艦これ 砲声なき日々に   作:ダッフル

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八話 背中

 

風見の口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいた。

 椅子の背にもたれ、腕を組み、太った腹を揺らしながら、まるで“断罪”を読み上げるかのように言う。

 

 「単刀直入に申し上げますと――あなたのような、既に辞めた人間がうろついているのは、はっきり言って、迷惑なんですよ」

 

 その言葉には、明確な小馬鹿にした響きがあった。

 過去の敬意など一欠けらも残されていない。

 今の彼にとって“元提督”など、“後始末をされるべき存在”でしかなかった。

 

 だが、提督の反応は早かった。

 椅子に深く座ったまま、言葉だけを鋭く返す。

 

 「辞めたって言ってもな。予備役だ。完全に関係ないわけじゃあない」

 

 風見の眉がわずかに上がる。

 

 「ええ、まあ、そうでしょうね」

 

 軽く肩をすくめながら、今度は冷たい声で続けた。

 

 「ですが予備役というのは、“万が一の時に責任を取らせるため”の制度でもあります。

 現場に復帰させるためではない。ましてや、機密に触れさせるなんてもってのほかだ」

 

 そこでひとつ、間を置く。

 

 「……流石に、一般人に“ああいったもの”を任せるわけにはいかないでしょう?」

 

 提督は、瞬きもせず、無表情のまま答えた。

 

 「“ああいったもの”とは?」

 

 「……とぼけるのがお得意でしたね。昔から」

 

 風見は、面白くなさそうに口角を歪め、前傾姿勢になる。

 

 「正確な位置をこちらが完全に把握しているわけではありません。

 ですが――貴方が横須賀の提督だった頃に“置き土産”を残していったことは、調査報告といくつかの供述から既に明らかになっている」

 

 提督の表情は変わらない。

 

 風見は、言葉を選びながらも確実に核心へと迫ってきた。

 

 「“あれ”を匿っている基地、貴方の古巣の一部。……その存在は、海軍内でも一部の将校しか知り得ぬ秘匿事項です」

 

 「だからこそ、何の話か分からんな」

 

 「……貴方らしい」

 

 風見は鼻を鳴らす。

 

 そして、机上の一枚の書類に指を置きながら、言った。

 

 「ですが、事実として――交渉の席に応じた深海棲艦の姫級たちは、貴方の“人柄”に強く好意を抱いていると記録されています」

 

 そこで一瞬、言葉を切る。

 

 「以前、私自身も交渉に臨もうとしたことがあります。だが、結果は……」

 

 声に苦味が滲んだ。

 

 「“気に入らない”――それだけで、一蹴されましたよ。

 深海棲艦に感情があるなど、当初は疑わしかったが、あれを見れば納得するしかない。

 あれらは、人間以上に繊細で、気紛れで、愚かだ」

 

 自嘲か、あるいは敵愾心か――風見の瞳に、一瞬だけ黒い火が灯った。

 

 「悪いようにはしません」

 

 その言葉は、作られた笑顔とともに発せられる。

 

 「提督。あなたは、まだ“価値”があります。

 あの者たちと公式に言葉を交わした“唯一の生存者”。

 あなたが、私と彼女たちの間を繋ぐ“パイプ”になってくれれば……」

 

 そこで、風見は身を乗り出し、にこやかに――あまりにも不自然に微笑んだ。

 

 「今後、あなたの立場も、それなりに保障されることになります」

 

 言外にはっきりと読み取れる“条件”があった。

 

 ――協力すれば、生きやすくしてやる。

 ――逆らえば、どうなるか分かっているな。

 

 提督はその言葉を、しばし無言で受け止めていた。

 

 表情は変わらない。

 

 ただ、その目の奥には、何か小さく灯るものがあった。

 

 

 

 風見の口元には、ゆがんだ笑みが浮かんでいた。

 

 「悪いようにはしません。……あなたが私と彼女たちの橋渡しをしてくれれば、きっと彼女たちも――」

 

 その言葉の最中。

 

