艦これ 砲声なき日々に 作:ダッフル
吹雪がまどろみの中で最初に感じたのは、香ばしい味噌の香りだった。
鼻をくすぐるそれは、だしの香りと混ざり合い、胃の奥を刺激する。
その匂いでようやく目が覚めた吹雪は、寝ぼけ眼をこすりながら時計を見た――そして、跳ね起きた。
「し、しまったっ……!」
今日は自分が朝食当番だった。
提督に言われた訳でもない。いつの間にかそれは自然と決まっていた役割。
けれど、その“当たり前”を寝過ごしてしまったことに、焦燥が吹雪を突き動かす。
足音も軽く階段を駆け下りると、リビングにはテレビの朝のニュース番組の音が流れていた。
提督はこたつの端で半分もぐり込みながら、ぼんやりと画面を眺めている。
「……あれ?」
吹雪は小さく呟いた。
彼はのんびりと座っている。何か怒っている様子でも、困っている様子でもない。
そして――
「おはようございます、吹雪さん。もう少しで朝食が整いますよ」
台所の方から聞こえてきたのは、どこか懐かしく、それでいてどこかよそよそしいような、加賀の声だった。
「か……加賀さん……?」
吹雪は目を瞬かせながらその姿を見る。
エプロンを身にまとい、湯気を立てる鍋を丁寧にかき混ぜている加賀は、あの加賀そのものだった。
けれど、そこにはかつて吹雪が感じていた張り詰めた空気も、鋭い眼差しもない。
代わりにあったのは、静かで柔らかな、どこか優しげな表情。
「……なんで……」
その小さな疑問を口に出すと同時に、吹雪は視線を提督に移す。
彼もまた、ゆるりと笑みを浮かべながら吹雪と加賀の間を見つめている。
2人の間に確かに存在していた、あの息苦しいような気配。
ぶつかり合っていた訳でもない。
言葉にされることのない、でも間違いなく存在していた蟠り――それが、なくなっていた。
加賀はあくまで自然に吹雪を“さん”付けで呼ぶ。
それは敬意であり、距離であり、同時にひとつの礼儀でもある。
けれど、吹雪はそれを“壁”とは感じなかった。
彼女の視線に気付いたのか、加賀はふっと微笑んだ。
「お味噌汁の具は、昨晩の残り物を少し使わせていただきました。冷蔵庫の管理は行き届いていて素晴らしいですね」
「えっ……あ、あの、ありがとうございます……」
妙にかしこまったやり取りに、少しだけ恥ずかしさがこみ上げる。
吹雪は素早くエプロンを取りに行くと、「配膳手伝います!」とキビキビと皿を運び始めた。
寝坊してしまったことを咎める人はいなかった。
むしろ、もう準備はほとんど整っていた。
いつもなら自分が担っていた役割を、今日は加賀がすでに引き受けてくれていた。
吹雪はそれを、加賀なりの「気遣い」だと感じた。
そして何より――
(もう、きっと……大丈夫なんだ)
自分には詳しい事情はわからない。
あの日、鎮守府で感じたあの重たい空気や、視線の交差に潜んだ言葉にならない感情のやり取り。
それがどれほどのものだったか、きっと本当の意味では理解できない。
けれど、こうして同じ食卓を囲み、同じ朝を迎え、同じように味噌の香りに包まれている。
それだけで――今は、十分だった。
「んー? 加賀はあれか、味噌汁にじゃがいもぶっ込むタイプか?」
と、提督が茶碗を片手に、片腕だけで器用に味噌汁を啜った。
寒さも和らぐような湯気がふわりと顔を包み、鼻腔に大地の匂いが広がる。
「えぇ。実家が農家ですから……昔からの癖で」
加賀はそう言って、椀を持つ手を丁寧に揃えるように口元へ寄せる。
彼女にしては少しだけ照れたような声音だったが、誰もそれをからかおうとはしなかった。
むしろ、それが加賀の過去や日常の一端を聞いたのは、吹雪も提督も初めてだった。
「ははっ。吹雪はさつまいも派だもんな。ここ最近、やたら芋が続いてる気がするな」
提督の言葉に、吹雪の箸がぴたりと止まる。
そして、心なしか不安げに、潤んだような瞳で彼を見つめてきた。
「……さつまいも、いやでしたか?」
その声は思った以上に弱々しく、どこか、捨てられる仔犬のような響きさえ感じられた。
(あっ、やべぇ)
提督は内心でそう思ったが、言葉を返すよりも先に、ふくらはぎに感じる小さな圧力。
「っ……ん?」
テーブルの下から、何かがグイグイと押されている。
そっと視線をずらすと、正面に座る加賀が、スカートの裾から見える足で、器用に提督の脛をつついていた。
しかも控えめながら“絶妙な角度”で――強すぎず、しかしはっきりとした“圧”。
「…………」
提督は軽く咳払いをして姿勢を正すと、茶碗を手に、やや大げさに頷いた。
「いやいや、好きだぞ? さつまいもも。むしろ栄養価も高いし、季節感じるしな。温まるし。なあ、加賀?」
加賀は一瞬だけ微笑むと、何も言わずにそっと味噌汁を啜った。
吹雪の表情がふわっと明るくなる。
「よかった……!」
と、声に出したあと、照れ隠しのように一口、味噌汁を啜る。
彼女の頬がほんのり赤くなるのは、湯気のせいか、それとも――。
そしてテーブルの下では、加賀の足がそっと引っ込められた。
まるで、それで任務完了と言わんばかりに。
「……お前なぁ、加賀……」
と小声で呟く提督だったが、それを聞き咎める者はいない。
朝の日差しが障子越しにやさしく差し込み、冬の終わりを告げる。
味噌汁の中で、じゃがいもとさつまいもが、なかよく並んで湯気を立てていた。
朝食を終えると、加賀は静かに箸を置き、ふうと一つ小さく息を吐いてから立ち上がった。
すでに荷物は昨晩のうちにまとめており、泊まるつもりではなかったこともあって身支度は簡素だった。
「そろそろ、帰りますね。……ご迷惑、おかけしました」
そう一礼する加賀に、提督は立ち上がりながら言う。
「ん。じゃあ、駅まで送ってくか。吹雪も来いよ」
「え? あ、はい」
吹雪は一瞬だけ驚いたが、すぐにうなずいて玄関へ向かう。
三人で家を出て、朝の静かな街を歩く。
冬の空気はまだ冷たいが、陽の光はやわらかく、どこか春の兆しを感じさせる。
「大学は、どうだ? 楽しいか?」
提督が、歩きながら加賀に問いかけた。
