの横に置くと、ふぅとひと息ついて、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「……その前にな。あの日――何が起きたのか、ちゃんと話しておこう」

 

 

 

加賀が静かに顔を上げる。

耳を澄まそうと、自然に身体が前傾した。

 

 

 

「お前はあの日のあと、すぐに軍を辞めちまったからな。きっと、正式な報告書も、結果も、全部知らないままなんだろう」

 

 

 

そう言って、提督は少しだけ空を仰ぐ。

 

冬の星が、まばらに瞬いていた。

 

 

 

「……写真は、全部機密扱いになってる。だから証拠を見せることはできねえ。だが、あの時の敵……深海棲艦の艦載機はな、ボロボロだった」

 

 

 

「ボロボロ……?」

 

加賀が小さくつぶやいた。

 

 

 

「あぁ。機体は満身創痍、制御も甘い、装甲も剥がれかけてた。しかも、積めるだけの爆弾を、限界まで積んで飛んできた。……帰る気なんざ最初からなかった」

 

 

 

提督の言葉は、静かだった。

だが、そこには確かな重みがあった。

 

 

 

「いわば、地獄への片道切符を握りしめてのバンザイアタックだ。死を恐れない、死を前提とした……そういう連中だった」

 

 

 

「まるで……昔の……」

 

加賀が唇を噛んだ。

 

 

 

「あぁ。俺たちのご先祖様ってほどでもないが――先人たちが、大戦の終盤に見せた“覚悟”にな。似てたんだよ、あれは」

 

 

 

夜風が吹く。誰かが話すには、あまりにも静かな夜だった。

 

 

 

「俺の作戦も、正直言って完璧だった。防空網に穴はなかった。敵の進路は読んでいたし、対応部隊の配置も手抜かりはない」

 

 

 

提督は、ほんの少しだけ、肩をすくめた。

 

そして――静かに言う。

 

 

 

「……ただな。その完璧を、奴らの“覚悟”が、上回ったんだよ」

 

 

 

「……っ」

 

加賀の喉が、小さく震えた。

 

 

 

「俺のミスだとも言える。だが、それはお前のせいじゃない。お前がちょっと準備が遅れたとか、寄り道をしたとか――関係ない。お前がいなかったとしても、きっと何かしらの形であの一撃は通っていた」

 

 

 

提督の声は、少しだけ掠れていた。

 

それでも、加賀の目を真っ直ぐ見つめて、言葉を重ねる。

 

 

 

「だから……お前が、自分を責める理由は、どこにもないんだよ。あれは、戦争だった。勝ったはずの戦争の、最後の毒牙だ」

 

 

 

静寂が、ふたりの間に戻る。

 

その沈黙は、冷たくも、どこか優しい温度を持っていた。

 

 

 

そして提督は、加賀の肩が少しずつ揺れているのを見て、黙って、言葉の続きを待った。

 

 

 

「じゃあ――本題、言わせてもらうぞ」

 

 

 

そう切り出した提督に、加賀は身を固くする。

けれど、怒号や非難はなかった。

 

 

 

「……俺は、な」

 

と提督は缶ココアを見つめたまま、少し間を置いてから続けた。

 

 

 

「お前のことは……気にしてなかったんだ」

 

 

 

加賀はぴくりと反応した。

 

言葉だけを切り取れば、それは拒絶にも聞こえた。

だが、提督の口調はどこまでも静かで、どこか優しくさえあった。

 

 

 

「もちろん、嫌っていたわけじゃない。恨んでもいない」

 

 

 

提督は、ゆっくりと視線を加賀に向ける。

 

 

 

「ただ……なるべく、軍の記憶を薄れさせてやりたかった。だから、俺はお前に限らず、基本的にはこっちから連絡を取ったことはない」

 

 

 

加賀は言葉もなく、ただじっと彼を見つめていた。

 

 

 

「たまに街中で偶然会うってのは、あったけどな。それも声をかけず、ただ通り過ぎるだけにした。そっちが普通の生活を送ってるなら、それが一番だと思った」

 

 

 

