転居したはいいが、同居人の顔面が恐すぎる! 作:Mr.You78
令和7年7月7日はセブンの日!
わりと好評だったのでスピンオフにしました。
例によってマルチバース理論に基づいたパラレル設定なので、向こうの宇宙とは多少の違和感が生じるかもしれませんが、まあそういう世界なんだろうなって感じのフワフワ具合でやっていきます。
いわゆる現パロって奴が近いかな?
閑話でやってたような、あんまりシリアスしない日常モノメインになる予定です。
ご了承ください。
ではどうぞ。
「はあ……」
男は、箸でソバを持ち上げた状態のまま、そこへ座ってからもう何度目になるかも分からないため息を吐いては、それを啜った。
口へ入れた麺の歯切れを楽しむように数回咀嚼してから、眼前の器へと視線を落とす。
そして再度……
「……はあぁ」
残念そうに肩まで落とした。
すると、頭上から声が降ってくる。
「……あんね、お客さん。そんなに不味いってんならさ、無理して食わなくていいから」
弾かれたように顔を上げれば、カウンターの中で店主らしき男性が、ぶすっとこちらを睨んでいる。
はじめはそれを、ぽかんとしたまま眺めていた男だったが、先ほどまでの自分を思い返してようやく店主の勘違いに気付いたのか、ソバだけではなく泡も食ったように慌てながら弁明した。
「あ、や……これはね、違うんですよ大将。逆です、逆! 思ってたより随分ウマいから、ため息出ちゃうというか……」
「はあ? だったらどうしてそんなにチビチビチビチビ食べてるわけ?」
「だって……食べたら無くなっちゃうじゃないですか」
「……あっそ、変な人だね。なんでもいいけどさ……」
「紛らわしくてどうもすいませんね……あ、蕎麦湯って頂けます?」
「……あるけど、おかわりとか無いからね? 飲みきったら早く出てよ? もうすぐ飯時なんだから」
店主が、自分の隣へチラリと視線をやりつつそう言うのを、男は麺を啜りながらペコペコする事で遣り過ごした。
店内を見渡せば客入りはまばらで、カウンターなんか自分くらいしか座っておらず、一人でテーブル席を悠々と占拠してる奴だっているのに、そこまで邪険にしなくたって……
と、これだけ言えばなんとも感じの悪い店だな……となるところだが、実状は少しばかり異なる。
男だって、店主がやたらと自分を厄介払いしようとする理由くらい分かっているのだ。
麺を啜るのを止め、細めた目で自分の隣を確認する。
そこには、大量の手提げ袋やスーツケースが積み上がっており、目を見開いたり閉じたりしてもそれらは変わらずそこに鎮座していた。
彼は、その事実から目を背ける為に麺を啜っていると言っても過言ではないのだから。
今の自分がどういう状況に陥っているかを再確認すれば、思わず口から息のひとつやふたつ漏れようものだ。
「……はああ……」
先ほどからため息ばかり吐いているこの男の名は、ミサト・ユウ
漢字で書くと三つの郷に、悠々自適の悠と書くらしい。
気になって辞書を引いてみれば、『悠』という字はそれ単体でも『はるか。とおく』という意味があると書いてはあったが、どちらかと言えば悠長だとか悠然だとか、どことなくとろくさいイメージがある。
上司も「名は体を表すとは言うが、ここまで看板通りに育ったなら、付けた親御さんもさぞかし嬉しいだろうよ」と常々言っていたくらいだ。因みに褒めているわけではなく純然たる皮肉でしかない。
……そして、自分の名前について「書くらしい」などとえらく他人事な感想しか出て来ないのにも理由がある。
というのもこの三郷という男、本人自身は見てくれも含め至って平々凡々、そろそろ三十路になるかと言うのになんとなく顔付きに幼さの残る、どこにでもいるようなうだつの上がらないサラリーマン風ではあるが……その実、彼にはちょっとした秘密があった。
白状すると、ここ1週間以前の記憶がない。
なんとなく自分自身がどういう人間かはぼんやり分かっているのだが、逆に言えばそれ以外の全てがぼんやりしている。
とりわけ質が悪いのは、いつから記憶が無くなり始めたのかいまいち判然とせず、気が付けば過去の事をまるきり思い出せなくなっていたのに、つい最近までその自覚がまったく無かったというところだ。
会社にも勤めていたのだが、いつどうやって入社したのかも、なぜ自分がそこを選んだのかも分からず、そのまましばらく日々のルーチンワークをこなしていたという有様。
哲学的な意味では無く、ここで働き続ける理由が心底分からない。お、転職希望者かな?