 ――カチャ。

 

 乾いた音が響いた。

 

 提督の手が、机の上に無造作に転がっていた“ある物”を拾い上げていた。

 

 金属のクリップと、黒い樹脂製の軸。高級感ある艶のあるデザイン。

 

 それは、風見がこの面会の冒頭で無意識に胸元へ差し込んでいた一本のペンだった。

 

 風見が言葉を止めた。

 

 「……それは――」

 

 「これ、マイク付きの録音できるやつだろ?」

 

 提督の声は、静かだった。

 

 そして次の瞬間、何の躊躇もなくそのペンを――へし折った。

 

 バキリと鈍い音が、執務室に響く。

 

 中から、金属と基盤らしき微細な部品がぱらりと落ちた。

 

 風見の顔が、一瞬にして青ざめる。

 

 「……っ」

 

 言葉が出ない。

 

 呼吸すら忘れたように口を閉じ、目だけが動いていた。

 

 提督は、机の上に折れたペンの残骸をそっと置くと、何事もなかったかのように席を立つ。

 

 「……まー、今のお前の立場がどうなってるかは知らんけどな」

 

 そして、扉の前まで歩き――ふと立ち止まった。

 

 そのまま、振り返りもせずに一歩だけ近づき、風見の耳元に顔を寄せる。

 

 吐息が触れるほどの距離。

 

 その低い声は、まるで戦場のどこか、壊れかけた塹壕の中でかわされた“本当の約束”のように、やけに静かで、温かかった。

 

 「――お前こそ、“こっち側”へ来い」

 

 風見の目が大きく開かれる。

 

 提督はもう何も言わず、そのまま扉を開けて出ていった。

 

 執務室には、壊れたペンと、録音できなかった沈黙だけが残された。

 

提督の言葉はまだ、風見の耳元に微かに残っていた。

 

 ――「お前こそ、“こっち側”へ来い」

 

 それは、挑発でも命令でもない。

 

 かつて、ともに戦場に立ち、命を懸けることに何の疑問も抱かなかった若者たちの、あの頃だけに許された“呼びかけ”だった。

 

 風見は立ち尽くしていた。

 

 その背後で、ゆっくりと扉が開き――再び閉まる。

 

 そしてその直前。

 

 提督は一度だけ、振り返ることなく呟いた。

 

 「……かつてのお前に、何があったか。どうして“高い理想”と“誇り”を持っていたお前が、そんな腐った男になっちまったのか……」

 

 その言葉に、風見の喉がわずかに鳴った。

 

 「――大体、察しはついてる。あの時、お前がどんな地獄を踏んできたかも、な」

 

 その声には、責める響きはなかった。

 怒りでも、失望でもない。ただ、あまりにも静かな理解。

 

 だが、それは決して“許す”という意味ではなかった。

 

 「……その話は、いずれだ」

 

 そう言い残し、提督は扉の向こうへと消えていった。

 

 まるで、最後の一線を越えることを、まだ赦してはいないように。

 

 あるいは――まだ、赦したくない自分自身の想いが、そこにあったのかもしれない。

 

 

折れた録音用のペンが、机上で小さな金属音を立てて転がっていた。

 

 それを見下ろしていた風見の視線は、やがてその背後に立つ提督へと向けられる。

 

 ゆっくりと、目を見開く。

 

 「……あなたに、何が……っ」

 

 その声はかすれていた。

 

 長い間、抑圧され、整理され、書類の裏にしまい込まれてきた感情が――初めて、その声に宿っていた。

 

 「何が、分かるっていうんですか……!」

 

 そして、机をバンと叩くようにして立ち上がる。

 

 息は荒く、目は揺れている。

 その顔にはもう、先ほどまでの小賢しい笑みは残っていなかった。

 

 提督は一瞬だけ黙っていたが――次の瞬間、その手が風見の肩をとらえた。

 

 「座れ」

 

 その一言に、風見の身体が小さく震える。

 

 「……!」

 

 抗う間もなく、提督は風見の肩を静かに――だが、確かな力で押し戻す。

 