そこまで言って、提督は短く息をつく。

 

 

 

「お前にとって、あの日のことが忌まわしい記憶になってるってのは……まぁ、わかってたさ。でも、自責の念で潰れそうなほど追い込まれてるとは……正直、知らなかった」

 

 

 

缶ココアのぬるくなった口あたりを、ほんの一口すすってから――提督は静かに言った。

 

 

 

「俺は、辛いことは忘れるのが一番だと思ってた。無理に触れないほうが、心が癒えると思ってたんだ。関わりがなくなれば、いずれは薄れて、消えて、どうにかなる……ってな」

 

 

 

風が吹いた。

 

冬の冷たい風だったが、どこか彼の言葉に似た、乾いたぬくもりを持っていた。

 

 

 

「……でも、お前は、それを“ひとりで”抱えてたんだな」

 

 

 

その言葉に、加賀の目が潤む。

 

提督は、それを見ても責めたりしない。ただ、静かに言葉を続けた。

 

 

 

「すまなかった。俺がもっと早く……ちゃんと向き合ってやるべきだったな」

 

 

 

そして、ぽつりと――

 

 

 

「ほんと、バカな提督で悪かった」

 

 

 

ふざけもせず、冗談も言わず、提督はそう言った。

 

それは、彼の精一杯の“謝罪”であり、真心だった。

 

 

 

静かに――しかし、確かな熱を帯びた声で、提督は語り出した。

 

 

 

「言い訳にしかならないんだがな……」

 

 

 

ぽつりと落ちるその言葉に、加賀は小さく肩を揺らす。

 

提督は手元の空き缶を見つめながら、過去の影を語る。

 

 

 

「……俺は、ガキの頃、もう何十年も前になるが……住んでた街が襲撃を受けてな。家族も、友達も……みーんな死んだ」

 

 

 

加賀の視線がゆっくりと下がる。

 

提督の声に、嘘は一つもなかった。

 

 

 

「それがどれほど辛くて、悲しくて、悔しかったか……もう言葉じゃ言えねぇよ」

 

 

 

静かに、吐息のように続く。

 

 

 

「それでも俺は――それらを“復讐”することで、忘れたかったんだ」

 

 

 

「……!」

 

加賀の胸の内で、何かが震えた。

 

 

 

「そうすることでしか、生きてる意味を見つけられなかった。忘れることで、傷が癒えると思ってた。……今の今まで、な」

 

 

 

提督は少しだけ顔を上げて、夜空の星を仰いだ。

澄んだ空気の中、言葉はぽつぽつと落ちていく。

 

 

 

「それに……俺には、謝ったり、許してもらう相手もいなかった。皆、もういなかったからな。声をかける相手もいねぇ。だから……俺自身の心を、見ないふりしてたんだ」

 

 

 

そこまで言って、提督は苦笑した。

それはどこか、自嘲めいた、弱さを認める男の笑みだった。

 

 

 

「――だから俺も、逃げたんだよ。お前と同じようにな」

 

 

 

加賀が顔を上げた。目に涙が浮かび、唇が微かに震えていた。

 

 

 

「加賀……お前に何か言われるのが、怖かった」

 

 

 

夜の静寂に、提督の言葉が落ちていく。

 

 

 

「“お前のポンコツな作戦指揮のせいで死にかけた”って、責められると思ってたんだ」

 

 

 

彼はそこで初めて、加賀を真正面から見据えた。

 

 

 

「お前が俺に責められると思ってたように……俺もまた、お前に、何かを言われるのが……怖かったんだよ」

 

 

 

小さく、だが確かに――

 

 

 

「俺も……怖かったんだ。加賀」

 

 

 

その声には、軍人としての威厳も、指揮官としての誇りもなかった。

 

ただ一人の、同じ痛みを抱えた人間としての、心からの言葉だった。

 

 

 

風が吹いた。

冷たいが、どこか優しさのある風だった。

 

ベンチに座ったままのふたりを包むその静けさは、言葉よりも雄弁に語っていた。

痛みを打ち明けることで、確かに――何かが、ほどけはじめていた。

 