いわゆる記憶喪失という奴で、病院にも一応行ってはみたのだが、いつから症状があるのかも、これといった理由や原因も分からない以上、確たる診断も治療法も得られず、なんだかよく分からないまま「しばらく様子を見ましょう」の一言で帰された。
最近は、若年性アルツハイマーというのもよく聞くので、そうではないかと質問してみたのだが……
医者が言うには認知症の初期症状というものは、昨日やついさっきの事といった直近の出来事から忘れていくものらしく、三郷のようにここ数週間の記憶だけはハッキリしていて、それ以前がさっぱり……というのは珍しいのだとか。
まあ、そんな事を言えば彼くらいの若さで記憶障害自体が珍しいのだが。
記憶が無くて日常生活に支障は無かったのか問われれば、『日常』を送る分には問題がなく、『生活』を続けるには支障しかなかった……という事になるのだろうか。
ほとんど毎日顔を合わす同僚や、それとなく視界に入ったり使用機会のある腕時計や鍵だとか、そういう身近な人物や物品については、恐らくその度に記憶の更新か何かが無意識のうちで行われているのか、別に忘れることはない。
裏を返せばそれ以外の物事は容赦なく取りこぼしていくという事に外ならず……具体的に言えば、数ヶ月にいっぺんしか来訪しない上役やお得意様とか、数週間前に予約を入れた予定とか。
これがどれだけマズイ事態なのかは、社会経験の有る無しに関わらずなんとなく察して頂けるであろうが……事はそれ以上に深刻だ。
予定をすっぽかして失敗しました……で終われば良いのだが、数ヶ月前にやりとりした相手から、出向く度に何度も何度も初対面のトーンで名刺を渡された方からすれば「アイツは俺の顔も覚えてないのか」となるわけで。
その日の予定どうこう以前の、更に根深い問題……いわゆる不信感というやつだ。
事実としてそれが積み重なった結果、彼は先日、当然のように職を失った。
一応、解雇に繋がった直接の理由としては、ただ単純に遅刻したから……という事になるのだろうか。
朝からミーティングがあるにも関わらず、電車の中で痴漢に遭っている女性を助けたら事情聴取その他諸々に時間を食って重役出勤。
念の為、事情と遅れる旨はあらかじめ会社へ伝えてはいたのだが、机に座った途端、上司から別室へ呼び出され、その場で解雇を告げられた。三郷から連絡のあった時点で、朝のミーティングはそのまま彼の処遇に関する決議に切り替わったのだろうと想像できる。
ただでさえ微妙な立場で、よせばいいのに厄介事へわざわざ首を突っ込んだ自分が悪い……という認識は多少なりともあったため、特にゴネる事もなく粛々と受け容れるしかなかった。
こんなことなら、つい最近辞めたらしい先輩のように自分から辞表を出しておけばなぁ……と思ったり思わなかったり。
まあ、その先輩の名前はおろか、顔すらろくに覚えていないのだが……興味が無かったとかではなく物理的に。
ここまでならば、名前に悠の字を戴く三郷であるから、まだのんびりしていられただろう。
失業保険で食いつなぎながら、次の職を探そう。いやその前に通院かな……? とか呑気な事を考えていた。
問題はその後……自宅に帰ると、鍵穴がテープで塞がれ、張り紙もしてある。
書いてある通りに大家さんの部屋を訪ねて話を聞けば……即刻出て行ってくれという事だった。
いったいいつから記憶が無いのか分からない……とは言ったが、実は相当前からその片鱗は現れていたらしく、突きつけられたのは大量の家賃滞納知らせ。
確かに言われてみれば振り込んだ記憶がない……
「え? 待ってください。確か家賃は引き落としじゃ……」
「だからその引き落としが出来ないから言ってんだよ! あんたの口座、いま残高いくらなの!?」
大家さん監視の元、部屋の中で通帳を探したのだが見当たらない。
というかそもそも部屋の電気がつかない。
まさかと思った大家さんが、ドアに付属している郵便受けを開けてみると……未開封の封筒やら剥がす前の振り込みハガキ、電気料金の黄色い催促状やらが洪水のように零れ落ちて玄関を埋め尽くした。
もちろんその中には大家さんからの家賃に関する相談の手紙や最後通牒も紛れており……要は、三郷が毎日帰宅の度に確認していたのは、階段手前にあるエントランスの郵便受けのみで、こちらの存在を今の今まで