 椅子に戻った風見は、言葉を失ったまま息を呑んだ。

 

 提督は、俯いた彼を見下ろしながら、ゆっくりと語り出す。

 

 「だから、“聞け”って言ってんだろ。後回しだ、そこは」

 

 冷静だが、強い声だった。

 

 「いいか、風見。今の情勢、国内外でどうなってるかくらい――どんなアホでも分かることだ」

 

 ゆっくりと、言葉を継ぐ。

 

 「戦後、世界最大の“艦娘保有国”となった日本。おまけに独自の艤装技術と運用実績までついてきた。そりゃあ、周りが黙って見てるわけがねぇ」

 

 風見の顔が引きつる。

 

 「アメリカは合同演習の名目で艤装解析を狙ってくる。中露は“技術移転”を条件に、経済援助をちらつかせる。欧州は、遠くから“倫理”と“人道”を持ち出して口を挟んでくる……」

 

 「そんな中で、万が一、“匿っていた深海棲艦”からの“技術供与”の事実がバレたらどうなると思う?」

 

 静かに、しかし確実に追い詰めるような声音だった。

 

 「今はただの幻想かもしれない。だが、可能性として“敵”と共存し、その上で軍事技術を得ている――そんな事実を、他国が知ったらどうなるか」

 

 風見は返す言葉を失ったまま、息を詰めている。

 

 「なあ、風見。俺はな、“理想”とか“信念”とか、そんなでっかい話は今さらしねえ。……でもな」

 

 そこで提督は目線を落とし、ぽつりと続けた。

 

 「――艦娘だった“あの子たち”を、普通の女の子に戻してやる。それが、今の俺の全部なんだ」

 

 「復讐も、栄光も、戦争の記憶も……全部終わらせて、あの子たちに“今”を歩かせてやる。

 そのためだったら、俺はなんだって飲み込む。芋だって山ほど持って帰る。姫とでも話すし、笑って頭も下げる」

 

 「お前はどうだ?」

 

 ゆっくりと、風見の目を真っすぐに射抜く。

 

 「理想を棄てたなら、せめて現実を救え。

 今ここで、机の向こうから“人道”を語ることしかできないんなら、お前は本当に腐って終わるぞ」

 

 風見の口元が震える。

 

 言葉を吐こうとするが、出てこない。

 

 机の上では、壊れた録音用ペンの残骸が、まるで嘲笑うように冷たく光っていた。

 

 

執務室にはまだ、先ほどまでの張り詰めた空気が微かに残っていた。

 

 風見は椅子に深く座り込んだまま、言葉を失っていた。

 それでも顔を背けず、ただ静かに、提督の一挙一動を見ていた。

 

 そんな彼に、提督はぽつりと続けた。

 

 「……それにな。俺は権力に媚びる奴ってのは、正直、好きじゃねえ」

 

 風見が目を伏せる。

 

 「けど、その生き方を否定するつもりもない。

 俺がそういうのを好き好んでやるかどうかって話であって――お前がどう生きるかまでは、口を挟むつもりはねえんだよ」

 

 声は穏やかだった。

 相手を殴り倒すでも、正義を振りかざすでもなく。

 ただ静かに、言葉の芯だけを差し出すような、そんな話し方だった。

 

 だが、そこで提督はふっと視線を上げ、軽く首を回した。

 

 「……んで、だ」

 

 少しだけ笑みを浮かべ、ポケットから銀色のケースを取り出す。

 

 「――お前が欲しい“権力”を、ぶんどる方法がある」

 

 カチ、と金属の音がして、提督が一本のタバコをくわえた。

 

 その瞬間だった。

 

 火をつけるでもなく、ただ指先で馴染ませていると――

 目の前の風見が、無意識に手を伸ばした。

 

 ポケットからスリムなライターを取り出し、スッと火を灯す。

 

 「……ん、悪ぃな」

 

 自然に受け取ったその炎を前に、提督の目が一瞬だけ細くなった。

 