 

「……でもお前は、真面目だからなぁ」

 

そう言って、提督はジャケットの内ポケットからタバコの箱を取り出す。

器用な片手だけでタバコを引き抜き、軽く唇に挟むと、ライターを取り出し火をつける。

 

カチリ。

 

「ほら、慣れたもんだろ?」

 

くゆる煙の向こうで、片目を細めて笑う。

 

 

 

「――だから、お前には“これから”贖罪をしてもらう」

 

 

 

その一言に、加賀の心臓が跳ねた。

“贖罪”――それは彼女が最も恐れ、しかしどこかで望んでいた言葉だった。

 

 

 

「足りない分の俺の左腕、手伝え。

お前が勝手に背負った責任かもしれないがな。だったら――その上に、俺も乗ってやる」

 

 

 

言葉が心に、重くも柔らかく落ちてくる。

 

 

 

「満足したら……おろせばいい」

 

ふぅ、と煙を空に吐きながら、提督は遠くを見た。

 

 

 

それは慰めでも、許しでもなかった。

 

ただ、一緒に重荷を背負うという申し出だった。

 

 

 

加賀の胸の奥が、温かくなる。

 

だが、次の一言で、それがこそばゆさに変わる。

 

 

 

「あっ! ちょっと待てな? これ――愛の告白とかじゃないからな!? 誤解すんなよ!? お前、そういう顔すんな!?」

 

 

 

慌てて言い足す提督の様子に、加賀の表情がほころんだ。

 

くすっと、いや、声には出ないが笑みがこぼれる。

 

 

 

彼の言葉は、不器用だけど、真っ直ぐだった。

そして何より、その体温が――とても、あたたかかった。

 

 

 

冷たい海風に吹かれる冬の夜、

二人は少しずつ、止まっていた時間を取り戻しはじめていた。

 

 

「……私、あなたに謝るのが怖かった。怒られるのが怖くて……でも、それ以上に……あなたに失望されるのが、一番、怖かった」

 

 

 

その声はかすかに震えていたが、ようやく言葉になった想いだった。

 

 

 

「それでも……やっぱり謝るべきだった。向き合うべきだったのに、逃げて……」

 

 

 

うつむいた加賀の前で、提督はタバコを咥えたまま、ふぅと煙を吐く。

 

 

 

「……しっかし、お前も不器用だなあ」

 

 

 

くすっと苦笑して、片手で頭をかく。

 

 

 

「ま、俺が言えた口でもねぇけどな」

 

 

 

その言葉に、加賀が顔を上げる。提督の表情はどこまでも素直で、優しかった。

 

 

 

「……似た者同士、ってことでいいんじゃないか?」

 

 

 

そのひと言に、加賀は思わずふっと息を漏らした。

 

 

 

「……それ、慰めのつもりですか?」

 

 

 

「いや、宣言だ」

 

 

 

くすり、とまた小さな笑いが漏れた。

その笑いは、どこか寂しげで、けれど確かな救いを湛えていた。

 

 

 

――すれ違った二人は、ようやく同じ歩幅に戻った。

 

想いが深いぶん、不器用で、届かなかった。

けれど、それは「届かなかった」のではなく、「遅れてしまった」だけだったのだ。

 

 

 

「帰るか。鳳翔たち、まだ待ってるかもしれんしな。……赤城が俺のツケでどれだけ食ってるかも心配だし」

 

 

 

「ふふっ……それは確かに、少し心配ですね」

 

 

 

並んで歩く二人の肩が、風にほんの少しだけ、近づいた気がした。

 

 

カラカラと、戸が鳴った。

冬の夜風がひと吹き、店内に流れ込む。 

 

 

 

暖簾の向こうから姿を現した二人に、最初に気づいたのは赤城だった。

 

「あ……!」

 

声を上げて駆け寄る。

安堵と、まだ拭いきれない不安が入り交じる瞳で加賀の顔を覗き込む。

 

「大丈夫?……ごめんなさい、私……」

 

赤城が何か言いかけたが、それを加賀がそっと首を振って止める。

何も言わなくていい。すべては、もうわかっている――そう言いたげだった。

 