「ええ。最初は浮いてましたが……今は、少しずつ馴染めてきた気がします。今の生活は、悪くないです」
「そりゃあ、よかったな」
と、提督がほっとしたように微笑む。
しばらく、ぽつぽつとした他愛ない話題が続いた。
足音がアスファルトに響くたび、誰かが小さく笑い、風が頬を撫でていく。
ふと、加賀が振り向いて吹雪に声をかけた。
「吹雪さんは、学校の方は?」
その言葉に、吹雪の足がふと止まりかける。
顔が曇り、言葉を詰まらせる。
「あ……学校は……」
そう呟いたきり、吹雪は目を伏せて黙り込んだ。
「おいおい、加賀〜?」
と、空気を察しきれなかった提督が、軽く右肘で加賀をグイグイと突く。
からかうような仕草ではあったが、吹雪の沈黙と雰囲気の変化に、すぐに何かに気づいた。
「あっ……」
加賀も、自分の言葉が何かに触れてしまったことをようやく理解する。
「……すみません。知らずに……」
吹雪は小さく首を振る。
「……いえ。大丈夫です」
と小さく笑うが、その笑みはどこか寂しげで、薄く、遠いものだった。
それきり、しばらく会話はなかった。
ただ、三人の足音だけが、ゆっくりと静かに冬の道を進んでいった。
改札の前、加賀はひとつ小さく息を吐いて、名残惜しげに振り返った。
提督はいつものように気の抜けたような顔で、どこか照れ隠しを含んだ笑みを浮かべている。
「そんじゃま、達者でなー」
片腕をひらひらと振りながら、提督は軽い調子でそう言った。
昨晩、あれほど重くて深い時間を共有したとは思えないほどの飄々とした態度に、加賀は少し拍子抜けしたような表情を浮かべたが――
(……らしい、ですね)
と、心の中で小さく笑った。
改札を抜けようと、ICカードを取り出しかけたその時、ふと足を止めた加賀は振り返った。
冬の朝の光が、その横顔を淡く照らす。
「そうだ。今度、大学で学祭があるんです」
「ん? 学祭?」
提督が片眉を上げると、加賀は上着の内ポケットから丁寧に一枚の紙を取り出した。
厚紙に印刷されたカラフルな学園祭のチケットだった。
「一応、規模の大きな大学ですので……入場はチケット制でして。これ、どうぞ」
「おう。にしても、学祭って……今の時期か?」
受け取って眺めながら、提督が不思議そうに首を傾げる。
「ええ。季節外れですよね」
と加賀は少し照れたように頬を掻いた。
「つい一年前まで戦時中でしたから。いろいろと学校行事も後ろ倒しになっていて……今の時期になったそうです」
「なるほどな。そりゃそうか。……戦争が終わったことの、ひとつの証ってやつだな」
提督はしみじみとそう言いながら、チケットを胸ポケットにしまった。
加賀は微笑んで、ふと目を細める。
「無くさないでくださいね? 一応、入場に必要ですから」
「任せとけ。こう見えて整理整頓は得意なんだ」
と胸を張る提督に、加賀はふっと笑う。
「そうなんですね。……ふふっ、初耳です」
「疑ってんのか? おいこら、信用ないな〜」
と笑いながら言い合う二人の距離は、もうかつてのような、取り返しのつかない遠さではなかった。
「それじゃ、本当に行ってきます」
と、加賀は軽く手を振り、改札を抜けていった。
その背中を見送りながら、提督は胸ポケットをぽんと叩いた。
「学祭か……さて、どんな顔して行きゃいいんだか……」
とつぶやき、ぽりぽりと頭を掻いた。
冬の風が通りすぎて、空には少しだけ春の匂いが混じっていた。
ひょこ、と吹雪が背伸びして提督の胸ポケットから少し見えていたチケットを覗き込む。
「大学……? 学祭……ですか?」
まじまじとそのカラフルなチケットを見つめ、首を傾げる。
「どんなことやるんですかね?」
提督は、腕を組んでふむと唸ったが──
「そりゃあお前……」
と口を開いたものの、
「……何するんだ?」
と、自分でも分かっていなかったことに気づいて苦笑する。
「ま、お互い知らないことを知るいい機会だな」
ぽん、と吹雪の頭に手を置いて撫でる。
「あと一ヶ月後が楽しみだなおい!」
「ですねっ!」
吹雪もにこっと微笑んだ。そんなふうに、二人で他愛のない笑いを交わしたその時だった。
♪──非通知設定──
突如、提督のポケットからバイブ音と共に電子音が鳴った。
「ん……?」
思わず顔を見合わせる二人。提督は眉をひそめ、ゆっくりとスマホを取り出して画面を見る。
『非通知設定』
「……非通知、か」
その表情がすっと引き締まった。まるで、かつての戦場で作戦司令を受けた時のような鋭さ。
「ど、どうしたんですか?」
吹雪が不安げに見上げる。
「いや……ちょっと気になるな」
スライドして通話に出ようとするが、一瞬だけ迷ったように動きを止めた。
それは、平穏を保つべきか、それとも何かの変化を受け入れるべきか――
結局、指は画面をなぞり、通話を接続した。
「もしもし……」
その声に、どこか遠い記憶の底から呼び出されたような気配が滲んでいた。
耳にあてたまま、提督の瞳の奥がわずかに揺れる。
吹雪は、何かが始まろうとしている予感を感じて、ただじっと隣に立っていた。
「失礼します、提督──」
静かな、しかしどこか緊張を孕んだ声が、スマートフォンのスピーカーから届いた。
「大淀か!? どうした、わざわざ非通知で!」
驚きとともに問いかける提督に、電話越しの彼女は一拍置いて、低く言った。
「10秒……待ってください」
「……?」
唐突な言葉に戸惑いながらも、提督は沈黙の中で数を数える。
吹雪も隣で困惑したように眉を寄せ、提督の反応をそっと見守る。
──10秒が過ぎた。
「……すみません、盗聴対策してました。いけます」
スマートフォンの向こうの大淀の声は、いつもの冷静さと共に、いつになく切迫していた。
「……おいおい、物騒なこと言うなよ」
提督は苦笑まじりに応えたが、すでにその表情は冗談を通り越して真顔になっていた。
「……単刀直入に申し上げます」
一瞬、風が止まったように感じた。
「元帥が……失脚をなされました」
その一言が放たれた瞬間、提督の眉がぴくりと動いた。