 燃え始めたタバコの先から、淡く白い煙が上がる。

 

 その仕草。

 その間合い。

 その呼吸。

 

 ――あの頃と、何も変わっていなかった。

 

 まだ彼が若くて、無鉄砲で、突っ走ってばかりいた頃。互いに士官になりたくて、将校をめざして、笑いながら唯一許された娯楽のタバコが互いの楽しみだった。

 

 「……思い出すな。こういうの」

 

 提督が呟くと、風見は一瞬だけ口元を引きつらせ――だが、何も言わなかった。

 

 煙がゆっくりと、部屋の天井へ昇っていく。

 

 その中で、提督は再び口を開いた。

 

 「……元々はな、元帥のじいさんが倒れたせいで――

 戦後の艦娘援助や保護の枠組み、その全部が、今じゃ白紙になりかけてる」

 

 風見の目が、わずかに動いた。

 

 「平和になったんだから、もう金食い虫は要らない。そういう空気が、国の中でも外でも強くなってきてる。

 艦娘だった子たちが、戦う力を失った瞬間――“いらない兵器”になった」

 

 提督の声は低く、だがはっきりと室内に響いていた。

 

 「……だが、俺たちは知ってるだろ。

 あの子たちが“ただの兵器”なんかじゃないってことを。

 食って、笑って、泣いて、恋して、――ただ“生きてる女の子”だったってことを」

 

 そして、視線をまっすぐに風見へと向ける。

 

 「だから、お前にやってほしいんだよ。……巻き返しを」

 

 風見は黙っていた。

 だが、その瞳は確かに、提督を見ていた。

 

 「お前が、あの子たちの盾になれ。

 お前が、今いるその椅子を、政治のためじゃなく、未来のために使え」

 

 そこで、提督はもう一度、煙をくゆらせて言った。

 

 「――欲しいんだろ、権力」

 

 「なら、“守るために使う”って方法も、あるぞ」

 

 

 

風見の唇が、ゆっくりと動いた。

 

 「……詳しく、聞かせなさい」

 

 声はまだ硬い。だが、かつての彼を知る者には分かる。

 これは、彼が本当に“耳を傾けよう”と決めた時の口調だった。

 

 提督はそれを見て、口の端を吊り上げた。

 

 「やっと聞く気になったか。ったく、素直じゃねえな……」

 

 くゆらせていたタバコを一度灰皿に置き、椅子の背にもたれた。

 

 「……もともとよ、俺たちの爺さん――元帥が倒れた後に色々動きがあったのは知ってんだろ?」

 

 風見が頷く。微かに。

 

 「アイツらにとっちゃ、あの爺さんは最後の“硬派”であり、面倒の塊でもあった。

 戦中から終戦にかけて、政財界、学術、メディア、全部に無言の圧力かけてさ――“艦娘”を守るためだけに全方位敵に回すような真似までやってたからな」

 

 煙が再び立ち昇る。

 

 「それでな、終戦後一年くらいは、案外ホイホイ話が通った。あの爺さんの名前を出せば、金も人も出てきた。

 でも――今はもう、その影響力は消えつつある。まだ表に出てねえが、予算はたぶん削減、削減、また削減だろうよ。艦娘の再就職支援、生活保障、医療費負担……どんどん削られてる」

 

 風見の表情が、わずかに強張った。

 

 「つまり、艦娘は“兵器”としての役割を終えたから、廃棄に向かってる。

 理想論は口にしても、国が出すのは“戦力化できないなら不要”って結論だけだ」

 

 そこまで言ってから、提督は一呼吸置く。

 

 「――だから、ひとつ、やってもらいたいことがある」

 

 風見が小さく眉を寄せた。

 

 提督は再び、タバコをくわえた。そして言った。

 

 「姫さん――深海棲艦の生き残りの中でも、交渉に応じた連中からな。

 あの連中の一部が、未だに“残党”としてどっかに潜伏してるって話がある」

 

 「……残党……?」

 