急に言われても困ると、三郷もなんとか抵抗を試みたのだが、聞けば先日の怪獣騒ぎで親戚の家が潰れて、直ぐにでもここを使わせてやりたいとのこと。
産まれたばかりの幼児までいると言われれば……流石の三郷も折れるしかない。というより、大家さんの相談要請を無視していたのはこちらなのだし。
度重なる家賃滞納で信用が低空飛行だったこともあり、最低限の荷物で叩き出された。
不幸中の幸いだったのは大家さんの温情で、次の家が決まるまでは、持ち出せなかった家財を物置に詰め込んで預かって貰えたことだろうか。
逆に言えば、資産の半分以上を人質に取られているようなものなので、もたもたしているとそのまま質屋に入れられかねない。それまではネカフェ暮らしだ。
それもこれも……
「お前のせいだぞ、ギョタロー」
三郷は、スーツケースに引っ掛けた巾着の中味を覗き込み、怨めしそうに呟いた。
巾着と言っても、子どもたちが縁日の金魚すくいで手に入れた魚やスーパーボールを入れておくビニール製の透明なアレだ。
水で満たされた巾着の底には、小魚が一匹じっとしており、主人の気も知らず口元から突き出たヒゲをぴくぴくさせるばかり。
「アクアリウムがあんなに金かかるとは……」
三郷が家賃を払えなかった要因のひとつが、このギョタローの水槽の維持費だった。
どうやら口座に会社からの給料が入って、月末に家賃が引き落とされるまでの間に、これまた引き落とし設定にしていた光熱費がその殆どを掻っ払っていってしまい、残された残高が家賃に足りず引き落とせない状態が延々と続いていたらしい。
まあ、アクアリウムのアレコレを揃えるだけ揃えて、膨れ上がった電気代の存在を忘れていた飼い主の方が悪いのだが……
「悪いけど、しばらくその狭いのがお前んちだからな。我慢してくれよ? ……というか死なないでくれよ? 頼むから」
返事の代わりに、ギョタローのエラからはぷくぷくと小さい泡が立ち上った。ドジョウのあくびは酸素不足の証であると何処かで読んだ気がする。
まあ、記憶喪失が語る豆知識に、いったいどれほどの信憑性があるかと言われたら謎だが。
……はやく大きな水槽に移してやらないと。
三郷には頼るべき両親や兄弟姉妹もいない。
例えペットの魚一匹と言えど、もはや彼だけが三郷に残された唯一の家族なのだ。
今こうして三郷がたまたま見つけた蕎麦屋に転がり込み、大好きなソバを豪快に啜るのすら我慢して、もたもたと時間を稼いでいるのも、半分はギョ太郎の為でもある。
7月も始まったばかりの今日、外はもう茹だるような暑さで、不動産屋を巡りながら歩いていると、直ぐに限界が来てしまう。
三郷が極度の暑がりというのもあるが、やはりギョ太郎の巾着に直射日光が当たるとあっという間に水温が上がってしまうのだ。
手提げ袋の中へ入れて、日差しから防御出来ないか試してみたりするのだが、今度はパンパンに詰め込んだ着替えにギョ太郎が潰されそうだったのでやめた。
このままでは、ネカフェで頂く晩御飯が小魚の丸茹でになっちまう。
ドジョウは滋養強壮に良いと聞くが、いくら住所不定無職の明日をも知れぬ身と言えど、友達を食べるのは最後の手段にしたい。
そんなわけで、なるべく速やかに日陰かつ冷房の効いた場所でギョ太郎の水温が下がるまで涼みたいと思っていたところ、偶然この『増田屋』を見つけて「大将やってる?」と暖簾をくぐり今に至る。
店主は最初、大荷物の三郷を見て怪訝そうにしていたものの、今は空いているからと快く迎えいれてくれた。
なんならむしろ、カウンターの椅子を一脚退けて荷物を降ろすスペースまで作ってくれたので、びっくりするほど親切な人だ。
ところが、三郷がギョ太郎を巾着に入れたままぶら下げている事に気付いたり、出て来たソバを不景気な面でのろのろ食べるもんだから、どんどん機嫌が悪くなってしまったというわけ。
いくら巾着の口を絞っているといっても、魚を入れた水というのは基本的に……凄くクサイ。
小学校のころに、教室の後ろでザリガニやメダカを水槽に飼っていた人なら分かると思うだろうが、あの独特の匂いが、三郷の近くを通る度にぷぅんと漂ってくるのだ。
それだけでもう飲食店にとって最悪な客である。
おまけにざる蕎麦ひとつだけ注文して、巾着の水が冷えるまで居座ってやろうという魂胆なので、ますます始末が悪い。