「……なんだと」
声に覇気はない。しかし、その静けさの裏にはかつて数多の修羅場を乗り越えてきた男の、鋭利な何かが滲み出ていた。
「詳細を」
「まだ全容は掴めていませんが……」
大淀の報告は続く。
吹雪は隣で、かつての軍人達が使う“失脚”という言葉の重さを、肌で感じていた。
提督の目が鋭くなる。
彼が戦場の“提督”の顔に戻る瞬間を、吹雪は初めて見たのだった。
──日常の終わりと、物語の幕が、ゆっくりと上がる音がした。
「……失脚、というと語弊があったかもしれませんが」
大淀の声が、どこか硬くなる。
「倒れられたことにより、政界に圧をかけてきた艦娘の退役後、および就役中の補助と保護に対する法案が──反故にされます」
その言葉に、提督のこめかみに青筋が浮かぶ。
隣の吹雪も息を飲んだ。
「……なんで今だ」
「端的に言えば、都合が悪いのです」
大淀の声が、冷たい現実を突き刺すように続く。
「各国からの圧力や、外交の歪み……艦娘を最大保有していた日本は、世界にとって“脅威”です。特に国防の観点からは、なおさら」
「……」
提督は沈黙したまま、その意味を噛み締めている。
「私たち艦娘は、それほどまでに──強力な“兵器”だということです。人間ではなく、国家間の力学の中にある“軍事資産”として」
それは、大淀がまさに彼女自身の存在を、痛みと共に肯定するような言い方だった。
「それに……」と、少しだけ間があく。「合わせて、貴方の後任は保守派の──生きのかかった方です」
「……風見、か」
提督が低く呟く。
「はい。そして──彼女たちのことも」
「……深海棲艦の“姫”たち、か」
しばらくして
「あー……」
と、提督は唸る。
無数の思考が交錯する。
表には出なかった存在、封印されかけていた“姫”たち──深海棲艦の中でも特異な個体たちの存在。
それが今、再び揺り起こされようとしている。
「盗聴対策の時間も限界です」
大淀の声が、最期に少しだけ柔らかくなる。
「──提督。今一度、鎮守府へ」
そして、通信はぷつりと途切れた。
静寂。
風の音だけが、改札口に立ち尽くす提督たちの耳に残る。
「……司令?」
吹雪が、そっと声をかけた。
彼は数秒だけ目を閉じて、そして目を開け、かつての戦場を見据えるような鋭い目をした。
「吹雪──お前は家へ帰れ。いいな?」
提督は静かに、しかし有無を言わせぬ声音で告げた。
だが、吹雪は一歩も引かなかった。瞳はまっすぐに、まるであの頃の戦闘海域で敵艦を正面から睨んでいたときのように、彼を見つめていた。
「……ダメです」
小さな声だったが、確かな決意があった。
「あんな話を聞いて、家でじっとしてろなんて──無理です。私、司令の艦娘ですから」
「……お前な」
「それに、今の司令は片腕だけでしょ? だったら、私が一緒に行きます。補助します。誰かがやらなきゃ」
提督は肩でため息をついた。
だがそれは諦めではなく、吹雪という存在の“真っ直ぐさ”に対する、少し呆れたような──そして誇らしげな、息だった。
「……頑固なのは、誰に似たんだか」
「司令ですよ」
即答されて、提督は吹き出しそうになったが、口元を引き結ぶと、ひとつ頷いた。
「じゃあ──行くぞ。ついてこい、吹雪」
「はいっ!」
二人はタクシーに駆け込んだ。
ドアを勢いよく閉め、提督が前の座席越しに運転手に声を張り上げる。
「──横ちんまで! 横須賀鎮守府、急いでくれ!」
「へ、へい! 横須賀鎮守府っすね!」
車が動き出すと同時に、夕焼けの残る街を背にして、かつての戦場──否、今また新たな火種となる海へと、二人は走り出した。
車内では沈黙がしばし続いた。
だが、その沈黙はただ重いものではなかった。隣に吹雪がいる、そのことが提督にとっては心強かった。
窓の外を流れる景色を見つめながら、吹雪は小さく呟く。
「また戦いが…?」
「そんなことにはならない」
提督の返事は短かったが、その声には確かな覚悟があった。
もう一度、あの場所へ。
終わったはずの“戦後”の続きを、今、迎えに行くために──。
タクシーが横須賀鎮守府の正門前に停車したのは、すっかり夜の帳が下りた頃だった。
守衛の詰所には今も海軍式の制服を着た兵が立ち、厳然とした雰囲気を醸している。門の横には「海上防衛再編調整区域・関係者以外立入禁止」の白文字が目立ち、民間地との境界を明確に主張していた。
「提督、お待ちしておりました!」
門の内側から手を挙げて駆け寄ってきたのは、明石だった。
艦娘時代のイメージとは異なり、今の彼女は海軍技術顧問という肩書のもと、技術幕僚としての制服に身を包んでいた。軍服と言っても白い作業着に近い形で、左腕には整備局の徽章が縫い付けられている。胸元には識別証がしっかりと吊り下げられ、セキュリティクリアランスを示すランクバッジが付けられているのが、いかにも今の軍務体制らしい。
「おぉ、明石。来てくれてたか。いや〜夜分悪いな」
「いえ、こういう時のために予備任務つけてもらってますし、こちらも動きやすくなりますから」
明石はにこりと笑いながら、提督と吹雪の身分証をスキャンし、守衛に渡す。セキュリティゲートが開き、通行許可のアラームが低く鳴った。
「さ、急ぎましょう。車用意してあります。風見提督はいま表向きは“防衛機密施設の視察”という名目で地方に出てますが、実態は外遊──観艦式のリハーサルにかこつけた名ばかりの外交ツアーです。今が好機ですよ」
二人を案内するようにして明石は駐車場へ向かい、整備局管理の軽車両に乗り込む。ベースは市販のステーションワゴンだが、外装は艦隊用に制式カラーで塗装され、内部には通信端末やIDスキャン装置など軍用の装備が追加されていた。
「後部座席、ちょっと狭いですけどどうぞ。吹雪ちゃん、酔わない?」
「大丈夫です、平気です」
「んじゃ出すよ。最短ルートで行きます」
ライトを落とし気味にした車は、音を立てず滑るように基地内の舗装路を進む。点在する格納庫やドック、かつて艦娘たちが生活していた寮の建物が暗がりの中にシルエットを浮かべ、どこか物寂しさを感じさせた。