 「そうだ。しかも、そいつらの“おおよその位置”と“戦力構成”、さらには“弱点”までが、今、こっちに流れてくる寸前なんだよ」

 

 その言葉に、風見の目が見開かれた。

 

 「これを叩けるのは、今しかない。そしてそれを成し遂げられるのは――艦娘たちしかいない」

 

 「……!」

 

 提督は、風見の反応を見て、ニヤリと笑う。

 

 「お前が艦娘を率いて、その残党を“完全殲滅”すれば――

 国は否応なく“艦娘”の価値を再確認せざるを得なくなる」

 

 「安全保障上の切り札として、深海棲艦と戦える唯一の存在として。

 その“必要性”が、声じゃなく、行動で証明されるんだよ」

 

 提督はタバコの灰を落とし、灰皿の端に置く。

 

 「そしてな、それに反対してきたお偉方は全員、“不要論”とともに黙らされる。

 手柄はそっくりそのまま“作戦成功”という事実に回収されて、

 空いたポストは……そう、お前の好きなように座れるわけだ」

 

 「選り取りみどりだぞ。防衛、予算、政策審議……どこでも好きな椅子を選べ」

 

 沈黙が降りた。

 

 部屋の空気は重かったが、それは絶望の重さではなかった。

 覚悟を迫られる者の、未来を測る重さだった。

 

 風見はまだ言葉を返さない。

 

 だが、その瞳はすでに、何かを見据えていた。

 

 

 「――ははっ」

 

 風見が鼻で笑った。だが、それは先ほどまでの乾いた皮肉ではない。

 

 むしろ、感情が混じった分だけ、湿っていた。

 

 「それを、私が実行するとでも思ってるんですか?」

 

 椅子の背に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

 

 「今聞いた話を――全部、上に持ち上げれば、あなたの目論見は潰える。

 匿っていた深海棲艦の件も、残党との接触も、未承認の交渉ルートも。

 元帥殿の立場は完全に失脚し、あなたは永久に予備役のまま。……何もかもが、水の泡です」

 

 その目には、かつての冷徹さが戻っていた。

 

 だが、提督は一歩も引かなかった。

 

 机の上の灰皿にタバコを押し付け、ゆっくりと身体を起こす。

 

 「……ああ、そうだな」

 

 静かに、肯定する。

 

 「けどな、損得勘定だけで見ても――お前に“利”がある話だろう?」

 

 言葉は穏やかだったが、響きは鋭かった。

 

 「告発したところで、お前が上に取り入る手柄は薄い。

 むしろ、交渉にすら至れなかった“過去の失敗”を引き合いに出されて、ババ引かされる可能性だってある」

 

 風見が目を細めた。

 

 「……あなたが、そうやって賭けているのは、私の打算だけですか?」

 

 「いや」

 

 提督は、首を振った。

 

 「お前の“人間”としての部分にもな。――かつての俺が知ってた、お前にな」

 

 その一言に、風見の眉がピクリと動いた。

 

 そして、彼は踵を返した。

 

 「くだらない。……この件は上に……」

 

 その瞬間だった。

 

 「――んじゃ、最後に一言、言わせてくれよ」

 

 その声は、背を向ける風見の肩越しに、ゆっくりと投げかけられた。

 

 歩みを止めぬまま、彼は忌々しげに言い返す。

 

 「……なんですか」

 

 そして、振り返った。

 

 ――その時。

 

 「時雨ちゃんについてだ」

 

 その一言が。

 

 その名が。

 

 風見の足を、まるで雷に打たれたかのように止めた。

 

 言葉も、動きも、全てが凍りついたかのように、ぴたりと。

 

 その瞳は見開かれ、何かを、封じ込めていた記憶を――唐突に呼び起こされた記憶を、

 今にもあふれ出しそうな情動とともに抱えて、そこに立ち尽くしていた。

 

 

 「――時雨ちゃんが、原因なんだろ」

 

 その言葉は、淡々とした口調で告げられた。

 

 だが、それを聞いた風見の身体には、確かに震えが走っていた。

 