 

 

一方、鳳翔はカウンターの奥から立ち上がり、静かに二人を見つめていた。

何も言わず、けれど、その目にはすべてを見通したような優しさが浮かんでいる。

 

そしてただ、ふわりとした笑みをたたえて、ひとこと。

 

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 

その言葉は、まるで長い旅路の終わりを告げるような、温かく、懐かしい響きだった。

 

 

 

提督は照れ隠しのように肩をすくめて、ぽんと加賀の頭をひと撫でする。

 

「さぁーて! 今日は俺の奢りだ。じゃんじゃん飲んで、じゃんじゃん食え、な?」

 

加賀は目を丸くして提督を見上げたあと、ほんの少しだけ、微笑んだ。

 

その笑顔は、戦時中の厳しい仮面とも、自己嫌悪に沈んだ顔とも違う。

 

ただの――女の子の笑顔だった。

 

 

 

「……じゃあ、遠慮なく」

 

 

 

赤城の顔にも、ようやく柔らかな光が戻る。

 

「では、私はお刺身盛り合わせと……唐揚げと、天ぷらと、それから……」

 

「はいはいストップストップ赤城、順番にいこうな!」

 

 

 

笑いが、さざ波のように店に広がる。

 

冬の夜の、あたたかな、ひとときだった。

 

 

 

 

その夜の終わり――

 

吹雪は座敷で気持ちよさそうに眠っていた。酒を飲んだわけではない。ただ、慣れない買い物や久々の再会、興奮の連続に加えて温かい料理と穏やかな空気が、彼女をすっかり夢の中へと誘っていた。

 

提督は背筋を伸ばし、「さて、連れて帰るか」と立ち上がる。

 

「タクシー呼んでもらえるか? さすがに鳳翔に送らせるわけにはいかんしな」

 

「あ、はい。すぐに呼びますね」と鳳翔が電話に向かう。

 

赤城が心配そうに吹雪を覗き込み、「一人で大丈夫ですか?」と尋ねると、

加賀や鳳翔まで顔を上げてこちらを見てきた。

 

「おう、こうやって帰るさ」と言いながら提督が肩を回すジェスチャーをして――

 

「……こう、担いでな?」

 

その瞬間、時が止まったようだった。

 

「て、提督ッ!?」

 

「ん? どした?」

 

「いえ、でもこうだぞ? 居間とかで寝てたら担いで……いだだだだだだ!?」

 

突如、横から伸びてきた鳳翔の手が、提督の二の腕の内側を力強く――しかし、無言で――つねり上げていた。

 

「な、なにしやがる鳳翔!?」

 

「…………」

 

鳳翔は口を開かない。ただその目は静かに怒りを滲ませていた。

 

「て、提督……女の子の扱いがなってません!」と赤城が眉を吊り上げながら詰め寄る。

 

一方で、加賀は目を丸くし、呆然としたまま開いた口を閉じられずにいる。

 

「だってよ、片腕じゃ他にどう運べと……せいぜい首根っこ掴むぐらいで……ぁだだだだ! うそうそうそだから!!」

 

「……はぁ、もう」

加賀がため息をひとつ吐いて前に出る。

 

「私が、おんぶします」

 

「え、まじで?」

 

「はい。私が責任をもって吹雪さんをタクシーまでお連れします。……そこの乗降も、です」

 

頼もしい言葉に、店内に一拍の沈黙。

 

「……おぉ、助かる……」

 

「……女の子の扱いって、そういうことです」と赤城がジト目で呟き、

鳳翔は頷きながら微笑みを返す。

 

かくして、提督と加賀はタクシーに吹雪を連れ、夜の街へと出ていく。

冬の空気は冷たいが、不思議と心は温かかった

 

 

家の鍵を開け、軋む音を立てて扉を開けたとき、冬の夜気がさっと室内に流れ込む。

その冷気に包まれながら、加賀は吹雪をおんぶしたまま、ゆっくりと玄関を上がった。

 

「……むにゃ、しれいかん……」

 