しばらくして、基地司令部の裏手に位置する旧参謀棟──現在は幕僚や機密部局の執務棟として転用されている建物へと車は入る。案内されたのはその中の一室、大淀の私室である。
部屋に入ると、大淀は既に制服姿で待っていた。
海上戦略局の制服のまま、机上には作戦図や過去の会議記録、電文の写しが並べられ、明らかにこれは私的な空間ではない。だが、周囲の目を避けるには最善の選択だった。
「お待ちしておりました」
静かに立ち上がった大淀は、提督と吹雪に一礼する。
「風見提督がここに戻るのは三日後です。それまでに“どう動くか”、具体的な整理と準備を進めましょう。今日を境に、戦後の均衡は確実に揺らぎます」
室内に張り詰める緊張感が、まるで過去の作戦会議の空気をそのまま再現したように、重く静かに、ゆっくりと降りてきた──。
場面は、次の局面へと移り出す
「まず、今最も危険なのは──南方の無人島に隔離・監視されている“姫級”と、その配下の深海棲艦たちです」
その言葉を聞いた途端、吹雪は湯呑みに口をつけたまま、盛大にお茶を吹き出した。
「ぶっ……っごほっごほっ、ごほっ!? な、なんでずがぞれ!?」
むせて咳き込みながら、吹雪は目を見開いて提督と大淀を交互に見つめる。咳を鎮めながらも、その眼には明らかな動揺と驚愕がにじんでいた。
「おいおい、大丈夫か……タオル……」と提督が手元の紙ナプキンを差し出しながら、少しだけ肩をすくめて笑う。
「……まぁ機密扱いだったからな。お前に言ってなかったのは、別に意図して隠してたわけじゃない。任務には関係なかったしな」
大淀が静かに頷き、補足する。
「終戦直前、我々があれほどすんなりと深海棲艦の本拠地を攻め落とせたのには理由があります。姫級のうち一部が、内部抗争あるいは思想の乖離から、我々人類側に“離反”したのです」
「離反……ですか……」
「ええ。彼女たちは、こちら側に『保護』と『共存』を求めてきました。代わりに、本拠地の戦力の一部を“戦場から排除する”という約束を交わしたのです。もちろん、その結果、我々は驚くほど容易に本拠地を制圧できました」
吹雪は信じられないというように小さく首を振る。あの戦争の最中、深海棲艦と“交渉”などという発想がどこにも存在しなかった時代だった。
「その交渉の結果、彼女たちは我々の手によって南方の無人島へと隔離され、現在もなお監視下にあります。しかし、今──政界の混乱と元帥の倒れによって、この協定が反故にされかねない状況となりました」
大淀が重々しく言葉を継ぐと、室内の空気が明確に変わった。何かが、静かに、そして着実に崩れ始めている。
「……そして、その交渉役。おそらく人類史上、深海棲艦と初めて“言葉”で意思疎通した人間が──」
その視線が、静かに提督へと向けられる。
「──この人です」
「……あはは、俺だわ」
提督は、どこか照れ隠しのような、気まずさを隠すような笑いを漏らしながら首をすくめた。
「ま、話せるやつだったんだよ……意外とな。最初は唸ってばっかだったけど、戦いの意味とか、死ぬことの意味を理解してた。カタコトだったけどな……」
「……そんな……深海棲艦と……?」
言葉にならない思いが吹雪の中で渦巻く。自分たちが命をかけて戦った“敵”と、意思疎通を果たした男が目の前にいるという現実。その戦争の終わりが、ただ力で勝ち取ったものではなく、“対話”によって導かれた一面もあったという真実。
そして──今、その均衡が、壊れようとしている。
「……いよいよ動かなきゃならんな」
提督が静かに呟いた。
「大淀、詳細を聞こう。……そいつらが危ないってんなら、俺が行くしかねぇ」
静かな決意が、その声の奥に込められていた。かつて戦争を終わらせた男が、今再び立ち上がろうとしていた。
今度は、“かつての敵”を守るために。
吹雪の声はかすれていた。
「だ、大丈夫なんですか……?」
その問いに、提督は少しだけ肩をすくめて、空気を和らげるように苦笑した。
「まあな。武装は全部解除してる。生命維持に必要な最低限の艤装を除いては、完璧に封印してあるよ」
その言葉に、大淀も静かに頷く。
「いえ、実際は艤装の一部が“半有機的”に肉体と結合している個体もおり、完全な切除は不可能なものもあります。ただし、再稼働は不可能なように抑えています。外部からのエネルギー供給なしには起動できません」
「とはいえ、今いちばんヤバいのはな……」
提督の声音が、ひときわ重くなる。
「“それを隠していた”ってことが国内外にバレることなんだ」
吹雪は、一瞬理解が追いつかずに目を瞬かせる。
「協定の中には、姫級からの“技術提供”も含まれてた。海底兵器に関する構造や、あいつらの通信方法、あと艤装の半生体化技術もな。こっちは戦争終結後、いくつかの民間研究機関や国防省傘下の機関に流して、それで医療技術の発展なんかに繋がってる」
「でも──」と提督は指を天井へ向けた。
「──そんなの、世界の大国が黙ってるわけがない」
「日本は、世界で最も艦娘の保有数が多かった国家だ。戦後に軍縮して艦娘の数は確かに減らしたが、それでも実質的には“使える戦力”としての質は他国とは桁違いだ。で、だ。今はもう数は少ないとはいえ──」
提督は吹雪をまっすぐ見て言った。
「お前1人が艤装つけてその辺の海軍に喧嘩売ったら、正直、壊滅させられるだろうな」
吹雪は思わず震えた。
冗談に聞こえない。それが、現実だ。
「つまりな、日本は『深海棲艦と友好関係を結び、その上で技術を独占し、軍縮したとはいえ最強兵力を持ち続けている』と、そう見られる可能性があるんだ」
「戦争を終えた後に、敵と通じてた。挙げ句その技術で自分たちだけちゃっかり得をして、でも軍事力は温存。そんなふうに思われたら──」
「……第2の戦争が起こっても、おかしくはない」
大淀が言葉を引き継ぐ。
「今度の戦争は、深海棲艦ではありません。“人間同士”の戦いとなるでしょう。そして、それに真っ先に巻き込まれるのは……」