本当ならば三郷だって、こういう下品な真似をするくらいならば、赤毛の道化師がやってる黄色いM字のハンバーガー屋とか、さっき店主が言ったように何杯でもおかわりで粘れるコーヒーショップだとかに行きたかった。単価も安いし。
しかし、そもそもそういう店は駅前やら大通りやら、人通りが多くて便利な立地にあるものだ。
ところが逆に、三郷が今探しているような目当ての優良物件はそういう立地に無い。
この場合の優良とは、出来る限り家賃が安くてなるべく即日入居できるような……そもそもそんな都合の良い物件自体あるのかどうかは知らないが、少なくとも駅前と両立はすまい。住まいだけに。
だから今日の三郷が彷徨っていたのは、いかにもうらぶれた下町といった風情が漂う、時代から取り残されたような地区であり……こんなところにはコーヒーショップどころか、コンビニもなければ手頃な店自体も無いのだった。
故に、先ほどこの蕎麦屋を見つけられたのは、三郷達にとってまさしく僥倖と言えただろう。
手持ちもどんどん寂しくなる中、それなりに値の張るざる蕎麦を店主に睨まれながら啜ったって、充分におつりがくるくらいだ。
冷たいお茶もついてくるし。
「ウェ……にが」
三郷は蕎麦屋で出てくる、あのスッキリとした口当たりのムギ茶が好きだった。
緑茶よりも苦みがなくて飲みやすい。あと、芳ばしさも。
……ただ、店によってはたまに芳ばしさが行き過ぎて、独特な苦みというか渋み? みたいなのが舌に残る品種を出すところがあって、そっちはハズレだと思っている。
つまり今日のお茶ガチャはハズレ。
え? 自分の状況分かってるのかって?
だってしょうがないじゃん。
おそば食べくなっちゃったんだから。
「あーあ……食べ終わってしまった……」
この期に及んでまだ名残惜しそうな三郷は、未練がましく箸でせいろをつつき回しては、隙間に紛れ込んで同化している麺の切れ端がないか探してみるのだが……まあ無駄だ。
そもそも彼は、最初から器にご飯粒とか残さないように食べる派なので、そういう切れ端は見つけた傍から既にあらかたツユの中へ放り込んである。
諦めて蕎麦湯を残ったツユの入っていた蕎麦猪口に注げば、溶いたワサビの粒やら麺の切れ端やら……器の底へ沈んでいた諸々が舞い上がってくるのを眺めながら、蕎麦湯が冷めるのを待つ。
彼は、言うまでもなく猫舌だった。
ふと思い付いて、ギョ太郎の巾着を外から指でたぷたぷと突いてみる。
「……ぬるい」
うーんと微妙な顔で唸る三郷。
「どうだギョタロー、頑張れそうか?」
問われたギョ太郎はと言えば、巨大な指がいきなり住み家の壁を押し込みながら侵略してきてご機嫌ナナメなのか、細長い体をくねらせてそっぽを向く。
「……今日のうちに目星くらい付けとかないと、明日もこの調子だぜ? そこんとこ分かってんの?」
ぷくぷく……
……分かってなさそう。
「魚類に期待するほうが悪いか……あちち」
まだ湯気の立ち昇る蕎麦猪口を、ふーふーと吐息を吹き掛けて冷ます三郷。これぞため息の有効活用だ……とか下らないことを考えながら、最低限飲めるぐらいになった蕎麦湯を啜る。
ちょっと飲んでは湯を注ぎ、ちょっと飲んではまた注ぎ……半分くらいで今度はとっくりをひっくり返して中に残ったツユの予備を全投入。少しばかり黒さの戻ったそば湯へまたつぎ足す。
飲めば飲むほど、蕎麦猪口におけるツユの割合がどんどん薄くなっていき、最終的にはただの湯がき汁を飲むだけになるのだが、うまい蕎麦屋はそば湯もうまいもんだ。
なにより栄養がある。明日からもちゃんと食えるか分からないんだから、少しでもカロリーを摂取しなくては。
何度かそれを繰り返し、ついに湯桶から白濁したソバのかけらしか出なくなったのを確認して、ようやく彼は席を立った。
「大将、おあいそお願いします」
「やっとかい……」
大量の荷物を担ぎ上げ、レジで待つ店主に伝票を渡しながら、携帯を掲げる三郷。
「ホシペイで」
「……はあ?」
「ん……?」
二人の間に流れる微妙な空気。
「QRコードは?」
「ウチにあるわけないよ、そんなもん」
「え!? ウソでしょ!? この店、電子決済出来ないの!? このご時世で!?」
「この辺に住んでる常連でそんなの使う人いないからね! 現金ないの?」
「いやー……」
三郷は財布の中にある虎の子の千円を、店主から見えないようにレシートの裏へ紛れ込ませる。
これを使ってしまうと帰りのバスが……いわゆる命金。
「しょうがないねぇ……カードなら使えるよ」