 名指しされた“記憶”が、全身を駆け巡った。

 あの夜、あの瞬間、あの終わり。

 

 彼女の笑顔と声と、小さな背中。

 

 そして、最期。

 

 提督は、風見の目を見ずに続けた。

 

 「……お前が、なぜ“権力”に固執するようになったのか。

 なぜ、そこまでして意地汚く生きてまで、“力”を求めたのか――」

 

 煙草に手を伸ばすこともせず、静かに言葉を継ぐ。

 

 「……大体、察しはついてる。

 ただの勝手な推測にすぎねぇけどな」

 

 風見は、反論しなかった。

 

 ただ、そこに立ち尽くしていた。

 

 「詮索はしないよ。するつもりもない。……する資格も、ねぇからな。

 お前がその痛みを胸に抱えたまま、“力”を求めてここまで来たってのは、

 もうその背中を見りゃ、嫌でもわかるさ」

 

 ほんの一瞬、提督の瞳が揺れた。

 それは、かつての部下への優しさでもあり、戦友としての悼みでもあった。

 

 「……だけどな、風見」

 

 そこでようやく、提督はゆっくりと顔を上げた。

 

 「“今の”お前が求める力――それを本当に手に入れたいと思うなら、

 今の“上”にしっぽ振ってるだけじゃ無理だ」

 

 「お前が信じてたあの子のためにも、

 少なくとも、今のやつらの言うことだけを聞いてる限りじゃ……」

 

 そこで、声の調子が変わった。

 厳しさを増し、少しだけ怒気を含んだように。

 

 「――お前は、都合よく扱われるだけの“飼い犬”で終わる」

 

 静かだった室内に、重い沈黙が落ちる。

 

 その中で、提督は目を細めて続けた。

 

 「だから、元帥の側につけ。

 あのじいさんはもう長くはねぇ。だが、あの人が築いてきた“道”は、まだ残ってる。

 俺や、お前みたいなバカどもが、命懸けで踏み固めた道だ」

 

 「その道の先にある“力”なら――お前が、あの子に誓ったものを、今度こそ守れるかもしれねぇだろ?」

 

 風見は、何も言わなかった。

 

 ただ、じっと、その場に立ち尽くしていた。

 

 時雨という名を胸に刻んだまま、

 今なお心に刺さった棘を抱きしめながら、

 選択を迫られていた。

 

 

風見はふっと鼻で笑った。

 

 「なるほど……論理が通じなければ、今度は“情”と来ましたか」

 

 揶揄するような口調だったが、もうその声には拒絶の硬さはなかった。

 

 「……ですが――いいでしょう」

 

 言葉を区切り、口角を吊り上げる。

 

 「乗ってやりますよ、その“口車”に」

 

 提督は、にやりと笑って言った。

 

 「上出来だ。――交渉成立だな」

 

 そして、懐からタバコを取り出し、再び火をつけた。

 

 「よし。じゃあ、俺はこれにてお暇するわ。次はまた芋でも持ってくるから、期待しとけ」

 

 ひらり、と手を振って、提督は部屋を後にした。

 

 その背中はどこか軽く、いつも通りに見えた。

 だがその軽さの裏に、幾重にも積み重なった“覚悟”と“覚悟を悟らせない技術”があったことを、

 今の風見は、薄々感じ取っていた。

 

 ――そして、提督の足音が遠ざかってゆく。

 

 執務室の重たい静寂が戻る。

 

 そこで風見は、静かに自らの襟元へと手を伸ばした。

 

 ごく自然な仕草で、スーツの裏地に仕込んでいた極小マイクに指を滑らせる。

 

 「……ということです」

 

 声のトーンは淡々としていた。

 

 「如何なさいますか?」

 

 すぐに、応答はなかった。

 だが、数秒の沈黙の後に、ノイズ混じりの電子音声が返ってきた。

 

 内容は伏せられたまま、風見は目を伏せ、椅子に腰を沈める。

 

 そして、言った。

 