「艦娘だ」
提督の言葉は重かった。
「すでに引退し、一般社会に溶け込んでる連中が、どうなるか。あいつらはただの“元兵器”じゃない。一人ひとりが人間で、感情があって、過去の記憶があって──ようやく平和な日常を手に入れたんだ」
「……俺は、それを守らなきゃいけない」
その声には、かつて数百の艦娘を束ね、戦火の中で生き抜いてきた指揮官としての覚悟が宿っていた。
そしてその視線は、目の前の吹雪にも向けられる。
「お前も、分かってるな?」
吹雪は、黙って頷いた。
それは命令ではない。けれど、かつて幾多の戦場で彼の命令に従い、今こうして共にある少女の瞳には、何の迷いもなかった。
守るべきものが、そこにあると。
彼女自身の手で、それを護りたいと。
最低限の護衛は必要だな」と提督が言うと、即座に大淀が手配を始めた。
「既に連絡済みです。信頼できる者を一名、そちらに随行させます。おそらく……今、来るはずです」
するとまもなく、執務室の扉がノックもなく開いた。
カツ、カツ……と、やや重たい軍靴の音。
現れたのは、長く漆黒の髪をうなじで束ねた女性──元戦艦・山城だった。
「……お呼びでしょうか、提督」
敬礼とともに表情ひとつ動かさず告げた彼女に、提督は少し目を細める。
「悪いな、急に。来てくれて助かる」
「ええ、ええ……こんな時間に出撃とは、なんて不幸……」
深い溜め息をつきながらも、その足取りには迷いはなかった。
皮肉げに呟きながらも、彼女が命令を拒むことなど決してない。
それを知っているからこそ、提督も彼女を指名したのだ。
吹雪がそっと山城の顔を見た。
戦後、消息を聞かなかったが、こうして姿を見るのは本当に久しぶりだった。
「山城さん……」
「吹雪、あなたも?」
「はい。……一緒に行きます」
山城は小さく頷きながらも、どこか遠くを見るような目で答える。
「そう……あなたも、まだ戦うのね」
その言葉に、吹雪は返す言葉を迷ったが、はっきりと答えた。
「……戦うつもりはありません。ただ、確かめたいだけです。何が本当に“終わった”のかを」
「ふふ……相変わらず真面目ね」
どこか苦笑するような微笑み。
それが山城の精一杯の“優しさ”だと、吹雪は知っていた。
提督は改めて山城に向き直る。
「お前には悪いがな、今回はちょっと込み入った話だ。護衛と言っても、戦闘があるとは限らん。いや、あって欲しくない」
「ならなおさら……不幸です」
「お前、相変わらずだな」
「あら、私はいつも通りですよ。姉さまを失ってから、ずっとこの調子ですから」
淡々と告げたその一言に、部屋の空気が一瞬だけ重くなった。
扶桑──姉を失ってなお、生き延びた山城。
最終作戦では妹としてではなく、一個の艦として最前線に立ち続けた彼女。
彼女の戦いは、終わったことがなかった。
「今回は大きな力よりも、小さな信頼の積み重ねが必要なんだ。だからお前を選んだ。無理はさせん」
「……了解しました。提督の命令ですから」
静かに答えるその声音に、かつての戦艦の誇りが宿っていた。
「それに……不幸の種なら、いくらでも拾ってきましたから。今回もきっと……不幸でしょうけど」
そう言いながらも、山城は小さく、しかし確かに微笑んでいた。
そして、提督、吹雪、山城。
三人は再び“戦後”の影を追う旅へと歩み出す。
次に向かうのは──
かつて深海棲艦の本拠地だった、海の最果て。
闇の残る海域に、もう一度光を持ち込むために。
南方へ向かう夜の海──
周囲には灯り一つなく、黒い鏡のような水面が静かに揺れている。空には星が滲むように広がり、月の光だけが頼りだった。
吹雪は船室の端で小さくあくびをしながら、窓の外を見ていた。
甲板では山城が変わらず無言で海を眺め、深く、重く何かを考えている様子だった。
提督は、舵室へと足を運ぶ。
意外にも、妖精たちの姿がいくつか見える。機械仕掛けのような小さな妖精たちは、それぞれが航行の確認や針路の微調整に勤しんでいた。
「おお、ごくろうさんだなあ、お前ら……便利な世の中になったもんだ」
つぶやくように言うと、操縦席に座っていた帽子のずれた妖精がひとつ大きなあくびをする。
それに気づいた提督が笑みを漏らすと、その妖精はぴしっと背筋を伸ばして座り直し、突然、きっちりと敬礼をした。
「ん、ごくろう!」
提督も敬礼で返す。
片腕のないその動作に、周囲の妖精たちが目を輝かせたように見えた。
小さな彼らにとって、彼はやはり“伝説の司令官”だった。
「到着は朝か?」と訊くと、通信妖精が小さなホワイトボードに「午前5時前後」と書いてみせた。
「早起きしなきゃな……吹雪、起きられるかなあ」
苦笑しながらも、提督は舵室を後にする。
船室へ戻ると、吹雪は毛布に包まれてソファで舟をこいでいた。頬がほんのりと紅潮しており、静かな寝息を立てている。
その隣には山城が椅子に背を預けたまま、まぶたを閉じているようだった。眠ってはいない──が、誰にも気を許さず、身を預けるでもなく、ただ海の中にいるような無音の瞑想に浸っていた。
提督はそっと腰を下ろし、眠る吹雪の頭に毛布をかけ直してやる。
彼女が肩をすぼめて何かを夢の中で呟いたが、言葉にはならなかった。
「……さて」
静かに呟く。
この先にあるのは、かつての敵──深海棲艦の“姫”たち。
そして、人知れず守られ続けた“終戦”のバランスの核心だ。
月明かりが船室を照らし、潮騒だけが彼らの未来を囁くように響いていた。
旅の終わりか、あるいは新たな始まりか。
それを知るには、もう少しだけ、夜の帳を越える必要があった。
冬の風が肌を切るような鋭さを帯びている。
到着予定の朝を過ぎて、昼近くなってようやく船は小さな桟橋に辿り着いた。エンジントラブルという、今となっては懐かしくもある船旅の醍醐味を味わいながらの遅延だった。
提督たちが降り立ったその島は、かつて漁村だった面影をわずかに残しつつも、廃墟と化していた。深海棲艦の侵攻によって放棄されたその地に、皮肉にも――かつての侵略者である彼女たちが住まいを築いているというのだ。