「あー……じゃあ……クレジットで」
「あるなら最初からだしゃあいいのにさ……」
何事かを逡巡しながら、かなり渋々とクレジットカードを取り出す三郷を見て、面倒くさそうに読み取り端末を操作する店主。
「んじゃあココ、差し込んで。番号入れたら緑のボタンね」
ふいと視線を背ける店主の横顔に、三郷はおずおずと言葉を投げた。
「……パスワード……忘れちゃって……」
「……は?」
これぞ、三郷が現金を渋った最大の理由だった。
銀行窓口に行くまで、新たに金を引き出す事が出来ない。
店や金額によっては、番号入力が必要無い場合もあるのだが……残念ながらここでは違ったようだ。
どうやら三郷は賭けに負けたらしい。
ともあれ、そんな三郷の懐事情など店主からすればあずかり知らない事なわけで。
常識も無ければ現金も無い、おまけにクレジットカードの暗証番号を忘れたときた。
「皿洗い……とか……でどうにかなりませんかね?」
「兄ちゃん……ちょっと警察呼ぼうか」
「え!? ちょ、それはヤバイって! いや、あー! あった! ありました千円札! いやーレシートに隠れて見えなかったなー……」
「……テメェ! やっぱり最初から食い逃げする気だったんだなぁ! こんにゃろめ、とっちめてやる!」
「違う違う! 誤解なんだってば……!」
途端に顔を真っ赤にして腕捲りを始める店主。
三郷は慌てて後ずさりをしかけるも、それがますます逃げるようで、さらに誤解を招きそうだなと踏みとどまったところへ……
「……ああ、誰かと思えばキミか。大丈夫だよムッシュー。彼は私の客人だ。ここの払いは私が持とう。そういう約束だったからね」
「……え?」
後ろから聞こえた声に振り向けば、奥のテーブルで黒いサングラスをかけたスーツの男が手を振っている。
何を言っているんだ、この人は……?
もちろん、三郷の方にはまるで見覚えが無い……筈だ。
断言出来ないのは、例え本当に知人であった場合でも、三郷にしたら見覚えが無いからである。
ただ、そんな都合の良い主張があっさり通るわけ……と思っていたら。
「なんだあ、旦那のとこの人? それならそうと、最初から言っといてくれたら……」
「すまないムッシュー。待ち合わせ場所にしていたんだが、彼の来るのが予定より早くてね。別口かと思ってしまったのさ。いままではホラ、文面でしか遣り取りがなかったものだから」
「アハハ……こんな変な人、誰が見ても旦那の店子でしょう。わたしゃ、最初から分かってたんでさぁ。じゃなきゃ上げないよ、こんな迷惑なの……ねえ?」
「え……? いやあの……」
手のひらを返したように、柔やかな顔で肩をバシバシと叩いてくる店主。
え、なに。この変わり様は……本当に同一人物?
調子が良すぎて逆に恐いんだけど。
「どうりでちまちま食うわけだ。夕暮れの旦那を待ってたなら、素直に待ち人だって言やあいいんだよ。変な言い訳までしてさぁ……お互いにお互いを待ちぼうけだなんて、笑い話にもなんねえや。その手に持ってるソレはなんなのってことよ。いつも財布の真似事ばっかりさせるから、肝心な時に本分を忘れんだぜ。なあ、兄ちゃん?」
「は、はは……仰る通りで……はは……」
いったいここで、何が起きているというんだ……?
ひとまず危機は脱した……とするにはあまりに早計だろう。
三郷の命運は未だ宙ぶらりんのままである。
それを握っているのが、目の前の店主からさらに別の者の手に渡っただけでしかないなのだから。
三郷はもう一度、自分に助け船を出した見ず知らずの人物……テーブルで優雅に茶を飲む黒ずくめの男を見やる。
こっちへ来いと手招きするわけでもなく、視線すらも合わせないまま、ただただ自然体でムギ茶を堪能する様は、これから三郷が礼を言う為にそちらへ赴むく事を暗に要求しており、むしろそうして当然だと考えているようであった。
はたして三郷へ助け船を出したのは、善意の事だったのだろうか?
親切心からそのような行動をする人物にしては、その態度が妙に違和感の残るような……?
どちらにせよ、助けて貰ったのは本当の事なので、このままハイさようならでは筋が通らない。
奢ってくれるというのが嘘であれ本当であれ、三郷があの男にこれから感謝を述べるのは、彼の中でもはや決定事項なのではあるが……それはそれとして。
「めっちゃ胡散くせぇ……」
思わず三郷はため息を吐いた。