背中でうつらうつらと微睡む吹雪の呟きに、加賀は思わず小さく笑った。

その声があまりに幼く、あまりに穏やかで、まるで眠る赤子のようだったから。

 

「大丈夫、もうすぐ布団だから」

 

その言葉に返事はない。ただ背中の温もりが安らぎに満ちていた。

そっと部屋に入り、布団を整えると、加賀は慎重に吹雪をおろし、そのまま優しく毛布をかけてやる。

 

「おやすみなさい、吹雪さん」

 

彼女の頬にかかる髪を、そっと耳にかけると、吹雪はほんの一瞬微笑んだように見えた。

 

それを見届けた提督は、少し離れた廊下から声をかけた。

 

「今日、お前も泊まってけよ」

 

「……え?」

 

「あー、って言ってもな、別に変な意味じゃねぇし。

 手ぇ出したりとか、くったりしたりとか、そーいうんじゃねぇから安心しろ。へーきへーき」

 

と言いながら、提督はすたすたとリビング奥の押し入れから、来客用の布団を引っ張り出し始めた。

不器用な片手でも慣れた手つきで、パタパタとシーツを広げ、布団を敷く。

 

「ほれ、ちゃんと来客用な。ちょっとだけホコリ臭いが勘弁な」

 

加賀は静かにその様子を見つめていた。

戦時中、指揮官としての彼しか知らなかった自分にとって、この姿は不思議だった。

誰かのために、布団を敷く。家族のように、帰る場所を作る。そんな姿は。

 

「さーてと……」

彼はゆっくりと立ち上がり、伸びをしながら大きく欠伸をひとつ。

 

「今日はもう遅いし、疲れただろ? 明日に備えて寝よーぜ。

 ふぁぁぁ……っと、こっちも眠気が限界だ……」

 

その声も、動きも、どこかほっとする緩さを持っていた。

それに包まれながら、加賀はそっと布団の端に腰を下ろす。

 

「……おやすみなさい、提督」

 

「おう、おやすみ」

 

夜の帳がゆっくりと家を包み込む。

静かで穏やかな、家族のような、でもまだ不器用な距離感のまま――夜は深まっていった。

 

 

部屋の明かりはすでに落とされ、薄明かりの常夜灯だけが静かに空間を照らしていた。

吐く息は白くはないが、確かに冬の気配を孕んでいて、室内の静けさはまるで時の流れを止めてしまったかのようだった。

 

隣の布団では、提督が深い呼吸を繰り返している。

目を閉じ、寝息を立てるその顔には、かつての戦場では決して見せなかった、穏やかな安らぎがあった。

左腕がないことも、戦火に焼かれた過去も、すべては今、この静かな夜の中ではただの一部にすぎないように思えた。

 

加賀は、その顔を見つめたまま、そっと吐息をもらす。

この人がいなければ、自分はもうとっくに壊れていただろう。

そしてその人を壊したのは――自分だったのだ。

 

その罪は、今でも消えたわけではない。

けれど、許された。そう、ほんの少しだけでも。

あの時、追ってきてくれた背中。

ベンチで語られた言葉。

あの温もりと、震えた声。

 

「……ありがとう、提督」

 

掠れた声は、彼の眠りを妨げることなく、夜に吸い込まれていった。

 

加賀はゆっくりと身をかがめ、彼の頬にそっと唇を寄せる。

ほんの一瞬、触れるか触れないかのやわらかい口づけ。

それは感謝と、懺悔と、そして確かにそこに生まれた救いの証だった。

 

彼は目を覚まさなかった。

ただ、寝息のリズムがわずかに緩やかになったようにも見えた。

 

その静かな寝顔をもう一度確かめるように見つめた加賀は、そっと布団に身を滑り込ませる。

 

安堵の中に、胸の奥にずっとあった刺すような痛みが、少しずつほどけていくのを感じながら、彼女は目を閉じた。

 

静かな夜がふたりを包み込んでいた。

 

それは、赦しと再生の夜。

あの日壊れた何かが、少しずつ、確かに修復されていく――

そんな気がした。

 

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