妖精による監視の目は、絶えず島を見張っている。山城と監視の妖精が何かを確認し合い、うなずき合うと、案内の合図が出された。
島の奥、山を背にした入り江の側に、無理矢理資材を継ぎ接いだような居住区があった。波板トタンにビニールシート、コンクリート片と木材が継ぎ接がれたその住居群は、どこか「人間の真似」をしたつもりの、滑稽ながらも必死な姿をしていた。
――その中心に、彼女はいた。
港湾棲姫。
白く長い髪は潮風に乱れ、ボロボロの黒衣はところどころ破れている。かつて誇らしげに輝いていた角の一本は無残にもへし折れ、左の瞳は潰れたまま縫い合わせたように閉じられていた。
それでも、彼女はしっかりと立っていた。
氷のように冷たい海の風を受けながら、遠くから訪れたかつての“敵”を迎えるために。
「……ひさシブリ」
重く、ゆっくりとしたカタコトの声で、港湾棲姫は言う。
その声音に敵意はなかった。だが、どこか警戒心を捨てきれない緊張が、その場に薄く張り詰める。
「姫さん、久々だな。戦艦棲姫は元気か?」
提督が柔らかく問いかける。無論、冗談半分だ。彼女たちとは、幾度も殺し合った過去がある。だが今ここにあるのは、休戦と信義に基づいた共存のための関係だ。
港湾棲姫は、ほんの少し目を見開いた。
そして静かに、首を横に振る。
「……シンダ」
「なにっ……!」
思わず前のめりになった提督に向かって、港湾棲姫は――ふっと、唇を釣り上げた。
「ウソ。……深海、ジョーク」
「……!」
「ハハハ……ワラエ。ニンゲン、ユウジョウ……タノシイ」
静かに、けれど確かに、彼女は笑った。
その笑顔はどこかぎこちなく、ずれていて、人間の真似事をしているようにも見えたが――それでも彼女は確かに、冗談を言ったのだ。
吹雪は横でぽかんとしていた。
目の前の存在が、かつて敵として交戦した姫級の一人であることが信じられないような、信じたくないような、混乱の中にいた。
「……ジョーク言えるようになったんだな、お前」
「マダ、カンペキデハナイ。……ダカラ、トキドキ、マチガエル」
港湾棲姫は、かつてとは別人のようだった。
いや、別人ではない。
深海棲艦としての凶暴な本能の中で、人間の世界に適応しようとした“何か”が、時間の中で彼女を形作っていったのだ。
それが、今ここにある“変化”なのだと。
「……いいさ。オレも昔、お前のことでずいぶん笑えなかった。でも今なら……少し、笑える気がする」
「ソウ。ワタシ、ワラワレテ、ナンカ……チガウカンジスル。キモチ、アタタカイ」
「……吹雪、お前も挨拶しとけ」
「え!? あ……ど、どうも……」
ぎこちないお辞儀をした吹雪に、港湾棲姫は不思議そうに首を傾げた。
「ワカイ、ムスメ。ニオイ、センソウ、スコシ……」
「ひ、ひぃぃぃ……におい!?」
「スキ、ニオイ。……ナツカシイ。……ヤサシイ、ニオイ」
港湾棲姫は、吹雪に小さな、静かな頷きを贈る。
その仕草は、かつて彼女が無慈悲な咆哮で艦隊をなぎ倒していた姿からは、到底想像できないほどに――人間らしかった。
案内の妖精が手振りで「ついて来い」と合図をする。
提督は振り返り、「じゃあ、姫さん、ちょっと中で話すぞ」と声をかけると、港湾棲姫は「……ウチ、ドウゾ」と不自然な敬語で、廃材の家の奥を指した。
かつて奪った土地で、かつての敵と、静かに話し合いの火蓋が切られようとしていた。
港湾棲姫に案内されたその“自宅”は、かつての人間の漁村の廃墟を転用し、継ぎ接ぎで組み直したような建物だった。
屋根には錆びたトタン、壁はどこからか拾ってきたコンクリートブロックと流木、窓代わりの穴には透明なビニールが貼られている。生活と呼ぶにはあまりにも不便な構造ではあるが、それでも彼女達にとっては――この地に根を張り、「日常」と呼べるものを築いた大切な拠点なのだろう。
「……ドウゾ。ココ、ワタシタチノ、ゴウテイ」
港湾棲姫が、満足げに胸を張る。
その誇らしげな様子は、まるで子供が作った秘密基地を自慢するかのようだった。
「……いや、まぁ……豪邸、か。お前にとっちゃ、そうかもな」
提督は乾いた笑いを一つ漏らし、懐かしげに中へ足を踏み入れる。
以前、提督がまだ現役だった頃――彼女たちをここへ移送した際、最低限のインフラと建物は軍の支援で整えたはずだった。
「家、あっただろ? ちゃんと作ったはずなんだが……」
港湾棲姫は、少し困ったように目を伏せて呟いた。
「……ホッポ、コワシタ」
「はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を出した提督に、どこからともなくぱたぱたと足音が近づいてくる。
「テイトクーッ!!」
遠くから、白い影がぴょんぴょんと跳ねながら走ってくる。
真っ白な髪に丸い目、大きなリボンのついた帽子をかぶった、小さな深海棲艦――北方棲姫だった。
「キタノカ!? オモチャノカンザイキ、ミテー!」
両手に抱えた木製の艦載機を掲げ、にこにこと笑顔で駆け寄ってくる姿は、どこからどう見ても“かつての敵”には見えなかった。むしろ、ただの元気な幼子のようだ。
「おいおい、変わってねぇな……」
提督は苦笑しながら片手を差し出すと、ホッポはその手におもちゃの艦載機を置き、「トブヨー! ビューン!」と大はしゃぎで走り回る。
その様子を見ていた山城が、小さく溜息をつきながら立ち上がる。
「……やってらんないわね、こんなのが“かつての敵”だったなんて……」
皮肉というよりは、戸惑いと複雑な思いが入り混じった口調だった。
山城は今でも戦争で姉・扶桑を失った悲しみを胸に秘めている。それだけに、こうして自分が命をかけて戦ってきた“敵”が、無邪気に笑って飛び跳ねている姿に、心の整理が追いつかないのだろう。
吹雪もまた、隅に座っていた。
彼女はホッポのはしゃぐ様子を、まるで幻を見るようにじっと見つめていた。
(……この子が、かつて何隻も艦娘を沈めた相手……?)