 「ええ……“ああいう”、自分の思い通りに事が運ぶと思っている“小者”ほど――」

 

 そこまで口にして、一瞬だけ目を閉じる。

 

 「私は……虫酸が走るのです」

 

 その声音は、凍るように冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍の車両が、静かに舗装路を走っていた。

 

 夜の街は既に人の気配を薄くし、ヘッドライトの光がアスファルトを淡く照らす。

 後部座席には、並んで腰掛ける二人の姿――提督と吹雪がいた。

 

 吹雪は膝の上に袋を抱えていた。

 中には港湾棲姫たちから押し付けられた大量の“芋”。

 帰りの船で山城が焼いた分もあったが、それでもなお“芋山”は健在だった。

 

 窓の外を見ていた提督の横顔を、吹雪はそっと窺った。

 さっきまでよりも、どこか疲れているような……そんな顔。

 

 そして、ほんの少しだけ勇気を出して――言った。

 

 「あの……なんのお話、してきたんですか?」

 

 言いながら、手元の芋を一つ、そっと差し出した。

 蒸かしたてのそれは、ほんのりと湯気をたてていた。

 

 「これ、さっき……山城さんと一緒に食べたやつです。よかったら……」

 

 提督は、その芋をちらりと見た。

 そして、ふっと視線を逸らして、窓の外へと目を向けたまま、答えた。

 

 「いや……大した話じゃないさ」

 

 「えっ……」

 

 吹雪は少しだけ、肩をすくめた。

 

 「お前が心配するようなことじゃない。……そういう話だった」

 

 その声は、優しいようで、どこか突き放すようでもあった。

 

 何かを隠している。

 あるいは――言いたくない。

 

 そういう、大人の言葉だった。

 

 吹雪は、少しだけ俯いた。

 

 だが、すぐに顔を上げる。

 

 「……そうですか」

 

 短く、そう答えた。

 

 それ以上、何も聞かない。

 

 でも――分かっていた。

 

 今の提督の言葉には、“子供は知らなくていい話だ”という意味があった。

 そして、“俺自身、あまり話したくねえんだ”という気配もあった。

 

 まるで、何かを背負っている背中を見ているようだった。

 

 「……お芋、美味しいですよ。姫さんたちが一生懸命くれたやつですから」

 

 吹雪は、少しだけ笑った。

 

 その横で、提督は小さく頷いた。

 

 「……ああ、そうだな。いい芋だった」

 

 静かに車は走る。

 

 芋の湯気が、車内に微かな温もりを与える中で、

 二人の間に流れた沈黙は――不思議と、重くはなかった。

 

 

軍用車は、まだ夜の街を走っていた。

 遠くにはコンビナートの明かりがぼんやりと灯っている。

 車内には芋の残り香と、吹雪の小さな息遣いだけが漂っていた。

 

 吹雪は、ふと、膝の上の芋に視線を落とした。

 

 「……あの、司令」

 

 少し迷ったあと、ゆっくりと口を開く。

 

 「少し、思ったんです」

 

 「……私たちが戦ってきた相手って、深海棲艦……ですよね」

 

 提督は応えない。窓の外をじっと見つめている。

 

 「ずっと、ずっと……敵だって思ってました。

 憎んで、殺しあって……それしかなかったんだって。ずっと」

 

 吹雪の声は小さく、けれどどこか震えていた。

 

 「でも、あの島で見たんです。畑で農作業してる深海棲艦たち……

 私と目が合ったら、会釈してくれたりして……」

 

 そこまで言った時、吹雪は少し言いよどんだ。

 

 「……本当に、“人間”みたいだったんです。

 だから……その……」

 

 言葉を探すように、言葉の切れ端を繋いでいく。

 

 「南方に点在している、まだ戦ってる人たちも……もしかしたら、話し合えば……

 きっと、分かり合えるんじゃないかって……」

 

 その瞬間だった。

 

 「――吹雪」

 

 冷たい声音が、静かに、けれど確実に彼女の言葉を遮った。

 

 車内に重たい沈黙が落ちる。

 