戦時中、吹雪は何度か北方棲姫と対峙したことがある。その砲撃は凄まじく、友を、仲間を何人も失った。怒りと悲しみが幾重にも積み重なった相手だった。
――なのに、目の前にいる彼女は無邪気で、幼く、まるで罪などなかったかのような笑顔で提督の周りを跳ね回っている。
吹雪は唇を噛んだ。
正直なところ、割り切れなかった。
敵だった者たちと、今こうして肩を並べて共に生きるということ。
それがどれほど難しいことか、頭では分かっていても、心はまだ追いついてこない。
そんな中、ふと、港湾棲姫が静かに吹雪へ歩み寄る。
「……ニンゲン、ムズカシイ。……ワカル、ソレ」
吹雪は顔を上げ、目を見開いた。
「ワタシモ、ワカラナカッタ。……ドウ、ワライ、ナゼ、ミナ、ナカヨク……」
言葉にならないまま吹雪は俯く。
港湾棲姫はそんな彼女の肩に、そっと手を置く。
「……キズツケタ。……ナグッタ。……タタカッタ。……ダカラ……イマ、ココニ、イタイ」
その声に、嘘はなかった。
どこまでも不器用で、片言でしか伝えられない想い。
それでも、“かつて敵だった者”が、自らの罪を理解し、償い、静かに生きようとしている姿がそこにあった。
「……あなたのこと、まだよく分からないです。けど……」
吹雪は俯いたまま、絞り出すように言った。
「……いま、ここにいる“あなたたち”が……悪い人じゃないってことくらいは……少し、分かった気がします」
不意に、港湾棲姫が小さく笑った。
「ワカッテクレタ。……ウレシイ」
その一言に、吹雪の胸に堅く閉ざされていた何かが、ほんのわずかにほどけていった。
戦争が終わっても、戦争は終わっていない――
そう思っていた吹雪にとって、それは新しい一歩だった。
「キテ! ハタケ! イモ! クワセテヤル!」
と、港湾棲姫の声が響く。カタコトで、しかし力強く。
吹雪は戸惑いながらも、その小さな手に引かれて畑へと向かっていく。港湾棲姫の姿には、かつての恐怖や憎悪を思わせるものは何一つなく、ただ素朴な、そしてどこか健気な雰囲気があった。
「……えっと、ほんとに芋があるんですね……」
「アル。ホル。ホルヨ!」
港湾棲姫がかつての廃村の一角に作った小さな畑は、土が荒れていて石も多く、決して作物が育ちやすいとは言えなかった。それでも雑草を取り、手製の道具で耕し、水を引いて、それなりに畑らしい姿をしていた。
吹雪は手渡されたスコップを見て、そして足元の土を見て、小さく笑う。
「……芋、ですか。うん、掘ります」
スコッ、ザッ。
スコッ、ザッ。
芋を掘る感触と、隣で北方棲姫が土まみれになって一緒にはしゃぐ声――
「デッカイノー! ホッポ、イッパイ、ホッタ!」
それを見て吹雪は思わず笑ってしまう。
こんな日が来るなんて、戦時中の自分に話したら信じられないだろうと。
一方、提督は港湾棲姫と畑の入口に佇み、ぽつりぽつりと話し始めていた。
「んでな、姫さん……ちとまずいことになってな……」
穏やかではない話題に、港湾棲姫はすぐにその表情を引き締めた。
戦後、ある程度の会話能力を得てからというもの、彼女は驚くほど多くの言葉を覚えていた。
提督は、元帥の倒れたこと、法案が反故になったこと、世界情勢の緊張が増していること、そして……彼女たちがここに存在していることが、極めて大きな“火種”になり得ることを、すべて包み隠さず伝えた。
港湾棲姫は黙って聞いていた。
長く深海で生きてきた者として、人間たちの浅ましさも、儚さも、すでに理解していたのかもしれない。
やがて、彼女はふぅ、と小さく吐息を漏らし、ゆっくりと目を伏せた。
「……ナラ、ソレ、ワタシタチノ、ウンメイ、カモ」
「……姫さん」
「ワタシタチ、タタカッタ。ヤッタ。ヤラレタ。ウミニ、カエッタ」
まるで、永遠に続く輪廻のように――と彼女は続ける。
「マモラレナイナラ……ホロビモ、アリ。ソレガ、ジュミョウ」
静かな、諦めにも似た言葉だった。
それが自分の運命ならば、抗わず受け入れる――そう言いたげな声。
しかし次の瞬間、彼女は提督をしっかりと見つめた。
「……ダケド、ホッポ……アノコハ……」
言葉を詰まらせながらも、港湾棲姫は続けた。
「……イカセテアゲタイ。アノコハ……ワルクナイ。ナンニモ、ワルクナイ」
その一言に、提督はうなずいた。
「……あぁ、分かってる。だから今ここに来た」
港湾棲姫の片目が微かに潤んだように見えた。
それは、深海棲艦という存在が人間らしさを得るまでに、どれだけの犠牲と時間を払ったのかを思わせるものだった。
「アノコ……タダ、アソビタカッタ。ワライタカッタ。ソレダケ」
提督は口元を引き締める。
「そのためにも、今は隠れててほしい。俺が何とかする。それまでに、絶対になんとかするから」
「……ヤクソク?」
「するよ。約束だ」
その時、畑の方から元気な声が飛んできた。
「提督ー!でっかいの掘れましたー!」
吹雪が大きな芋を両手で掲げて見せていた。
北方棲姫がその隣でぴょんぴょんと跳ねながら「オオモノー!テイトク、ホメロー!」と叫んでいる。
提督は笑いながらその姿を眺めた。
「平和ってのは、こういうもんだよな……姫さん」
「……ソウ、ダナ」
港湾棲姫も、小さく頷いた。
彼女の片目が見据えたその先には――きっと、かつての戦火では得られなかった未来が、確かに存在していた。
飛行場棲姫は、ぶすっと膨れたような顔で部屋に入ってきた。
その手には、まだ跳ねる魚がぶら下がっており、水飛沫を滴らせながら片目で部屋の中を見渡す。
そして――提督の姿が目に入った瞬間、その表情がぴくりと引きつった。
「……ゲッ!?」
思わず声に出た驚きの一言に、場の空気が固まる。
魚をぶんぶんと振り回しながら、彼女は睨みつけてきた。
「オマエ!ニンゲンノ!テイトク!」
――その口調はカタカナ混じりのたどたどしいものだったが、その怒りと驚きは痛いほどに伝わる。
「ワタシノ……カッソウロ……!」
がたん、と魚の籠を床に置くと、勢いよく両腕を広げて叫ぶ。
「ナンカイモ!コワシタ!ナオシタノニ!……マタ、コワス!」
その目には、怒りと、少しの涙ぐんだような悔しさが浮かんでいた。
吹雪は思わず一歩後ろに退く。
提督は苦笑して、額をかきながらぼそっとこぼした。
「あー……あったなあ……お前の滑走路、作戦前に砲撃で徹底的にぶっ壊したっけな……」
「ウラミマス!」
飛行場棲姫は魚を放り投げ、手のひらで地面をバンッと叩く。
「マイニチ!カンセイサセテハ!コワサレテ!……トビタカッタノニ!」
「いや、だって、あの時は合同作戦でな……お前が飛ばれると困るって判断だったんだよ。命令だったしな」
「シラナーイ!オトトイキヤガレェェェ!」
声を張り上げ、地団太を踏んだ飛行場棲姫は、怒りのあまりコンクリートの壁の方へと走っていき、その見事に左官された“自作の滑走路用コンクリ壁”を指差した。
「ホラ!コレモ!……ヒトリデ、ツクリマシタ!シゴト、テイネイ!」
近くで見ると、継ぎ接ぎながらもその壁にはムラがなく、どこか職人めいた几帳面さすら感じる。
かつての“戦場の航空要塞”が、今は土木と左官作業に励んでいるという現実に、提督は言葉を失った。
「……すげぇな、こりゃ」
「スゴクナイ!」
ズビシッと指を突きつけ、くるりと背を向けて足早にその場を立ち去る。
怒りの尾を引きながらも、どこか人間臭いというか、深海棲艦の“異形さ”よりも、むしろ“人間らしさ”のようなものが滲んでいた。
吹雪はその背を目で追いながら、ぽつりとつぶやく。
「……あれが、かつての“敵”なんですか?」
提督は肩をすくめて、しゃがみ込んでまだ跳ねる魚を拾い上げた。
「人間でも艦娘でも、深海でも……戦が終われば、皆こんなもんさ。怒る理由も笑う理由も、変わらない」
魚を器用に片手で持ち、笑みを浮かべて立ち上がる。
「それにしても、立派な左官仕事だったなぁ……オレの片腕よりよっぽど精密だわ」
吹雪は苦笑しつつ、どこかまだ心の奥に残る不安を抱えたまま、コツコツとその場を歩く飛行場姫の背中を見送っていた。
まあ、今度またここに来るやつに潜伏ポイント教えてくれ。頼むな」
提督が軽く笑いながら背中を向けて手を振ると、港湾棲姫は小さくうなずいた。「マカセロ」と短く返す。
そして提督が玄関の引き戸に手をかけた瞬間、外から「ガコンッ!」という乾いた重金属音が響いた。
扉を開けると、そこには艤装を展開した山城が立っていた。
艤装の主砲――その砲口が、はっきりと港湾棲姫を狙っている。
「おい、山城? 冗談きついぞ……」と、提督は苦笑混じりに言った。だが、その笑いはすぐ凍りつく。
「冗談じゃありません」
山城の声は冷え切っていた。感情を抑えているようで、抑えきれていない。わずかに震える指先が、怒りと悲しみの色をにじませていた。
「どいてください、提督……巻き込まれます」
提督が一歩前に出て港湾棲姫を庇おうとするが、山城の鋭い声がそれを止めた。
「これは……私とこいつらの問題です」
山城の視線が鋭く港湾棲姫を射抜く。
「こいつら……こいつの仲間は……姉様を……」
そこで山城は言葉を詰まらせた。
砲口がわずかに揺れ、手元がかすかに震える。感情の波が押し寄せてきたのだろう。
提督はその姿を黙って見つめていた。吹雪も遠巻きに凍りついている。
港湾棲姫は、その真っ赤な瞳を静かに細め、黙って山城を見返していた。逃げようともしない。反撃の素振りもない。ただ、ただ黙って――その怒りと哀しみを、正面から受け止めているようだった。
「……」
その場に流れる、深く張り詰めた沈黙。
砲撃は――まだ、放たれていない。
その刹那で物語は切れる。
冬の海風が肌を刺す。
無人島の廃墟にて、激しい感情がぶつかり合い、空気が張り詰めていた。
飛行場棲姫の怒りが静まりきらぬ中、港湾棲姫が言葉少なに呟いた。
「……ソレデ、キガスムナラ、ウッテモイイ」
「ワタシハ……ワタシタチハ……ソレダケノコト、シタ」
その言葉には、責任でも開き直りでもない、ただ静かな覚悟がにじんでいた。
その場にいた山城の眉がぴくりと動く。
彼女の瞳に、強い怒りと、深い哀しみが揺れていた。
「姉様だって、きっと……仇をとってって言うわ!」
山城は震える声で叫んだ。
「出なければ……毎晩毎晩……私の夢の中で、責めたりなんてしないもの……っ!」
彼女の中で抑えてきた思いが、まるで堰を切ったようにあふれ出す。
その叫びには、張り詰めた心が軋む音があった。
それは、戦後の平穏の中に潜んでいた“まだ終わっていない戦争”の片鱗だった。
だが、その時――
その場に現れたのは、ボロボロの身体を引きずるように歩く一人の深海棲艦だった。
肌は白く、髪は闇のように黒く……その足の一方は金属製の義足。
姿は大きく変わっていたが、かつての彼女を知る者ならば、一瞬で胸を締め付けられるはずだ。
――海峡棲姫。
沈黙がその場を包む。
「……退け!」
山城が叫ぶ。
だが、目の前に立ちはだかったその“敵”の瞳を見た瞬間、彼女の脚がふらついた。
「……姉様……?」
その声は、まるで幼子が迷子の母を呼ぶような――かすれた、弱い声だった。
信じ難いことだ。かつての敵の姿になって愛した姉がいた。
信じられない、信じたくない、でも、これが夢じゃないのなら。
もし、本当なら……と祈るように。
海峡棲姫は一言も発さず、ただそっと山城の手を取り、優しく抱きしめた。
その腕はかつてと違い、冷たく、鋼のように堅かった。だがそこには、確かな“温もり”があった。
「……モウ……イイノヨ」
その言葉はカタコトで、思うように言葉は続かなかった。
しかし、たった一言で――全てが伝わった。
山城は信じられないというように、震える声で尋ねた。
「……扶桑……姉様……なの?」
海峡棲姫は、わずかに微笑んで――こくん、と頷いた。
その瞬間、山城の両眼から涙があふれ出した。
それは、戦争の終結を告げる鐘のようだった。
過去の罪も憎しみも、全てが清算されたわけではない。
だが、少なくともこの姉妹にとっての戦争は――今、終わりを迎えたのだった。