 「それは無理だ」

 

 提督の声は低く、まるで重石のように沈んでいた。

 

 「お前が見たのは、“たまたま”優しい個体だった。それだけだ。

 運が良かっただけなんだよ」

 

 吹雪は、驚いたように顔を上げた。

 だが提督は、その目を見ず、変わらず窓の外を見ていた。

 

 「俺たち人間同士ですら、未だに殺し合ってる。

 同じ言葉を話し、同じ国に生まれて、それでも殺すんだ。

 だったら……種が違えば、なおさらだ」

 

 淡々とした声。

 激情も怒気もない。ただ、事実を語る口調だった。

 

 「異種族間で、分かり合えるなんて――幻想だ」

 

 吹雪は、喉の奥がきゅっと締まるような気がした。

 

 「……で、でも……っ」

 

 言い返そうとしたその瞬間、自分の言葉が“ただの願い”にすぎないことに気づいてしまった。

 

 言葉は詰まり、喉に残ったまま消えた。

 

 「……ううっ……」

 

 歯を食いしばって、言葉を呑み込む。

 

 だが――その時、提督がふと吹雪を見やった。

 

 その目は、どこか優しかった。

 

 「……いいんだよ、吹雪。それで」

 

 「え……?」

 

 「お前が、そんなふうに願ってくれることが、どれだけ救いになるか。

 どれだけの人間が、その想いを、持てなくなってるか」

 

 「……甘いって、自分で思ってもいい。でもな、

 お前がそうやって迷って、傷ついて、それでも信じようとするなら――

 それは、お前の中の“人間らしさ”がまだ死んでない証拠だ」

 

 吹雪は、目を伏せた。

 少しだけ、肩が震えた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

 「……はい」

 

 その一言には、迷いと、誇りと、少しの涙が混じっていた。

 

 

軍用車の揺れが少しだけ強くなり、吹雪は姿勢を直した。

 

 ほんのわずかな“沈黙”があった。

 吹雪はまだ何かを言いかけて、けれどもう言葉にはならず、俯いたままだった。

 

 その横で、提督がぽつりと口を開いた。

 

 「……優しいやつが、“優しさ”をやめるような世界――」

 

 その声は、車内の静けさに沈むように、ゆっくりと。

 

 「……そんなの、俺はごめんだからな」

 

 吹雪が、小さく顔を上げた。

 

 提督は、真正面を見たまま続ける。

 

 「甘いとか、綺麗事とか……そんなの、分かってるさ。

 そんなものが通用しないって、嫌というほど知ってる。

 俺だって……それでどれだけ失ってきたか、忘れちゃいねぇよ」

 

 それでも――と、言葉を重ねる。

 

 「それでもな、世の中、綺麗事が一番いいに決まってる。

 誰も死ななくて済むなら、それが一番だ。

 笑われても、バカにされても、それを信じる奴がいる限り……この世界はまだ終わっちゃいねぇ」

 

 そこでようやく、彼は吹雪の方を見た。

 

 その眼差しには、どこか父親のような、兄のような、穏やかな光が宿っていた。

 

 「だからお前には、その優しさを捨てずに生きてほしい」

 

 「司令……」

 

 吹雪は声を詰まらせる。

 

 「誰かに言われたからじゃなくて、自分で選んで、“優しく在る”ってことを――

 それがどれだけすごいことか、どれだけ難しいことか……お前には、きっと分かる日が来る」

 

 「そして……」

 

 ほんの一瞬、提督の表情が緩んだ。

 優しく、柔らかく、微笑んだ。

 

 「お前みたいな優しい子が、二度ともう、武器なんか取らなくて済むように。

 ……そういう世界を、俺たちは選ばなきゃならねぇんだよ」

 

 その言葉は、車の揺れよりも、ずっと深く、吹雪の胸に染み込んでいった。

 

 返す言葉は、なかった。

 

 ただ、吹雪は膝の上の芋をぎゅっと握りしめ、震える声で「……はい」とだけ答えた。

 

 

 

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